原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「怖い家」

2022年10月10日 | 人間関係
 (冒頭写真は、朝日新聞2022.10.08付「書評」ページより、沖田瑞穂氏著「怖い家」を転載したもの。)



 本日のエッセイも、朝日新聞「書評」ページより題材を引用させていただこう。
 美術家・横尾忠則氏による上記「『怖い家』伝承、怪談、ホラーの中の家の神話学」の書評、「人が棲むことで意識宿す生き物」の一部を、如何に要約引用しよう。

 子供の頃の我が家は離れを含めて七部屋あったが、仕切りがなかった。 このことが逆に夜になると怖かった。 一人で便所へ行けなかったので、母についてきてもらった。 暗い庭に面した廊下の奥に汲み取り式便所があって、足が竦んでしまった。
 便所へ通じる庭は本書によると、庭そのものが異界、つまりあの世であるという。 だから時間が存在しない。そんなあの世を横目で見ながら、怪異が出現する便所に入る勇気が僕にはなかった。 僕にとっての便所は、まるで死が口を開けて待っている怪異そのものの空洞でしかなく、便所の外で待つ母の姿がまるで亡霊のように見えてゾッとしたものだ。
 「怖い家」とはよく言ったものだ。 家は、僕にとってい常に怖い存在である。 本書の内容から少し離れて私事になるが、母が死んだ後に家を移った。 (途中大幅略)
 家は人体とよく似た構造を持っていて、その空洞の内部は人間と同じように心も魂も霊も宿した精神の生き物として、人々に恐怖をもたらす存在である。
 (中略)
 また、古い家には何かがいるという。 我が家は築88年。 もし、そこに怪異がいるとすれば、それはこの「私」かな?

 (以上、朝日新聞「書評」ページより一部を引用したもの。)



 原左都子の私事に入ろう。

 この私も、4歳から14歳の初め頃の約10年間、我が先々々…代の先祖が元大地主農家だった頃に立てた古い家に住んだことがある。
 (この家の母屋は未だ健在のようだ! 周囲にあった納屋や別棟等は既に建て替えられているが。 昔の母屋の作りが大黒柱に支えられ丈夫であるが故に、これ程の年月持ち堪えるらしい。まさに歴史的建造物であろう。 ただ、現在誰かが住んでいるかどうかは、既に我が郷里の親戚とは連絡が取れず不明。)

 上記引用文中にある通り、母屋から離れた場所にトイレや風呂があった。
 
 未だに覚えているのは、風呂は石造りで下から薪をくべる形式だった。 風呂釜に入る時には、下部が熱いため敷板を踏んで入らねばならない構造だった。 我が未だ4歳の頃などその敷板が踏める体重が無く、いつも母親と一緒に入って母に踏んでもらって湯につかったものだ。

 そしてトイレだが。

 母屋から歩いて2分程かかっただろうか?
 トイレに関しては、4歳時点から一人で行くよう母にしつけられていたため頑張った。  小さき私にとって、このトイレがとてつもなく遠かったこと! それでもそれに慣れてからは、昼間に関しては特段の不安も無かった記憶がある。
 ただ、外が暗くなる時間帯にはトイレに行くのがやはり怖かった。 
 我が家の場合 子どもは午後8時には就寝させられたため、その前にトイレへ行くのだが、一人で走って行っては怖さに耐えつつ猛スピードで母屋に戻ったものだ。

 私が中3に成り立ての春に、この“歴史的建造物”の母屋から両親と共に引越した。
 トイレが家の中にあるとの事がどれ程便利かを、思い知ったものである。


 怖いと言えば私が中3の春まで暮らしたこの母屋には、普段は誰も使用していない2階が存在していた。

 その2階は物置場所としてしか利用されていなかったのだが、時折祖母と共に上がったことを記憶している。
 歴代保存・使用されている「雛人形飾り」もその2階に保存してあり、毎年3月手前になると祖母と共に2階で雛人形の飾りつけをした記憶がある。

 たまに2階に上ってみると蜘蛛の巣だらけで…
 ジョロウグモは出るわ、ヤモリは出るわ、で恐怖心満載だったものの。
 祖母の孫に対する愛情が伝わり、雛人形の飾りつけをするのが我が子供心に嬉しかった記憶もある。



 まさに我が脳裏に今も残っている、この我が先々々…代が大地主農家だった頃に立てた古い家で暮らした頃の記憶とは。

 「怖い家」と言うよりも。
 遠い祖先がその後この家に棲んで長い歴史を刻み続けている子孫代々の生活を見守り続けてくれた、かけがえのない場だったのかもしれない。