私には、米国在住の実姉がいる。
30年程前に国際結婚で米国に渡り永住権を取得した後、かの地の某日本総領事館に通訳として勤務しつつ、「日本には何の未練も無い。私はこの国に骨を埋める!」と日本の家族に伝え続けている。
姉は中学生の頃より、将来は「英語」分野に進むとの強靭な志望を抱いていた。
ところが何分過疎地のド田舎育ちのため、英語環境らしきものが周囲にほとんどない。 そんな逆境の中、我が姉は外国人神父氏がいるキリスト教会へ通い詰め自主的に英会話を学んだ。
そしてその後、姉は県内最高位進学校に進学を決めた後、第一志望だった某国立外国語大学に一発合格して更なる英語力を培っていく。
時が経過して、姉がその大学を卒業後“フリーの通訳”となり日本国内で開催される国際マラソン大会やユニバーシアードレベルの通訳をこなしていたそんなある日の事だ。
姉の日本人知人男性から厳しい指摘を受ける事と相成った。 ちょうどその席に居合わせた私は、その知人男性が言い放った言葉を今尚明瞭に記憶している。
「英語とはあくまでもツールに過ぎない。 ○子(姉のこと)がその英語力で将来一体何がしたいのか捉え処がない。 通常学問分野の専門力として英語を専攻した場合、その英語専門力をもってこそ自分の夢が描けたはずである。(例えば、国際会議レベルの同時通訳をしたい等々。) ところが○子の場合は未だにその夢の程が不明瞭だ。 単に外国に渡って生活をしたいレベルの英語力を欲していたのならば、それを学問として学ばなくとも事が足りたであろうに…。」
この手厳しい指摘を聞いた私は、大いにガッテンしたものだ。 確かに姉の英語力の程(一応「英検1級」や「通訳検定」等の資格は取得しているが)とは、大学にて学問として「英語」を学んだ割には私の感想としても中途半端感が否めない有様だ。
当時医学分野の民間企業で頑張っていた私だが、そんな私とて過去に学校で学んだ英語力を活かして仕事上医学英文論文を読むことなど日常茶飯事だった。 何も外国語大学を出ずとも、自分の専門分野ともなれば辞書を引きつつ論文を読むことに集中可能だ。
片や一旦外国語大学出身者ともなれば、学問としての「英語力」が社会から要求期待されるに決まっているではないか!
そんな我が姉だが、結局フリー通訳で知り合った米国男性と国際結婚の後米国に永住したとのいきさつである。
ただ我が姉が褒められるべきは、中学生の頃より長年培ってきている“英会話力”の程が米国領事館での通訳力をはじめ米国での日常生活に於いても十分通用している事態である。 これは私には絶対に真似の出来ない快挙と讃えるべきであろう。
話題を変えよう。
現在の進学高校現場では、公私を問わず「英語科」なるクラスが存在する実態だ。
実は我が娘が通っていた私立高校でも「英語科」コースが存在したのだが、その当時より保護者であった私はそのクラスの存在意義を疑問視していた。
まさに英語とは「ツール」に過ぎない。 にもかかわらず、その高校では英語科コースの生徒達を某国立外国語大学へ入学させる事のみに躍起になっていたものだ。 この現象こそが、我が姉が辿った道程を思い起こさせるものだった。
そうだね。 当該国立外国語大学等“いわゆる有名大学”へ所属生徒を一人でも多く入学させる事が高校側の目標であるのかもしれないね。
ところが、その先は「英語とはツールに過ぎない」現実を学生は突きつけられる運命にある。 それをどれ程に高校教育現場は理解した上で「英語科」コースを設けているのだろうか?
確かに、今現在日本国内にも多い「帰国子女」やハーフ生徒をそのコースに追い込むことは可能であろう。 ところが特に「帰国子女」とはわずか数年のみ外国へ渡りその間日本人学校へ通うケースが多いとも見聞する。 その英語力の程が如何なものか懸念せざるを得ない。
朝日新聞が、「英語をたどって」との連載記事をここのところ夕刊紙面で公開していたのをご存知であろうか?
11月21日の記事がその連載の最終回だったようだが、その内容に原左都子私論も一致するため以下にその一部を要約して紹介しよう。
日本人に英語力がない元凶に関して、「中高の教え方が悪い」と指摘する人が多い現実であろう。 さらには入試問題を考える大学も悪けりゃ、予備校も悪い。 いや、文科省こそが諸悪の根源だ。 TOEICを課す民間企業もバカなれば、英語教育産業とて同様の罪がある。 もっとも家庭の親どもが子どもに期待しすぎる。……
そんなことを言っていてもきりがない。
東京大学某教授は、「日本人にとって英語はものすごく難しい言語である」と表明している。 文法、語順、発音、文字すべてにおいて日本語とはまったく異なる文化と背景を持つ言語であることを表明している。 しかも日本人にとって日常生活上英語はほとんど必要でもない現状だ。 にもかかわらず、何故これ程現在の日本の子ども達に英語を要求するのか?
日本の子ども達とて、読むのは好き、話すのなら任せて、書くのは得意。 そんなふうに、得意不得意があって当然だ。日本語に於いてもそうなのに…。
今回の連載では、主張したり議論したりする経験自体が日本人には不足しているのではないかとの取材をしてきた。
英語教育をいくら勉強しても、そこに「言いたいこと」は書いていない。
言いたい事を言う力をまず鍛える。 日本語で出来ない事が英語で出来るはずはない。
(以上、朝日新聞記事より要約引用。)
最後に私論を述べよう。
まさに朝日新聞がおっしゃる通りである。
日本国民皆が言いたい事を言える力こそを、まずは国政は鍛えるべく努力するべきである。
それを叶えた時点で、中高学校教育現場に於いて「英語コース」なるものを設けても遅くはなかろう。 (英語とは単に「ツールでしかない」ことを肝に銘じて欲しいものだ。)
その上で大学に於ける学問としての「英語教育」に関しては、もっと専門力を上げる必然性があるのはもちろんの事だ。
決して「英語」を大学(及び大学院)に於いて専門としていた訳ではないこの私など、今現在尚、数十年前に過疎地の中高で学んだ英語力のみで世界(とは言っても大したことはないが…)を渡ってきているぞ。
年老いて英単語力が欠落している部分は「受験英単語集」を本棚から引っ張り出し紐解きつつ、結局は相手と話したい勢いのみで結構通じることを実感しながらのしがない英会話力範疇であるものの…
30年程前に国際結婚で米国に渡り永住権を取得した後、かの地の某日本総領事館に通訳として勤務しつつ、「日本には何の未練も無い。私はこの国に骨を埋める!」と日本の家族に伝え続けている。
姉は中学生の頃より、将来は「英語」分野に進むとの強靭な志望を抱いていた。
ところが何分過疎地のド田舎育ちのため、英語環境らしきものが周囲にほとんどない。 そんな逆境の中、我が姉は外国人神父氏がいるキリスト教会へ通い詰め自主的に英会話を学んだ。
そしてその後、姉は県内最高位進学校に進学を決めた後、第一志望だった某国立外国語大学に一発合格して更なる英語力を培っていく。
時が経過して、姉がその大学を卒業後“フリーの通訳”となり日本国内で開催される国際マラソン大会やユニバーシアードレベルの通訳をこなしていたそんなある日の事だ。
姉の日本人知人男性から厳しい指摘を受ける事と相成った。 ちょうどその席に居合わせた私は、その知人男性が言い放った言葉を今尚明瞭に記憶している。
「英語とはあくまでもツールに過ぎない。 ○子(姉のこと)がその英語力で将来一体何がしたいのか捉え処がない。 通常学問分野の専門力として英語を専攻した場合、その英語専門力をもってこそ自分の夢が描けたはずである。(例えば、国際会議レベルの同時通訳をしたい等々。) ところが○子の場合は未だにその夢の程が不明瞭だ。 単に外国に渡って生活をしたいレベルの英語力を欲していたのならば、それを学問として学ばなくとも事が足りたであろうに…。」
この手厳しい指摘を聞いた私は、大いにガッテンしたものだ。 確かに姉の英語力の程(一応「英検1級」や「通訳検定」等の資格は取得しているが)とは、大学にて学問として「英語」を学んだ割には私の感想としても中途半端感が否めない有様だ。
当時医学分野の民間企業で頑張っていた私だが、そんな私とて過去に学校で学んだ英語力を活かして仕事上医学英文論文を読むことなど日常茶飯事だった。 何も外国語大学を出ずとも、自分の専門分野ともなれば辞書を引きつつ論文を読むことに集中可能だ。
片や一旦外国語大学出身者ともなれば、学問としての「英語力」が社会から要求期待されるに決まっているではないか!
そんな我が姉だが、結局フリー通訳で知り合った米国男性と国際結婚の後米国に永住したとのいきさつである。
ただ我が姉が褒められるべきは、中学生の頃より長年培ってきている“英会話力”の程が米国領事館での通訳力をはじめ米国での日常生活に於いても十分通用している事態である。 これは私には絶対に真似の出来ない快挙と讃えるべきであろう。
話題を変えよう。
現在の進学高校現場では、公私を問わず「英語科」なるクラスが存在する実態だ。
実は我が娘が通っていた私立高校でも「英語科」コースが存在したのだが、その当時より保護者であった私はそのクラスの存在意義を疑問視していた。
まさに英語とは「ツール」に過ぎない。 にもかかわらず、その高校では英語科コースの生徒達を某国立外国語大学へ入学させる事のみに躍起になっていたものだ。 この現象こそが、我が姉が辿った道程を思い起こさせるものだった。
そうだね。 当該国立外国語大学等“いわゆる有名大学”へ所属生徒を一人でも多く入学させる事が高校側の目標であるのかもしれないね。
ところが、その先は「英語とはツールに過ぎない」現実を学生は突きつけられる運命にある。 それをどれ程に高校教育現場は理解した上で「英語科」コースを設けているのだろうか?
確かに、今現在日本国内にも多い「帰国子女」やハーフ生徒をそのコースに追い込むことは可能であろう。 ところが特に「帰国子女」とはわずか数年のみ外国へ渡りその間日本人学校へ通うケースが多いとも見聞する。 その英語力の程が如何なものか懸念せざるを得ない。
朝日新聞が、「英語をたどって」との連載記事をここのところ夕刊紙面で公開していたのをご存知であろうか?
11月21日の記事がその連載の最終回だったようだが、その内容に原左都子私論も一致するため以下にその一部を要約して紹介しよう。
日本人に英語力がない元凶に関して、「中高の教え方が悪い」と指摘する人が多い現実であろう。 さらには入試問題を考える大学も悪けりゃ、予備校も悪い。 いや、文科省こそが諸悪の根源だ。 TOEICを課す民間企業もバカなれば、英語教育産業とて同様の罪がある。 もっとも家庭の親どもが子どもに期待しすぎる。……
そんなことを言っていてもきりがない。
東京大学某教授は、「日本人にとって英語はものすごく難しい言語である」と表明している。 文法、語順、発音、文字すべてにおいて日本語とはまったく異なる文化と背景を持つ言語であることを表明している。 しかも日本人にとって日常生活上英語はほとんど必要でもない現状だ。 にもかかわらず、何故これ程現在の日本の子ども達に英語を要求するのか?
日本の子ども達とて、読むのは好き、話すのなら任せて、書くのは得意。 そんなふうに、得意不得意があって当然だ。日本語に於いてもそうなのに…。
今回の連載では、主張したり議論したりする経験自体が日本人には不足しているのではないかとの取材をしてきた。
英語教育をいくら勉強しても、そこに「言いたいこと」は書いていない。
言いたい事を言う力をまず鍛える。 日本語で出来ない事が英語で出来るはずはない。
(以上、朝日新聞記事より要約引用。)
最後に私論を述べよう。
まさに朝日新聞がおっしゃる通りである。
日本国民皆が言いたい事を言える力こそを、まずは国政は鍛えるべく努力するべきである。
それを叶えた時点で、中高学校教育現場に於いて「英語コース」なるものを設けても遅くはなかろう。 (英語とは単に「ツールでしかない」ことを肝に銘じて欲しいものだ。)
その上で大学に於ける学問としての「英語教育」に関しては、もっと専門力を上げる必然性があるのはもちろんの事だ。
決して「英語」を大学(及び大学院)に於いて専門としていた訳ではないこの私など、今現在尚、数十年前に過疎地の中高で学んだ英語力のみで世界(とは言っても大したことはないが…)を渡ってきているぞ。
年老いて英単語力が欠落している部分は「受験英単語集」を本棚から引っ張り出し紐解きつつ、結局は相手と話したい勢いのみで結構通じることを実感しながらのしがない英会話力範疇であるものの…