先だっての新聞報道によると、毎日新聞が8月末で北海道での夕刊発行を廃止することにしたそうである。
新聞各社とも夕刊販売部数は低落傾向にあり、各社で試行錯誤を続ける中の今回の毎日新聞社の北海道地方の夕刊廃止決定である。
6月14日付朝日新聞朝刊の報道によると、全国紙で夕刊を廃止したのは02年の産経新聞が最初であったらしい。毎日新聞社においても、その前年頃から既に夕刊廃止は経営政策上の重要問題として検討されていたとのことである。
今回の毎日新聞の北海道での夕刊廃止決定について、毎日新聞社の広報担当は「読者のライフスタイルの変化に対応し、朝刊を増ページして内容を充実させる。記者や社員の削減は考えておらず、コスト削減を狙ったものではない。」と説明しているようだ。
北海道において新聞の戸別配達を維持するのは大変だという特殊な事情もある。首都圏等と比較して配達区域が広大で、山間部や農村では次の配達先まで1kmあることもざらだそうだ。
この毎日新聞の夕刊廃止報道を受けて、あるテレビ番組が聴取者に夕刊は必要か不要かの意見を募ったそうである。
その結果は“不要派”が“必要派”を大きく上回る回答だったようだ。
夕刊は必要か、不要か?
これを考察する前に、我が家特有の新聞事情を述べさせていただこう。
本ブログの読者の皆様は既に十二分にご存知のように、私は朝日新聞の長年に渡る愛読者である。朝刊、夕刊共に毎日届く新聞の全ページを欠かさずチェックしている。
ところが、私の新聞の読み方は変則的である。大抵は2、3日遅れて読む。極端な場合は1週間以上遅れてまとめて読む場合もある。なぜこれ程読むのが遅れるのかというと、日常生活の合間を見つけて読むという習慣がひとつの大きな理由である。
だが、もっと大きな理由がある。それは我が家はオートロックの集合住宅なのだが、新聞を一階の集合ポストまでしか配達してもらえないのだ。朝の忙しい時間に一階まで新聞を取りに行く時間がなく、昼間外出ついでに郵便物と一緒に持って上に上がるため、どうしても読むのが遅れるのだ。これに関しては一戸建て住宅と比し明らかに不公平であるため、集合住宅も戸別配達をするようにと何度か新聞配達店に掛け合ったのであるが、残念ながらその回答は“No”である。オートロックマンションに関しては戸配はせず、一階の集合ポストまでの配達が原則となっているという販売店の説明である。(ならば、少し値引きぐらいしてくれてもよさそうなものだが…。)
そのような事情で、我が家では朝刊も夕刊もごっちゃ混ぜに遅れて読んでいる実態である。
そういう新聞の読み方をしている私がこの問題を考察すると、自ずと夕刊不要の立場を取る事になる。
私なりに朝刊と夕刊の違いについては把握している。朝刊はトピックス記事や社説等のオピニオン記事が多いのがその特徴であろう。そして夕刊は科学、学問、芸術、芸能関係等の文化面の話題が多いと把握している。
これらをひとつにまとめ一日1部の発行として、午後の配達体制にでもしてもらえるならば我が家としては十分である。そのコスト削減分を新聞代金値下げに還元してくれるならより歓迎である。
53年にテレビ放送が始まり、90年代にはインターネットが普及して、今やマスメディアを取り巻く環境が大きく変化している。人々の生活習慣もめざましく変化してきている。情報入手手段の多様化により、新聞のあり方も今後大きく変遷して行かざるを得ないであろう。
それでも私は新聞が好きだ。 テレビやインターネットの粗雑さや押し付けがましさ、自由度の低さには未だに抵抗感が大きい。 新聞の広い紙面、情報を一見にして一望でき選択できる自由さや、紙独特の風合いや紙を介してゆったりと流れるあの一種贅沢な寛ぎの時間、空間を私は今後共欠かせない生活の一ページとして享受していきたく思っている。
朝刊、夕刊という新聞の2部体制に関しては今後変容していく運命にあろうが、新聞という情報文化媒体にはまだまだ生き残って欲しいと、一新聞ファンとしては期待する次第である。
新聞各社とも夕刊販売部数は低落傾向にあり、各社で試行錯誤を続ける中の今回の毎日新聞社の北海道地方の夕刊廃止決定である。
6月14日付朝日新聞朝刊の報道によると、全国紙で夕刊を廃止したのは02年の産経新聞が最初であったらしい。毎日新聞社においても、その前年頃から既に夕刊廃止は経営政策上の重要問題として検討されていたとのことである。
今回の毎日新聞の北海道での夕刊廃止決定について、毎日新聞社の広報担当は「読者のライフスタイルの変化に対応し、朝刊を増ページして内容を充実させる。記者や社員の削減は考えておらず、コスト削減を狙ったものではない。」と説明しているようだ。
北海道において新聞の戸別配達を維持するのは大変だという特殊な事情もある。首都圏等と比較して配達区域が広大で、山間部や農村では次の配達先まで1kmあることもざらだそうだ。
この毎日新聞の夕刊廃止報道を受けて、あるテレビ番組が聴取者に夕刊は必要か不要かの意見を募ったそうである。
その結果は“不要派”が“必要派”を大きく上回る回答だったようだ。
夕刊は必要か、不要か?
これを考察する前に、我が家特有の新聞事情を述べさせていただこう。
本ブログの読者の皆様は既に十二分にご存知のように、私は朝日新聞の長年に渡る愛読者である。朝刊、夕刊共に毎日届く新聞の全ページを欠かさずチェックしている。
ところが、私の新聞の読み方は変則的である。大抵は2、3日遅れて読む。極端な場合は1週間以上遅れてまとめて読む場合もある。なぜこれ程読むのが遅れるのかというと、日常生活の合間を見つけて読むという習慣がひとつの大きな理由である。
だが、もっと大きな理由がある。それは我が家はオートロックの集合住宅なのだが、新聞を一階の集合ポストまでしか配達してもらえないのだ。朝の忙しい時間に一階まで新聞を取りに行く時間がなく、昼間外出ついでに郵便物と一緒に持って上に上がるため、どうしても読むのが遅れるのだ。これに関しては一戸建て住宅と比し明らかに不公平であるため、集合住宅も戸別配達をするようにと何度か新聞配達店に掛け合ったのであるが、残念ながらその回答は“No”である。オートロックマンションに関しては戸配はせず、一階の集合ポストまでの配達が原則となっているという販売店の説明である。(ならば、少し値引きぐらいしてくれてもよさそうなものだが…。)
そのような事情で、我が家では朝刊も夕刊もごっちゃ混ぜに遅れて読んでいる実態である。
そういう新聞の読み方をしている私がこの問題を考察すると、自ずと夕刊不要の立場を取る事になる。
私なりに朝刊と夕刊の違いについては把握している。朝刊はトピックス記事や社説等のオピニオン記事が多いのがその特徴であろう。そして夕刊は科学、学問、芸術、芸能関係等の文化面の話題が多いと把握している。
これらをひとつにまとめ一日1部の発行として、午後の配達体制にでもしてもらえるならば我が家としては十分である。そのコスト削減分を新聞代金値下げに還元してくれるならより歓迎である。
53年にテレビ放送が始まり、90年代にはインターネットが普及して、今やマスメディアを取り巻く環境が大きく変化している。人々の生活習慣もめざましく変化してきている。情報入手手段の多様化により、新聞のあり方も今後大きく変遷して行かざるを得ないであろう。
それでも私は新聞が好きだ。 テレビやインターネットの粗雑さや押し付けがましさ、自由度の低さには未だに抵抗感が大きい。 新聞の広い紙面、情報を一見にして一望でき選択できる自由さや、紙独特の風合いや紙を介してゆったりと流れるあの一種贅沢な寛ぎの時間、空間を私は今後共欠かせない生活の一ページとして享受していきたく思っている。
朝刊、夕刊という新聞の2部体制に関しては今後変容していく運命にあろうが、新聞という情報文化媒体にはまだまだ生き残って欲しいと、一新聞ファンとしては期待する次第である。
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