私には、昭和の大女優 原節子氏に亡くなられては 我が身の半分を削がれるかのような大きな精神的痛手となる “とある理由” がある。
その理由に関して、「原左都子エッセイ集」2008.6.29バックナンバー 「原節子論」 にて記述しているため、以下に要約し今一度紹介させていただこう。
原節子氏が女優として活躍したのは私がこの世に生まれる以前が中心であるため、この私もその名はよく知れども現役時代の氏の活躍ぶりを全く知らない。
なのになぜ、今回「原節子」を本エッセイ集の記事として取り上げ論評しようとしているのかと言うと、実は私と原節子氏とはある共通点があるからだ。 個人情報保護上の理由によりその共通点が何であるかはここでは申し上げられないが、それのお陰で私は日頃得をすることが多いのである。
氏との共通点を介して見知らぬ方や初対面の人と会話がはずむ事がよくあるのだ。 まずは皆さん、その共通点を知ると間違いなく驚かれる。「へえ~、そうなんですか!」と。 先だっても歯科で診療中に歯科医先生と原節子談議になり、「私もファンだったのですが、私の恩師が原節子さんの後援会に入っていた程の大ファンで、どうのこうの……」とおっしゃる。 そして皆さん、例外なく異口同音に原節子氏を褒め称える。 絶世の美女であること、“永遠の処女”のキャッチフレーズが物語るように汚れなき清純なイメージであること、今で言う癒し系であること、等々…。
他にも世間を一斉風靡した女優や歌手は存在しなくはない。 が、それら人物は必ずやマイナスイメージをも伴っている。 それに対し、原節子氏にはマイナスイメージが一切ないのだ。 百人中百人が氏を絶賛するのだ。
そこで本エッセイにおいてはその存在を知る人が皆絶賛する昭和の大女優「原節子」を取り上げ、その魅力を探り分析してみたいと考える。 ただし、上述の通り何分私は現役時代の原節子氏を存じ上げないため、人からの伝え聞きや資料による分析とならざるを得ない。本文に不足や誤りを発見された方はコメント等で何なりとご指摘いただけたら幸いである。
それでは、「原節子」氏の魅力のポイントを絞りながら個々に分析していこう。
まず魅力の第一点。 絶世の美女である。
好みはあろうが、この女性を「美女ではない」と言う人はいないのではなかろうか。
原節子氏デビューの背景として、時代劇「河内山宗俊」の監督山中貞雄氏が、そのヒロイン像として“すべての無頼の男達が、この美しい瞳のためなら死んでもいいと思うような清純で可憐な女優”を条件にヒロインを捜し求めた挙句、当時まだ16歳の原節子を大抜擢したといういきさつがあるらしい。
顔立ちが洋風なのが特徴と私は捉える。もしかしたらハーフか?とも思われるような彫りの深さなのであるが、実際はどうなのであろうか。 1930年代後半の当時、海外との交流がまだまだ少ない時代背景の下、この原節子氏の斬新とも受け取れる洋風の風貌を日本男子がもてはやしたのであろう要素も考察できそうである。
そして魅力の第2点。 清純なイメージである。
日独合作映画「新しき土」(1937年)の撮影のために来日したA・ファンク監督は、上記の「河内山宗俊」の原節子を見てその映画のヒロインに抜擢したらしい。
“神聖にして犯すべからず(永遠の処女)の背光を帯びたまま今日に至っている”と言われるごとく、その後27年間の女優人生の銀幕作品すべてにおいて原節子氏は色褪せることなく初々しいままだそうだ。
プライベートにおいても、原節子氏にはスキャンダル的要因が一切ないようなのだ。 この頃既に、スキャンダラスな女優は何人か存在している。 原節子氏よりもう少し前の時代になるかもしれないが、岡田嘉子氏などはその最たる存在ではなかろうか。
やはり時代背景的に清純なイメージの女性が好まれたのであろう。 それにしても、デビューから27年後の引退までそのイメージを一貫して演じ抜いた原節子氏はやはり一種超越した存在であろうと私は捉える。 演技力のみではカバーしきれないご自身の生き様そのものがその役柄に投影され、清純な雰囲気を醸し出していたのであろうか。
最後に魅力の第3点。 “癒し系”である。
かなり以前に私の職場の上司から見聞した話であるが、原節子氏には汚れ役、穢れ役が一切なかったらしいのだ。 氏は女優人生27年間を通して潔い“麗人”であり続け、優しく微笑む美しい瞳をファンに投げかけ続けたのである。
長年に渡り一貫したプロ意識で自分のイメージを持続し通した原節子氏の右に出る女優は、古今東西に類をみないかもしれない。
そして理由を一切明かさず突然スクリーンから姿を消し、公の場にも姿を見せなくなったそうだ。 真実の姿が謎のまま“伝説の女優”として原節子は今なお語り継がれている。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより、一部を要約引用。)
今朝の原節子氏の突然の訃報には驚かされ、愕然とさせられた。
以下に、ネット情報よりその報道に関する記事を紹介しよう。
清純派の美人スターとして戦前戦後を通じて活躍した伝説の女優、原節子(はら・せつこ、本名・会田昌江=あいだ・まさえ)さんが、9月5日に肺炎のため死去していたことが、11月25日分かった。
95歳だった。 近親者で密葬を行った。 同居していたおいによると、原さんは8月中旬に入院するまでは、自宅の庭を散歩するなど元気だった。本人の希望で亡くなったことは伏せていたという。
戦後には、黒沢明監督「わが青春に悔なし」、吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」、今井正監督「青い山脈」など名匠の作品に出演、日本人離れした彫りの深い美貌とはつらつとした明るさで人気女優の地位を確立した。 特に小津安二郎監督「晩春」「東京物語」、成瀬巳喜男監督「めし」「山の音」などの名作で、知的で優しい成熟した女性像を演じ、名実ともにトップ女優になった。
(以上、ネット情報より一部を引用。)
昭和の大女優 原節子氏と “とある共通点” がある私だが、その美貌や淑女度には到底あやかれない。
せめて、95歳までの人生をまっとうされたその 長寿 に与りたいものである。
原節子は 永遠不滅だ!
その理由に関して、「原左都子エッセイ集」2008.6.29バックナンバー 「原節子論」 にて記述しているため、以下に要約し今一度紹介させていただこう。
原節子氏が女優として活躍したのは私がこの世に生まれる以前が中心であるため、この私もその名はよく知れども現役時代の氏の活躍ぶりを全く知らない。
なのになぜ、今回「原節子」を本エッセイ集の記事として取り上げ論評しようとしているのかと言うと、実は私と原節子氏とはある共通点があるからだ。 個人情報保護上の理由によりその共通点が何であるかはここでは申し上げられないが、それのお陰で私は日頃得をすることが多いのである。
氏との共通点を介して見知らぬ方や初対面の人と会話がはずむ事がよくあるのだ。 まずは皆さん、その共通点を知ると間違いなく驚かれる。「へえ~、そうなんですか!」と。 先だっても歯科で診療中に歯科医先生と原節子談議になり、「私もファンだったのですが、私の恩師が原節子さんの後援会に入っていた程の大ファンで、どうのこうの……」とおっしゃる。 そして皆さん、例外なく異口同音に原節子氏を褒め称える。 絶世の美女であること、“永遠の処女”のキャッチフレーズが物語るように汚れなき清純なイメージであること、今で言う癒し系であること、等々…。
他にも世間を一斉風靡した女優や歌手は存在しなくはない。 が、それら人物は必ずやマイナスイメージをも伴っている。 それに対し、原節子氏にはマイナスイメージが一切ないのだ。 百人中百人が氏を絶賛するのだ。
そこで本エッセイにおいてはその存在を知る人が皆絶賛する昭和の大女優「原節子」を取り上げ、その魅力を探り分析してみたいと考える。 ただし、上述の通り何分私は現役時代の原節子氏を存じ上げないため、人からの伝え聞きや資料による分析とならざるを得ない。本文に不足や誤りを発見された方はコメント等で何なりとご指摘いただけたら幸いである。
それでは、「原節子」氏の魅力のポイントを絞りながら個々に分析していこう。
まず魅力の第一点。 絶世の美女である。
好みはあろうが、この女性を「美女ではない」と言う人はいないのではなかろうか。
原節子氏デビューの背景として、時代劇「河内山宗俊」の監督山中貞雄氏が、そのヒロイン像として“すべての無頼の男達が、この美しい瞳のためなら死んでもいいと思うような清純で可憐な女優”を条件にヒロインを捜し求めた挙句、当時まだ16歳の原節子を大抜擢したといういきさつがあるらしい。
顔立ちが洋風なのが特徴と私は捉える。もしかしたらハーフか?とも思われるような彫りの深さなのであるが、実際はどうなのであろうか。 1930年代後半の当時、海外との交流がまだまだ少ない時代背景の下、この原節子氏の斬新とも受け取れる洋風の風貌を日本男子がもてはやしたのであろう要素も考察できそうである。
そして魅力の第2点。 清純なイメージである。
日独合作映画「新しき土」(1937年)の撮影のために来日したA・ファンク監督は、上記の「河内山宗俊」の原節子を見てその映画のヒロインに抜擢したらしい。
“神聖にして犯すべからず(永遠の処女)の背光を帯びたまま今日に至っている”と言われるごとく、その後27年間の女優人生の銀幕作品すべてにおいて原節子氏は色褪せることなく初々しいままだそうだ。
プライベートにおいても、原節子氏にはスキャンダル的要因が一切ないようなのだ。 この頃既に、スキャンダラスな女優は何人か存在している。 原節子氏よりもう少し前の時代になるかもしれないが、岡田嘉子氏などはその最たる存在ではなかろうか。
やはり時代背景的に清純なイメージの女性が好まれたのであろう。 それにしても、デビューから27年後の引退までそのイメージを一貫して演じ抜いた原節子氏はやはり一種超越した存在であろうと私は捉える。 演技力のみではカバーしきれないご自身の生き様そのものがその役柄に投影され、清純な雰囲気を醸し出していたのであろうか。
最後に魅力の第3点。 “癒し系”である。
かなり以前に私の職場の上司から見聞した話であるが、原節子氏には汚れ役、穢れ役が一切なかったらしいのだ。 氏は女優人生27年間を通して潔い“麗人”であり続け、優しく微笑む美しい瞳をファンに投げかけ続けたのである。
長年に渡り一貫したプロ意識で自分のイメージを持続し通した原節子氏の右に出る女優は、古今東西に類をみないかもしれない。
そして理由を一切明かさず突然スクリーンから姿を消し、公の場にも姿を見せなくなったそうだ。 真実の姿が謎のまま“伝説の女優”として原節子は今なお語り継がれている。
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより、一部を要約引用。)
今朝の原節子氏の突然の訃報には驚かされ、愕然とさせられた。
以下に、ネット情報よりその報道に関する記事を紹介しよう。
清純派の美人スターとして戦前戦後を通じて活躍した伝説の女優、原節子(はら・せつこ、本名・会田昌江=あいだ・まさえ)さんが、9月5日に肺炎のため死去していたことが、11月25日分かった。
95歳だった。 近親者で密葬を行った。 同居していたおいによると、原さんは8月中旬に入院するまでは、自宅の庭を散歩するなど元気だった。本人の希望で亡くなったことは伏せていたという。
戦後には、黒沢明監督「わが青春に悔なし」、吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」、今井正監督「青い山脈」など名匠の作品に出演、日本人離れした彫りの深い美貌とはつらつとした明るさで人気女優の地位を確立した。 特に小津安二郎監督「晩春」「東京物語」、成瀬巳喜男監督「めし」「山の音」などの名作で、知的で優しい成熟した女性像を演じ、名実ともにトップ女優になった。
(以上、ネット情報より一部を引用。)
昭和の大女優 原節子氏と “とある共通点” がある私だが、その美貌や淑女度には到底あやかれない。
せめて、95歳までの人生をまっとうされたその 長寿 に与りたいものである。
原節子は 永遠不滅だ!