ハッチがいた日常

夫は病死、仕事も辞めて被災猫ハッチと暮らしたけれど、10年で終わってしまった。これからは本当の一人暮らしの日々。

谷山浩子の「窓」

2011年11月21日 19時48分46秒 | 日常

 胸がきゅんとなる彼女のこの曲。私はずっとタイトルを「教室の窓」だと思っていました。「窓」でした。この曲を聴くと、母校の都立墨田川高校の教室の窓を思い浮かべます。

窓/谷山浩子 1977年
作詞作曲: 谷山浩子

教室の窓から見る秋は
いつも不思議に光ってた
北向きの窓のすリガラス
ギリシャの海も見えた

思い出せばもう夢の中
午後の陽射しにまどろめば
遠いアコーディオンのすすり泣く
光と影の世界

やさしい時代を置き去りに
やがて街へとび出した僕には
教室の窓がもう見えない
夢の行き場がどこにもない

授業をひとりでぬけ出して
空き部屋の窓から空を見た
幾億年もの時の彼方
空翔ける船を見た

思い出せばもう夢の中
一枚の窓のそのむこうに
見しらぬあしたがふるえていた
きらめきふるえていた

いくつも街を歩くうちに
いつか外の世界は狭くなる
教室の窓がもう見えない
夢の行き場がどこにもない

やさしい時代を置き去りに
やがて街へとび出した僕には
教室の窓がもう見えない
夢の行き場がどこにもない
夢の行き場がどこにもない

 

切なくなる曲です。

 そういえば、今日の「定年時代」という、購読新聞と一緒に入っていた小さな新聞。して右傾の老人介護付きマンションンの入居費が、億を超えていたのです。今どきのお年寄りはお金持ちなんですね!といっても、二極化しているようですが。お金があるのなら、振り込め詐欺にあっても仕方ないんじゃないかと思ってしまいます。世代間の所得格差がすごくなっているんでしょうね。若い人の閉塞感はもうどうしようもない気がします。

 高度経済成長時代の、上り坂の「お金がなくてがむしゃらに働いた」というのと、今の下り坂の「お金がなくてがむしゃらに働いている」というのは、全然違う気がします。金を票を持っている年寄りは永遠に優遇ざれ続け、彼らに私たちは奴隷のように使役され続けるのでしょうか?

 年寄りも、若いやつも、大嫌いだ。わがままで自分勝手で。ああいう職場にいると、よくわかる。就学前の子供を大騒ぎさせて平気でいる母親。窓口に携帯を見ながら無言で書類を出す母親。

 こんな世の中じゃあ、私の帽子は絶対に出で来ないよね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛用の黒い帽子、なくしちゃった・・・

2011年11月21日 08時20分40秒 | 日常

 ここ数年、毎日のようにかぶっていた冬用の婦人帽子。私は頭のサイズが、中身がないせいか小さいのです。Sって、なかなか手に入りにくくて。そのお気に入り帽子、昨日の通勤の帰りに、気付いたら頭の上になかったのです!暑かった昼間でさえもかぶっていたのに・・。

 確かに、職場に出るときはかぶっていたはず。土日のバスの時刻表が、平日と違って西八王子行が早くていつもはあきらめているけれど、なんだか間に合いそうだと急いでバス停に向かい、最後は走りました。そのとき。かぶってはいたと思うのですが・・。そして、西八王子駅について、乗り継ぎのバスの時間にまたまた間に合いそうだと今度は必死で走ってバスに乗り込み、「間にあった!」と喜びました。そして、バスを降りたときに、ああ、そろそろ美容院に行かなくちゃ、髪の毛がはねていやだな、と思ったとき、はたと気がつきました。帽子がない!!

 あわててバス停まで引き返し、探したけれどみつからず、とぼとぼ帰宅したら夫にはきつい小言をさんざん言われるし、悲しかったですね。彼が家の鍵をなくしたときだって、私は責めなかったのに。

 部屋の子機で、バスの営業所に電話すると、あとしばらくして車庫につくからそこに連絡するように言われ、電話したところ、清掃が入ってわかるのが明日だからと言われました。

 夢では、なぜか団地の部屋でレストランを経営し、洗濯をしながら料理を作っているのです。ベランダにはなんだか火が出そうな危ない雰囲気。それで家事を起こし、大変な騒ぎになっているという夢。つまりは、「明日は晴れるから洗濯したい、帽子を探しに行く余裕はない」という気持ちの表れなのでしょう。

 何かあると早く目が覚める。私の性格です。小心者ですね。そして、朝食をとらずに家を出て、西八王子まで行きました。夫がいうように、酔っ払いに吐かれて無残な私の帽子があるかも、と不安になりながら、あちこち探し、駅の鋼板、改札の駅員にも聞き、さらに、その先の職場までのバスがたまたまとまっていたので、営業所を確認し、もしあったらそこまで取りに行くというのをきいて帰りました。夫は、職場まで行けというのですが、さすがに、休みなのにのこのこ行って、地元の人に見られるのはいやです。それに、私の帽子が近所にあったら、おそらく窓口に届けられるでしょう。

 ここまで執念燃やして探し出すのがいいのか、縁がなかったとあきらめるのがいいのか。ビミョーです。でも、この現実を直視しないといけませんね。自分の不注意で、まあ、自分の物をなくしたからいいようなものの、他人のものだったら大変です。

 よく思うのは、何かをなくしたりしたら、もしかしたらそれは「身代わり」になってくれたんじゃないかということ。帽子という、頭を守る大事なものをなくしたというのは、何を意味するのでしょうか。いちょう祭りの暑いさなかもなくさなかった帽子だったのに。

 夫は罵詈雑言を言って本当に嫌な人です。物への執着はすごい。そのくせ、先日、BIOのプレゼントで残念賞みたいな、冷蔵庫にBIOを入れておくケースが当たったのに、使わないから捨てるというのです。せっかく当たったものなのにね。彼のおかしな神経に私はついていけません。その前に冷蔵庫の中身を減らせ!と言いたい(冷蔵庫を管理しているのは夫です)。

 結局、ふたつのバスのそれぞれの営業所にも帽子が届いていなくて、職場のもしかしたら届けられるかもとスタッフに対応をお願いし、8割がた戻ることはないだろうと覚悟しました。そして、夕方、京王ストアで婦人Sサイズの帽子を買いました。古い帽子よ、さようなら!

 谷山浩子の歌で、「おはようございますの帽子屋さん」というのがありました。懐かしいな。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする