「原左都子エッセイ集」に於ける 「…何が悪い!?」シリーズもこれが6作目辺りか?
このエッセイシリーズにおいては、世間一般論として“悪い事”と既成概念化され定着している事象を取り上げ、それら一般論に対する我が反論論評を展開するべくエッセイを綴り公開してきている。
例えば、2008年4月に綴り公開した「学校が嫌いで何が悪い」など、公開後5年以上経過した今尚、我がエッセイ集のスタンダードナンバーの座を築き上げ日々数多くの閲覧を頂戴しているようだ。
(まさに「原左都子エッセイ集」の確固たる1位に君臨するバックナンバーですので、学校教育にご興味のない読者の皆様もよろしければご閲覧下さい。)
2011年7月に公開した「放射能から我が子を守って何が悪い!?!」 に関してその要点を反復すると、東日本大震災に伴って勃発した福島原発事故により、給食に出される放射能汚染食材を回避する目的で親が自ら作った弁当を子どもに持たせる家庭も多発した。 この親達の行動を「過剰反応だ!」と叩く世論に対して、「馬鹿なことを言うな! 親が我が子の安全を守って何が悪い!」と原左都子が噛み付いた内容である。
その後、2011年10月には「痩せすぎ女性が存在して何が悪い!?」、同じく11月には「感じが悪くて何が悪い!?」
そして、最近に至って2013年6月には「テンションが低くて何が悪い!?」と、我がエッセイ集に於いて「何が悪い!?」と銘打つバックナンバーが続く。
さて今回の「何が悪い!?」シリーズ第6段は、おそらく上記のバックナンバーに比して、世間への訴え力がやや低いか?と自覚しての公開である。
それでも一応高学歴(大学院修士課程を修了している身)の原左都子にとって、その経歴がある私の立場から世に発言したい思いもあり、以下に私論を展開させていただく事とする。(まあ、私の場合たかが大学院修士課程修了者ですから、博士課程修了者と比し、学歴が“高過ぎる”とまで表現するには語弊がある事は承知の上ですけど…。)
朝日新聞10月24日記事によると、「日本人、(仕事に必要以上に)学歴高すぎ?」とのことだ。
その記事の一部を以下に要約して紹介しよう。
仕事に必要な学歴より、自分の学歴の方が高い「オーバー・クオリフィケーション」の状態にある人が日本人では3割超。 OECD(経済協力開発機構)が23カ国の国・地域間での集計を発表した資料でそんな結果が出た。 一方、現在の仕事が自分の技能に見合っていると感じている人の読解力などの成績から、それぞれの仕事に必要なスキルを算出した結果、職場から求められるより高い成績を挙げた人物の比率は低い結果だった。
この結果について某大学教授は、「学歴がスキルの水準を示す指標として機能していない。高校や大学の質が保証されておらず、同じ学歴・スキルでもその分散が大きいのが日本の特徴」と指摘する。
あるいは某労働政策研究者は以下のように話す。「日本では、就職してから仕事を覚えていくスタイルが一般的。企業は潜在能力を求めるのでオーバー・クオリフィケーションの人が多くなる。 一方、一度就職システムからこぼれ落ちると、それなりのクオリフィケーションがあっても発揮する場が与えられない社会構造になっている。」
(以上、朝日新聞10月24日記事より一部を要約引用。)
ここで、原左都子の私事に移ろう。
私の場合20代当初の就職先は、大学で医学専門分野の学問とスキル(大学附属病院内での実地実習)を積んだ後に国家試験受験の上、国家資格取得を条件として民間企業への就職を志向し合格した。 すなわち、就職した当初より自分が学生時代に培ってきていた専門力に期待されての就業である。
とは言え我が就職先が病院等の医療機関ではなく、民間企業ならではの厳しい関門もあったかもしれない。 それでも私は当初の配属分野であった「免疫学」に関する大いなる向学心を煽られたものだ。 幸いな事に、大学現場での学業と民間企業内で要請される専門力との間にさほどの格差はなく、私は就職後の勤め先が欲する免疫学の知識を我が業績に重ねつつこの民間企業を十分に渡り歩いて来たと言える。
その後分野を文系に大幅に変え、新たな大学及び大学院へ入学し直し卒業・修了した私だ。
次なる我が専門分野とは、(最終結論を述べると)「経営法学」だった。 その学問力を活かし就業した先は高校教員なのだが、私は短期間ではあるがその職種経験を積んだ。 上記専門家氏が朝日新聞内で論評されているがごとく、「日本では就職してから仕事を覚えていくスタイルが一般的」なる常識を無視して、当時既に30歳代後半だった私は過去の民間企業経験や医学経験も活かしつつ、高校生達と触れ合いながら、「経営法学修士取得」で培った専門力を高校現場で十二分に発揮できた自負がある。
それでももうすぐ還暦を迎えようとしている私に、(私の専門力に応じた仕事を)快く提供してくれる職場など一切ないのが現状である事など十分に心得ている。(こちらが立場や賃金面で妥協すれば過去の専門力を活かせる仕事はこの世にあるのかもしれないが、私の方がその種の安易な妥協など御免蒙りたい思いだ。)
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
それでも分かるのだ。
今現在、就職難に立ち向かっている若者が置かれている理不尽な立場が。
要するに我が国日本に於いては過去の教育行政の失策故に、今になって尚「学歴」なるものの信憑性の程が不確実である事実を痛感させられる。
もしかしたら将来の職業に一切つながらない「文系」出身者を筆頭に、その就職不確実性が顕著ということであろう。 それを各種民間企業側が悪用して、採用後まもない時期から生産性に直結しない使い物にならない高学歴者をとっとと切り捨てている現状ではあるまいか? そうであるとしたならば、高学歴者を切り捨てる民間企業側の身勝手な論理も叩かれるべきということだ。
何はともあれ、自分の実力とは自分自身が本気になって磨こう。
学歴を身につけるのもその一端と志向して、私など30代半ば過ぎてから「大学院修士課程修了」の学位をゲットしたものだ。
我が意に基づく就職先には現在恵まれない(と言うよりも、私の場合自身の成長に結びつかない下手な就職を自ら回避しているのが事実だが)ものの、学位取得の経験とその実績は今尚私自身の生活上大いに役立っている。(自らの不動産賃貸管理、あるいは義母の財産税務管理等々において。)
学歴が高過ぎようと、自分自身が一生に渡りその学問経験を有効活用可能ならば何らの支障も無い事は元より、世間からバッシングされる筋合いなど皆無なのはもちろんの事だ!
このエッセイシリーズにおいては、世間一般論として“悪い事”と既成概念化され定着している事象を取り上げ、それら一般論に対する我が反論論評を展開するべくエッセイを綴り公開してきている。
例えば、2008年4月に綴り公開した「学校が嫌いで何が悪い」など、公開後5年以上経過した今尚、我がエッセイ集のスタンダードナンバーの座を築き上げ日々数多くの閲覧を頂戴しているようだ。
(まさに「原左都子エッセイ集」の確固たる1位に君臨するバックナンバーですので、学校教育にご興味のない読者の皆様もよろしければご閲覧下さい。)
2011年7月に公開した「放射能から我が子を守って何が悪い!?!」 に関してその要点を反復すると、東日本大震災に伴って勃発した福島原発事故により、給食に出される放射能汚染食材を回避する目的で親が自ら作った弁当を子どもに持たせる家庭も多発した。 この親達の行動を「過剰反応だ!」と叩く世論に対して、「馬鹿なことを言うな! 親が我が子の安全を守って何が悪い!」と原左都子が噛み付いた内容である。
その後、2011年10月には「痩せすぎ女性が存在して何が悪い!?」、同じく11月には「感じが悪くて何が悪い!?」
そして、最近に至って2013年6月には「テンションが低くて何が悪い!?」と、我がエッセイ集に於いて「何が悪い!?」と銘打つバックナンバーが続く。
さて今回の「何が悪い!?」シリーズ第6段は、おそらく上記のバックナンバーに比して、世間への訴え力がやや低いか?と自覚しての公開である。
それでも一応高学歴(大学院修士課程を修了している身)の原左都子にとって、その経歴がある私の立場から世に発言したい思いもあり、以下に私論を展開させていただく事とする。(まあ、私の場合たかが大学院修士課程修了者ですから、博士課程修了者と比し、学歴が“高過ぎる”とまで表現するには語弊がある事は承知の上ですけど…。)
朝日新聞10月24日記事によると、「日本人、(仕事に必要以上に)学歴高すぎ?」とのことだ。
その記事の一部を以下に要約して紹介しよう。
仕事に必要な学歴より、自分の学歴の方が高い「オーバー・クオリフィケーション」の状態にある人が日本人では3割超。 OECD(経済協力開発機構)が23カ国の国・地域間での集計を発表した資料でそんな結果が出た。 一方、現在の仕事が自分の技能に見合っていると感じている人の読解力などの成績から、それぞれの仕事に必要なスキルを算出した結果、職場から求められるより高い成績を挙げた人物の比率は低い結果だった。
この結果について某大学教授は、「学歴がスキルの水準を示す指標として機能していない。高校や大学の質が保証されておらず、同じ学歴・スキルでもその分散が大きいのが日本の特徴」と指摘する。
あるいは某労働政策研究者は以下のように話す。「日本では、就職してから仕事を覚えていくスタイルが一般的。企業は潜在能力を求めるのでオーバー・クオリフィケーションの人が多くなる。 一方、一度就職システムからこぼれ落ちると、それなりのクオリフィケーションがあっても発揮する場が与えられない社会構造になっている。」
(以上、朝日新聞10月24日記事より一部を要約引用。)
ここで、原左都子の私事に移ろう。
私の場合20代当初の就職先は、大学で医学専門分野の学問とスキル(大学附属病院内での実地実習)を積んだ後に国家試験受験の上、国家資格取得を条件として民間企業への就職を志向し合格した。 すなわち、就職した当初より自分が学生時代に培ってきていた専門力に期待されての就業である。
とは言え我が就職先が病院等の医療機関ではなく、民間企業ならではの厳しい関門もあったかもしれない。 それでも私は当初の配属分野であった「免疫学」に関する大いなる向学心を煽られたものだ。 幸いな事に、大学現場での学業と民間企業内で要請される専門力との間にさほどの格差はなく、私は就職後の勤め先が欲する免疫学の知識を我が業績に重ねつつこの民間企業を十分に渡り歩いて来たと言える。
その後分野を文系に大幅に変え、新たな大学及び大学院へ入学し直し卒業・修了した私だ。
次なる我が専門分野とは、(最終結論を述べると)「経営法学」だった。 その学問力を活かし就業した先は高校教員なのだが、私は短期間ではあるがその職種経験を積んだ。 上記専門家氏が朝日新聞内で論評されているがごとく、「日本では就職してから仕事を覚えていくスタイルが一般的」なる常識を無視して、当時既に30歳代後半だった私は過去の民間企業経験や医学経験も活かしつつ、高校生達と触れ合いながら、「経営法学修士取得」で培った専門力を高校現場で十二分に発揮できた自負がある。
それでももうすぐ還暦を迎えようとしている私に、(私の専門力に応じた仕事を)快く提供してくれる職場など一切ないのが現状である事など十分に心得ている。(こちらが立場や賃金面で妥協すれば過去の専門力を活かせる仕事はこの世にあるのかもしれないが、私の方がその種の安易な妥協など御免蒙りたい思いだ。)
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
それでも分かるのだ。
今現在、就職難に立ち向かっている若者が置かれている理不尽な立場が。
要するに我が国日本に於いては過去の教育行政の失策故に、今になって尚「学歴」なるものの信憑性の程が不確実である事実を痛感させられる。
もしかしたら将来の職業に一切つながらない「文系」出身者を筆頭に、その就職不確実性が顕著ということであろう。 それを各種民間企業側が悪用して、採用後まもない時期から生産性に直結しない使い物にならない高学歴者をとっとと切り捨てている現状ではあるまいか? そうであるとしたならば、高学歴者を切り捨てる民間企業側の身勝手な論理も叩かれるべきということだ。
何はともあれ、自分の実力とは自分自身が本気になって磨こう。
学歴を身につけるのもその一端と志向して、私など30代半ば過ぎてから「大学院修士課程修了」の学位をゲットしたものだ。
我が意に基づく就職先には現在恵まれない(と言うよりも、私の場合自身の成長に結びつかない下手な就職を自ら回避しているのが事実だが)ものの、学位取得の経験とその実績は今尚私自身の生活上大いに役立っている。(自らの不動産賃貸管理、あるいは義母の財産税務管理等々において。)
学歴が高過ぎようと、自分自身が一生に渡りその学問経験を有効活用可能ならば何らの支障も無い事は元より、世間からバッシングされる筋合いなど皆無なのはもちろんの事だ!