2,3週程前(連休中?)の事だっただろうか。
どうも体調が悪い時期だった。 その日の午後はランニング練習を予定していたのだが、気乗りしないまま……
自宅のテレビにてNHK昼のニュースとドラマの後、珍しくその時間帯にドラマの再放送が放映された。
セクシャルマイノリティ(LGBTとも表現されているようだが)を扱ったドラマであり、その予告編を見た記憶はあった。
元力士の把瑠都が準主役で出演していたのだが、予告編で垣間見るになかなかの演技力の様子だった。
ここで余談だが。
今から遡る事数年前に、私は把瑠都が現役時代に “目が合った”
ことがある。
いえいえ、私は決して大相撲ファンという訳ではない。
娘が未だ高校生時代に美大受験を志望していた頃(その後我が娘は美大予備校のデッサンでつまずき大学の進路を大幅に変更)、サリバンの私は昼間美術の勉強のため、一人で都内の美術館・博物館等に足繁く通った時期があるのだ。
JR総武線 両国駅間近に両国国技館があり、その隣が江戸東京博物館だ。 この江戸東京博物館が結構私のお気に入りで、3度程鑑賞に行った。
その際、お隣の国技館内構内外庭を闊歩している力士達をよく見かけた。 ところが何分相撲ファンではないため、ほとんどは誰が誰だか見分けがつかない。
そんな中、把瑠都だけは、よ~~~く分かった! (えーーー!、実物は予想以上に“いい男だねえ!!)
などと感動しつつずっと見ていると、把瑠都もそれに気付いた様子でこちらを見てくれるではないか! その時、私以外に誰もいないシチュエーションだ。
後で思えば、ひと声かけるとかせめて手を振ればよかったのかもしれないが、そのまま10秒程が経過し把瑠都は国技館の中へ消え去った。
その把瑠都もこのドラマに出演している事だし、私はその後3時間半程、そのNHKドラマに見入った。
ここで、セクシャル・マイノリティ(LGBT)に関して以下にネット情報より引用しよう。
セクシュアル・マイノリティとは、現在の社会のなかで「これが普通」「こうあるべき」だと思われている「性のあり方」に当てはまらない人たちのことを、まとめて指す総称のことです。
「性のあり方」には、いろいろな側面があります。 生物学的にオスであるかメスであるか(=セックス)という問いにかぎらず、社会的にどのような性役割(=ジェンダー)を持って生きているのか、あるいは誰とどのような恋愛や性愛の関係を持つのか/持たないのか(=セクシュアリティ)、ということなどの「さまざまな要素」が複雑に絡んでいます。
これらの要素は、個人の意思では変えることができない(「好きでやっているんでしょ」とは言えないような)部分を多く含んでいます。 「性のあり方」は個人の尊厳に根本的に関わってくる問題として、個々人のあり方に目を向ける姿勢が大切です。
わたしたちの社会には「性のあり方」をめぐる、さまざまな「これが普通」「こうあるべき」といった規範があります。そのなかでも、もっとも強烈なものは、「この社会には男と女しかいない(そして、それは身体の性別で生まれつき定められている)」ということと、「人は誰しも異性を好きになるものだ」というものです。これらの規範からはずれている人たちを、狭義でセクシュアル・マイノリティと呼びます。
(以上、ネット情報より一部を引用したもの。)
引き続き、NHKネット情報より上記ドラマに関する文章の一部を以下に引用しておこう。
2018年3月のプレミアムドラマは、LGBTという現代的かつ繊細な題材でありながら、心がほっこり温まる、今までにないホームドラマをお贈りします。 原作は、田亀源五郎さんの漫画『弟の夫』。男女を問わず幅広い読者層から支持され、2015年文化庁メディア芸術祭でマンガ部門優秀賞を受賞した作品です。
主人公を演じるのは、佐藤隆太さん。 弟の結婚相手役に、元・大関でタレントの把瑠都さん。 父と幼い娘、そして弟のパートナーだった男性との風変わりな共同生活を通して、「人と人はどこまで分かり合えるのだろうか」「“家族”とは」といったメッセージをさりげなく、でもじんわりと深く、描きます。
【あらすじ】 小学生の娘を男手ひとつで育てる折口弥一(佐藤隆太)のもとに、突然、髭もじゃの外国人の男が訪ねて来る。弥一には双子の弟・涼二がいたが、ずいぶん前にカナダへ移住し、ほぼ絶縁状態となっていた。 その弟が、亡くなったという。 そして目の前の男性・マイク(把瑠都)は弟の“夫”、つまり同性婚の相手だった――
しばらく弥一の家に滞在することになったマイクだが、弥一はゲイに対する偏見がぬぐえず、どう接していいか戸惑い、いらだってしまう。 しかし、娘といち早く打ちとけるマイクの人柄や、従来の夫婦観・家族観にとらわれない考え方に触れるうち、だんだんと彼を受け入れていく。 離婚した妻をも巻き込み、折口家に新しい“風”が吹き始めるが、それは同時に、周囲の人々との間に波紋を巻き起こす事でもあった。 そしてマイクには、弥一に伝えねばならない亡き涼二との“ある約束”があった・・・
(以下省略するが、NHKネット情報より引用したもの。)
一旦、私見に入ろう。
何ともよく出来たドラマであり、3時間半があっという間に過ぎる程に私は見入ってしまった。
もともと原作自体が優れているのであろうが、それを演じ抜いた出演役者氏達にも恵まれ、このドラマが描こうとした“セクシャルマイノリティ”の現実像を社会に訴える力は多大だったと私は評価したい。
私事に入るが。
実は私は、現実世界にゲイ同士でお付き合いをしているカップルの存在を知っている。
最初にお会いした時には、二人は友達同士との自己紹介だったが、そのうちそうではない事が判明するのは時間の問題だった。
ただ私の感覚としては、二人の関係が羨ましい程だった。 何と言っても、二人の信頼関係の程が素晴らしいのだ。 付き合う相手の性別はともかく、これ程までに信頼関係を築けている二者関係を羨やみたくもなるのが人情というものではなかろうか。
というのも、この私自身が徹底した集団嫌いだ。 出来れは人間関係は1対1でこなしたい思いが昔から根強い人間である。
私の場合、決してセクシャルマイノリティ資質は持ち合わせておらず、恋愛関係に於いて絶対的に“男好き”人種であると言い切れる。
それでも人とお付き合いする場合、男女関係なく“1対1”でとことん語り合える二者関係を昔から現在に至って志向し続けている。
最後に、セクシャルマイノリティに関する私論でまとめよう。
セクシャルマイノリティ(LGBT)を議論する場合、特にそれを決して認めない社会風潮が根強い我が国日本の場合、何がネックになるのかといえば。
NHKドラマが訴えた通り、例えば両者が「婚姻」に至ろうとする場合、それを身近な親族を筆頭として周囲が認めないどころか……。
その事実に嫌悪感を抱いたり、はたまた好奇心等々歪んだまなざしを一般庶民が向けてしまうところに大いなるネックがあることだろう。
世界規模で考察するに、今現在セクシャルマイノリティ者同士の婚姻を正式に公認している国家自治体は数多い。
それを認可している国家自治体程、その現状に対する市民間での認知・応援が進んでいる実態が読み取れる。
我が国日本は、その分野では後進国なのであろう。
ただ、人が人間たる原点に返った場合。 特に恋愛・婚姻に於いては、性別に限らず 「両人が幸せならば周囲が祝福する」。
これ、実に簡単なことであり、至って当然のことであるはずだ。
(えっ? 何? 人口減少問題?? それはまたの機会に回しませんか!?! )
どうも体調が悪い時期だった。 その日の午後はランニング練習を予定していたのだが、気乗りしないまま……
自宅のテレビにてNHK昼のニュースとドラマの後、珍しくその時間帯にドラマの再放送が放映された。
セクシャルマイノリティ(LGBTとも表現されているようだが)を扱ったドラマであり、その予告編を見た記憶はあった。
元力士の把瑠都が準主役で出演していたのだが、予告編で垣間見るになかなかの演技力の様子だった。
ここで余談だが。
今から遡る事数年前に、私は把瑠都が現役時代に “目が合った”

いえいえ、私は決して大相撲ファンという訳ではない。
娘が未だ高校生時代に美大受験を志望していた頃(その後我が娘は美大予備校のデッサンでつまずき大学の進路を大幅に変更)、サリバンの私は昼間美術の勉強のため、一人で都内の美術館・博物館等に足繁く通った時期があるのだ。
JR総武線 両国駅間近に両国国技館があり、その隣が江戸東京博物館だ。 この江戸東京博物館が結構私のお気に入りで、3度程鑑賞に行った。
その際、お隣の国技館内構内外庭を闊歩している力士達をよく見かけた。 ところが何分相撲ファンではないため、ほとんどは誰が誰だか見分けがつかない。
そんな中、把瑠都だけは、よ~~~く分かった! (えーーー!、実物は予想以上に“いい男だねえ!!)

後で思えば、ひと声かけるとかせめて手を振ればよかったのかもしれないが、そのまま10秒程が経過し把瑠都は国技館の中へ消え去った。

その把瑠都もこのドラマに出演している事だし、私はその後3時間半程、そのNHKドラマに見入った。
ここで、セクシャル・マイノリティ(LGBT)に関して以下にネット情報より引用しよう。
セクシュアル・マイノリティとは、現在の社会のなかで「これが普通」「こうあるべき」だと思われている「性のあり方」に当てはまらない人たちのことを、まとめて指す総称のことです。
「性のあり方」には、いろいろな側面があります。 生物学的にオスであるかメスであるか(=セックス)という問いにかぎらず、社会的にどのような性役割(=ジェンダー)を持って生きているのか、あるいは誰とどのような恋愛や性愛の関係を持つのか/持たないのか(=セクシュアリティ)、ということなどの「さまざまな要素」が複雑に絡んでいます。
これらの要素は、個人の意思では変えることができない(「好きでやっているんでしょ」とは言えないような)部分を多く含んでいます。 「性のあり方」は個人の尊厳に根本的に関わってくる問題として、個々人のあり方に目を向ける姿勢が大切です。
わたしたちの社会には「性のあり方」をめぐる、さまざまな「これが普通」「こうあるべき」といった規範があります。そのなかでも、もっとも強烈なものは、「この社会には男と女しかいない(そして、それは身体の性別で生まれつき定められている)」ということと、「人は誰しも異性を好きになるものだ」というものです。これらの規範からはずれている人たちを、狭義でセクシュアル・マイノリティと呼びます。
(以上、ネット情報より一部を引用したもの。)
引き続き、NHKネット情報より上記ドラマに関する文章の一部を以下に引用しておこう。
2018年3月のプレミアムドラマは、LGBTという現代的かつ繊細な題材でありながら、心がほっこり温まる、今までにないホームドラマをお贈りします。 原作は、田亀源五郎さんの漫画『弟の夫』。男女を問わず幅広い読者層から支持され、2015年文化庁メディア芸術祭でマンガ部門優秀賞を受賞した作品です。
主人公を演じるのは、佐藤隆太さん。 弟の結婚相手役に、元・大関でタレントの把瑠都さん。 父と幼い娘、そして弟のパートナーだった男性との風変わりな共同生活を通して、「人と人はどこまで分かり合えるのだろうか」「“家族”とは」といったメッセージをさりげなく、でもじんわりと深く、描きます。
【あらすじ】 小学生の娘を男手ひとつで育てる折口弥一(佐藤隆太)のもとに、突然、髭もじゃの外国人の男が訪ねて来る。弥一には双子の弟・涼二がいたが、ずいぶん前にカナダへ移住し、ほぼ絶縁状態となっていた。 その弟が、亡くなったという。 そして目の前の男性・マイク(把瑠都)は弟の“夫”、つまり同性婚の相手だった――
しばらく弥一の家に滞在することになったマイクだが、弥一はゲイに対する偏見がぬぐえず、どう接していいか戸惑い、いらだってしまう。 しかし、娘といち早く打ちとけるマイクの人柄や、従来の夫婦観・家族観にとらわれない考え方に触れるうち、だんだんと彼を受け入れていく。 離婚した妻をも巻き込み、折口家に新しい“風”が吹き始めるが、それは同時に、周囲の人々との間に波紋を巻き起こす事でもあった。 そしてマイクには、弥一に伝えねばならない亡き涼二との“ある約束”があった・・・
(以下省略するが、NHKネット情報より引用したもの。)
一旦、私見に入ろう。
何ともよく出来たドラマであり、3時間半があっという間に過ぎる程に私は見入ってしまった。
もともと原作自体が優れているのであろうが、それを演じ抜いた出演役者氏達にも恵まれ、このドラマが描こうとした“セクシャルマイノリティ”の現実像を社会に訴える力は多大だったと私は評価したい。

私事に入るが。
実は私は、現実世界にゲイ同士でお付き合いをしているカップルの存在を知っている。
最初にお会いした時には、二人は友達同士との自己紹介だったが、そのうちそうではない事が判明するのは時間の問題だった。
ただ私の感覚としては、二人の関係が羨ましい程だった。 何と言っても、二人の信頼関係の程が素晴らしいのだ。 付き合う相手の性別はともかく、これ程までに信頼関係を築けている二者関係を羨やみたくもなるのが人情というものではなかろうか。
というのも、この私自身が徹底した集団嫌いだ。 出来れは人間関係は1対1でこなしたい思いが昔から根強い人間である。
私の場合、決してセクシャルマイノリティ資質は持ち合わせておらず、恋愛関係に於いて絶対的に“男好き”人種であると言い切れる。
それでも人とお付き合いする場合、男女関係なく“1対1”でとことん語り合える二者関係を昔から現在に至って志向し続けている。
最後に、セクシャルマイノリティに関する私論でまとめよう。
セクシャルマイノリティ(LGBT)を議論する場合、特にそれを決して認めない社会風潮が根強い我が国日本の場合、何がネックになるのかといえば。
NHKドラマが訴えた通り、例えば両者が「婚姻」に至ろうとする場合、それを身近な親族を筆頭として周囲が認めないどころか……。
その事実に嫌悪感を抱いたり、はたまた好奇心等々歪んだまなざしを一般庶民が向けてしまうところに大いなるネックがあることだろう。
世界規模で考察するに、今現在セクシャルマイノリティ者同士の婚姻を正式に公認している国家自治体は数多い。
それを認可している国家自治体程、その現状に対する市民間での認知・応援が進んでいる実態が読み取れる。
我が国日本は、その分野では後進国なのであろう。
ただ、人が人間たる原点に返った場合。 特に恋愛・婚姻に於いては、性別に限らず 「両人が幸せならば周囲が祝福する」。
これ、実に簡単なことであり、至って当然のことであるはずだ。

(えっ? 何? 人口減少問題?? それはまたの機会に回しませんか!?! )