原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載 「結果よりも過程の公開を」

2021年01月29日 | 教育・学校
 公開時間が遅くなったが。

 今夜は2008.12.26付公開の、冒頭表題エッセイを再掲載させて頂こう。


 朝日新聞2008.12.25夕刊によると。

 結果の公開のあり方が議論されている全国学力調査で、秋田県は25日、市町村別の結果を市町村名すべてを明らかにした上で全国で初めて公表したとのことである。
 秋田県の寺田知事の会見によると、「有益な情報がごく一部の教育関係者に独占され、県民はもちろん、一般の先生方にさえ知らされていないことは誠に残念…」と、今回結果を公表した理由を述べている。
 この全国学力調査の結果公開について文部科学省は「過度な競争を招いて弊害が大きい」として、市町村名や学校名が分かる形での成績を開示は自粛するよう求めている。
 この文部科学省の成績開示自粛要請に対し、都道府県によっては原則として全部開示すべきだとする見解もあり、議論が起こっている矢先の今回の秋田県の公開判断である。

 早速私論に入ることにしよう。
 大変申し訳ないが、私は現役中学生の子を持つ親として、そもそもこの全国学力調査とやらに一切興味がない。 なぜならば、子どもの学力をテストの点数で測ろうとすること自体にさほどの関心がないためである。
 このブログの学校・教育カテゴリーで教育のあり方についての私論を散々展開させていただいているので、今回は重複は避け、詳細はバックナンバーを参照いただきたいのであるが、一言でまとめるならば、現在の偏差値偏重教育を批判する立場を貫いているのが私論である。

 そして我が家の場合は、我が子が小学生の頃からずっと母親である私自らが家庭での学習指導を担当してきているため、テストの成績を見ずとも子どもの学習内容に対する理解度や興味の度合い、得手不得手等の学習能力のレベルをある程度把握出来るためでもある。ここ1、2年は子どもの成長に伴い子ども本人の学習に対する自主性を尊重している。そのような背景の中で、先だっての記事「学ぶ意欲は育つのか?」でも既述した通り、現時点のテストの点数よりも将来の学力向上に通じる“学習習慣”の継続を重要視し、そちらに今後も重点を置きたいと考えているためでもある。

 本ブログの上記バックナンバー「学ぶ意欲は育つのか?」に私のブログの読者でいらっしゃる秋田県に所縁のある方からコメントを頂いたのだが、秋田県の義務教育過程において大変興味深い宿題指導が取り入れられているそうだ。それは“自由課題”とでも名付けてよいのか、子ども一人ひとりが自由課題を設定してそれに取り組む宿題を学校が課すということだ。そして重要な点は、生徒が提出した宿題の内容が何であれすべてが教員に受け入れられ評価されるというシステムであるらしい。
 この方法は素晴らしいと私も感じる。教員にとって手数がさほどかからず、子ども一人ひとりの可能性を潰すことなく個性を認めることが可能な、優れた学習方法であると評価申し上げたいものである。

 ついでに私事で恐縮なのだが、我が子が通う私立中高の教育方針も徹底したものがある。保護者として何よりも評価できるのは、その教育への取り組みの過程を保護者に公開している点である。
 一例であるが、先だっての11月の公開授業時に「総合的な学習の時間」(いわゆる“総合の時間”)の学校の取り組みに関する全15頁に渡る詳細な授業内容を網羅した小冊子が保護者に配布された。この小冊子を一読すると、平成20年度の“総合の時間”の指導計画書、授業の趣旨及び目的、全学年の年間全授業のカリキュラム、中間報告、生徒の生の声等々、授業内容の詳細が把握できるのである。これには保護者として脱帽だ。
 我が子の場合は中学生にして「卒業論文」が課せられているのであるが、それをこの“総合の時間”で順に過程を追いつつ1年間に渡り取り組んでいる様子が、この小冊子でよく理解でき保護者として納得できるのである。

 話を元に戻そう。
 私はたかが一小市民に過ぎないが、一都道府県民そして義務教育課程の子どもを持つ一保護者の立場から、市町村にまで及ぶ全国学力調査の“結果”を開示して欲しいとも思わなければ必要ともしていない。
 そんなものよりも優先して開示するべきは、公教育における教育の“過程”ではなかろうか。 教育の“過程”を公開することは、生徒のテスト結果を公表することに比して時間的、労力的、能力的…(後は控えるが)種々の意味合いで現公教育においては容易ではないのであろう。
 だがあえて私はこの機会に、子どものテスト結果よりも、指導者側である公教育機関がどのような指導計画の下、如何なる趣旨及び目的の授業を、日々どういう風に実施しているのか、その“過程”こそが知りたいと申し上げたいものである。

   

Comments (14)

 (田舎人)2008-12-26 17:12:50
この問題に触れていただき、有り難く思います。
秋田県の市長町村の教育委員会、及び学校サイドは知事の抜き打ち的な公表に怒りを表しております。
小さな町村では、学校が1校しかない所も有り、知事の云うところの、校名を伏せてに矛盾する結果を生んでおります。国民は知る権利があるという意見で公表した秋田県知事の短絡的行動に、あきれ返っております。せめて、公表することで教育振興にどうプラスになるのか、知事は説明する責任が有ると思います。

田舎人さん、こちらこそ恐縮申し上げます。 (原左都子)2008-12-26 17:28:09
実はこの記事は、田舎人さんを相当意識させていただいきつつ綴りました。
田舎人さんのコメントを記事内で許可なく取り上げさせて頂きましたこともありまして、反論やお叱りを頂けることも覚悟の上での今回の記事の公開でした。
早速のコメントに感謝申し上げます。
そうなのですね。秋田県民にとっては当事者であり、今回の知事の決断は今後大きな波紋を呼びそうですね。
田舎人さん、今後の成り行きをまた是非お伝え下さいますように。

残念ながら (don-tracy)2008-12-26 19:46:23
子供の教育に本当に関心を払っている親はごく一握りではないかと感じます。
「ゲームばっかりしてないで、ちゃんと勉強しろ!」と年中口を酸っぱくして叱咤する。
いざ、散々な通知表を持ってくると「だから言ってるだろう!やる気あんのか?お前は!」と一喝します。
だが、それで終わり。
子供がどんな事を習ってきているのかは全く知りません。
多くの親がそんなパターンかと思います。
友人の家庭などを見ていてもそうだし、私の親もそうでした。
学力の「地域間格差」は、実は住民層=その地域に子供の学習に関心を払っている人が多いか少ないか、の格差であるように思います。
私の中学時代も、公務員住宅や大企業の社宅の多い地域の中学は平均点が高く、語弊はありますが、商業地域や公営住宅の多い地域の中学(私もそんな学校へ行っていました)は平均点が低い傾向はありました。
ですから、地域間格差は仕方のない物だと思います。
それに現時点の学力がすべての物指しでもありません。
スポーツや文化活動の盛んな学校で充実した学校生活を送ることができれば、それは子供にとって大きな財産になります。
重要なのはまさに「将来の学力向上に通じる“学習習慣”の継続」なのでしょう。
そもそも教員にすら結果の公表されない学力テストは誰のために始められたんでしょう?
「官僚や文教族議員と繋がりの深い業者のためのテストではないか」と思うのは、私の僻み根性のせいであって欲しいとは思うのですが…

偏差値教育ド真中 (ドカドン)2008-12-26 20:10:55
統計手法に基づく「偏差値」は、違う試験、違う教科に於いても、常に同様の数値をはじき出します。
常にゆらぎの少ない、教育レベルの判断が出来る、優れた統計手法です。
私は、この優れた判断方法を、否定はされたくないのです。
統一試験は、結果を明確に示せ、と思います。
試験に至るまでに、努力を重ねてきた子もサボった子も、結果を知らされないと、次にどうしたらいいか判断できません。
教育に行く先の標がないと、迷うのはテストを受けた学生だ!

教える側の姿勢 (orangeboy)2008-12-27 01:00:13 
太平洋戦争で打ちのめされた日本が、戦後驚異の復興を成し遂げました。それは、ひとえに日本人の真面目さがそうさせたと思っています。ですが、その根源には教育があります。日本の教育はもちろん江戸時代の寺子屋から始まります(起源は、中世からです)が。その当時は、庶民が学びたいという熱意がありました。それゆえ、現在の子供さんの勉強への取り組みは、自然に勉強が楽しいと思わなければなりません。その楽しさを引き出すのは、子供さんの能力の差はありますが、教える側の姿勢がやはり一番大事だとも思っています。如何に教えるのか、事務的ではなく熱意をもって教えていただきたいと考えています。当然、その姿勢で取り組んでいる先生方も多いことは言うまでもありませんが

全く同意です。 (issei)2008-12-27 04:09:08お早うございます。
以前の投稿で原さんの言いたいことは創造が付きましたが。30歳を過ぎたわが子に与えた教育を考えたとき、結びで言っておられる「優先して開示するべきは、公教育における教育の“過程”」と言うくだりがインパクトを感じました。現在の公立高校は先生のレベルが学校によって大きく差があると思います。差がないとしても学校によって教育の過程に雲泥の差があります。レベルの低い学校では、最初から先生が教育を諦めているようなふしが感じられます。私が卒業した高校では1年生のときから進路指導を行っていましたが、神奈川県の有名県立進学校以外は最初から進路指導などはなく、進学は「卒業後自分で予備校へ通って受験せよ」とも取れる教育課程でした。あまりのひどさに驚いたものです。あの時しっかりした教育の過程を辿っていたなら別の道もあった筈です。2年に進級した頃から、おかしいと気付き「進路問題はどうなっているのか先生に聞いてみて」と指示したが、前述のごとく、その高校では「卒業後に自力で予備校に通い大学に行く生徒がほとんど」と聞き唖然としました。先生のする事と言ったら、受験の書類を作る手助けをする事だけだったのです。
 良い学校もレベルが低いと言われる学校も、先生の能力に差がないのでしょうが、教育過程に対しての考え方が劣悪(お粗末)なために、優秀な先生が駄目な先生になっているのではないでしょうか。

対談 (カズ)2008-12-27 20:20:43
秋田県知事と大阪府知事がこの問題で、テレビ番組で対談したらいいなと思いますね。

don tracyさん、おっしゃる通りです。 (原左都子)2008-12-28 11:26:31
まさに、don tracyさんのおっしゃる通りで、口先ばかりは子どもに対し命令口調で、子どもが普段どのような学習をしているのかさえ知ろうともせず、テストの点数と通信簿の評価だけを見て子どもを叱り飛ばす。これは親として最悪のパターンなのですが、ほとんどの親の実態とはこれに近いのでしょう。
そして、まさに子どもの学力、能力とは現時点の点数ではありません。子どもの未来への可能性こそが育てられるべきです。
そして官僚と業者の癒着は当然考えられますね。この全国学力調査で一番ほくほくしているのは業者でしょうね。
点数を公開するか否かのくだらない議論で熱くなっていないで、教育の「過程」を熟慮しろ、と再び主張したい私です。

ドカドンさん、子ども本人と親が結果を知ってもよいでしょう。 (原左都子)2008-12-28 11:40:16
教育関係者や、子ども本人、そしてその保護者が学力調査結果を知る事に関しては差し支えないと考えます。
その結果により子どもの足を引っ張るのではなく、子どもの成長のために有意義に活かして欲しいものです。
今回の議論は、他者の結果まで知る必要があるのか、という点に重点があります。
偏差値と言うのは、まさに他者と比較した場合に自分がどの位置にいるかを示したデータですが、私はこれは不要だと考えます。
成績を点数で捉えたい場合も子ども本人の絶対評価で十分かと思います。
そしてもっと肝心なのは、どうしても点数にこだわりたい場合は、点数が表す内容までもを把握するべきと言うことです。
まとまりが悪い返答コメントですが、点数のみで子どものすべてを評価し子どもの可能性を潰してしまうような過ちを犯して欲しくない気持ちが強い私です。

orangeboyさん、まさに学びたい熱意ですね。 (原左都子)2008-12-28 11:48:03orangeboyさんが書かれている「寺小屋」時代の庶民が学びたい熱意は一体どこに行ってしまったのでしょう。
おそらく、教育の変遷に大きな責任があるのでしょうね。今の教育は学びたいという人間が本来有しているはずの欲求を潰してばかりいるように感じます。
今の教育制度は変革を繰り返す度に空回りを繰り返し、子どもから学ぶ喜びを奪ってばかりいます。
学力調査の開示がどうのこうのとくだらない議論ばかりしていないで、根本に立ち返って学ぶ喜びを子供達から引き出すべく、教育の「過程」のあり方を問い直して欲しいものです。

isseiさん、教員の能力差は激しいでしょうね。 (原左都子)2008-12-28 13:11:27能力差と言うよりも熱意や適性の差と申し上げた方が正しいかもしれませんが、同じ公立でも確かに教員やそして学校の教育に対する取り組みの差はあるかもしれません。
大学進学校でもなく、また問題児を多く抱えた底辺校でもない高校は、生徒のみならず、ややもすると教員の目的意識が定めにくいのかもしれません。isseiさんが書かれているような「勉強したいのなら予備校へ行ってくれ、受験用の書類だけは作るから」といった事態は起こり得ることでしょう。ただただ、生徒を預かるだけの学校ですね。
ただ、たとえそういう環境であれその環境で安穏とせずに教員になった以上は主体的に生徒にかかわって、底辺からも学校や教育制度を変えていく位のエネルギーを教員には持って欲しいものです。

カズさん、それ面白そうですね! (原左都子)2008-12-28 13:16:39
秋田県知事は私は影像では見たことがないのですか、どうもポリシーがふらついている人物のようですね。
あの大阪の橋下坊やは、公の場での言葉遣いや口のきき方を教わってから表に出ろ!と私は言いたいのですが、この二人の対談は面白そうですね。

Unknown (どら猫)2008-12-28 13:24:21
義務教育内での子供達が覚えるべき(覚えなければならない?)事柄をどの程度覚えているか(記憶)しているかに関して試験をしたことこで余りにも騒ぎすきのような気がしてなりません。
何月何日までに覚えなければならない理由は何処にあるのでしょうか?
開示に関しても東国原氏が大阪の橋元氏の「文部省の**」等の発言に関して庇った心算なのでしょうが、「彼の所は下の方の順位....云々」(差別、冷かしとも取れるかも?)
何月何日までに全国学力テストの「為」の準備をするか、高校、大学受験というもう一つの期日を切られた試験に準備をするかで大きく結果は違ってくるはずです。(現実に秋田県内から旧帝国大学(笑)への入学者は非常に少ないことも知られています。
人間、一生勉強をしなければならない事を痛切の感じている自分にとっては所詮「成績の良い県の長は、開示をしたい」だろうし、教育委員会とトラぶっている(思い通りにならない)ところの長は開示をしろと言うだろうし、本当に子供のことを考えているか否は、はなはだ疑問に感じます。
もっとも順位が知れ渡っていることは一部開示をしているともとれるのですが(笑
寺田氏と知事選を争った佐藤正一郎氏のブログでも開示の問題にふれていますが50歩100歩で(笑

http://shouichiro.exblog.jp/9970629/
本当に必要なのは子供達が「どのように思っているか」でしょうけど。

ドラ猫さん、同感です。 (原左都子)2008-12-28 14:00:45
ドラ猫さんが書かれたこととほぼ同じ思いを私もいつも抱いています。
何月何日までにこれとこれを憶えなくてはならない、と子どもに期限を与えてノルマを課すのが今の学校の教育制度で、その結果をみるためにテストを子どもに強制し、その結果を公表するかしないかといい大人どもが騒いでいる現状ですね。
今回開示を決めた秋田県に関しては、現在の子どものテスト結果よりもその後の子供達の行く末に興味があります。

 (以上、当時のコメント欄に押し寄せたコメントを再掲載させていただいたもの。)


   朝日新聞2008年12月25日(木)夕刊によると、結果の公開のあり方が議論されている全国学力調査で、秋田県は25日市町村別の結果を市町村名すべてを明らかにした上で全国で初めて公表したとのことである。
 秋田県の寺田知事の会見によると、「有益な情報がごく一部の教育関係者に独占され、県民はもちろん一般の先生方にさえ知らされていないことは誠に残念…」と、今回結果を公表した理由を述べている。
 この全国学力調査の結果公開について文部科学省は「過度な競争を招いて弊害が大きい」として、市町村名や学校名が分かる形での成績を開示は自粛するよう求めている。
 この文部科学省の成績開示自粛要請に対し、都道府県によっては原則として全部開示すべきだとする見解もあり、議論が起こっている矢先の今回の秋田県の公開判断である。

 早速私論に入ることにしよう。
 大変申し訳ないが、私は現役中学生の子を持つ親として、そもそもこの全国学力調査とやらに一切興味がない。 なぜならば、子どもの学力をテストの点数で測ろうとすること自体にさほどの関心がないためである。
 このブログの学校・教育カテゴリーで教育のあり方についての私論を散々展開させていただいているので、今回は重複は避け、詳細はバックナンバーを参照いただきたいのだがだ。一言でまとめるならば、現在の偏差値偏重教育を批判する立場を貫いているのが私論である。

 そして我が家の場合は、我が子が小学生の頃からずっと母親である私自らが家庭での学習指導を担当してきているため、テストの成績を見ずとも子どもの学習内容に対する理解度や興味の度合い、得手不得手等の学習能力のレベルをある程度把握出来るためでもある。ここ1、2年は子どもの成長に伴い子ども本人の学習に対する自主性を尊重している。そのような背景の中で、先だっての記事「学ぶ意欲は育つのか?」でも既述した通り、現時点のテストの点数よりも将来の学力向上に通じる“学習習慣”の継続を重要視し、そちらに今後も重点を置きたいと考えているためでもある。

 ついでに私事で恐縮のだが、我が子が通う私立中高の教育方針も徹底したものがある。保護者として何よりも評価できるのは、その教育への取り組みの過程を保護者に公開している点である。
 一例であるが、先だっての11月の公開授業時に「総合的な学習の時間」(いわゆる“総合の時間”)の学校の取り組みに関する全15頁に渡る詳細な授業内容を網羅した小冊子が保護者に配布された。この小冊子を一読すると、平成20年度の“総合の時間”の指導計画書、授業の趣旨及び目的、全学年の年間全授業のカリキュラム、中間報告、生徒の生の声等々、授業内容の詳細が把握できるのである。これには保護者として脱帽だ。
 我が子の場合は中学生にして「卒業論文」が課せられているが、それをこの“総合の時間”で順に過程を追いつつ1年間に渡り取り組んでいる様子が、この小冊子でよく理解でき保護者として納得できるのである。


 話を元に戻そう。
 私はたかが一小市民に過ぎないが、一都道府県民、そして義務教育課程の子どもを持つ一保護者の立場から、市町村にまで及ぶ全国学力調査の“結果”を開示して欲しいとも思わなければ、必要ともしていない。
 そんなものよりも優先して開示するべきは、公教育における教育の“過程”ではなかろうか。 教育の“過程”を公開することは、生徒のテスト結果を公表することに比して時間的、労力的、能力的…(後は控えるが)種々の意味合いで現公教育においては容易ではないのであろう。
 だがあえて私はこの機会に、子どものテスト結果よりも、指導者側である公教育機関がどのような指導計画の下、如何なる趣旨及び目的の授業を、日々どういう風に実施しているのか、その“過程”こそが知りたいと申し上げたいものである。



 本日の「原左都子エッセイ集」Popular entries top 10内で上位に位置していたのが、当該「教育・学校カテゴリー」の当該バックナンバーだった。

 現在、“コロナ禍”で世の中が大揺れ最中に「結果よりも過程の公開を」などと言っている場合でも無いのかもしれないが。

 我が教育に関するポリシーは今尚揺るぎないものがある。

 敢えてそのような思いも込めて、当該エッセイを再掲載させていただいた。

 (私論の重複部分が多い事実を、お詫び申し上げます。)