(写真は、川崎マリエン外観。)
以下に、ウィキペディア情報より、京浜工業地帯の歴史に関する文面の一部を引用しよう。
明治30年代から明治40年代にかけて日本の工業は、繊維・製紙・食品などの軽工業から、鉄鋼・造船・機械などの重工業が中心に取って代わり始める。 重工業は軽工業とは違い、広大な敷地や多量の資源が必要となり、それを受け入れ送り出すための港も必要になる。
東京は、明治期に越中島地先、芝田町(現:芝、田町)地先、芝車町(高輪)など、東京臨海部の埋め立てが始まっていった。 芝浦などの隅田川河口部や、荒川河口部なども次次と埋め立てられていき、運河が掘られていった。
横浜・川崎は、明治期、横浜の鶴見区に、京浜工業地帯の生みの親と言われる浅野総一郎らが「鶴見埋立組合」(後の東亜建設工業)を設立し事業を開始した。 大正から昭和初期にかけて、今の神奈川区千若町・新浦島町・守屋町、鶴見区生麦・末広町・安善町、川崎市川崎区白石町・浅野町など、横浜・川崎地区に人工島を造成され、同時に運河が掘られた(これらを隔てていた運河は後に埋め立てられ、現在では陸続き)その後も土地の不足により、神奈川区出田町・恵比須町・宝町、鶴見区大黒町・末広町が埋め立てられる。埋め立てを行っている間にも様々な企業が集積し、工業地帯として発展を続けていった。
大正期には第一次世界大戦の軍需で発展し、戦勝国である日本は好景気になった。この頃から、東京に集中していた工場群が横浜・川崎にも多く進出し始めてきた。 その後関東大震災を契機に、東京から工場が横浜・川崎へ移転し、京浜工業地帯は完全に横浜まで広がった。 震災前、三港周辺の工場群は独立していた。そのため横浜の実業家原三渓などは鶴見に火力発電所を作るために投資し、横浜と川崎を工業地帯化させ、次第に今のような工業地帯となっていった。
満州事変が起こると、軍需産業がさらに成長した。 特に造船・自動車産業は政府に支援され、1933年には横浜市神奈川区宝町で日産自動車が創立した。 現在みなとみらいとなっているところは、かつて三菱重工業横浜造船所(現・三菱重工業横浜製作所)があった。
原左都子の私見だが。
いやはや、工業地帯、特に京浜工業地帯とは、軽工業から重工業への移行、そして戦争に勝利する手段として活躍して来た歴史を、今更ながら思い起こさせてくれる。
その目的のために東京湾の埋立て工事が実施され、運河が形成された歴史が感慨深い。
大正期には第一次世界大戦の軍需で発展し、戦勝国である日本は好景気になった。この頃から東京に集中していた工場群が横浜・川崎にも多く進出し始めてきた、との記述だが。
川崎工場地帯がその頃から活性化の道程を辿った(辿らざるを得なかった)ものと改めて実感だ。
その後関東大震災を契機に、東京から工場が横浜・川崎へ移転し、京浜工業地帯は完全に横浜まで広がった。 震災前は三港周辺の工場群は独立していたとの事。 そうだったんだねえ。
そして、平成が後1年で終焉しようといている現在尚。
日本一の工場地帯として君臨している川崎工場地帯の現状、という事なのだろう。
そんな川崎工場地帯が、歴史を超越して現在の我が国の工業を支え成り立っている事実こそを称えるべきだろう。
私が先週日曜に観賞した、川崎工場地帯のイルミネーションは実に煌びやかで美しかった!
その陰で、どれだけの(陰なる)低賃金労働が果たされていることだろう。
我が娘などやっとこさ就職が叶った労働現場で同じような下働きをしている身として、何を感じただろうか??
そこまで言えば、単なるサリバンの“取り越し苦労”かもしれないが。
おそらく娘とも、他の観光客とも、大いなる“異質”の感慨深い思いを抱いた我が「川崎工場夜景見学」だった事に間違いない。
以下に、ウィキペディア情報より、京浜工業地帯の歴史に関する文面の一部を引用しよう。
明治30年代から明治40年代にかけて日本の工業は、繊維・製紙・食品などの軽工業から、鉄鋼・造船・機械などの重工業が中心に取って代わり始める。 重工業は軽工業とは違い、広大な敷地や多量の資源が必要となり、それを受け入れ送り出すための港も必要になる。
東京は、明治期に越中島地先、芝田町(現:芝、田町)地先、芝車町(高輪)など、東京臨海部の埋め立てが始まっていった。 芝浦などの隅田川河口部や、荒川河口部なども次次と埋め立てられていき、運河が掘られていった。
横浜・川崎は、明治期、横浜の鶴見区に、京浜工業地帯の生みの親と言われる浅野総一郎らが「鶴見埋立組合」(後の東亜建設工業)を設立し事業を開始した。 大正から昭和初期にかけて、今の神奈川区千若町・新浦島町・守屋町、鶴見区生麦・末広町・安善町、川崎市川崎区白石町・浅野町など、横浜・川崎地区に人工島を造成され、同時に運河が掘られた(これらを隔てていた運河は後に埋め立てられ、現在では陸続き)その後も土地の不足により、神奈川区出田町・恵比須町・宝町、鶴見区大黒町・末広町が埋め立てられる。埋め立てを行っている間にも様々な企業が集積し、工業地帯として発展を続けていった。
大正期には第一次世界大戦の軍需で発展し、戦勝国である日本は好景気になった。この頃から、東京に集中していた工場群が横浜・川崎にも多く進出し始めてきた。 その後関東大震災を契機に、東京から工場が横浜・川崎へ移転し、京浜工業地帯は完全に横浜まで広がった。 震災前、三港周辺の工場群は独立していた。そのため横浜の実業家原三渓などは鶴見に火力発電所を作るために投資し、横浜と川崎を工業地帯化させ、次第に今のような工業地帯となっていった。
満州事変が起こると、軍需産業がさらに成長した。 特に造船・自動車産業は政府に支援され、1933年には横浜市神奈川区宝町で日産自動車が創立した。 現在みなとみらいとなっているところは、かつて三菱重工業横浜造船所(現・三菱重工業横浜製作所)があった。
原左都子の私見だが。
いやはや、工業地帯、特に京浜工業地帯とは、軽工業から重工業への移行、そして戦争に勝利する手段として活躍して来た歴史を、今更ながら思い起こさせてくれる。
その目的のために東京湾の埋立て工事が実施され、運河が形成された歴史が感慨深い。
大正期には第一次世界大戦の軍需で発展し、戦勝国である日本は好景気になった。この頃から東京に集中していた工場群が横浜・川崎にも多く進出し始めてきた、との記述だが。
川崎工場地帯がその頃から活性化の道程を辿った(辿らざるを得なかった)ものと改めて実感だ。
その後関東大震災を契機に、東京から工場が横浜・川崎へ移転し、京浜工業地帯は完全に横浜まで広がった。 震災前は三港周辺の工場群は独立していたとの事。 そうだったんだねえ。
そして、平成が後1年で終焉しようといている現在尚。
日本一の工場地帯として君臨している川崎工場地帯の現状、という事なのだろう。
そんな川崎工場地帯が、歴史を超越して現在の我が国の工業を支え成り立っている事実こそを称えるべきだろう。
私が先週日曜に観賞した、川崎工場地帯のイルミネーションは実に煌びやかで美しかった!
その陰で、どれだけの(陰なる)低賃金労働が果たされていることだろう。
我が娘などやっとこさ就職が叶った労働現場で同じような下働きをしている身として、何を感じただろうか??
そこまで言えば、単なるサリバンの“取り越し苦労”かもしれないが。
おそらく娘とも、他の観光客とも、大いなる“異質”の感慨深い思いを抱いた我が「川崎工場夜景見学」だった事に間違いない。