ハッチがいた日常

夫は病死、仕事も辞めて被災猫ハッチと暮らしたけれど、10年で終わってしまった。これからは本当の一人暮らしの日々。

あと10分、何する?

2009年04月05日 17時19分54秒 | 日常

 今日の午前11時半過ぎ、ダイエーに買い物に行っていた夫が帰宅し、私は彼が嫌いなテレビを見ていましたが、テロップで北朝鮮が打ち上げたと知り、NHKにしてみました。その後すぐ、民放3局は放送変更してニュースに切り替わりました。

 あと10分で死ぬとしたらどうする?何する?と帰宅直後の夫に聴くと、そりゃ酒飲むとのことでした。

 あと10分だったら、何もできないし、何もしないでじっと待つしかないですよね。

 老猫を抱えてじっと待つしかないかな・・。

 何事もなく、そのあとランチでピクニック、ピクニックとばかり、黒パンにワインでした。何事も起きなくても、休日の昼間は、飲むのだ?!

 明日から、学校に通います。その緊張のためか、ストレスで肥満に。まいったなーーー。きっと、勉強が始まってもストレスは解消しないでしょう。勉強太りってあるのかな?

 季節の変わり目は体がついていきません。まだ、冬眠状態みたいなのです、とほほ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

粘液嚢腫

2009年04月02日 20時36分18秒 | 日常

 数年前、近所の整形外科で、足の指に出来た粘液嚢腫を切除する手術をしました。何針も縫う手術で、一週間を消毒で通い、その間はリハビリシューズというものをネットで購入して履いてでかけたものでした。そして去年、その病気が再発してしまったのです。相当痛い思いして我慢したのにです。当時の整形外科のN先生は、ガングリオンがどうのこうのと言っていました。

 今日は午前中は医者の治療で、間に合えば聖蹟桜ヶ丘の皮膚科に相談に行こうと考えていました。歯医者も割りに早く治療が済み、そのまま最寄り駅から聖蹟桜ヶ丘へと電車に乗り、いつも込み合う桜ヶ丘皮膚科に保険証を持参で治療を待ちました。

 なんたって、以前手術した整形外科の前にはアレルギー治療で有名な西八王子のU皮膚科に行ってみてもらったところ、これは皮膚科ではなく整形外科に行ってくれといわれたのでした。

 今回、もう手術は痛いだけで再発するから二度としたくないから、ちょっと切って粘液を出してもらうことが皮膚科でできるのかと心配でしたが、院長先生は「粘液のう腫」という病名を告げて、医療図鑑でそれを示して、本来は口腔内の症例が多いと話してくれました。外科手術はやはり再発がほとんどなので、とりあえず今の膨れた部分を切って粘液を出すことにしましょうと、看護師さんに消毒の処置を指示していました。そして、足を出して待っているところで件の先生がいらして膨れたところを切り、粘液を出し、その後、看護師さんが液体窒素の凍結療法のあと、塗り薬とガーゼで処置してくれました。幹部がまだ乾いていないうちは入浴禁止でシャワーのみ、とにかく湯船につけないことと言われてしまいました。

 夫の手指の手術は、彼が入浴嫌いだから喜んだでしょうけれど、私は毎日入浴しないと気がすまない性質ですから、シャワーだけというのはこの花冷えではつらい・・ので、今日は入浴しませんでした。夫と同じように家庭内ホームレス状態にまでならないといいのですが・・。とにかく、彼には近づくな!です。

 さっき、一人で幹部を消毒しました。けっこう血が出ていました。本当に、少しはよくなるのかなー。ちりちりと痛いです。

 夫婦そろって手足の指の治療とは情けない・・・。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10年ぶりの父の郷里

2009年04月01日 21時48分51秒 | 日常

 29日の日曜日、父の13回忌の法事を、父の妹、つまり私の叔母の嫁ぎ先の浄土真宗の寺で、父の13回忌の法要をしてもらってきました。

 うちは、母が多発性骨髄腫で昭和天皇の数日前に亡くなり、父はその後一人暮らしでずっと絵を描き続けていましたが95年に父がメラノーマに罹り、入退院を繰り返して97年3月27日に亡くなりました。私は母のときも父のときもがん闘病で退職して実家に看病のために住み込みましたが、父の死後は、40歳過ぎて自動車免許を取って実家の整理をして売却し、父や母のお骨も、先日郷里の叔母に確認してやっと理解できたのですが、東本願寺や名古屋別院にお骨を収める手続きをしていたそうでした。当時は、父の死のショックで何をしていたのかよくわかっていなかったのです。

 姉も私も結婚して親の姓をついでいないし、墓を作るべきか悩んで叔母に相談し、それはいいからと言われました。叔母は寺の本堂に父や母の分骨したものを祭って拝んでくれているそうです。ありがたいことです。

 もともと、浄土真宗では、一族のお墓にみなが入るという形で、個別に作ることはないとのことでした。けっこう、合理的にできているんですね。

 ただ、私は嫁いでしまって、義母はプロテスタント、夫も私も無宗教で子供もいないから、この先、どうなるのか・・。私だけでも散骨してもいいかと思っています。あまり、死後も夫やその親の代の墓に同居したくないというのが本音です。

 母はともかく、父はもうこの13回忌で最期にしてもらおうかという心積もりで、姉と私とでひっそり田舎にいくつもりでしたが、母の弟である叔父が一緒に、さらに姉の娘二人も加わって法要は5人が集まりました。叔父が執り行ってくれましたが、従兄弟の祥ちゃんとお嬢さんの家族は披露宴に出るとかで留守でした。このところは花冷えで急に冷え込んでいたのは愛知県も同じようで、本堂でお経が始まる中、あまりの寒さに私たちはぶるぶる震えていました。

 でも、寺の本堂というのは広くて荘厳で、父もきっと喜んでいることでしょう。寒い中、1時間程度で読経も終わり、控え室でお茶をいただきました。子供のころからなじんだ叔母の寺は、相変わらず複雑で迷路のような部屋、みんなでぞろぞろ迷路を行き来してしまいました。

 お互いに、これが最後なのかもしれないという思いがあったのかもしれません。だからこそ、祥ちゃんには会わないままでよかったのかも・・・。立派な本堂が出来る前は柱の大本だけが並ぶ丘になっていて、私と姉と祥ちゃんは、籐ででき大きな乳母車にのりこんでその丘から、下の灯篭めがけて駆け下りたものでした。灯篭にぶつかって倒れるのが面白くて・・・。何度も何度もそんな無茶な遊びを子供のころにしていたものでした。

 インターネットで親戚の寺の場所を確認したときに、近くに「三岸節子記念美術館」があるのを知り、せっかくだから帰りに底に寄ろうと決めました。名前だけは知っていた女流画家の生家を美術館にしたとのことでした。姉たちは別行動で、私と叔父が法要後にタクシーで美術館に直行しました。叔母たちにはなんともあわただしい・・と呆れられてしまいました。

 ヨーロッパの風景の絵はダイナミックでとても素敵でした。とにかく、パワーのあるおばさん、すごいなーと感心しきり。父より一世代前の女性でした。美術館を後にして、バスで一宮駅に向かいましたが、途中、木曽川に出て、とても懐かしくて写真を撮りました。子供のころ、夏に行ったときは木曽川で泳いだ覚えがあるのです。

 

 バスターミナルの近くの居酒屋で叔父と食事して飲んでおしゃべりし、彼は翌日、同級生に会う(戦時中に疎開していたのでした)のでビジネスホテルに泊まるとのこと、私はそのまま名古屋から「のぞみ」で新横浜経由で帰宅。

 けっこうきついけれど、愛知県には十分日帰りで行かれるものでした。懐かしい日帰り旅を堪能しました。もしかしたら、もう二度といかれないかも、という父の郷里。私自身もこの先どうなるかわからない現状です。さて、来週からの学校がよい、どうなることでしょうか・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする