原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

オリンピック雑感

2008年08月19日 | 時事論評
 北京オリンピックもそろそろ終盤を迎えようとしている。

 私は元々オリンピック観戦(もちろんテレビでの)は好きな方だ。今回も普段はほとんど見ないテレビのスイッチを入れて、主要競技の観戦をしている。 
 ただ、近年はテレビ等マスメディアにおけるオリンピック放送のあり方が様変わりし興ざめさせられる場面が多く、少しずつ敬遠せざるを得なくなってきている。
 
 そこで今回の記事では、北京オリンピックが閉会する前に、その辺に関する雑感を述べることにしよう。

 
 私にとってのオリンピックの原点は1964年に日本で初めて開催された東京オリンピックである。
 経済高度成長期の先駆けの時期であったように記憶している。このオリンピックに合わせて日本におけるテレビ放送もカラー化された。
 マラソンのエチオピアのアベベ選手や円谷選手(後に、日の丸を背負い勝たねばならないことへの重圧から、もう走れないという内容の遺書を残し自殺を図った選手であるが)の活躍、そして東洋の魔女と言われた女子バレーボールの金メダル獲得等々、子ども心にも印象的な場面が多い。
 中でも、私にとって一番印象的なのは開会式での選手入場行進である。今井光也氏作曲のファンファーレの旋律や、小関祐而氏作曲のオリンピックマーチは今尚私の脳裏に刻まれている。

 1984年のロサンゼルスオリンピックも印象的だ。税金を一切使わず、巨額なテレビ放映料とスポンサー協賛金による初めての商業ベースの絢爛豪華なショーのような祭典が繰り広げられた。
 今までに類を見ない16ビートの斬新なファンファーレの音色が脳裏に焼き付いている。


 さて、話を今回の北京をはじめ近年のオリンピックに戻そう。

 今回の北京オリンピックの開会式もそうであったが、司会者とゲストの音声がやたら耳障りなのだ。そもそも開会式の中継にゲストは要らない。司会者ひとりと解説者ひとりで静かに番組を進行して欲しいものである。開会式の主役はあくまで選手である。外野が不必要な言葉を並べ立てる必要は何もない。

 競技中継においてはなおさらだ。
 民放においては特にそうなのだが、スポーツ中継においてスタジオから三流のタレントと司会者が番組を仕切るスタイルを取るのが通常となってしまっている。競技中継を何故にバラエティ番組化するのか。この三流タレントのうるささには耳をふさぐかスイッチを切るしかない。
 競技中継においてスタジオ中継など一切不要だ。競技のみを確かな解説のみで静かに観戦させて欲しいものだ。

 レポーターとやらも多用されているが、これも要らない。競技終了直後の選手へのインタビューが今や当然のことのように行なわれているが、これに関しても行き過ぎの感が否めない。選手の表情やしぐさを影像で伝えて、後で談話だけ流してくれるだけで十分だ。下手なレポーターの言葉よりも、選手の影像での表情や涙の方がより多くを語り、感動を与えてくれるものだ。

 近頃の競技解説者については、ただ喋り過ぎているだけで的を射ていない。どの競技においても過去のオリンピックメダリストが解説者として多用されているようだが、解説者としての適性を疑う場合が多い。
 失礼ながら一例を挙げると、過去において女子マラソンで途中棄権したAM氏はオリンピックに限らず、近年マラソン中継の解説者として君臨している模様だが、氏の解説はいつもいつも耳障りだ。まず、声が聞き取りにくい。拉致問題担当大臣の中山氏の声を早口にしたような喋り方で、いつも喋り過ぎる。解説の中で選手を“ちゃん”付けで呼んでみたり、選手の個人情報を暴露してばかりいる。これは競技解説とは言わないであろう。
 これに対し、今回の北京オリンピック女子マラソン解説の有森裕子氏はなかなか良かった。(褒めるので実名です。)声のトーンも落ち着いて喋り過ぎず、視聴者が競技に集中できる解説であったように私は思う。本来の競技解説とはこうあるべきだ。


 テレビをはじめマスメディアは、オリンピックの主役はあくまでも選手であるという初心に立ち戻るべきだ。 故意に感動を創り上げて安売りするような安直な番組制作ではなく、真の感動を冷静にありのまま茶の間に届けて欲しいものである。
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