原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“ミニスカおばさん” の映像

2021年01月12日 | 自己実現
 (冒頭写真は、当「原左都子エッセイ集」を開設した当初期の我が“ミニスカおばさん”の映像。 当時所有していたガラケーにより鏡に映った我が全身像を自撮りしたもの。)


              
 こちらは、2008.08に同じくガラケーにて鏡に映った映像を自撮りしたもの。 (我が50代前半期の映像。 衣装は娘のワンピースを借りて撮影。

 両者とも、過去の「原左都子エッセイ集」にて公開しています。

 参考だが、現在もこの頃と体型はほとんど変化無し。この頃からジム通いと
ランニング練習を開始したため、むしろ現在の方が足に筋肉が付いているだろう。



 昨日のエッセイにて、ツイッターに載っている“ミニスカおばさんの5流オピニオンブログ”に関して公開したが。
 おそらくツイッターにて「原左都子エッセイ集」を取り上げ、上記の文言のツイートをした人物とは、本エッセイ集にてこれらの写真をご覧になってのコメントと想像する。



 ついでに、2009.02.08付公開の「超ミニの群像」と題するバックナンバーの一部を、以下に引用しておこう。

 私も昔からミニスカートが大好きな人間である。
 ギスギスに痩せたミニスカートの元祖スーパーモデル“ツイッギー”が世界を一斉風靡した頃から、私もミニスカートに慣れ親しみ、既にウン十年の年月が流れている。

 私の年齢になると、日頃出歩いている街中を超ミニで公衆の面前を闊歩するのはさすがに気が引ける。そこで私が普段愛用するのは、膝上数センチ程度の控えめな丈のミニスカートに限定される。

 そんな私も海外旅行などに出かけると、周囲の迷惑を顧みず、今尚上記写真位の超ミニ姿を披露させていただいたりする。
 先だってのインド旅行における美術賞の受賞式典にも、超ミニのドレスで出席させていただいた。ホテルを出発前に、受賞当事者である女性の美術家先生が、同行者である私のその超ミニ姿を見るなり、「本気なの???」と唖然とされたものである。(美術家先生、その節はお騒がせ致しました。何事も無く式典が終了し何よりでした。)

 話が大きく変わるが、先だって2月6日(金)の朝日新聞夕刊に「雪道新潟 超ミニの謎」と題する、女子高校生の制服の超ミニ現象について取り上げた記事があった。 この記事には真冬の雪道を歩く超ミニ制服の女子高生の後姿の写真が添付されているのだが、そのあわらに露出された生身の太股を見るだけで、寒そうなのと、大変失礼ながら一種の“不快感”で震え上がった私である。

 では、さっそく朝日新聞記事を以下に要約してみよう。
 現在、女子高校生の制服のスカート丈が全国一短いのは“新潟県”であるらしい。女子高生の多くが今も太股をあらわに歩くのを見かね、新潟県内の全高校は、今月一斉に生徒指導に乗り出したと言う。
 ある新潟の女子高生は、男性からのちらちら視線は平気なのだが、同性の視線は気になると話す。そして、「スカート丈が長い女子もいるけど、そういう子は別グループ。一緒に行動するのは短い子」とのことだ。
 “短い”のが定説だった東京でも00年頃から、私立を中心にスカート丈が少しずつ伸びている。学校毎に制服文化が生まれ、多様化が進んでいるのだという。「今の子は、近くの友達におしゃれに見えるかどうかが重要になっている」ということだそうだ。
 
 以下略すが、以上が朝日新聞記事の要約である。

 では、私論に入ろう。
 個人が自由感覚としてのお洒落志向でミニスカートを楽しむのと、女子高校生が集団内で制服のスカートを短くするのとは、まったく異質の意思や感覚に基づく行動であると私は捉える。
 女子高生の制服の超ミニ志向を支配しているのは、集団従属心理に基盤を置く“同調心理”であると私は考察する。 彼女達は自分には似合ってもいないことを重々承知の上での“太股露出”行動なのであろう。その行動で、自分が存在し得る「共同体」創りを精一杯することにより、そこで安穏としたい一種の“生き残り”心理のせめてもの表現なのだと推測する。
 もし私の考察が正しいならば、彼女達のその健気な“生き残り心理”の表現の仕方が幼稚過ぎるがばかりに、自らの“太股”を曝け出さざるを得ない哀れさも漂うようにも思えてくる。
 そんな思春期の壊れやすい少女の心を周囲の大人は“生徒指導”という規律により頭から潰そうとするのではなく、対話により救う手立てを考慮するべきではなかろうか。 

 (以下略すが、以上本エッセイ集2008.02バックナンバーより一部を引用したもの。)