『世界の城郭・宮殿 18-1(世界最強の城ランキング 第1位~3位)』
―城の強さを日本流区分、①縄張り、②普請、③作事、から判断ー
何でもランキングするこの頃ですが、城郭の強さについては、時代のよっては、比較が、難しいですが、 『①縄張り、②普請、③作事』、に①縄張りに実際の攻城戦の記録を書き出し、今後の調査課題としました。
1位 コンスタンティノープル(築城4世紀・トルコ)
『コンスタンティノープルの縄張り』
この城の広さは、オランダ運河防塞線内囲まれたアムステルダムや、中国の南京城、北京城、長安城、フランスのフランス・ベルサイユ宮殿、日本の江戸城に次いで、世界の歴代第8位になります。 330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落であった。
ウキペデイアから引用
『コンスタンティノープルの普請』
内壁の高さは12ⅿ、幅は6ⅿです。
ウキペデイアから引用
『コンスタンティノープルの作事』
初期ビザンチン建築の最高傑作
ウキペデイアから引用
2位 クラック・デ・シュバリエ(築城12世紀・シリア)
『クラック・デ・シュバリの縄張り』
シリアに築かれた十字軍時代の代表的な城で、当時の築城技術の粋を究めたものと評価されている。 1163年にイスラムのザンギー朝のヌールッディーンの包囲を受けたが、これを退ける。 1188年にイスラムのアイユーブ朝のサラディンによる包囲にも耐え、1207年にはサラディンの弟アル=アーディルの攻撃を凌いだ。 1273年の第9回十字軍時にイングランドのエドワード1世がこの城を訪れており、これを参考にしたエドワード式コンセントリック型の城をイングランドやウェールズに多く築いた。 アラビアのローレンスは、この城を世界で最も素晴しい城だと述べた。
ウキペデイアから引用
『クラック・デ・シュバリの普請』
ウキペデイアから引用
ウエブ情報『シリア内戦を耐え抜いた十字軍の城、再び観光客に門戸』から引用
3位 ドーバー城(築城11世紀・英国)
『ドーバー城の縄張り』
ドーヴァー城はイギリスのケント港湾都市ドーバーにある城である。 11世紀に建設され、歴史を通じてその戦略的な重要性から「イングランドへの鍵」と呼ばれた。 ウィンザー城と並んで、イングランド最大の城だとされる。
ウキペデイアから引用
ウキペデイアから引用
ドーヴァー城包囲戦(1216年7月19日~10月16日)
ヘンリ2世、リチャード1世を継いだジョン王はフランス王フィリップ2世によって1206年までにフランス側領土の大半を喪失、起死回生を狙って神聖ローマ帝国や反フランス王諸侯と同盟を結んで臨んだ1214年のブーヴィーヌの戦いでも大敗し、1215年、諸侯の反乱を招いた。反乱諸侯はジョン王に替わってフランスの王太子ルイ(のちのルイ8世)にイングランド王即位を求め、フランス王もこれを承認、1216年6月、王太子ルイ率いるフランス軍がイングランドに上陸した。ジョン王は劣勢の中ロンドンから逃亡、ルイはロンドンに入城したあと、自ら軍を率いて1216年7月19日、要衝ドーヴァー城の攻略に取り掛かる。
ルイはブーヴィーヌの戦いの前哨戦で別動隊を率いてイングランド軍を敗走させるなど父王フィリップ2世の覇業を助けて数々の軍功を挙げた戦上手で知られた人物である。即位後には南フランスを一気に征服するなど、後に「獅子王(le Lion)」の異名で知られることになる知勇兼備の勇将であった。
ドーヴァー城は城将ヒューバード・ド・バークが守りを固め、三か月に渡ってルイの猛攻をしのぎ続け、あわや落城かというところまで追い込まれながらも、結局ルイは落城させることができなかった。そのドーヴァー城の奮戦に応えて10月に入りケント一帯で反乱が勃発、ルイはついに攻略を断念して10月16日、和睦を申し入れる。さらにその3日後10月19日、まさかのジョン王病死によって、ルイはイングランド攻略の大義名分を失い、幼い王太子ヘンリがウィリアム・マーシャルらに擁立されてヘンリ3世として即位するとルイ派は劣勢に追い込まれ、1217年、リンカンの戦いで敗北、撤退を余儀なくされた。
これが、ドーヴァー城が亡国の危機を救った”最初の”戦いだった。
『ドーバー城の普請
ウキペデイアから引用
城は守るものですが、歴史上、城で国民を守れた時代は短かったです。
(記事投稿日:2021/01/02、最終更新日:2023/11/26、#266)