原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載 「左都子の『自然科学概論』小講座Ⅴ」

2024年06月06日 | 自己実現
 

          

          
        
          

          

 
 (冒頭写真4枚は、原左都子2度目の大学にてA先生にご指導いただいた「自然科学概論」講義ノートより「ギリシャの天文学」分野の講義の一部を転載したもの。)


 数日前に公開した、我が2度目の大学にてのA先生による「自然科学概論」講義ノートより、本日は「ギリシャの天文学」に関する講義内容を紹介しよう。

 2021.07.20付我がバックナンバーによると。
 
 このシリーズ、どうもネット上で人気の気配だ。
 公開するとアクセスが増え、またシリーズのバックナンバーもスタンダードにお読みいただいている様子だ。
 これ、もしかしたらコロナ禍による大学のリモート学習の影響もあるのだろうか? 学生の皆さんがそれぞれに工夫しつつ、自身の専門学問に接しているのかもしれない。

 「原左都子エッセイ集」開設初期に公開した“左都子の市民講座”カテゴリー内の「近代市民法の基本原理とその修正」シリーズも数年前まで人気を博した。 現在は多少下火になっているが、それでもコンスタントに閲覧が来るシリーズである。
 とにかく、何らかの形で我が執筆エッセイバックナンバーがお役に立てているならば、そんな嬉しいことは無い。 今後とも、著作権侵害にならない範囲でご活用下されば幸いだ。

 以上のような記載がある。
 そうであれば、筆者としては大変嬉しいのだが。
 
 


 それでは、「自然科学概論」小講座Ⅴ に入ろう。


 話題は、ギリシャに移るが。 
          
 天文学に於いてギリシャは後進国だった。
 しかし、メソポタミアとは違った考え方が存在していた。 ペルシャより天文学の知識が流入した。
 その特徴として、〇幾何学的な発想 〇審美的 であることが挙げられる。
このうち、審美的であることイコール非現実的であり、不正確(ここでは精の字が用いられているが、要するに精密でなかったとの意味なのだろう。)

 ピタゴラス派は教団(宗教的団体)を開き、後にピタゴラス派となり、生活共同体、秘密結社的な活動をした。 著作活動の禁止、記憶を重視する時代を生んだ。 書くと意味が失われる、との思想のようだ。 
 (ここで原左都子の私見だが、何だかわかる気もするなあ。 書くことにより伝達・普及するとの利点はあろうが、自己の記憶内にとどめる方が正確さが維持される確率が高い気もする。)
          
 ピタゴラス派の天文学は「数」に関心を持ち、それを神的なものと捉えた。
 例えば、プラトンは 数をエイドス・イデアとして捉えた。
 音楽も浄化と結びつけ、音楽を科学として始めた。(ハルモニエー) ハルモニエーが作り出される数学的な解析をした。 “ピタゴラス音階”は「万物は数」と確証した。
          
 幾何学は、数論の応用と位置付として行われていた。 例えば「線」は原始的なものが連なってできていて、「数」とは自然数に限った。

 天文学は数論の応用であり、これらはヨーロッパの学問へ取り入れられた。
特に大学のカリキュラムとして、Quadriam 自由大学科 lberal arts、手仕事を含むアーツ mechanical arts、分野が生じ。 ローマ時代にはTririam 論理学、文法、修辞学 が学問として確立された。
 ヨーロッパでは神学が一番高い地位にあったが、まず魂を自由にするなるピタゴラス派の考え方は、後世まで深く影響している。
          
 太陽は地球の外側を回っている。中心火の光を受けて光っている。 月、五惑星(水、金、火、木、土)も回っている。 全部で9つが回っている。 と考えらえていて。
 地球の内側に見えない天体Counter Earth を考え、全部で10にした。
 “天体のハルモニエー” 宇宙を一つに結び付けているものが存在する、との考え方から、天体の動く音は天体の音楽が奏でる和音、との発想がピタゴラスにあり、ケプラーもそれを信じた。

 プラトン(B.C.427 ~ 347 )は、アテナイでアカデミアを開き、教育者として指導的役割を果たした。 
 プラトンの場合、天文学・数学はさほど重要視しておらず、彼の頭の中にあったのは政治的問題(理想国家)だった。 そして、「感覚を通して物事を知るのは単なる像・影・copy に過ぎず、よくないこと」として「イデア論(エイドス)」を唱えた。 その中で、デミウルゴスという神がイデアに似せて世界を作ったとした。 数学的問題を解くことのみを天文学において強調した。 (大雑把な理論であったようだが。)

 原左都子による私的な後記だが。

 A先生は哲学者であられる人物だが、我が2つ目の大学に於いて「科学哲学」と当該「自然科学概論」を受け持っておられた。
 そのうち「科学哲学」の一番最初の授業内でこのような発言をされている。
「世に偉大なる哲学者は数多く存在するが、私が尊敬しているのはウィトゲンシュタインとプラトンです。」
 その宣言通り、両授業内でそのご両人に関する言論は数多かった。
 そんなA先生の熱い思いの影響を受けた私は、後に我が娘の命名を“プラトン哲学”より引用するに至っている。

 参考ですが、2度目の大学に於ける我が専門は「経営法学」でした。(この本業も十分過ぎる程に頑張りましたよ!)
 哲学関連授業に関しては、このA先生の学問に対する熱意にほだされて単に“趣味”で受講したに他なりません。
 
 更に参考ですが、我が一度目の専攻は「医学」でした。
 この医学分野に於いても、高齢域に達しようとしている時期に尚“食い扶持”となり、我が身を確実に助けてくれております。
 学問に感謝、また感謝の我が人生です。

 (以上、2021.07.20付「原左都子エッセイ集」バックナンバーより再掲載したもの。)




 2024.06の原左都子の感想に入ろう。

 原左都子の過去の「学業・学問行脚」は長い年月に及んだ。
 特に30歳にして再び入学した大学(及び大学院)にての我が「学び」の姿勢は、まさに何の揺らぎも無く本気そのものだった!!

 いえいえ、20代の医学部にての学問・実習の数々もまじめに取り組みましたよ!
 ただ今振り返るに、はやり“若気の至り”感は否定できない部分もあったものだ。😝 

 それに比し、30代にて敢えて大学(及び大学院)生活を自主的に選択したあの頃の私は、まさに一目散に燃えていた!!と振り返る。
 学問・研究に対して何らの迷いも無く、あれ程に熱く取り組めたのは。 私にとっては、その頃が学問適齢期だったのだろうか?! とも思えてくる。
 
 30代とは、(特に私にとって)まだまだ若いと信じていた時代であり。 独身だった私は、食い扶ち稼ぎの医学業務や、恋愛等々他の諸活動にも十分に精を出しましたよ!
 特に恋愛に関しては それら恋愛相手の選択が優れていたのか、誰一人として「学業などやめて結婚しようよ」と言う相手はおらず、皆が皆我が学問成就を応援してくれたものだ。

  まさにお陰で、この原左都子にとって我が独身時代(特に勤労学生として超多忙を極めた時代)は、黄金色に輝ける時代だったと今尚振り返る。
 その頃の「成功体験」の連続こそが今現在の原左都子の“確固たる自信”の源となって、未だに息づいていると結論づける。