(写真は、朝日新聞2015.11.12夕刊記事 「壁はある。でも『対話したい』アートの橋」と題する記事の写真を転載したもの。 朝日新聞の写真説明によれば “「橋」を作った学生ら。手前が武蔵野美術大学で奥が朝鮮大学校” 朝日新聞デジタル版には動画も掲載されているそうだ。)
大学生関係のエッセイが続くが、一昨日“これぞ真の「異才」!”と感動させられる新聞記事に出会った。
前回のエッセイ内で、大学生を「小僧」「若造」との表現で揶揄したが、こんな骨も身もハートも実行力もある学生達が存在する事実に真に心を打たれる思いだ。
冒頭から話が大幅にズレるが、私事に入らせていただこう。
今となってはもう時効と判断するが故に明かすが、実は我が娘の高校2年生終盤頃までの第一志望大学が上記の武蔵野美術大学だった。
出産時のトラブルにより生まれ持って発達面に不具合を抱えていた娘故に、サリバン先生として娘幼少の頃より「お抱え家庭教師」に励んで来た母の私だ。
そんな娘の発育過程に於いて、ある特異的現象に気付いていた。 これに関し、2014.7.23公開バックナンバー「“色の後からものが見える”」に於いて綴っているため、以下にそのエッセイの一部を要約して紹介しよう。
何分産まれ持っての事情を抱えている我が娘だ。 発語は遅いし運動能力の開花も遅れている中、親として気付く“特異性”があった。
人より遅く歩き始めた娘をよく散歩に連れ出したのだが、未だほとんど発語のない娘が東武東上線の電車を指さして「ワイン」と言う。 最初何を言ったのか理解できなかったが、我々の前を通り過ぎる電車に塗られたラインカラーが娘の言う通り「ワイン色」である事に気付かない私ではなかった。 電車が走る事象よりも、この子は「色」に着目したものと、初めて我が娘の特質に気付かされた事件だった。
極めつけは、娘の発語が多少出て来た時点(おそらく2歳半頃)地下鉄(現在の東京メトロ有楽町線だが)に幾度か乗せた後、娘が地下鉄駅に着く直前に繰り返す。 「次は白」「次はピンク」「次は灰色」「次は虹色」等々と…。 地下鉄とは道中が真っ暗闇である。 そんな電車に乗せられた幼き娘の関心事とは、次に着く駅の「壁の色」だったとの事だ。 それにしてもよくぞまあ、地下鉄有楽町線内のすべての駅の壁色を記憶しているとは、親馬鹿ながら“天才”素質があるのではと驚かされたものである。
(当時の年齢で)20歳を過ぎた我が娘は今現在も、ものを“色”で表現する特質性から完全に抜け出ていないのが困りものだ。 例えば「お母さん、そのピンク取って!」 「お父さんが茶色を持って出かけた」等々…。
そんな娘の“色特異性”こそを芸術方面で活かそうと過去に於いて策略した親としての思いは、当の昔に挫折している。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を要約引用したもの。)
娘が小学4年に進級した頃より造形教室に通わせ、生徒個々の自由を尊重して下さる美術家先生の下で娘は造形美術にたしなむ事と相成った。 何をやらせても時間がかかる娘ながらも、主宰者先生の寛大さに支えられ、本人なりに楽しく制作に励んだ。
中学校に進学して後も当該造形教室にて「油絵」を自分のペースで描きつつ、娘の美大進学志望が徐々に現実的になった様子だ。
娘が高校生となり、いよいよ大学進学を目指す時点で娘に確認すると「美大」を第一志望として頑張りたいとの意向だったため、親として早速高1から高校放課後の夜間は美大予備校へ通わせた。
娘が高1になった暁に、武蔵野美術大学を第一志望大学としたいと言い始めた。 ならばサリバン母の私もその思いに付き合うのは当然の成り行きだ。
幾度となく(性懲りもなく)娘に付き合い、我が家からは決して近いとは言えない東京都下に位置する“武蔵美オープンキャンパス”を訪れている。 (おそらく年間3度程通っている事を計算すると、娘が美大受験をギブアップする高2の終盤まで6回程武蔵美に通ったことになろう。 (もちろん、第2、第3志望美大のオープンキャンパスへも親子で足繁く通い詰めたが。)
娘と共に6回も武蔵美オープンキャンパスに通ったサリバン親である原左都子にして、武蔵美のすぐ隣に「朝鮮大学」が存在していた事実を露知らなかった事実とは何たる失策!と、冒頭の朝日新聞記事を見て思い知ったのだ。
ここで、ウィキペディア情報により「朝鮮大学校」に関する情報のごく一部を紹介しよう。
朝鮮大学校は東京都小平市に本部を置く各種学校扱いの朝鮮学校の一つであり、朝鮮大学校は日本における朝鮮学校の最高教育機関に位置づけられる。 学校関係者は大学水準の教育を行っているとしているが、文部科学省から大学としての認可を受けていないため、法律上は各種学校の位置付けであり国内省庁が管轄している「省庁大学校」には該当しない。 開講科目は基本的に朝鮮語ですすめられるが、日本人教員も多く採用しており日本語の講義科目も多い。 在学生の大半が朝鮮高級学校の出身者であるが、一部日本の高校卒業生や高認合格者も在籍する。 朝鮮学校出身者以外の生徒は編入班と呼ばれるグループに入り(留学生別科に相当)、朝鮮語の習得などを行っている。 生徒には韓国籍、日本国籍の者も在籍している。 卒業生の進路は、朝鮮総聯職員、朝鮮学校教員などのほか、在日同胞企業などへの就職が多い。一方で他大学の学部、大学院進学者もおり、国内の大半の私立大学と一部を除く国公立大学は同校卒業生に大学院(法科大学院を含む)受験資格の門戸を開いている。
在学生の生活では全寮制を採用しており、一部寮生活が困難な者を除く全員が寄宿舎生活を行っている。部外者の普段のキャンパス内への入場は制限されており、訪問者は所定の手続きが求められる。
以前より、学園祭期間中にはキャンパスが開放され、近隣住民などでにぎわいを見せていた。しかし2007年に以降の学園祭は非公開とすることが決定された(2008年は悪天候のため学園祭は中止、2009年は校舎移転半世紀記念として一般にも公開された、だが今後の予定は未定である)
(以上、朝鮮大学校に関するウィキペディア情報より一部を引用したもの。)
これに対し、今秋明日に架けるアート像を描いたのが武蔵美及び朝鮮大学校の学生達だ。
「壁は確かにある」 でも、向こうにいる相手と対話したい。
そんな思いで武蔵美と朝大の学生達が、両大学間の敷地の境界にある一枚の壁ブロックに「橋」を架けるアートプロジェクトを完成させたとのニュースである。
お互いの気持ちをぶつけながら完成させたのが冒頭写真に紹介した「木の橋」だ。
この橋を造るにあたり、学生達の中から「いっそ壁を外そう」との意見も出たらしい。 その中、「双方の壁を認めた上での対話がしたい。この壁があってこその橋を架けたい。」との素晴らしいご意見での決着をみたとのことだ。
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
上記の事例の場合はまさに理想的な国際交流であるのは元より、大学現場に日々通っている現役学生の立場からこのような国際親善の提案が出て、それを大学現場で実行した(出来た)事実こそが実に素晴らしい!
繰り返すが、国家や大学現場が入試段階で18,9歳の若造の中から「異才」を集めたい等々と大騒ぎする以前の課題として、今回の学生達の国際交流の実態を参照してみてはどうなのか。
大学生関係のエッセイが続くが、一昨日“これぞ真の「異才」!”と感動させられる新聞記事に出会った。
前回のエッセイ内で、大学生を「小僧」「若造」との表現で揶揄したが、こんな骨も身もハートも実行力もある学生達が存在する事実に真に心を打たれる思いだ。
冒頭から話が大幅にズレるが、私事に入らせていただこう。
今となってはもう時効と判断するが故に明かすが、実は我が娘の高校2年生終盤頃までの第一志望大学が上記の武蔵野美術大学だった。
出産時のトラブルにより生まれ持って発達面に不具合を抱えていた娘故に、サリバン先生として娘幼少の頃より「お抱え家庭教師」に励んで来た母の私だ。
そんな娘の発育過程に於いて、ある特異的現象に気付いていた。 これに関し、2014.7.23公開バックナンバー「“色の後からものが見える”」に於いて綴っているため、以下にそのエッセイの一部を要約して紹介しよう。
何分産まれ持っての事情を抱えている我が娘だ。 発語は遅いし運動能力の開花も遅れている中、親として気付く“特異性”があった。
人より遅く歩き始めた娘をよく散歩に連れ出したのだが、未だほとんど発語のない娘が東武東上線の電車を指さして「ワイン」と言う。 最初何を言ったのか理解できなかったが、我々の前を通り過ぎる電車に塗られたラインカラーが娘の言う通り「ワイン色」である事に気付かない私ではなかった。 電車が走る事象よりも、この子は「色」に着目したものと、初めて我が娘の特質に気付かされた事件だった。
極めつけは、娘の発語が多少出て来た時点(おそらく2歳半頃)地下鉄(現在の東京メトロ有楽町線だが)に幾度か乗せた後、娘が地下鉄駅に着く直前に繰り返す。 「次は白」「次はピンク」「次は灰色」「次は虹色」等々と…。 地下鉄とは道中が真っ暗闇である。 そんな電車に乗せられた幼き娘の関心事とは、次に着く駅の「壁の色」だったとの事だ。 それにしてもよくぞまあ、地下鉄有楽町線内のすべての駅の壁色を記憶しているとは、親馬鹿ながら“天才”素質があるのではと驚かされたものである。
(当時の年齢で)20歳を過ぎた我が娘は今現在も、ものを“色”で表現する特質性から完全に抜け出ていないのが困りものだ。 例えば「お母さん、そのピンク取って!」 「お父さんが茶色を持って出かけた」等々…。
そんな娘の“色特異性”こそを芸術方面で活かそうと過去に於いて策略した親としての思いは、当の昔に挫折している。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を要約引用したもの。)
娘が小学4年に進級した頃より造形教室に通わせ、生徒個々の自由を尊重して下さる美術家先生の下で娘は造形美術にたしなむ事と相成った。 何をやらせても時間がかかる娘ながらも、主宰者先生の寛大さに支えられ、本人なりに楽しく制作に励んだ。
中学校に進学して後も当該造形教室にて「油絵」を自分のペースで描きつつ、娘の美大進学志望が徐々に現実的になった様子だ。
娘が高校生となり、いよいよ大学進学を目指す時点で娘に確認すると「美大」を第一志望として頑張りたいとの意向だったため、親として早速高1から高校放課後の夜間は美大予備校へ通わせた。
娘が高1になった暁に、武蔵野美術大学を第一志望大学としたいと言い始めた。 ならばサリバン母の私もその思いに付き合うのは当然の成り行きだ。
幾度となく(性懲りもなく)娘に付き合い、我が家からは決して近いとは言えない東京都下に位置する“武蔵美オープンキャンパス”を訪れている。 (おそらく年間3度程通っている事を計算すると、娘が美大受験をギブアップする高2の終盤まで6回程武蔵美に通ったことになろう。 (もちろん、第2、第3志望美大のオープンキャンパスへも親子で足繁く通い詰めたが。)
娘と共に6回も武蔵美オープンキャンパスに通ったサリバン親である原左都子にして、武蔵美のすぐ隣に「朝鮮大学」が存在していた事実を露知らなかった事実とは何たる失策!と、冒頭の朝日新聞記事を見て思い知ったのだ。
ここで、ウィキペディア情報により「朝鮮大学校」に関する情報のごく一部を紹介しよう。
朝鮮大学校は東京都小平市に本部を置く各種学校扱いの朝鮮学校の一つであり、朝鮮大学校は日本における朝鮮学校の最高教育機関に位置づけられる。 学校関係者は大学水準の教育を行っているとしているが、文部科学省から大学としての認可を受けていないため、法律上は各種学校の位置付けであり国内省庁が管轄している「省庁大学校」には該当しない。 開講科目は基本的に朝鮮語ですすめられるが、日本人教員も多く採用しており日本語の講義科目も多い。 在学生の大半が朝鮮高級学校の出身者であるが、一部日本の高校卒業生や高認合格者も在籍する。 朝鮮学校出身者以外の生徒は編入班と呼ばれるグループに入り(留学生別科に相当)、朝鮮語の習得などを行っている。 生徒には韓国籍、日本国籍の者も在籍している。 卒業生の進路は、朝鮮総聯職員、朝鮮学校教員などのほか、在日同胞企業などへの就職が多い。一方で他大学の学部、大学院進学者もおり、国内の大半の私立大学と一部を除く国公立大学は同校卒業生に大学院(法科大学院を含む)受験資格の門戸を開いている。
在学生の生活では全寮制を採用しており、一部寮生活が困難な者を除く全員が寄宿舎生活を行っている。部外者の普段のキャンパス内への入場は制限されており、訪問者は所定の手続きが求められる。
以前より、学園祭期間中にはキャンパスが開放され、近隣住民などでにぎわいを見せていた。しかし2007年に以降の学園祭は非公開とすることが決定された(2008年は悪天候のため学園祭は中止、2009年は校舎移転半世紀記念として一般にも公開された、だが今後の予定は未定である)
(以上、朝鮮大学校に関するウィキペディア情報より一部を引用したもの。)
これに対し、今秋明日に架けるアート像を描いたのが武蔵美及び朝鮮大学校の学生達だ。
「壁は確かにある」 でも、向こうにいる相手と対話したい。
そんな思いで武蔵美と朝大の学生達が、両大学間の敷地の境界にある一枚の壁ブロックに「橋」を架けるアートプロジェクトを完成させたとのニュースである。
お互いの気持ちをぶつけながら完成させたのが冒頭写真に紹介した「木の橋」だ。
この橋を造るにあたり、学生達の中から「いっそ壁を外そう」との意見も出たらしい。 その中、「双方の壁を認めた上での対話がしたい。この壁があってこその橋を架けたい。」との素晴らしいご意見での決着をみたとのことだ。
最後に、原左都子の私論でまとめよう。
上記の事例の場合はまさに理想的な国際交流であるのは元より、大学現場に日々通っている現役学生の立場からこのような国際親善の提案が出て、それを大学現場で実行した(出来た)事実こそが実に素晴らしい!
繰り返すが、国家や大学現場が入試段階で18,9歳の若造の中から「異才」を集めたい等々と大騒ぎする以前の課題として、今回の学生達の国際交流の実態を参照してみてはどうなのか。