先週の日曜日(5月16日付)の新聞に 「子どもたちが“楽しく学ぶ”にはどうすればいいの」 と題する某学習塾の一面広告があった。
この広告の上段に小学4年生を対象とした「勉強が楽しいか」との設問の国際調査回答結果が掲載されているのだが、日本人の子どもが“勉強が楽しい”と思う割合は「算数」が34%、「理科」が57%と、両者共に国際平均値を下回っているようである。
紙面下段にはこの調査結果に対する当該学習塾の見解及び「楽しい学び」の提供が記載されているのだが、それによって生徒募集に繋げようとの思惑の広告である。
上記学習塾の見解については、この記事においては保留とさせていただこう。
そして、教職経験があり、さらに我が子幼少の頃より「お抱え家庭教師」として君臨し子どもの学習の面倒を身近に見てきた原左都子なりの「楽しい学び」の提案を試みることにしよう。
「楽しい学び」の提案をする以前の課題として、まず子どもの学習における「楽しさ」の解釈から議論を始める必要があろう。
いや、もっと根本的な命題として、「学習とは楽しくあらねばならないのか?」 との疑念さえもが私の頭をもたげてしまうのだ。
と言うのも、私自身が高校までの学校の勉強を「楽しい」と思ったことが皆無と言えるからである。 そんな私でも大学(及び大学院)での学問は大いに充実していたことに関してはバックナンバーに於いて再三述べているのに加え、学問・研究カテゴリーの記事も何本か綴って公開させていただいている。
いけしゃあしゃあと言わせていただくと、義務教育期間において私は学業成績優秀な児童、生徒であった。
教科間での多少のバラつきはあったものの、全般的に常に学内トップクラスの成績をキープし続けていた。 そんな私でも勉強を「楽しい」と思ったことは皆無なのである。
ただ、学習におけるプラスの感覚は幼少の頃より必ずや我が内面に存在していた。 それは「楽しい」との感覚とはニュアンスが異なる種の感情である。 「達成感」「成功観」と表現するべきであろうか、要するに“学習後”の我が脳裏へのフィードバック感覚としての快感が存在したのである。 これが自己の内面から湧き出てくるものであれ、成績や席次という他者から結果として表示されるものであれ、年端もいかない子どもの頃の私にとっては大いに次ステップの学習意欲をそそられたものであることは事実だ。
私の場合、物心ついた頃から母がフルタイムで仕事をしていたこともあり、家庭学習に関しては100%自主性のみに任されていた。 (田舎暮らしだったこともあって周囲に塾など一つも存在すらしないし、家庭教師のお世話になったことなども一切ない。) それでも何故に私が一人で健気に学習を続行し得たのかと言うと、それは私の生来の勤勉で律儀(?)
で負けず嫌いな性質に加えて、上記の「達成感」「成功観」感情に支えられていたからに他ならないと自己分析するのである。
ただ、私のように親が放っておいても“自主学習派”を貫く子どもとは至って少数派であろうと分析するのだ。 それは我が過去の教員経験、及び我が子を観察していて実感させられる思いである。
たとえば我が子の場合は、生まれ持っての若干の特殊事情がある。この特殊要因を抜きに考察しても、生命体の生来の性質や特性とは個々により大きく異なるのを実感させられる日々である。
生まれ持っての“自主学習派”とは程遠い個性を持つ子どもを捉まえて 「なんであんたは勉強しないの! よその子はやってるのに!」 と怒鳴りつける事ほど逆効果はない。 我が子の“自主学習派”ではない個性を早期に見抜いた私は、幼少の頃よりリビングルームに学習机を置き母自ら「お抱え家庭教師」として日々学習に付き合ったという訳である。
教える立場からの考察として、子どもが幼少の頃は確かに“学び”において“楽しさ”も見出し易いものである。 と言うよりも幼少時には子どもが“楽しめる”ことに主眼を置いて教育がなされるべきなのは教育の原理においても当然の事である。
ただ学習内容の進展と共に、どうしても“楽しさ”を超越した子ども本人の“努力”が要請されてくるものである。 教える側としてはこの時点こそが“踏ん張り処”であるのだ。
ここで少しだけ上記広告主である某学習塾の見解を紹介させていただくと、「知識重視ではなく、新しい発見を提案することで子どもの興味をそそる」との記載がある。
文言のみ読ませていただいた限りではごもっともの見解であられるのだが、一方で子どもの学習のさらなる進展を目指すためには新しい知識の習得は避けては通れないものである。 (おそらくこの学習塾の見解は「理科」を大いに対象として記載されたものであろうが。)
やはり、子どもの学習には「楽しさ」のみではない「苦難を乗り越える努力」も不可欠であることは否めない事実なのである。
教育者側がこれを如何に“自主学習派”ではなく自分自身で学習による「達成感」や「成功観」を得にくい個性を持つ子どもに乗り越えさせるか?
これこそが本記事の神髄である。
最後に原左都子の結論を述べよう。
それは、教育者の子どもへの「共感力」であろう。
我が子の「お抱え家庭教師」遍歴において私が最優先したのが、この「共感力」である。
とにかく、子どもと一緒に同一課題に目を通し子どもの横で一緒に問題を解くのである。(もちろん子どものペースに合わせることが鉄則なのだが。) そうすることにより、子どもも頑張ろうとする意欲が育まれるのを実感してきている私である。 教育者が上の立場からあれこれ下手な指導をしているだけでは、決して「共感力」とは生じてくるものではない。 教育者も子どもと一緒に同一課題に取り組むパフォーマンスこそが、子どもの新たな課題に対する「苦難を乗り越える努力」を育てる事を実証してきている原左都子である。
しかも、教育者と学習者である子どもとの「共感力」のコラボレーションの威力が、子どもの成長を経た後に子ども単独での学習習慣の創出にも繋がり、いずれは学習面において子ども一人で努力する土台が創り上げられることも我が子で実証済みである。
(ただし、これを成し遂げるには教育者側にこそ日々尋常ではない忍耐力が要求されるのだが。)
子どもの「学ぶ楽しさ」を創出し得るのは、何も目新しいアイデアを展開することではなく、教育者側の弛まざる努力と子どもへの「共感力」であるとの原左都子の今回の提案である。
教育者側の忍耐力の根源とは何かって?? それは子どもに対する「愛情」以外の何物でもないでしょうねえ~~
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hearts_pink.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/heart.gif)
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この広告の上段に小学4年生を対象とした「勉強が楽しいか」との設問の国際調査回答結果が掲載されているのだが、日本人の子どもが“勉強が楽しい”と思う割合は「算数」が34%、「理科」が57%と、両者共に国際平均値を下回っているようである。
紙面下段にはこの調査結果に対する当該学習塾の見解及び「楽しい学び」の提供が記載されているのだが、それによって生徒募集に繋げようとの思惑の広告である。
上記学習塾の見解については、この記事においては保留とさせていただこう。
そして、教職経験があり、さらに我が子幼少の頃より「お抱え家庭教師」として君臨し子どもの学習の面倒を身近に見てきた原左都子なりの「楽しい学び」の提案を試みることにしよう。
「楽しい学び」の提案をする以前の課題として、まず子どもの学習における「楽しさ」の解釈から議論を始める必要があろう。
いや、もっと根本的な命題として、「学習とは楽しくあらねばならないのか?」 との疑念さえもが私の頭をもたげてしまうのだ。
と言うのも、私自身が高校までの学校の勉強を「楽しい」と思ったことが皆無と言えるからである。 そんな私でも大学(及び大学院)での学問は大いに充実していたことに関してはバックナンバーに於いて再三述べているのに加え、学問・研究カテゴリーの記事も何本か綴って公開させていただいている。
いけしゃあしゃあと言わせていただくと、義務教育期間において私は学業成績優秀な児童、生徒であった。
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ただ、学習におけるプラスの感覚は幼少の頃より必ずや我が内面に存在していた。 それは「楽しい」との感覚とはニュアンスが異なる種の感情である。 「達成感」「成功観」と表現するべきであろうか、要するに“学習後”の我が脳裏へのフィードバック感覚としての快感が存在したのである。 これが自己の内面から湧き出てくるものであれ、成績や席次という他者から結果として表示されるものであれ、年端もいかない子どもの頃の私にとっては大いに次ステップの学習意欲をそそられたものであることは事実だ。
私の場合、物心ついた頃から母がフルタイムで仕事をしていたこともあり、家庭学習に関しては100%自主性のみに任されていた。 (田舎暮らしだったこともあって周囲に塾など一つも存在すらしないし、家庭教師のお世話になったことなども一切ない。) それでも何故に私が一人で健気に学習を続行し得たのかと言うと、それは私の生来の勤勉で律儀(?)
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ただ、私のように親が放っておいても“自主学習派”を貫く子どもとは至って少数派であろうと分析するのだ。 それは我が過去の教員経験、及び我が子を観察していて実感させられる思いである。
たとえば我が子の場合は、生まれ持っての若干の特殊事情がある。この特殊要因を抜きに考察しても、生命体の生来の性質や特性とは個々により大きく異なるのを実感させられる日々である。
生まれ持っての“自主学習派”とは程遠い個性を持つ子どもを捉まえて 「なんであんたは勉強しないの! よその子はやってるのに!」 と怒鳴りつける事ほど逆効果はない。 我が子の“自主学習派”ではない個性を早期に見抜いた私は、幼少の頃よりリビングルームに学習机を置き母自ら「お抱え家庭教師」として日々学習に付き合ったという訳である。
教える立場からの考察として、子どもが幼少の頃は確かに“学び”において“楽しさ”も見出し易いものである。 と言うよりも幼少時には子どもが“楽しめる”ことに主眼を置いて教育がなされるべきなのは教育の原理においても当然の事である。
ただ学習内容の進展と共に、どうしても“楽しさ”を超越した子ども本人の“努力”が要請されてくるものである。 教える側としてはこの時点こそが“踏ん張り処”であるのだ。
ここで少しだけ上記広告主である某学習塾の見解を紹介させていただくと、「知識重視ではなく、新しい発見を提案することで子どもの興味をそそる」との記載がある。
文言のみ読ませていただいた限りではごもっともの見解であられるのだが、一方で子どもの学習のさらなる進展を目指すためには新しい知識の習得は避けては通れないものである。 (おそらくこの学習塾の見解は「理科」を大いに対象として記載されたものであろうが。)
やはり、子どもの学習には「楽しさ」のみではない「苦難を乗り越える努力」も不可欠であることは否めない事実なのである。
教育者側がこれを如何に“自主学習派”ではなく自分自身で学習による「達成感」や「成功観」を得にくい個性を持つ子どもに乗り越えさせるか?
これこそが本記事の神髄である。
最後に原左都子の結論を述べよう。
それは、教育者の子どもへの「共感力」であろう。
我が子の「お抱え家庭教師」遍歴において私が最優先したのが、この「共感力」である。
とにかく、子どもと一緒に同一課題に目を通し子どもの横で一緒に問題を解くのである。(もちろん子どものペースに合わせることが鉄則なのだが。) そうすることにより、子どもも頑張ろうとする意欲が育まれるのを実感してきている私である。 教育者が上の立場からあれこれ下手な指導をしているだけでは、決して「共感力」とは生じてくるものではない。 教育者も子どもと一緒に同一課題に取り組むパフォーマンスこそが、子どもの新たな課題に対する「苦難を乗り越える努力」を育てる事を実証してきている原左都子である。
しかも、教育者と学習者である子どもとの「共感力」のコラボレーションの威力が、子どもの成長を経た後に子ども単独での学習習慣の創出にも繋がり、いずれは学習面において子ども一人で努力する土台が創り上げられることも我が子で実証済みである。
(ただし、これを成し遂げるには教育者側にこそ日々尋常ではない忍耐力が要求されるのだが。)
子どもの「学ぶ楽しさ」を創出し得るのは、何も目新しいアイデアを展開することではなく、教育者側の弛まざる努力と子どもへの「共感力」であるとの原左都子の今回の提案である。
教育者側の忍耐力の根源とは何かって?? それは子どもに対する「愛情」以外の何物でもないでしょうねえ~~
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