今年もお盆が近づきつつある。
この“お盆”の歴史的意味合いとは、既に亡くなっている先祖の霊が子孫の元へ戻ってくる(新暦では)8月15日前後に、子孫がその霊を迎えるために様々な風習をとり行う期間を指すようである。
私が子供の頃にも、毎年この季節になると、祖母が南側の軒下に提燈を吊り下げて夜になると蝋燭の火を灯す等の手はずを整えて、先祖の“霊”を迎え入れるべく準備をしていた風景が印象的に脳裏に刻まれている。
時代が大きく変遷して、科学技術が急激に発達し少子高齢化社会が到来している現在、先祖の“霊”の重みが明らかに変容してきていることを実感する。
いつまでも、先祖の“霊”が子孫にまとわりついていたのでは、子孫に迷惑がかかる時代に突入しているとも言える今日この頃である。
そのような時代背景の下、この私ですら早くも“「死後」の美しいあり方”について思いを巡らす機会が既にあるのだ。
“「死後」の美しいあり方”などと響きの良い表題を掲げたが、具体的には自分の死後の“葬儀”と“墓”をどうしたいか、という現実的な課題について触れるのが今回の記事の趣旨である。
実は、私はもう既にある程度の“葬儀”と“墓”に関する自分自身の意思決定を下している。
我が家の場合、高齢出産で産んだ一人娘が、順当にいけば親の死後ほぼ40年もの年月を一人で生き抜かねばならない運命にある。 その一人娘に、親の“葬儀”は元より“墓”の管理等で40年間も手を煩わせるのはどう考察しても忍びない。 そんな無駄とも言える手間を娘に押し付けて他界するより、娘には自分自身の人生を思う存分有意義に生き抜いて欲しいものである。 そして、娘には親の葬儀や墓の管理等で無駄な支出をすることよりも、生前に出来うる限りの資産を残してやって本人が幸せに生きるためにこそ、それを役立てて欲しいのだ。
そこで、私は既に以下の決断をしている。
もしもこの私が我が家の3人のうち一番先に死んだ場合、葬儀は行わなくていいと家族に伝えてある。
この国の場合、法制度上死体は火葬することが義務付けられているため、家族の手を煩わせて申し訳ないがその手続きのみはお願いしたいのだが、葬儀は元より、親戚知人への報告さえ必要ないと伝えてある。 もしも、“風の知らせ”に私が死んだ事を知った知人が“線香を上げたい”と言って下さるならば、それは有難くお受けしたいが、心の中でそうしていただけるのみで十分である。
“墓”に関しても、我が郷里の両親に関しては既に永代供養の手続きを済ませているし、嫁ぎ先の先代の墓に入れていただくには(我が子も含めて)その子孫にご迷惑がかかるため、“墓”には入らず簡易な「手元供養」を考慮中である。
この「手元供養」をご存知ない方のために少しだけ説明すると、各種用意されている小さいメモリアルオブジェを買い求めるのだが、その中に遺骨の一部を入れてもよし入れなくともよし、もしも我が娘がこのオブジェ自体が不要になったならゴミとして捨て去ってもよし、という墓に変わる格安商品である。
もちろん、これとて我が娘が不必要ならば購入することもないのだが…。
世の中には、様々な宗教や思想が存在し、文化的にあるいは地域的要素として人の「死後」を奉る風習が揺ぎなく現存し続けている国や地域においては、その風習を継続する伝統を守り抜くべきことには必然性もあろう。
片や歴史的に宗教的背景の薄い日本においては、今の時代、一部を除き「死後」の世界にまでこだわる人は少数派ではなかろうか。
それ故に、良識ある著名人の中には現在では葬儀を身内のみで行っている事例が多いことには私も好ましく思っている。
自分の子孫はともかく、それとは無縁の周辺社会までをも義務的に巻き込んで大々的に葬儀を行う著名人には正直申し上げて辟易とさせられるばかりである。
例えば、若くして亡くなった著名人に関してはその事務所が商業主義に走っているのかと捉えられる大々的な葬儀も今時マスメディアで見聞するが、あれが故人の遺言であったならば、私など大いに幻滅である。
この私にもしも、私の何らかの能力や実績の一部として、例えば我が子に私の死後に影響力として残せ伝達し得るのならば、それは私が故意に伝達するのでなく、我が子の自然の成り行きに任せたいものである。
「死後」に至るまで美しくありたい…。
これは私の“哲学”であり“美学”でもある。
短い期間ですが、旅行に出かけます。
この“お盆”の歴史的意味合いとは、既に亡くなっている先祖の霊が子孫の元へ戻ってくる(新暦では)8月15日前後に、子孫がその霊を迎えるために様々な風習をとり行う期間を指すようである。
私が子供の頃にも、毎年この季節になると、祖母が南側の軒下に提燈を吊り下げて夜になると蝋燭の火を灯す等の手はずを整えて、先祖の“霊”を迎え入れるべく準備をしていた風景が印象的に脳裏に刻まれている。
時代が大きく変遷して、科学技術が急激に発達し少子高齢化社会が到来している現在、先祖の“霊”の重みが明らかに変容してきていることを実感する。
いつまでも、先祖の“霊”が子孫にまとわりついていたのでは、子孫に迷惑がかかる時代に突入しているとも言える今日この頃である。
そのような時代背景の下、この私ですら早くも“「死後」の美しいあり方”について思いを巡らす機会が既にあるのだ。
“「死後」の美しいあり方”などと響きの良い表題を掲げたが、具体的には自分の死後の“葬儀”と“墓”をどうしたいか、という現実的な課題について触れるのが今回の記事の趣旨である。
実は、私はもう既にある程度の“葬儀”と“墓”に関する自分自身の意思決定を下している。
我が家の場合、高齢出産で産んだ一人娘が、順当にいけば親の死後ほぼ40年もの年月を一人で生き抜かねばならない運命にある。 その一人娘に、親の“葬儀”は元より“墓”の管理等で40年間も手を煩わせるのはどう考察しても忍びない。 そんな無駄とも言える手間を娘に押し付けて他界するより、娘には自分自身の人生を思う存分有意義に生き抜いて欲しいものである。 そして、娘には親の葬儀や墓の管理等で無駄な支出をすることよりも、生前に出来うる限りの資産を残してやって本人が幸せに生きるためにこそ、それを役立てて欲しいのだ。
そこで、私は既に以下の決断をしている。
もしもこの私が我が家の3人のうち一番先に死んだ場合、葬儀は行わなくていいと家族に伝えてある。
この国の場合、法制度上死体は火葬することが義務付けられているため、家族の手を煩わせて申し訳ないがその手続きのみはお願いしたいのだが、葬儀は元より、親戚知人への報告さえ必要ないと伝えてある。 もしも、“風の知らせ”に私が死んだ事を知った知人が“線香を上げたい”と言って下さるならば、それは有難くお受けしたいが、心の中でそうしていただけるのみで十分である。
“墓”に関しても、我が郷里の両親に関しては既に永代供養の手続きを済ませているし、嫁ぎ先の先代の墓に入れていただくには(我が子も含めて)その子孫にご迷惑がかかるため、“墓”には入らず簡易な「手元供養」を考慮中である。
この「手元供養」をご存知ない方のために少しだけ説明すると、各種用意されている小さいメモリアルオブジェを買い求めるのだが、その中に遺骨の一部を入れてもよし入れなくともよし、もしも我が娘がこのオブジェ自体が不要になったならゴミとして捨て去ってもよし、という墓に変わる格安商品である。
もちろん、これとて我が娘が不必要ならば購入することもないのだが…。
世の中には、様々な宗教や思想が存在し、文化的にあるいは地域的要素として人の「死後」を奉る風習が揺ぎなく現存し続けている国や地域においては、その風習を継続する伝統を守り抜くべきことには必然性もあろう。
片や歴史的に宗教的背景の薄い日本においては、今の時代、一部を除き「死後」の世界にまでこだわる人は少数派ではなかろうか。
それ故に、良識ある著名人の中には現在では葬儀を身内のみで行っている事例が多いことには私も好ましく思っている。
自分の子孫はともかく、それとは無縁の周辺社会までをも義務的に巻き込んで大々的に葬儀を行う著名人には正直申し上げて辟易とさせられるばかりである。
例えば、若くして亡くなった著名人に関してはその事務所が商業主義に走っているのかと捉えられる大々的な葬儀も今時マスメディアで見聞するが、あれが故人の遺言であったならば、私など大いに幻滅である。
この私にもしも、私の何らかの能力や実績の一部として、例えば我が子に私の死後に影響力として残せ伝達し得るのならば、それは私が故意に伝達するのでなく、我が子の自然の成り行きに任せたいものである。
「死後」に至るまで美しくありたい…。
これは私の“哲学”であり“美学”でもある。
短い期間ですが、旅行に出かけます。
(埋めるとか焼くとか祭るとか全般ね)
って、もともとは死者の肉体だったものを土に還し、もしそんなものがあるのならのお話ですが魂を別の世界に送り出すためのものであったはずですよね。
すんなり別れるためのもの。
執着とか見栄とかとは対極にあるものであったはずだと思うんですよ。
あー、そういえばうちの私が入るはずの御墓はもういっぱいなんですよねー。困ったもんです。先日手を突っ込んでみたら骨でいっぱいで困ったもんです。
骨壷は使いません。穴の中にそのままざーーーっと入れちゃうの。
親戚みんなが使っていて、なかにはもう知らない人もお参りに来ていると言うアバウトさです。花が絶えなくていいんですけどね。
はやくあの骨のかたまりを土に還す方法はないものでしょうかね。
私の親戚の牧師は
「墓石に水をたくさんかけると早く土に還るよ。」
と言って柄杓で水をかけてましたが
(お寺が貸してくれるような柄杓で牧師さんが日本式の墓石に水をかけるというなんともシュールな光景です)、
本当でしょうか?
なんとしてでもすんなり土に帰りたいですよね。死後まで執着に苦しむなんて、たまったものじゃありません。
まだまだ早い・・死後の世界を美しくも良いが今現在を彩と夢を自分の人生に生きるのが大事だよ、世間や政治に批判も論じるのもいいが自分のしなければならないことが沢山あるよ・・まず、私との飲む機会も大事さ ・・命は天からの借り物、返済期間までは思い切り使うことさ。。ね
死に付いては、若い頃の方がよく考えましたが、この歳では、全く厚かましく生きています。
20代、バイクに跨りながら死なない方法ばかりを考えました。(カッコ良く言いましたが、普通に安全運手してましたって事です)
死を一番、ピュアで真摯に捉えていた頃です。
でも、私の親戚は、私一人で、埋葬の事を決められませんね!特に家柄が良いとかではなく、近所にかたまって親戚がいるからです。
お盆は、私の実兄家族と実妹家族と会えます。
今年は、話題で、埋葬の方法を検討しましょうか?絶対に、ボツです。
高価なお墓を求めても永久に存在する事などはあり得ませんので、手元供養は一考の価値がありそうです。狭い日本、お墓だらけにする流れを食い止める為の一石になるかもしれません。
人間はスーパーでも買える物質で出来た物体でしかないと思うのは無宗教だからでしょうか。
先祖が居たから自分が存在する。
先祖供養を重んじる日蓮宗はこじつけ以外のなにものでもない。
熱心な仏教徒だから先祖供養を共感するのだろう。
著名人の贅沢な告別式は商業目的以外に考えられないですね。
私の留守中に、皆様より価値あるコメントを沢山頂戴しましたことに心より感謝申し上げます。
量さん、おっしゃる通りです。
精神は「無」に戻りたいのですが、持って生まれたこの肉体、我が意に反して元素としてどうしても後々まで残ってしまうのがどうも厄介ですね。そうであるならば、早い内に“土”に戻して欲しいものです。
館長さん、ご多忙中コメントをありがとうございます。
心優しい館長さんとグラスを傾けさせていただける日を、私も心待ちにしております!
死後のあり方を考察する事により、日々を生きるエネルギーが倍増している私ですので、どうか館長さんも一緒に飲ませていただける日を、今まで通りお待ち下さいますように!
ドカドンさんは95歳まで生きられるとのこと、私もその年齢までこのブログでも続けていたいものですよ!
確かに、若い頃程「死」をピュアに捉えられていましたよね。
人生の後半に至っては、どうしても打算的になるからこそ、こういう記事を綴ってしまうのだと私も感じます。
ドカドンさんは今頃は「お墓」についてご親族と語り合われている最中でしょうか??
空乏層さん、時々「原左都子エッセイ集」を覗いて下さって、コメントで私を勇気付けて頂き誠にありがとうございます。
去る人は日を以って疎し…、空さんがおっしゃる通りの思いがあるが故に、今回私自身の身の振り方について早くも考察した次第です。
isseiさんにも今回の記事にご賛同いただき、とてもうれしく思います!
手元供養は実にシンプルで、後世に渡って迷惑をかける範囲を最小限にとどめることが可能なようです。
ほんと、そうなんです。狭い日本、無宗教の人に墓が必要かどうか、一般の方々にも再考して欲しいものです。
ゆうきさん、「原左都子エッセイ集」へご訪問いただきコメントを頂戴しまして誠にありがとうございます。
代々伝わる宗教や風習に裏付けられた社会環境に育った人々にとっては、「死後」の法要に関しても重要な位置づけであることは私にも理解可能です。
そうではなさそうな日本の著名人の死後の贅沢な告別式等々は、まさにゆうきさんにも同感いただける通り商業目的と私も捉えざるを得ません。
「死後」においてまで、みっともない姿を晒したくはない美学を貫きたいものです。