信子(ノブコ・シンシ)(1411~1488)は実父の身分が低かったので2回猶子に出され、第102代後花園天皇(1419~1471)(在位1428~1471)の寵愛を受けたので、公卿の大炊御門信宗(オオイノミカドノブムネ)の猶子にもなって、宮中に召されました。
信子の墓は般舟院陵(ハンジュウインノミササギ)で、その制札には夫・息子の分骨所の名に挟まれて、後花園天皇後宮嘉楽門院藤原信子墓(カラクモンイン)名がありました
8歳年下の後花園天皇との間には、歓心女王(カンシン)(1334~1491)・成仁親王(フサヒト)(1442~1500)が生まれています。
般舟院陵(上京区今出川千本東般舟院前町)は嘉楽中学の隣で、平安京朱雀大路のそばでもありましたので、今でも町中になりますが、たぶん秀吉が伏見城を造る時に、近くにあった伏見宮家ゆかりの般舟院をここに移築させたので、こんな町中に陵があることになったんだと思います。
夜や土日はこの門は閉じてあるそうです
後花園天皇と他の妃の間には皇子が生まれなかったため、唯一の皇子成仁親王が第103代後土御門天皇になれましたが、余りにも実父の身分が低い信子が女院嘉楽門院の称号を与えられたのは、危篤に陥ってからでした。
しかしその後は快方に向かい、7年後に亡くなってこの般舟院陵に祀られましたが、陵ではなく陵内の墓です。
返事
Toitennさん:ネタよりシャリの質を問うとは、
なかなかのもんですね。
花水木さん:踊っても・歌っても・外科医も、
もう出来なくなってる私です。
静岡も結構感染者数多いですね、
でも3月にはもう終わると思いますよ。
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