(写真は2011年3月11日午後2時46分頃、東北・関東地方で発生したM9,0大地震一波大揺れ直後に撮影した我が家の被災状況の一部。 棚からCD類が大量に落下し床に散乱した。 余震中の撮影のため、その揺れ幅に連動して大きく手振れしている。 2011.3.12公開の「原左都子エッセイ集」バックナンバーにて既に公開した写真を再び掲載した。)
冒頭から東日本大震災発生翌日に綴り公開した、当エッセイ集2011.3.12バックナンバー 「悪夢の大震災、その時私は…」 より一部を以下に引用させていただこう。
2011年3月11日のまさにその時、自宅に一人でいて外出予定があった私はその準備に取り掛かろうとしていた。
「あっ、揺れている。これは地震だ。」 しかも揺れがなかなか収まらないどころか、揺れ幅を激化させつついつまで経っても大揺れが続く。
(これは尋常な地震ではないぞ!)と思い始めるのと同時に、和室に設置してある高さ230cm程の書棚が前後に大きく波打ち始め、上部が後ろの壁にぶつかってはドーンと大音量を発し開き戸が全開した。 咄嗟に(中の書籍が飛び出したら大変!)と思った私がその扉を閉めようと和室に駆けつけたところ、横の机の上に山積みにしてあった書物や資料等々が机の揺れと共に和室一面に放り落とされるではないか。 しかも、書棚の揺れはますます大きくなるばかりだ。
この時私は、ここで書棚を押さえていたのでは必ずや倒れて、もしかしたら我が命を失うであろう事がやっと想定できた! (書棚が倒れる心配よりも自分の命をつなぐ心配をするべきだ!)と少し冷静さを取り戻してみるものの、和室から見えるリビングルームの置物はすべて床に放り落とされ、壁に掛けていた絵画等も落ちて散在している。
尚、揺れがおさまる気配はない。 とりあえず自分の命を守ることを優先した私は、自宅内の物が落下しない場所に立った。 立っていられない程の揺れであるのだが、座ると上から物が落下してケガをする恐怖感で座る気になれないのだ。
やっと大揺れ一波が通り過ぎた後に尚大小の揺れが続く中テレビのスイッチを入れると、東北地方の大津波警報が発信され 「すぐに高台に避難して下さい。しっかりした高いビルの上階に避難して下さい!」 との悲鳴にも似たアナウンサーの指示が流れている。 私自身は東京地方に特化した情報こそが知りたいのだが、そんなことよりも大被害を及ぼす津波警報が優先されるのは当たり前である。
これは自分で今取るべき方策を判断するしかないと悟った私は、とりあえずベランダから周辺地域の状況を観察した。(参考のため、いつもは手で開けるにも力がかかる程の重量があるベランダ側の大型二重ガラス窓が、先ほどの大揺れで開いた状態だった。) 幸いな事には一見したところ近隣住居の中に倒壊した家屋はなく平静を保っている様子で、近くの公立小学校から児童向けの地震発生のアナウンスが聞こえては来るものの“古い校舎”が崩れている様子もない。
おそらくこのまま自宅にいるのが一番安全だと悟った私は、まだ大揺れ余震が続く中、家中の見回りを開始した。 台所に行けば食器棚の下段から食器が転がり落ちている。(食器棚上段に関しては開き戸を固定できる構造であるため、棚内部での落下にとどまっている。) 娘の部屋でも、やはり学習机の上の教材や書棚の中身が部屋に落下し散乱している。 そして、身内の部屋では(上記写真のごとく)オーディオ棚の上に積み上げてあったCD類が床一面に散乱している状況だった。
次なる心配は我が娘! であるのは親として当然である。 首都圏の交通網は全面マヒ状態だ。 そろそろ娘の下校時かと思い早速携帯通話を試みたものの、報道で見聞しているごとく携帯電話は一切繋がらない。 16時を過ぎてパソコンからメールをしてみると、やっと繋がった! どうやら学校の指示で学内に留まった方が安全であるため学校で待機しているとのことで、娘からそのメール一報を受けて一応安心した私である。
家族が帰宅する前にある程度室内の散乱物を片付けようと余震の中頑張った後、今度は夕食の準備をしようとするとガスが付かない。(そりゃそうだろうなあ。この余震が続く中“火”など使ったものなら被害を拡大するだけだ。)と悟りつつも、我が家では電気と水道が寸断されていなかったことが大いなる救いだった。
娘に話を戻すと、首都圏の交通網は本日中の復旧が不可能状態のようだ。 「下手に大混乱の首都で“帰宅難民”になるよりも、もしも学校で一夜を明かせるならばそれが一番の安全策!」とのサリバン母の指示に素直に従った我が娘は、所属高校の体育館で「緊急対策グッズ」を配られ眠れぬ中何とか一夜を凌いだようだ。 今朝になってやっと復旧したJR等々大都会の交通網を大混雑の中乗り継ぎ2時間程をかけて帰宅した我が娘は、今回の記録的大震災により人生初めての惨劇を自らの心身で経験して疲労困憊した様子で今現在眠りこけている。
今回のエッセイでは、東京地方に住居を構える原左都子が昨日より経験している大地震の現況について伝えてきた。
日本の歴史上最大級である今回の大震災の被害状況は、今後の調査と共に大幅に拡大するであろうことを察していたたまれない思いだ。 東京の我が家でも今まだ余震が続いていて、油断できない日々である。
(以上、「原左都子エッセイ集」2011.3.12 バックナンバーより一部を引用したもの。)
話題を、2016年の現在に移そう。
東日本大震災直後の私は、自宅にて単身で経験した“過去に一度も経験しない大揺れ”により我が家の棚上等の設置物のほぼ全部が床に振り落される光景を“実況で”目の当たりにしたトラウマから解放されずにいた。
このトラウマから救われたのはずっと後のことである。
と言うのも、大震災発生当時に職場や学校にいた亭主や娘に聞いたところ、「そんなには揺れなかったよ」との返答だったのだ。 あるいは、都内一戸建てに住んでいる親族や知人等に尋ねても、「我が家では落下物はなかった」と返される。(まるで私が大袈裟に自分が直面した被害を吹聴しているかのごとく…)
そんな折、時は既に夏頃だったと思うが、ニュース報道にてやっと東日本大震災時の“高層ビル”等の大揺れに関して調査分析した結果が発表された。
この報道に、やっと我がトラウマから解放されたものだ。
要するに高層ビルの場合、上階では予想をはるかに超える揺れが発生するとの事だ。 例えば新宿超高層ビルの上階でも、幅1~2mほどの揺れが長時間続いたとの報道だった。 更にそれは一般人が住むマンション物件でも同様で、上階程揺れ幅が大きい物件もあった。 との報道に接した時、やっと我が“大揺れトラウマ”が消滅したとも言える。
しかも、もう一点原左都子から指摘したい事がある。
大震災等の非常事態発生時に単身でいたか集団でいたかに関して、その心理状態が大きく左右されるのではなかろうか、と。
どうやら、私自身があの大震災を自宅で一人で耐えたのに比し、亭主も娘も大集団内で集団上部の指揮指令に従い行動すれば済んだ様子だ。
ただこの「他力本願」こそが一番危険だった事は、大震災一番の被災地である東北地方こそがご経験されたことであろう…
大津波警報を受け、皆が皆、自家用車を走らせ高地に向かう道中で亡くなった市民も多いと見聞している…
あるいは、学校から子どもを迎えに来いと命令され、大津波が迫る中その行動を取らざるを得なかった保護者も数多く犠牲になっている。
同調意識こそが身を亡ぼす… とまでは言わないが、とにかく大災害の時程、自分の身の安全を自分自身で守るがごとくの対策を常に講じて欲しい気もする。
とにもかくにも千年に一度と言われる歴史的大震災を、不幸な事に5年前に我が国は既に経験してしまった。
この事態を、国政こそが今後の自らの教訓と位置付けられないものだろうか??
本日東日本大震災五回忌を迎えた場面に際し、自民党政権は(夏の選挙戦を視野に入れ)小手先の国家対策を国民に告げるよりも優先して欲しいのは、今後長年に渡る「東日本大震災復興計画」の実現だ!
昨日のニュース報道によれば、福島原発事故に関してこの5年間内ではほとんどの復興計画が成就していないがために、今後何兆円もの対策費用が国民に課せられるとの事だ。
それを国民に言う前に、自民党政権は今一度未来に渡る緻密な福島原発事故対策を逐一国民に提示するべきだろう。
国民側は皆、それぞれの立場で東日本大震災からの復興を願っていると私は信じている。
そんな国民感情を把握せず、国民は既に大震災など忘れ去ったと身勝手に思い込んで自分らに有益な政策ばかりに血税を注ぎ、自滅の道程を歩もうとしているのは自民党政権が操る国政自体である事を、この日にこそ認識して欲しいものだ。
冒頭から東日本大震災発生翌日に綴り公開した、当エッセイ集2011.3.12バックナンバー 「悪夢の大震災、その時私は…」 より一部を以下に引用させていただこう。
2011年3月11日のまさにその時、自宅に一人でいて外出予定があった私はその準備に取り掛かろうとしていた。
「あっ、揺れている。これは地震だ。」 しかも揺れがなかなか収まらないどころか、揺れ幅を激化させつついつまで経っても大揺れが続く。
(これは尋常な地震ではないぞ!)と思い始めるのと同時に、和室に設置してある高さ230cm程の書棚が前後に大きく波打ち始め、上部が後ろの壁にぶつかってはドーンと大音量を発し開き戸が全開した。 咄嗟に(中の書籍が飛び出したら大変!)と思った私がその扉を閉めようと和室に駆けつけたところ、横の机の上に山積みにしてあった書物や資料等々が机の揺れと共に和室一面に放り落とされるではないか。 しかも、書棚の揺れはますます大きくなるばかりだ。
この時私は、ここで書棚を押さえていたのでは必ずや倒れて、もしかしたら我が命を失うであろう事がやっと想定できた! (書棚が倒れる心配よりも自分の命をつなぐ心配をするべきだ!)と少し冷静さを取り戻してみるものの、和室から見えるリビングルームの置物はすべて床に放り落とされ、壁に掛けていた絵画等も落ちて散在している。
尚、揺れがおさまる気配はない。 とりあえず自分の命を守ることを優先した私は、自宅内の物が落下しない場所に立った。 立っていられない程の揺れであるのだが、座ると上から物が落下してケガをする恐怖感で座る気になれないのだ。
やっと大揺れ一波が通り過ぎた後に尚大小の揺れが続く中テレビのスイッチを入れると、東北地方の大津波警報が発信され 「すぐに高台に避難して下さい。しっかりした高いビルの上階に避難して下さい!」 との悲鳴にも似たアナウンサーの指示が流れている。 私自身は東京地方に特化した情報こそが知りたいのだが、そんなことよりも大被害を及ぼす津波警報が優先されるのは当たり前である。
これは自分で今取るべき方策を判断するしかないと悟った私は、とりあえずベランダから周辺地域の状況を観察した。(参考のため、いつもは手で開けるにも力がかかる程の重量があるベランダ側の大型二重ガラス窓が、先ほどの大揺れで開いた状態だった。) 幸いな事には一見したところ近隣住居の中に倒壊した家屋はなく平静を保っている様子で、近くの公立小学校から児童向けの地震発生のアナウンスが聞こえては来るものの“古い校舎”が崩れている様子もない。
おそらくこのまま自宅にいるのが一番安全だと悟った私は、まだ大揺れ余震が続く中、家中の見回りを開始した。 台所に行けば食器棚の下段から食器が転がり落ちている。(食器棚上段に関しては開き戸を固定できる構造であるため、棚内部での落下にとどまっている。) 娘の部屋でも、やはり学習机の上の教材や書棚の中身が部屋に落下し散乱している。 そして、身内の部屋では(上記写真のごとく)オーディオ棚の上に積み上げてあったCD類が床一面に散乱している状況だった。
次なる心配は我が娘! であるのは親として当然である。 首都圏の交通網は全面マヒ状態だ。 そろそろ娘の下校時かと思い早速携帯通話を試みたものの、報道で見聞しているごとく携帯電話は一切繋がらない。 16時を過ぎてパソコンからメールをしてみると、やっと繋がった! どうやら学校の指示で学内に留まった方が安全であるため学校で待機しているとのことで、娘からそのメール一報を受けて一応安心した私である。
家族が帰宅する前にある程度室内の散乱物を片付けようと余震の中頑張った後、今度は夕食の準備をしようとするとガスが付かない。(そりゃそうだろうなあ。この余震が続く中“火”など使ったものなら被害を拡大するだけだ。)と悟りつつも、我が家では電気と水道が寸断されていなかったことが大いなる救いだった。
娘に話を戻すと、首都圏の交通網は本日中の復旧が不可能状態のようだ。 「下手に大混乱の首都で“帰宅難民”になるよりも、もしも学校で一夜を明かせるならばそれが一番の安全策!」とのサリバン母の指示に素直に従った我が娘は、所属高校の体育館で「緊急対策グッズ」を配られ眠れぬ中何とか一夜を凌いだようだ。 今朝になってやっと復旧したJR等々大都会の交通網を大混雑の中乗り継ぎ2時間程をかけて帰宅した我が娘は、今回の記録的大震災により人生初めての惨劇を自らの心身で経験して疲労困憊した様子で今現在眠りこけている。
今回のエッセイでは、東京地方に住居を構える原左都子が昨日より経験している大地震の現況について伝えてきた。
日本の歴史上最大級である今回の大震災の被害状況は、今後の調査と共に大幅に拡大するであろうことを察していたたまれない思いだ。 東京の我が家でも今まだ余震が続いていて、油断できない日々である。
(以上、「原左都子エッセイ集」2011.3.12 バックナンバーより一部を引用したもの。)
話題を、2016年の現在に移そう。
東日本大震災直後の私は、自宅にて単身で経験した“過去に一度も経験しない大揺れ”により我が家の棚上等の設置物のほぼ全部が床に振り落される光景を“実況で”目の当たりにしたトラウマから解放されずにいた。
このトラウマから救われたのはずっと後のことである。
と言うのも、大震災発生当時に職場や学校にいた亭主や娘に聞いたところ、「そんなには揺れなかったよ」との返答だったのだ。 あるいは、都内一戸建てに住んでいる親族や知人等に尋ねても、「我が家では落下物はなかった」と返される。(まるで私が大袈裟に自分が直面した被害を吹聴しているかのごとく…)
そんな折、時は既に夏頃だったと思うが、ニュース報道にてやっと東日本大震災時の“高層ビル”等の大揺れに関して調査分析した結果が発表された。
この報道に、やっと我がトラウマから解放されたものだ。
要するに高層ビルの場合、上階では予想をはるかに超える揺れが発生するとの事だ。 例えば新宿超高層ビルの上階でも、幅1~2mほどの揺れが長時間続いたとの報道だった。 更にそれは一般人が住むマンション物件でも同様で、上階程揺れ幅が大きい物件もあった。 との報道に接した時、やっと我が“大揺れトラウマ”が消滅したとも言える。
しかも、もう一点原左都子から指摘したい事がある。
大震災等の非常事態発生時に単身でいたか集団でいたかに関して、その心理状態が大きく左右されるのではなかろうか、と。
どうやら、私自身があの大震災を自宅で一人で耐えたのに比し、亭主も娘も大集団内で集団上部の指揮指令に従い行動すれば済んだ様子だ。
ただこの「他力本願」こそが一番危険だった事は、大震災一番の被災地である東北地方こそがご経験されたことであろう…
大津波警報を受け、皆が皆、自家用車を走らせ高地に向かう道中で亡くなった市民も多いと見聞している…
あるいは、学校から子どもを迎えに来いと命令され、大津波が迫る中その行動を取らざるを得なかった保護者も数多く犠牲になっている。
同調意識こそが身を亡ぼす… とまでは言わないが、とにかく大災害の時程、自分の身の安全を自分自身で守るがごとくの対策を常に講じて欲しい気もする。
とにもかくにも千年に一度と言われる歴史的大震災を、不幸な事に5年前に我が国は既に経験してしまった。
この事態を、国政こそが今後の自らの教訓と位置付けられないものだろうか??
本日東日本大震災五回忌を迎えた場面に際し、自民党政権は(夏の選挙戦を視野に入れ)小手先の国家対策を国民に告げるよりも優先して欲しいのは、今後長年に渡る「東日本大震災復興計画」の実現だ!
昨日のニュース報道によれば、福島原発事故に関してこの5年間内ではほとんどの復興計画が成就していないがために、今後何兆円もの対策費用が国民に課せられるとの事だ。
それを国民に言う前に、自民党政権は今一度未来に渡る緻密な福島原発事故対策を逐一国民に提示するべきだろう。
国民側は皆、それぞれの立場で東日本大震災からの復興を願っていると私は信じている。
そんな国民感情を把握せず、国民は既に大震災など忘れ去ったと身勝手に思い込んで自分らに有益な政策ばかりに血税を注ぎ、自滅の道程を歩もうとしているのは自民党政権が操る国政自体である事を、この日にこそ認識して欲しいものだ。