(冒頭写真は、2023.02.18付朝日新聞夕刊記事 「『正論』過ぎるAIと人間の生きる道は」より、 昨年11月にChat GPTを公開した米新興企業「オープンAI」のサイトのトップページ を転載したもの。)
早速当該記事を、以下に要約引用しよう。
AI(人工知能)の発展が著しい。 論文の要約、プログラミング、エクセルの処理など、既に多くの仕事をAIにさせ始めている。 報道によれば、コロンビアでは判事がAIの助けを借りながら判決を下した。 ある調査によれば、AIは、医師、公認会計士、弁護士などの試験には合格できるレベルであるという。
いま注目されているのが「ChatGPT」という対話型のAIである。 筆者が「宇宙の果てには何があるか」「進化に目的はあるのか」等を質問した際の回答は、まずまず妥当な「正論」が返って来て驚いた。
「AI時代に批評家は失業するか」を聞いてみると、「批評家が失業するかどうかは、個々の批評家の技術やスキル、そして市場ニーズによって異なる。批評家は、AI時代において必要とされるスキルを身に付け、市場ニーズに応えられるよう努力することが大切です」。 (途中大幅略)
自分の息子を見ていて、これからを生きる子供たちは、音声認識でAIに質問し対話しながら育ち、創作や仕事でも支援を受けることは間違いないように感じる。 そんな社会を受け入れながら批判的にも見るような視点が、おそらく私達には必要だ。(とChatGPTは、私にアドバイスしてきた。)
経験からすると、学生がAIに書かせたリポートはすぐに見抜ける。 きれいで正確過ぎるリポートはAIの可能性が高い。 逆に言えば、「間違い」「崩れ」「下手さ」などが、「人間性」の指標になっているということである。
と書きつつ、AIが出来ない「心情」や「人間性」の部分に寄り添う役割が人間の批評家に残っているというのも、ChatGPTが教えてくれたことである。
(以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)
この記事を見て、私は小学校3年次の出来事を思い起した。
父兄参観日を控えたある日、女性担任が算数が得意な私を個別に呼んで尋ねる。
「もしも、〇ちゃんが算数で円の面積を求めようとする場合、どんな方法を思い起すかな??」
即興で私が応えて、「三角形の面積を求める公式は既に習っているから、それを利用して、円の中心から細長い三角形を沢山描いてそれらの面積を求め足し算すれば、円全体の面積に近づくと思います。」
これを聞いた担任が急に怒り始めて私を叱咤する! 「参観日までは教科書を読むなと言ったでしょ!! 何でアンタは教科書を読んだのよ!!!」
びっくり仰天して怖くなった私が消え入るような声で応えて「いえ、教科書は読んでいません… 本当に今思いつきました……」
担任応えて、「嘘おっしゃい!!! そんなの子どもが思いつくはずがないでしょ!!」
いやーーーー、 これには実際参った…
本当に我が脳内で思いついたからそう言ったのに。 (実際、小学校低学年頃の下校後は宿題のみ済ませたら、すぐに近所の子らと夕方まで遊び惚けていて、授業の予習など一度たりとてしたことはなかったものだ。)
この出来事は、悪夢のように今尚思い出す逸話だが。
まあ要するに、我が脳のはたらきとは児童の頃から“AI並み”だったとの逸話かな??? (一人で言ってろ、って??)😜 😖
そんな私は、医学業務上コンピュータに触れる機会は早かったが。
年代的にAIと接する機会がないままに、現在に至っている。
いっそ今になって、AIと対峙してみたい気もするが。
「正論過ぎる」AI と今 対峙できたならば、
年季の入った我が頭脳と「人間性」の方が、真っ向勝負で勝てそうにも思うのだが。😁 😫 😵