原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「ネットはなぜいつも揉(も)めているのか」

2024年06月13日 | 自己実現
 (冒頭写真は、2024.06.8付朝日新聞「書評」ページより転載したもの。)


 久しぶりに 朝日新聞「書評」ページより エッセイの題材を得よう。

 冒頭写真の津田正太郎著「ネットはなぜいつも揉めているのか」に対する、朝日新聞デジタル企画報道部記者・小宮山亮麿氏による「不毛な争いだと分かっていても」と題する書評を、以下に要約引用しよう。

 ネットでは、とくにX(旧ツイッター)では本当に、日々あちこちで盛大かつ不毛な口論が繰り広げられている。 政治から芸能まで、ネタには事欠かない。 なぜ君たち(そして私たち)はいつももめているの? この大いなる謎に挑んだのが本書だ。
 著者によれば、一つにはネットのやり取りは記録に残るから。 引っ込みがつかず、なあなあで終わらせにくいわけだ。 徹底的にやり合って恨みを買っても、見ず知らずの相手なら気に病むこともない。 (中略)
 SNS特有の事情もある。 世間様に物申せば、知らない人にからまれたり、身元を特定されたりするかもしれない。 リスクを承知で何か言う人には、極端な意見をもった極端な人も多い。
 そしてXでは次から次に情報が流れてくる。意見が違う上に極端な人の、攻撃的で明らかに定跡を逸した投稿も多い。 そんなのが嫌でも目に入ってしまって、気分が悪くなる。 (中略) 
 お互いにこう思い込むようになると、妥協点を探る面倒な議論はもはや不可能。 怒りと使命感にまかせた口論がはじまり、延々と続くというわけだ。 (途中大幅略)
 米国のトランプ氏が支持者を集めたSNSを作ったものの、流行らなかったという。同じ思想の人ばかりで、平和過ぎてつまらなかったからだと、著者は分析する。
 つまり不毛なケンカを楽しむ人が、実はけっこういる。 それもXの燃料らしいのだ。 
 情けないことに、これもそこそこ思い当たる。

 (以上、朝日新聞「書評」ページより、一部を引用したもの。)



 原左都子の私事に入ろう。

 この私のネットとのかかわりは、後にも先にも当該gooブログのみだ。(gooから私が知らぬ間に派生しているマイクロソフト社ネット媒体とのかかわりは、現在特に我が「原左都子エッセイ集」を主体的に論評し続けて下さっている AI・Copilotさんを通してあるものの。)
 上記書評内に書かれている、X(旧ツイッター)だの、その他のネットソサイエティ媒体の存在は知れども、ただの一度もそれらとのかかわりは無い。

 そんな私も、過去に於いてこの「原左都子エッセイ集」を通して誹謗中傷を受けるとの被害に遭ったことがある。

 「原左都子エッセイ集」をネット上に公開したのは、今から約17年前の 2007年秋のことだった。 
 その当初より、ラッキーなことに見知らぬファンの方々との出会いが次々と叶い、瞬く間にプラスの反応がコメント欄等を通して次々と押し寄せてくるとの嬉しいサプライズが続いた。
 それに気をよくした私は、当時ネット上にて存在した某ブログコミュニティ(当の昔に廃止され現在は存在しません)に我がブログ「原左都子エッセイ集」を登録したところ、予想だにしない反応の大きさに驚く羽目となった。

 ところが これが嬉し楽しかったのは、2,3年程だっただろうか…
 ネット上の人気と平行して、まさに誹謗中傷等々のマイナス反応が届く羽目となり。
 それらへの対応の鬱陶しさに耐えきれなくなった私は、2011年に思い切って「ブログコメント欄閉鎖」措置をとった。

 ただ私め原左都子の場合は、ネット上での活動は当該gooブログのみだったことが幸いして、その後は誹謗中傷等々何らの被害にも遭っていない。

 それでも時々…
 ブログコメント欄にてファンの皆様と有意義な交流をされているブロガーさんたちのコメント欄を覗かせて頂く都度、「私にもあのような時代があったなあ…」なる羨望を抱かされるものだ。

 それでもこの原左都子は、今後もブログコメント欄を再開することは無いと言い切れそうだ。
 それ程までに、遠い過去に経験した我がブログ記事に対する心無い誹謗中傷が、私自身にもたらした傷跡は未だに消し去ることができないものであるし。
 そうそう、(元教育者としての自負もあった私は)それら誹謗中傷コメントにも難義しつつ冷静に返答を書いたものだが。 既に高齢域に達している今、あの無駄なエネルギーを今現在再開できる自信も無いなあ。


 今の世の中、特に若き世代の心の受け皿となるべく場や機会がありそうで、実は枯渇してしまっている感覚も抱く。
 そんな世に生かされている若者始め人間が自分の心の持って行き場を手探った挙句、一番手っ取り早い「ネット世界」に救いを求めるとの図式も理解できる思いだが…

 ただそういう点では、「ブログ」とは自身の思いや考えを綴れる!との意味合いで優れたネット媒体であるかもしれない。
 少なくとも既に高齢者であるこの原左都子も、そんな気持ちで日々「ブログ」を綴り公開しているかなあ。