原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

初夏の鎌倉・羽田・川崎方面小旅 ー 川崎工場地帯未来編 ー

2018年05月23日 | 旅行・グルメ
 (写真は、川崎マリエン外観。)



 以下に、ウィキペディア情報より、京浜工業地帯の歴史に関する文面の一部を引用しよう。

 明治30年代から明治40年代にかけて日本の工業は、繊維・製紙・食品などの軽工業から、鉄鋼・造船・機械などの重工業が中心に取って代わり始める。 重工業は軽工業とは違い、広大な敷地や多量の資源が必要となり、それを受け入れ送り出すための港も必要になる。
 東京は、明治期に越中島地先、芝田町(現:芝、田町)地先、芝車町(高輪)など、東京臨海部の埋め立てが始まっていった。 芝浦などの隅田川河口部や、荒川河口部なども次次と埋め立てられていき、運河が掘られていった。
 横浜・川崎は、明治期、横浜の鶴見区に、京浜工業地帯の生みの親と言われる浅野総一郎らが「鶴見埋立組合」(後の東亜建設工業)を設立し事業を開始した。 大正から昭和初期にかけて、今の神奈川区千若町・新浦島町・守屋町、鶴見区生麦・末広町・安善町、川崎市川崎区白石町・浅野町など、横浜・川崎地区に人工島を造成され、同時に運河が掘られた(これらを隔てていた運河は後に埋め立てられ、現在では陸続き)その後も土地の不足により、神奈川区出田町・恵比須町・宝町、鶴見区大黒町・末広町が埋め立てられる。埋め立てを行っている間にも様々な企業が集積し、工業地帯として発展を続けていった。
 大正期には第一次世界大戦の軍需で発展し、戦勝国である日本は好景気になった。この頃から、東京に集中していた工場群が横浜・川崎にも多く進出し始めてきた。 その後関東大震災を契機に、東京から工場が横浜・川崎へ移転し、京浜工業地帯は完全に横浜まで広がった。 震災前、三港周辺の工場群は独立していた。そのため横浜の実業家原三渓などは鶴見に火力発電所を作るために投資し、横浜と川崎を工業地帯化させ、次第に今のような工業地帯となっていった。
 満州事変が起こると、軍需産業がさらに成長した。 特に造船・自動車産業は政府に支援され、1933年には横浜市神奈川区宝町で日産自動車が創立した。 現在みなとみらいとなっているところは、かつて三菱重工業横浜造船所(現・三菱重工業横浜製作所)があった。



 原左都子の私見だが。 


 いやはや、工業地帯、特に京浜工業地帯とは、軽工業から重工業への移行、そして戦争に勝利する手段として活躍して来た歴史を、今更ながら思い起こさせてくれる。

 その目的のために東京湾の埋立て工事が実施され、運河が形成された歴史が感慨深い。

 大正期には第一次世界大戦の軍需で発展し、戦勝国である日本は好景気になった。この頃から東京に集中していた工場群が横浜・川崎にも多く進出し始めてきた、との記述だが。
 川崎工場地帯がその頃から活性化の道程を辿った(辿らざるを得なかった)ものと改めて実感だ。 

 その後関東大震災を契機に、東京から工場が横浜・川崎へ移転し、京浜工業地帯は完全に横浜まで広がった。  震災前は三港周辺の工場群は独立していたとの事。 そうだったんだねえ。


 そして、平成が後1年で終焉しようといている現在尚。

 日本一の工場地帯として君臨している川崎工場地帯の現状、という事なのだろう。
 そんな川崎工場地帯が、歴史を超越して現在の我が国の工業を支え成り立っている事実こそを称えるべきだろう。

 私が先週日曜に観賞した、川崎工場地帯のイルミネーションは実に煌びやかで美しかった!

 その陰で、どれだけの(陰なる)低賃金労働が果たされていることだろう。 
 我が娘などやっとこさ就職が叶った労働現場で同じような下働きをしている身として、何を感じただろうか??

 そこまで言えば、単なるサリバンの“取り越し苦労”かもしれないが。

 おそらく娘とも、他の観光客とも、大いなる“異質”の感慨深い思いを抱いた我が「川崎工場夜景見学」だった事に間違いない。

初夏の鎌倉・羽田・川崎方面小旅 ー 川崎工場地帯夜景編 3ー

2018年05月23日 | 旅行・グルメ
 (写真は、川崎工場地帯浮島地区の工場夜景。)


 
 この川崎浮島地区工場夜景は  絶景中の絶景 です!!

 私が撮影した上記写真は、バス移動中車内にてのデジカメ(それを使いこなす能力が私には無い)撮影のためピンボケ状態で残念ですが…… 

 この浮島地区夜景風景がバスの速度で10分間程続くのは、必見です!! 

 日本には工場地帯が数多けれど、川崎こそが国内最大級の工場地帯でしょう。

初夏の鎌倉・羽田・川崎方面小旅 ー 川崎工場地帯夜景編 2ー

2018年05月23日 | 旅行・グルメ
 (写真は、川崎工場地帯 川崎マリエン展望棟より撮影した南側??の風景。)


 詳細に関しては、後程時間がある時に追加します。
 (手前に緑に光って見えるのは、テニスコート。)



 以下は、2018.05.23 追加記載。


 ここで、「川崎マリエン」に関する情報をネットより引用して紹介しよう。

 「川崎マリエン」は、神奈川県川崎市川崎区東扇島にある公益社団法人川崎港振興協会が指定管理者として管理運営を行う会館で、市民と川崎港の交流を深めるため川崎市によって造られたコミュニティー施設の愛称です。(正式名称・川崎市港湾振興会館)
 「川崎マリエン」の愛称は、市民と港の交流を深め、市民の皆様に愛されるよう一般公募から生まれました。 親しみやすく分かりやすい愛称ということで、応募数959点の作品の中から、“世界に拡がる海の玄関”をイメージした「マリン」と「エントランス」の造語、「川崎マリエン」が採用となったものです。

 バスに同乗しておられた川崎市観光協会(??)の高齢男性(失礼!!)ガイド氏も、「川崎マリエン」名称の由来を力説されていたのが印象的だ。
 その高齢男性氏によれば、この展望棟はパリの凱旋門に真似て建築されたのだそうだ。

 確かに眺めのよい展望棟で、おそらく昼間に利用すると遠方まで展望可能であろう。

初夏の鎌倉・羽田・川崎方面小旅 ー 川崎工場地帯夜景編1ー

2018年05月23日 | 旅行・グルメ
 (写真は、川崎工場地帯 川崎マリエン展望棟にて撮影したスバル⦅車庫というべきか??⦆の風景。)



 説明文は、後程時間がある時に付け加える予定です。




 ここからは、2018.05.23 記述になります。

 今回の小旅の第一目的は、「川崎工場夜景見学」にあった。

 実は、我が娘が川崎駅前近くのビルに勤務(娘の所属企業本社は東京日本橋だが、現在川崎の企業へ出向中)している関係で、出向直後よりこの夜景見学に行きたがっていた。 
 ならば仕事の帰りにでも立ち寄れば?、といったところで片道1時間半の道程を帰宅せねばならない立場で、仕事帰りにそれをこなすには時間不足であろう。
 そこで、今回のバス利用の工場見学と相成った。


 ネット情報より、川崎工場地帯夜景に関する資料のひとつを紹介しよう。

 川崎市は京浜工業地帯の中心として、わが国の産業経済の発展を支えてきた都市です。 市内には、鉄鋼や化学、電機、精密機械、エレクトロニクス、情報通信、食品、科学技術等の多種多様な工場・事業所が集積するとともに、 そうした生産活動を支えているエネルギー関連の先進的な事業所も存在しています。それら工場や事業所の中には「日本初」、 「世界でも有数」といったように高度な生産・技術を持ち、世界に誇る製品を現在でも生み出しているところが少なくありません。
 近年、ものづくりの現場を訪ね、実際のモノづくりにふれ、モノづくりの大切さとモノづくりに携わる人々の心を学ぶという 「産業観光」への関心が社会的に高まっています。 実際、修学旅行でも産業観光を取り入れるところが目立ちはじめていますし、 一般のツアーでも産業観光の魅力を前面に出し、中高年層の方々を主体に集客に成功しているケースが見られはじめています。
 重化学工業から先端的な研究開発まで、またいわゆる産業文化財から実際に稼動している工場まで、それも知名度の高い企業が多く立地する川崎市は、 「産業観光」の魅力にあふれています。


 「川崎工場地帯見学」。
 これ、まさに素晴らしい「産業観光」の役割を担っている事を実感させられるツアーだった。

 工場群が稼働している昼間の観光を実施してもよさそうだが、それをするのは大いなる“業務の邪魔”となろう。 せめても夜間静まり返った工場群の見学を通して、その実態を垣間見たいものだ。
 (参考だが、平日夜間の工場見学ツアーは実施されていないようだ。)