自宅での昼食時間に、NHKの天気予報とニュースを見る流れで連続テレビ小説「瞳」を見ているのだが、このドラマに最近「境野涼子さん」という役名の中1の少女が登場している。
この「境野さん」の持つ雰囲気が、我が家の中学生の娘に瓜二つなのである。とても他人とは思えない私は「境野さん」の母になった心境で、毎日行く末を見守っている。
「境野さん」は聡明でいかにも育ちのよさそうな華奢で可愛らしい雰囲気の少女である。ところが、寡黙で引っ込み思案で自己表現が下手なところがあるため、周囲から“暗い”イメージを持たれている、という設定である。
この“暗い”「境野さん」を何とか“明るく”しようと(私に言わせてもらうと“余計な”)お節介をブラウン管の中で周囲が焼いている最中なのである。
主人公の「瞳」はヒップホップダンスを習っているのだが、中学校のダンス校友会で「境野さん」ら女子中学生のダンス指導をすることになる。 そのダンス指導を通じて「境野さん」は少しずつ“明るく”なっていくというような、よくある陳腐なパターンのドラマの流れである。
ここで、どうしても私は「待った!」をかけたいのだ。
「境野さん」は“明るく”ならなければいけなのか? そもそも「境野さん」は“暗い”のか?? 私の目には当初登場した時消え入りそうな小さい声で「(愛読書は)ドストエフスキー…」と答えた時のそのままで、「境野さん」は十分過ぎる位いいお嬢さんであったのだが…。
「境野さん」風の我が子を持つ親としては、軽はずみなドラマ造りは勘弁願いたいものである。
学校等の集団内において、個性を尊重するどころか、小さい頃から「境野さん」同様に寡黙さや自己表現の下手さを一方的に指摘され続けている娘を持つ親としては、他者の性格や特質に関する軽はずみでひとりよがりの判断や誤解のなきよう、周囲にもう少し冷静な思考を望みたいところである。
では、少し分析してみよう。
まず“明るい”とは一体何であるのか。
結論を先に言うと、これは他者の価値基準による主観的な虚像である。
“明るい”とはすなわち、受け手としての自分に対して笑顔を振りまいて欲しい、楽しくさせて欲しい、あるいは気分が高揚するような情報を与えて欲しい。少し前進して、できれば楽しいひと時を共有したい。そういう個人的欲求を満たしてくれるような相手の性質を“明るい”と呼ぶのであろう。
では、“暗い”とは何なのか。
それは上記の“明るい”の逆なのであろう。すなわち、あくまで受身である相手方にとって、そのような影響力をもたらさない性質を指すのではなかろうか。
このように、人間の性質を表現するとされている“明るい”“暗い”という価値基準は、あくまでも複数の人間集団の中での受身の観点からの主観的な表現でしかないのである。
そうなると当然ながら好みの問題もかかわってくる。価値観が多様化している現在、皆が皆“明るさ”を好むとも思われない。
“暗い”という言葉はいかにもマイナーな表現であり一種の差別感も読み取れるため好まないが、例えば、人間関係において“落ち着き”だとか“静けさ”を好む人種も増えているのではなかろうか。私など、まさにそうだ。だから、テレビのバラエティ番組等の低俗でくだらない造られた“明るさ”を毛嫌いしているのだ。
大した意味もないのに大声を出して笑ってみたり、わざとらしい作り笑いをしてみたり、“明るく”あることに悲壮感さえ漂っているような場面にすら出くわすことが多い時代である。なぜそのように、人間集団において“明るく”あることが義務化されてしまったのであろうか。人間関係の希薄化がもたらしている、心の歪み、ひずみ現象の一端であるのかもしれない。
人間は自然体が一番よい。持って生まれた性質や特質等の“自分らしさ”を大切に育んでいきたいものである。
「境野さん」も我が娘も、そのままでありのままで十分に素敵な女の子だよ!
この「境野さん」の持つ雰囲気が、我が家の中学生の娘に瓜二つなのである。とても他人とは思えない私は「境野さん」の母になった心境で、毎日行く末を見守っている。
「境野さん」は聡明でいかにも育ちのよさそうな華奢で可愛らしい雰囲気の少女である。ところが、寡黙で引っ込み思案で自己表現が下手なところがあるため、周囲から“暗い”イメージを持たれている、という設定である。
この“暗い”「境野さん」を何とか“明るく”しようと(私に言わせてもらうと“余計な”)お節介をブラウン管の中で周囲が焼いている最中なのである。
主人公の「瞳」はヒップホップダンスを習っているのだが、中学校のダンス校友会で「境野さん」ら女子中学生のダンス指導をすることになる。 そのダンス指導を通じて「境野さん」は少しずつ“明るく”なっていくというような、よくある陳腐なパターンのドラマの流れである。
ここで、どうしても私は「待った!」をかけたいのだ。
「境野さん」は“明るく”ならなければいけなのか? そもそも「境野さん」は“暗い”のか?? 私の目には当初登場した時消え入りそうな小さい声で「(愛読書は)ドストエフスキー…」と答えた時のそのままで、「境野さん」は十分過ぎる位いいお嬢さんであったのだが…。
「境野さん」風の我が子を持つ親としては、軽はずみなドラマ造りは勘弁願いたいものである。
学校等の集団内において、個性を尊重するどころか、小さい頃から「境野さん」同様に寡黙さや自己表現の下手さを一方的に指摘され続けている娘を持つ親としては、他者の性格や特質に関する軽はずみでひとりよがりの判断や誤解のなきよう、周囲にもう少し冷静な思考を望みたいところである。
では、少し分析してみよう。
まず“明るい”とは一体何であるのか。
結論を先に言うと、これは他者の価値基準による主観的な虚像である。
“明るい”とはすなわち、受け手としての自分に対して笑顔を振りまいて欲しい、楽しくさせて欲しい、あるいは気分が高揚するような情報を与えて欲しい。少し前進して、できれば楽しいひと時を共有したい。そういう個人的欲求を満たしてくれるような相手の性質を“明るい”と呼ぶのであろう。
では、“暗い”とは何なのか。
それは上記の“明るい”の逆なのであろう。すなわち、あくまで受身である相手方にとって、そのような影響力をもたらさない性質を指すのではなかろうか。
このように、人間の性質を表現するとされている“明るい”“暗い”という価値基準は、あくまでも複数の人間集団の中での受身の観点からの主観的な表現でしかないのである。
そうなると当然ながら好みの問題もかかわってくる。価値観が多様化している現在、皆が皆“明るさ”を好むとも思われない。
“暗い”という言葉はいかにもマイナーな表現であり一種の差別感も読み取れるため好まないが、例えば、人間関係において“落ち着き”だとか“静けさ”を好む人種も増えているのではなかろうか。私など、まさにそうだ。だから、テレビのバラエティ番組等の低俗でくだらない造られた“明るさ”を毛嫌いしているのだ。
大した意味もないのに大声を出して笑ってみたり、わざとらしい作り笑いをしてみたり、“明るく”あることに悲壮感さえ漂っているような場面にすら出くわすことが多い時代である。なぜそのように、人間集団において“明るく”あることが義務化されてしまったのであろうか。人間関係の希薄化がもたらしている、心の歪み、ひずみ現象の一端であるのかもしれない。
人間は自然体が一番よい。持って生まれた性質や特質等の“自分らしさ”を大切に育んでいきたいものである。
「境野さん」も我が娘も、そのままでありのままで十分に素敵な女の子だよ!