原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「人物本位入試」が掲げる“人物”善悪の基準って何??

2013年11月21日 | 教育・学校
 11月上旬頃、大学入試改革案として「人物本位」を政府教育再生実行会議が打ち出した記事を新聞で発見した。

 この記事の表題のみを一見した私は、咄嗟に、我が娘が高校時代に大学推薦を受けるに当たり、その“推薦基準”に関し学校面談時に担任相手に説明責任を迫った事を思い出した。

 私自身が高校教員経験者でもある立場にして多少大人気なかったかもしれないが、その内容を以下に紹介しよう。

 「高校による大学推薦に際し、貴校の場合は生徒の学業成績以外に“人物評価”も吟味していると聞く。 その“人物評価”に関してお尋ねしたい。 既に指定校推薦者は決定済みのようだが、如何なる“人物評価”基準によりそれを決定したのか? 我が家の娘は“指定校推薦”を得られなかった立場だが、学業成績に関してはその基準を満たしていると捉えている。 そうなると、娘の場合“人物評価”面で指定校推薦決定者より劣ったとの結論となろう。 それが得られた生徒との間に如何なる差異があったのかを明確に説明して欲しい。」 
 これに応えて担任曰く、「○さん(娘のことだが)の場合、高3直前に進路変更したことが最大のネックとなった。 指定校推薦を決めた他生徒の場合、もっと早くから当該大学の推薦を狙いずっと頑張り続けていたためこちらの生徒を推薦した。」
 分かったようで分からない解答ではあるが、要するに決して“人物評価”でお宅の娘さんが劣ったとは、担任の口からは発されなかったのだ。
 これには親として多少救われると同時に、親との面談の場で担任が“禁句”を発しないよう、よくぞまあ徹底的にマニュアル化されていると、当該私学の教員指導ぶりに根負けの思いも抱いた。

 ただ、元教育者である私は更に食い下がった。
 「娘が指定校推薦を得られなかった事由に関しては、一応納得しよう。 それはそれとして、推薦制度に於ける“人物評価”の不透明さを私は常々懸念している。 例えば、一基準として“リーダーシップ力”が挙げられるようだが、たかが10代の子どもの如何なる能力を持って“リーダーシップ力”が優れていると捉えるのか? 学校行事や部活動現場で生徒のトップに立って働いた生徒には“リーダーシップ力”があると判定するのか? それも一つのリーダーシップ力の芽かもしれないが、特に年齢が若い場合は本人が天然気質で無邪気に騒いでいるのみの要因も否定できなければ、単に学校現場にとって扱い易い生徒にしか過ぎない場合もあろう。 そうではなく、10代レベルでは表出し得ない“リーダーシップ特性”を水面下に内在している今だ未完成の生徒も数多く存在する現状を如何に評価出来るのであろうか?」 等々… 
 この私の問いかけに関して、おそらく担任は「今後の検討事項とします。」と応えたような気もするが、明確な回答は得られずに面談が終わったと判断する。


 私事が長引いたが、以下は冒頭に掲げた「人物本位入試」が実際に大学入試現場で実施されることの大いなる弊害の程を検証していこう。

 大学入試担当者の判断とて、高校現場の推薦制度とさほどの差異はないと捉えられる程の低レベルどころか、もっと劣悪な結果を導きそうな懸念を抱かされる。
 と言うのも高校現場での大学推薦とは必ずや保護者面談を通過せねばならないため、下手をすると私のような元教育者等手厳しい保護者より「その基準を明確にせよ!」と突かれる場面も想定可能であろう。

 片や、大学入試現場にまさか保護者がしゃしゃり出る訳にはいかない。 そうなると、大学入試担当者の“思う壺”となる。 一体全体如何なる“人物本位”基準で合格させたり振り落とされるかの明暗とは、入試担当者の勝手気ままな趣味によるしかないであろう事は誰しも想像が付く事態だ。
 この事態とは不透明性が高いと表現するより、試験委員の“好き放題”あるいは“学内で取り扱い易い受験生”を入学対象としている意図が目に見えるとの制度となろう。


 ここで、朝日新聞11月6日の文化面記事「『人物本位』入試の怪シサ フーコーらの議論から考える」なる記事の一部を要約して紹介しよう。

 戦後になって推薦入試やAO入試など学力本位ではない試験が次々と登場した。 この背景には学科の成績が悪くても逆転可能なことに着目する「下克上の欲望」があったとの理論を展開する学者氏が存在する。 
 そもそも試験制度が人間社会で如何なる意味を持つのか? との示唆に富む分析をしたのは20世紀フランス哲学者ミシェル・フーコー氏だ。 氏は近代の試験を「教育実践の中に組み込まれた観察の装置」と位置づけた。 フーコーは、学校のほかにも病院や監獄にも同じ機能があると見ていた。 このフーコーの分析を踏まえ、入試で「人物本位」が強制される場合、「監視装置としての試験の役割はより広がりを持つようになる」と話すのは某東大教授氏だ。 氏曰く、「勉強以外で何をしたの?と試験で問われた場合、「監視」の目が日常生活や心の内までに及ぶ可能性がある。 そもそも、“人物”とは言語化したり計量化したり出来ない領域のもの。 それを評価できると思い込んでいる事自体が問題である。」
 フーコーは一方で、権力からの強制が強まったとして、それを意に介さずのらりくらりと跳ね返す力もまた人間に備わっていると考えていたという。 


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 いやはや、時の政権は何故今さら教育再生実行会議において、無責任にも大学入試制度に「人物本位」なる新案を持ち出したのであろうか??
 この世のどこの誰がそれを見抜ける“神的能力”があると判断したのだろう??? 
 何だかせせら笑いたくなる制度としか表現できない有様だ。 上記のフーコーを手始めとして過去の哲学者達の教えを少しは学び直した後に、政権担当者が大学入試改革案を再び持ち出しても遅くはなかろう。

 人間の個性とは実に多様だ。
 大学進学時点で既に大学試験委員相手にアピールできる“程度”の人物像を描ける若者も、もしかしたら存在するのかもしれない。
 ただ、大方の若者とは社会に進出した後に自分の真の人生を刻み始めるのではなかろうか?

 大学とは入学してくる未熟な学生達に学問を享受させるべき府であるはずだ。

 それを基本と位置付け、大学の門をくぐる学生皆に学問を教授する能力を“大学側こそが”切磋琢磨して身につけるべく精進し直す事が先決問題であろう。
 それをクリア出来た時点で、政府は大学入試改革を叫んでも遅くはないと私論は捉える。