太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

違うということがわかればいい

2022-06-25 15:08:56 | 日記
フランスの、ラコステに滞在していたときのことだ。
その日、街の自転車屋で自転車を4台借りて、バイクパスを走った。
昔の鉄道の線路をバイクパスにしたもので、のどかな風景を眺めながら風を切って走るのは気持ちがいい。
何キロも走ってUターンして、車を停めたところに戻ってきたら、夫が、ここからホテルまで自転車で行くと言い出した。
ホテルは山の中腹にあり、車だと10分以上かかる。

「車も通る狭い山道を、しかも知らない土地で危ないじゃん!」
「大丈夫だよ、ホテルのある方向はわかってるし、道標だってある」

私は自分のスーパー方向音痴を人に当てはめて、不安になる。
私は引き止め、義父が一緒に行くと言ったが、シュートメは
「あ、そう。それじゃあホテルで会いましょ」
と言ってさっさと夫を送り出した。
ホテルに着いてからも、私は心配で、思い余って外に見に行ったら、夫がゆっくりの坂を上ってくるところだった。


また別の日。
朝から出かけて、マルシェを見たりランチをしたりして、夕食はベトナム料理にしようということになり、夫が見つけたレストランに直接寄って予約をした。
そのあと、そこから車で20分以上かけて別の小さな集落に寄ったら、夫が、自分はここで降りて勝手に写真を撮りながら歩くから、7時にあのレストランで落ち合おう、と言う。

再び私は「ガーン!」ときた。
「あそこまで歩くって、とても歩く距離じゃないじゃん。一人で行かせないよ、私も行く」

「行きたいならいいけど、でも疲れてる顔してるからホテルで休んだほうがいい」

それは確かにそうだ。私は疲れていて、炎天下を歩く元気はなかったのだけれど、夫を知らない場所に置き去りにするのは心配で仕方がない。
車を降りかけた夫に、
「歩くって1時間以上かかるじゃないか」
と言った義父を、夫が黙って睨みつけた。その瞬間、シュートメが
「じゃあね、レストランで会いましょ」
と言って、さっさと夫を降ろして車を出した。
走り出してから、夫が時計を持っていないことを思い出した。携帯電話はバッテリーがなくなって私のバッグにある。いったいどうやって時間を知ることができるのか。今なら戻って私の腕時計を渡せるかも。
それを義両親に言うと、シュートメが、
「ま、なんとかするでしょ」
と言って取り合わない。

その時、3時。このあと4時間も一人で知らない土地をほっつき歩くというのか。

心配しても仕方がないので、シャワーを浴び、昼寝をして、7時にレストランに行くと、既に待っていた夫がにこにこしながら歩いてきた。
しばらく車道を歩いていたら、昨日走ったバイクパスを見つけて、そこを歩いてきたのだという。
私はホッとして、そのぶん腹がたった。

「You don't need me(私なんか必要ないね)」
これは嫌味で言った。
「そんなことないよ」
「You need your space,don't you?(あなたは自分だけのスペースが必要なんだよね)」
これは本音で言った。
それについて夫は何も言わなかった。

私は何でもシェアしたい暑苦しい性格で、その上心配性。
ハワイにいる時には、夫は何でもシェアするので忘れていたけれど、一人になりたい、自由にしたいというのも、確かに夫なのだ。
何か月も一人でバックパッカーの旅ができる夫と、そんなことは天地がひっくり返ってもしたくない(ていうより、できない)私。

前の職場にいたときのお客様で、占星術ができるフランス人がいて、夫と私をみてもらったことがあった。
しばらくして店にやってきたその人は、開口一番、夫の生年月日を指さして
「このデータで間違いないよね?」
と言った。間違いない、と言うと、
「うーん・・結婚してるんだよねえ。この人は結婚は向かない人で、生涯一人で自由気ままに放浪しながら生きる、はずなんだけどなぁ」
と首をかしげていた。

夫がそういう自分を変えられないように、私も、瞬間的に「心配」という罠に落ちる性格をどうすることもできない。
そういう私を、夫もまた、よくわかっていると思う。

それにつけても、シュートメの潔いことよ。
産み、育て、50年も付き合ってきただけあって、束縛しないのがいいのだということを1番よく知っている。


明日は、出会ってから16年目の記念日。
無駄な心配をせず、あっさりと放り出せるようになれたらいいとは思うけれど、そうじゃないのに、そういうふりをすることはしない。
前の結婚で、「ふり」ばかりを重ねてきた結果がひどいことになったから、それはもう懲りた。

ただ、何かが起きたとき、
「この人はこういう人なんだなあ」
と思い、それに対して正直なリアクションをする自分を
「私はこういう人なんだなあ」
と思う。
いつかその距離が近づいて躓きが小さくなればそれでいいし、変わらなくてもそれはそれで仕方がない。
何かをどうこうしようと無理をせず、自分に正直に生きていれば、違う、ということに毎回気づきながら暮らしてゆくのもいいのではないかと思う。