サバビアン!!
そう、今日はサバの日、3月8日です。そして、今日はハッピーデー。イトーヨーカドーに行き、店内でサバの日としり、ついつい、サバの竜田揚げも買っちゃいました。
サバ、ビアン!!
サバビアン!!
そう、今日はサバの日、3月8日です。そして、今日はハッピーデー。イトーヨーカドーに行き、店内でサバの日としり、ついつい、サバの竜田揚げも買っちゃいました。
サバ、ビアン!!
図書館から借りた本の読み下し文を、2週間かけてワードで打ち込みましたが、納得いかないところがいつくかあって、困ってしまいました。
私が最初におくのほそ道の古文書をネットで見つけたのが、新潟大学のデータでした。2年前にそれをプリントアウトして、例の俳句のサークルに入る前の事でしたが純粋に古文書に興味があったら、それで解読し始めました。俳句をフォーカスして読んだわけじゃないので、今回再び勉強を始めました。原文に直接書き込むのはやめて、きちんと原稿用紙に書き直し、さらにはそれでも頭に入らないので、本を借りてワード文書にしたのです。
新潟大学の古文書は、佐野文庫とあり、底本はおそらく芭蕉の弟子の素堂が書いた「西村版」だと思います。でも、その底本もネットで確認して同じだとわかったのですが、なぜだか違うように原文を解読している箇所があります。その理由がわかりません。
壷碑という項で、すっかり風化してしまってということを表現するための文章の中に「山崩れ、川流れて、道あらたまり・・」と借りた本にはなっていますが、原文の文字は確かに「川落て」と読めて、どうしても「流」の字ではないのです。それに、川は流れるのは当然じゃあないですか。別の表現をしたと私は思っています。山が崩れて、川も今までの流れとは違うようになったという意味で「落ちる」を使ったと思ったのに、どうして??
もう一つは、同じ項目の文章の中の、おそらく碑文を写したのでしょう、恵美朝臣獦(原文は、この字とも違うようには見えるのですが)とあるのを、恵美朝臣朝獦としているのです。確かに、その不思議な字は「かり」と読み、恵美朝狩という人は存在したから、朝という字が入ってしまったのでしょう。あの恵美押勝(藤原仲麻呂)の息子だそうです。
まあ、こちらの補筆は理解できます。でも、「落」が「流」になるのには、納得いきません。芭蕉自身も、送り仮名を間違えているところもあります。それでも、文字自体を変えてしまうのはどうなのでしょう、オリジナルの意図があったはずなのに。
曾良の日記も一緒に見ながら勉強しました。曾良の日記はその時に書いたものです。おくのほそ道は、下書きは書いたでしょうけれど、帰郷してから長い時間をかけて文章を磨き上げ、作品にしたんだと思います。だから、創作した部分もあるのです。遊女二人と同宿したというのは曾良の日記には書かれていません。馬を貸してくれた農夫の娘が「かさね」という名前だったというのも、創作のようです。
俳句の世界と同じ、創作としての作品なのですね。小説と同じです。だからこそ、この作品が名文として21世紀の私たちにも鑑賞するものとして残っているのです。
曾良という人は芭蕉の「おくのほそ道」旅行に同行しましたが、でも、旅の終わりのほうで彼は腹痛で、知り合いの人のところに療養にいくことになり、芭蕉と別れました。旅の最後では彼は回復して、再び芭蕉と会うことができました。この曾良は後に幕府の巡検使随行員として九州をまわり、そして壱岐の島で病死したといいます。そのせいで、芭蕉も隠密だったのではなんて言われるようになったのでしょう。
俳句だけで生計を立てるというのは、かなり難しいことだったんだと思います。今だって、作家といってもそれだけで生活するのはよほどのベストセラーを書いていないと、無理ですもの。それでも、江戸時代といっても、割と自由にあちこち行けたってことですね。自由こそ、人間にとって一番大切なものですから。女性は、どうだったのかなあ・・。犬でもお伊勢参りできたんだし・・。日本人の旅行好きは昔からだったんですね。例の10連休は、きっと大移動がはじまるのでしょう。私は無職だし、人が集まる所には絶対に行きませんけど。日本人はぜーんぜん、勤勉じゃあないね!?奥はけもの道、でも書くか。