朝日新聞12月25日(木)夕刊によると、結果の公開のあり方が議論されている全国学力調査で、秋田県は25日、市町村別の結果を市町村名すべてを明らかにした上で全国で初めて公表したとのことである。
秋田県の寺田知事の会見によると、「有益な情報がごく一部の教育関係者に独占され、県民はもちろん、一般の先生方にさえ知らされていないことは誠に残念…」と、今回結果を公表した理由を述べている。
この全国学力調査の結果公開について文部科学省は「過度な競争を招いて弊害が大きい」として、市町村名や学校名が分かる形での成績を開示は自粛するよう求めている。
この文部科学省の成績開示自粛要請に対し、都道府県によっては原則として全部開示すべきだとする見解もあり、議論が起こっている矢先の今回の秋田県の公開判断である。
早速私論に入ることにしよう。
大変申し訳ないが、私は現役中学生の子を持つ親として、そもそもこの全国学力調査とやらに一切興味がない。 なぜならば、子どもの学力をテストの点数で測ろうとすること自体にさほどの関心がないためである。
このブログの学校・教育カテゴリーで教育のあり方についての私論を散々展開させていただいているので、今回は重複は避け、詳細はバックナンバーを参照いただきたいのであるが、一言でまとめるならば、現在の偏差値偏重教育を批判する立場を貫いているのが私論である。
そして我が家の場合は、我が子が小学生の頃からずっと母親である私自らが家庭での学習指導を担当してきているため、テストの成績を見ずとも子どもの学習内容に対する理解度や興味の度合い、得手不得手等の学習能力のレベルをある程度把握出来るためでもある。ここ1、2年は子どもの成長に伴い子ども本人の学習に対する自主性を尊重している。そのような背景の中で、先だっての記事「学ぶ意欲は育つのか?」でも既述した通り、現時点のテストの点数よりも将来の学力向上に通じる“学習習慣”の継続を重要視し、そちらに今後も重点を置きたいと考えているためでもある。
本ブログの上記バックナンバー「学ぶ意欲は育つのか?」に私のブログの読者でいらっしゃる秋田県に所縁のある方からコメントを頂いたのだが、秋田県の義務教育過程において大変興味深い宿題指導が取り入れられているそうだ。それは“自由課題”とでも名付けてよいのか、子ども一人ひとりが自由課題を設定してそれに取り組む宿題を学校が課すということだ。そして重要な点は、生徒が提出した宿題の内容が何であれすべてが教員に受け入れられ評価されるというシステムであるらしい。
この方法は素晴らしいと私も感じる。教員にとって手数がさほどかからず、子ども一人ひとりの可能性を潰すことなく個性を認めることが可能な、優れた学習方法であると評価申し上げたいものである。
ついでに私事で恐縮なのだが、我が子が通う私立中高の教育方針も徹底したものがある。保護者として何よりも評価できるのは、その教育への取り組みの過程を保護者に公開している点である。
一例であるが、先だっての11月の公開授業時に「総合的な学習の時間」(いわゆる“総合の時間”)の学校の取り組みに関する全15頁に渡る詳細な授業内容を網羅した小冊子が保護者に配布された。この小冊子を一読すると、平成20年度の“総合の時間”の指導計画書、授業の趣旨及び目的、全学年の年間全授業のカリキュラム、中間報告、生徒の生の声等々、授業内容の詳細が把握できるのである。これには保護者として脱帽だ。
我が子の場合は中学生にして「卒業論文」が課せられているのであるが、それをこの“総合の時間”で順に過程を追いつつ1年間に渡り取り組んでいる様子が、この小冊子でよく理解でき保護者として納得できるのである。
話を元に戻そう。
私はたかが一小市民に過ぎないが、一都道府県民、そして義務教育課程の子どもを持つ一保護者の立場から、市町村にまで及ぶ全国学力調査の“結果”を開示して欲しいとも思わなければ、必要ともしていない。
そんなものよりも優先して開示するべきは、公教育における教育の“過程”ではなかろうか。 教育の“過程”を公開することは、生徒のテスト結果を公表することに比して時間的、労力的、能力的…(後は控えるが)種々の意味合いで現公教育においては容易ではないのであろう。
だがあえて私はこの機会に、子どものテスト結果よりも、指導者側である公教育機関がどのような指導計画の下、如何なる趣旨及び目的の授業を、日々どういう風に実施しているのか、その“過程”こそが知りたいと申し上げたいものである。
秋田県の寺田知事の会見によると、「有益な情報がごく一部の教育関係者に独占され、県民はもちろん、一般の先生方にさえ知らされていないことは誠に残念…」と、今回結果を公表した理由を述べている。
この全国学力調査の結果公開について文部科学省は「過度な競争を招いて弊害が大きい」として、市町村名や学校名が分かる形での成績を開示は自粛するよう求めている。
この文部科学省の成績開示自粛要請に対し、都道府県によっては原則として全部開示すべきだとする見解もあり、議論が起こっている矢先の今回の秋田県の公開判断である。
早速私論に入ることにしよう。
大変申し訳ないが、私は現役中学生の子を持つ親として、そもそもこの全国学力調査とやらに一切興味がない。 なぜならば、子どもの学力をテストの点数で測ろうとすること自体にさほどの関心がないためである。
このブログの学校・教育カテゴリーで教育のあり方についての私論を散々展開させていただいているので、今回は重複は避け、詳細はバックナンバーを参照いただきたいのであるが、一言でまとめるならば、現在の偏差値偏重教育を批判する立場を貫いているのが私論である。
そして我が家の場合は、我が子が小学生の頃からずっと母親である私自らが家庭での学習指導を担当してきているため、テストの成績を見ずとも子どもの学習内容に対する理解度や興味の度合い、得手不得手等の学習能力のレベルをある程度把握出来るためでもある。ここ1、2年は子どもの成長に伴い子ども本人の学習に対する自主性を尊重している。そのような背景の中で、先だっての記事「学ぶ意欲は育つのか?」でも既述した通り、現時点のテストの点数よりも将来の学力向上に通じる“学習習慣”の継続を重要視し、そちらに今後も重点を置きたいと考えているためでもある。
本ブログの上記バックナンバー「学ぶ意欲は育つのか?」に私のブログの読者でいらっしゃる秋田県に所縁のある方からコメントを頂いたのだが、秋田県の義務教育過程において大変興味深い宿題指導が取り入れられているそうだ。それは“自由課題”とでも名付けてよいのか、子ども一人ひとりが自由課題を設定してそれに取り組む宿題を学校が課すということだ。そして重要な点は、生徒が提出した宿題の内容が何であれすべてが教員に受け入れられ評価されるというシステムであるらしい。
この方法は素晴らしいと私も感じる。教員にとって手数がさほどかからず、子ども一人ひとりの可能性を潰すことなく個性を認めることが可能な、優れた学習方法であると評価申し上げたいものである。
ついでに私事で恐縮なのだが、我が子が通う私立中高の教育方針も徹底したものがある。保護者として何よりも評価できるのは、その教育への取り組みの過程を保護者に公開している点である。
一例であるが、先だっての11月の公開授業時に「総合的な学習の時間」(いわゆる“総合の時間”)の学校の取り組みに関する全15頁に渡る詳細な授業内容を網羅した小冊子が保護者に配布された。この小冊子を一読すると、平成20年度の“総合の時間”の指導計画書、授業の趣旨及び目的、全学年の年間全授業のカリキュラム、中間報告、生徒の生の声等々、授業内容の詳細が把握できるのである。これには保護者として脱帽だ。
我が子の場合は中学生にして「卒業論文」が課せられているのであるが、それをこの“総合の時間”で順に過程を追いつつ1年間に渡り取り組んでいる様子が、この小冊子でよく理解でき保護者として納得できるのである。
話を元に戻そう。
私はたかが一小市民に過ぎないが、一都道府県民、そして義務教育課程の子どもを持つ一保護者の立場から、市町村にまで及ぶ全国学力調査の“結果”を開示して欲しいとも思わなければ、必要ともしていない。
そんなものよりも優先して開示するべきは、公教育における教育の“過程”ではなかろうか。 教育の“過程”を公開することは、生徒のテスト結果を公表することに比して時間的、労力的、能力的…(後は控えるが)種々の意味合いで現公教育においては容易ではないのであろう。
だがあえて私はこの機会に、子どものテスト結果よりも、指導者側である公教育機関がどのような指導計画の下、如何なる趣旨及び目的の授業を、日々どういう風に実施しているのか、その“過程”こそが知りたいと申し上げたいものである。
秋田県の市長町村の教育委員会、及び学校サイドは知事の抜き打ち的な公表に怒りを表しております。
小さな町村では、学校が1校しかない所も有り、知事の云うところの、校名を伏せてに矛盾する結果を生んでおります。国民は知る権利があるという意見で公表した秋田県知事の短絡的行動に、あきれ返っております。せめて、公表することで教育振興にどうプラスになるのか、知事は説明する責任が有ると思います。
田舎人さんのコメントを記事内で許可なく取り上げさせて頂きましたこともありまして、反論やお叱りを頂けることも覚悟の上での今回の記事の公開でした。
早速のコメントに感謝申し上げます。
そうなのですね。秋田県民にとっては当事者であり、今回の知事の決断は今後大きな波紋を呼びそうですね。
田舎人さん、今後の成り行きをまた是非お伝え下さいますように。
「ゲームばっかりしてないで、ちゃんと勉強しろ!」と年中口を酸っぱくして叱咤する。
いざ、散々な通知表を持ってくると「だから言ってるだろう!やる気あんのか?お前は!」と一喝します。
だが、それで終わり。
子供がどんな事を習ってきているのかは全く知りません。
多くの親がそんなパターンかと思います。
友人の家庭などを見ていてもそうだし、私の親もそうでした。
学力の「地域間格差」は、実は住民層=その地域に子供の学習に関心を払っている人が多いか少ないか、の格差であるように思います。
私の中学時代も、公務員住宅や大企業の社宅の多い地域の中学は平均点が高く、語弊はありますが、商業地域や公営住宅の多い地域の中学(私もそんな学校へ行っていました)は平均点が低い傾向はありました。
ですから、地域間格差は仕方のない物だと思います。
それに現時点の学力がすべての物指しでもありません。
スポーツや文化活動の盛んな学校で充実した学校生活を送ることができれば、それは子供にとって大きな財産になります。
重要なのはまさに「将来の学力向上に通じる“学習習慣”の継続」なのでしょう。
そもそも教員にすら結果の公表されない学力テストは誰のために始められたんでしょう?
「官僚や文教族議員と繋がりの深い業者のためのテストではないか」と思うのは、私の僻み根性のせいであって欲しいとは思うのですが…
常にゆらぎの少ない、教育レベルの判断が出来る、優れた統計手法です。
私は、この優れた判断方法を、否定はされたくないのです。
統一試験は、結果を明確に示せ、と思います。
試験に至るまでに、努力を重ねてきた子もサボった子も、結果を知らされないと、次にどうしたらいいか判断できません。
教育に行く先の標がないと、迷うのはテストを受けた学生だ!
以前の投稿で原さんの言いたいことは創造が付きましたが。30歳を過ぎたわが子に与えた教育を考えたとき、結びで言っておられる「優先して開示するべきは、公教育における教育の“過程”」と言うくだりがインパクトを感じました。現在の公立高校は先生のレベルが学校によって大きく差があると思います。差がないとしても学校によって教育の過程に雲泥の差があります。レベルの低い学校では、最初から先生が教育を諦めているようなふしが感じられます。私が卒業した高校では1年生のときから進路指導を行っていましたが、神奈川県の有名県立進学校以外は最初から進路指導などはなく、進学は「卒業後自分で予備校へ通って受験せよ」とも取れる教育課程でした。あまりのひどさに驚いたものです。あの時しっかりした教育の過程を辿っていたなら別の道もあった筈です。2年に進級した頃から、おかしいと気付き「進路問題はどうなっているのか先生に聞いてみて」と指示したが、前述のごとく、その高校では「卒業後に自力で予備校に通い大学に行く生徒がほとんど」と聞き唖然としました。先生のする事と言ったら、受験の書類を作る手助けをする事だけだったのです。
良い学校もレベルが低いと言われる学校も、先生の能力に差がないのでしょうが、教育過程に対しての考え方が劣悪(お粗末)なために、優秀な先生が駄目な先生になっているのではないでしょうか。
談したらいいなと思いますね。
そして、まさに子どもの学力、能力とは現時点の点数ではありません。子どもの未来への可能性こそが育てられるべきです。
そして官僚と業者の癒着は当然考えられますね。この全国学力調査で一番ほくほくしているのは業者でしょうね。
点数を公開するか否かのくだらない議論で熱くなっていないで、教育の「過程」を熟慮しろ、と再び主張したい私です。
その結果により子どもの足を引っ張るのではなく、子どもの成長のために有意義に活かして欲しいものです。
今回の議論は、他者の結果まで知る必要があるのか、という点に重点があります。
偏差値と言うのは、まさに他者と比較した場合に自分がどの位置にいるかを示したデータですが、私はこれは不要だと考えます。
成績を点数で捉えたい場合も子ども本人の絶対評価で十分かと思います。
そしてもっと肝心なのは、どうしても点数にこだわりたい場合は、点数が表す内容までもを把握するべきと言うことです。
まとまりが悪い返答コメントですが、点数のみで子どものすべてを評価し子どもの可能性を潰してしまうような過ちを犯して欲しくない気持ちが強い私です。
おそらく、教育の変遷に大きな責任があるのでしょうね。今の教育は学びたいという人間が本来有しているはずの欲求を潰してばかりいるように感じます。
今の教育制度は変革を繰り返す度に空回りを繰り返し、子どもから学ぶ喜びを奪ってばかりいます。
学力調査の開示がどうのこうのとくだらない議論ばかりしていないで、根本に立ち返って学ぶ喜びを子供達から引き出すべく、教育の「過程」のあり方を問い直して欲しいものです。