昨日、夏休み中の中学生の娘と一緒に買い物に出かけた。
娘が洋服を買うのに先立ち試着のため試着室に入ったところ、おそらく3、4歳位と思われる見知らぬ男の子が、試着室のカーテンの隙間から中に入り込もうとしている。近くでそれを見ていた私は「これからこの部屋を使うから、今は入らないでね。」と声をかけたのだが、男の子は聞き入れず試着室の奥まで入り込んだ。中にいた娘は驚いた様子で、同様に「今から使うから入らないで。」等と言っているのだが男の子は我関せずで試着室から出ようとしない。回りを見渡しても親らしき人物も見当たらない。
私はとっさに試着室の密室性を考慮し、我々親子がこの男の子を試着室に監禁して誘拐でもしようとしていると周囲から誤解されたら大変!!と判断し、娘にすぐに試着室から出るように言い、その場を去った。
遠目に男の子を見守っていると、親を探そうとするでもなく、特に泣くでも笑うでもなく相変わらずひとりでうろうろと売り場を徘徊して遊んでいる様子である。やはり男の子の保護者らしき姿はどこにもない。
一体、この男の子の保護者はこんな幼い子どもをひとり置き去りにして何をしているのだろうと不可解に思っていたところ、どうやら別の離れた試着室で母親らしき人物が自分の洋服の試着を悠々としていた模様である。試着室から出てきた女性はやっと男の子を呼び寄せ、何事もなかったかのように洋服を買って立ち去った。
なぜ、保護者たる者がこんな幼い子どもからたとえ一時でも目を離すのであろうか。世間ではこれほど事件事故が多発し、子どもも含めて尊い命が犠牲になっている現状を子を持つ親としてどのように捉えているのだろうか。やるせなくやり場のない気持ちを抱えつつ、我々親子は買い物を続行する気分も失せ帰宅した。
少し話の趣旨が異なるのだが、現在、朝日新聞朝刊の「声」欄で、公共の場における幼い子どもを連れた親の子どもに対する対応の仕方について、議論が繰り広げられている。
この「声」欄の議論の発端は、7月17日朝刊の“青年の一喝で泣く子黙った”と題する読者よりの投書である。以下に簡単に要約してみよう。
混み合う電車の中で、「抱っこして欲しい、座りたい」と駄々をこね泣き叫ぶ子に対して父親は断固として「抱っこはしない」ことを主張している。この光景を見かねた青年が「うるさい。静かにしろ。」と叱ったところ、子どもは黙り車内は静かになった。だが、中年女性がその青年に対し、「あの年頃の子どもは言ってもわからないものだ」と非難した。この投書者は、問題なのは保護者である、子どもを懸命にしつけ、周囲に気遣いをすれば誰も不快には感じない、と自身の見解を述べ締めくくっている。
私論の一部を先に述べると、“問題なのは保護者である、周囲への配慮を”という点で私の見解も一致している。
この投書に対し、反論や賛同意見が相次いだ。
例えば同じ年頃の子どもを持つ母親の立場から、泣く子には優しく対応して欲しい、とする反論があった。
あるいは、子育て経験のある母親からは、公共の場で他人の迷惑を顧みないで子どもに好き放題させている親をしばしば見かけるが、子どもにも小さい頃から公共マナーを教えるべき、との投書もあった。 再び私論の一部を述べると、この投書の見解に賛同する。
それでは、私論をまとめよう。
判断能力、責任能力のない幼い子どもは大人が守るべき存在であり、子ども本人を責めることには無理がある。上記の「声」欄に子どもには優しく接して欲しいとの反論を展開した母親の希望通り、この私とて、世の中のすべての子どもの人権を尊重し守って優しく接してあげたいと常々心得ているつもりだ。
ただ、一方で親には子どもを育てていく義務があり責任がある。子どもが小さい頃から公共マナーを育てることも親の大事な仕事のひとつである。子どもが学齢に達するまでに、家庭である程度の子どもの公共性を育てておきたいものだ。これは、他者に我が子に対する優しさを期待するより優先して行なわれるべき親の仕事である。
そのためには、まず子どもに“私”と“公”があることから教える。そして、“私”をそのまま“公”に持ち出すのではなく、様々な“公”の場において、親自らが他者への配慮を実践することにより、子どもに“公”における人と人とのあるべき姿を伝えていく。 公共マナーとは、その基本は他者に対する配慮の心である。“私”においても配慮はもちろん要求されるが、“公”においてはその度合いや形態が大きく異なる。
親に何の落ち度がなくても、成長途上の幼い子どもは公の場で泣きわめく事もよくある話だ。子育て経験のある人間は誰しもそれぐらいのことは承知している。そんな時に、大人である親の子どもに対する愛情や周囲の他者に対する配慮の心が少しでも感じ取れたならば、周囲の人間はそれだけで十分であって、誰も子はもちろんのこと親を責めることもないであろう。(むしろ、親の心情を察して助け舟を出してあげたいと思う人々も多いのではなかろうか。)
そして公の場では子どもの安全にも十分配慮して、親が率先して子どもを守って欲しいものである。
娘が洋服を買うのに先立ち試着のため試着室に入ったところ、おそらく3、4歳位と思われる見知らぬ男の子が、試着室のカーテンの隙間から中に入り込もうとしている。近くでそれを見ていた私は「これからこの部屋を使うから、今は入らないでね。」と声をかけたのだが、男の子は聞き入れず試着室の奥まで入り込んだ。中にいた娘は驚いた様子で、同様に「今から使うから入らないで。」等と言っているのだが男の子は我関せずで試着室から出ようとしない。回りを見渡しても親らしき人物も見当たらない。
私はとっさに試着室の密室性を考慮し、我々親子がこの男の子を試着室に監禁して誘拐でもしようとしていると周囲から誤解されたら大変!!と判断し、娘にすぐに試着室から出るように言い、その場を去った。
遠目に男の子を見守っていると、親を探そうとするでもなく、特に泣くでも笑うでもなく相変わらずひとりでうろうろと売り場を徘徊して遊んでいる様子である。やはり男の子の保護者らしき姿はどこにもない。
一体、この男の子の保護者はこんな幼い子どもをひとり置き去りにして何をしているのだろうと不可解に思っていたところ、どうやら別の離れた試着室で母親らしき人物が自分の洋服の試着を悠々としていた模様である。試着室から出てきた女性はやっと男の子を呼び寄せ、何事もなかったかのように洋服を買って立ち去った。
なぜ、保護者たる者がこんな幼い子どもからたとえ一時でも目を離すのであろうか。世間ではこれほど事件事故が多発し、子どもも含めて尊い命が犠牲になっている現状を子を持つ親としてどのように捉えているのだろうか。やるせなくやり場のない気持ちを抱えつつ、我々親子は買い物を続行する気分も失せ帰宅した。
少し話の趣旨が異なるのだが、現在、朝日新聞朝刊の「声」欄で、公共の場における幼い子どもを連れた親の子どもに対する対応の仕方について、議論が繰り広げられている。
この「声」欄の議論の発端は、7月17日朝刊の“青年の一喝で泣く子黙った”と題する読者よりの投書である。以下に簡単に要約してみよう。
混み合う電車の中で、「抱っこして欲しい、座りたい」と駄々をこね泣き叫ぶ子に対して父親は断固として「抱っこはしない」ことを主張している。この光景を見かねた青年が「うるさい。静かにしろ。」と叱ったところ、子どもは黙り車内は静かになった。だが、中年女性がその青年に対し、「あの年頃の子どもは言ってもわからないものだ」と非難した。この投書者は、問題なのは保護者である、子どもを懸命にしつけ、周囲に気遣いをすれば誰も不快には感じない、と自身の見解を述べ締めくくっている。
私論の一部を先に述べると、“問題なのは保護者である、周囲への配慮を”という点で私の見解も一致している。
この投書に対し、反論や賛同意見が相次いだ。
例えば同じ年頃の子どもを持つ母親の立場から、泣く子には優しく対応して欲しい、とする反論があった。
あるいは、子育て経験のある母親からは、公共の場で他人の迷惑を顧みないで子どもに好き放題させている親をしばしば見かけるが、子どもにも小さい頃から公共マナーを教えるべき、との投書もあった。 再び私論の一部を述べると、この投書の見解に賛同する。
それでは、私論をまとめよう。
判断能力、責任能力のない幼い子どもは大人が守るべき存在であり、子ども本人を責めることには無理がある。上記の「声」欄に子どもには優しく接して欲しいとの反論を展開した母親の希望通り、この私とて、世の中のすべての子どもの人権を尊重し守って優しく接してあげたいと常々心得ているつもりだ。
ただ、一方で親には子どもを育てていく義務があり責任がある。子どもが小さい頃から公共マナーを育てることも親の大事な仕事のひとつである。子どもが学齢に達するまでに、家庭である程度の子どもの公共性を育てておきたいものだ。これは、他者に我が子に対する優しさを期待するより優先して行なわれるべき親の仕事である。
そのためには、まず子どもに“私”と“公”があることから教える。そして、“私”をそのまま“公”に持ち出すのではなく、様々な“公”の場において、親自らが他者への配慮を実践することにより、子どもに“公”における人と人とのあるべき姿を伝えていく。 公共マナーとは、その基本は他者に対する配慮の心である。“私”においても配慮はもちろん要求されるが、“公”においてはその度合いや形態が大きく異なる。
親に何の落ち度がなくても、成長途上の幼い子どもは公の場で泣きわめく事もよくある話だ。子育て経験のある人間は誰しもそれぐらいのことは承知している。そんな時に、大人である親の子どもに対する愛情や周囲の他者に対する配慮の心が少しでも感じ取れたならば、周囲の人間はそれだけで十分であって、誰も子はもちろんのこと親を責めることもないであろう。(むしろ、親の心情を察して助け舟を出してあげたいと思う人々も多いのではなかろうか。)
そして公の場では子どもの安全にも十分配慮して、親が率先して子どもを守って欲しいものである。