原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

まもなく終焉を迎える我がサリバン人生へのノスタルジー

2016年03月14日 | 自己実現
 (写真は、先週3月10日我が娘が大学卒業式を終えた後、大学構内にて母の私が撮影した娘の晴れ姿。 個人情報保護の観点よりあえて小さく映っている写真を縮小して掲載した。)


 娘の卒業式を終えた翌日の3月11日、我が郷里に一人暮らしの実母が孫の卒業祝いの電話を掛けて寄越した。
 それは、朝早い時間帯だった。
 娘本人は着慣れない和服や、大学にての最後の懇親会等の行事出席、その後の写真撮影、義母のケアマンション訪問やその後の家族夕餉会等々のハードスケジュールで疲れ果て、未だ眠りこけていた。

 実母が電話にて私に告げるには、「○ちゃん(娘の事)は起こさなくていいよ。 卒業式の写真は後で送って欲しい。 それにしても、貴方(私の事)はこの20年間、本当に頑張ったね。  あの子を4年制大学卒業まで導き続けた貴方の20年間に及ぶ指導教育の道程はそれはそれは大変だった事と思う。 私は貴方にそんな大変な事を何一つしてあげていないのに、自分一人で頑張って自分の人生を歩んで来たことは十分わかっているよ。 孫の○ちゃんが大学卒業するまで、どれ程貴方が苦労したかは遠くに暮らしていても想像はついている。 そんな貴方にこれからも東京の義母さんや私の面倒で迷惑をかけるけど、とにかく貴方自身がしばらく体を休めなさい。」 

 実母からのこの電話を受けた当日とて、私は認知力が低下している義母から幾度となく繰り返される(訳が分かりにくい)連絡や、娘の大学卒業祝いのフォトブックをパソコンで作成する作業等々で休む暇がないスケジュール状態だった。
 娘の卒業式当日の夜中に私が見た夢とは、過去に嫌っていた人物から塩酸と硝酸を飲まされて苦しむとの、とてつもない悪夢だった。   あの日、私は実質夜中に胃を傷めていたと振り返る。 おそらく胃液が喉まで戻って来てその苦さに耐えられず苦しんでいたのだろう。
 そんな私は実母より電話を受けた朝も、未だ軽い吐き気を催したものだ。 
 正直言って休む暇もなく胃痛を起こしつつ、親族の皆に我が働きを期待されながら弱音を吐かずに激務をこなしている今、何で実母が電話を寄越すのか! とのイライラ状態で電話を受けた私だ。 少し落ち着てからにして欲しいのに…、と。

 それでも実母の電話から2、3日が経過し、娘の卒業祝いフォトブック作成も終了した今、再び郷里に一人暮らす実母の電話内容が感慨深く私の心に迫るのだ。
 上京して後の私の苦労など露知らず、実母は今に至って尚身勝手にも私の献身を出来るだけ利用せんと企んでいると、少しの憎しみすら抱いていた。


 一旦実母は放っておくとして、我がサリバン人生の道程はそれはそれは厳しいものだった。
 
 その道程に関しては、当該「原左都子エッセイ集」内で幾度も公開して来ている。
 その一つである 2009.3.26 公開の「We can graduate!」からその一部を、今一度以下に要約して紹介させて頂こう。

 長い道程だった。
 一昨日、我が子が中学校を卒業した。
 義務教育の9年間は、我々親子にとって実に長い道程だった。
 まさに、子どもの学ぶ“権利”を最大限保障してやりたいがための、親としての“義務”との格闘の9年間だったと言える。
 当ブログのバックナンバー「医師の過失責任」において既述しているが、出産時のトラブルにより仮死状態で生まれざるを得なかった我が子は、多少の事情を抱えての誕生だった。
 今回は「学習」に的を絞って、我々親子が歩んだ道程を少しだけ紹介することにしよう。
 ケアは早期から着手するほど効果が高いとの認識で、子どもが3歳時より親子で某教育研究所に通いつつ、家庭では“ヘレン・ケラーとサリバン先生”のごとくの娘に対する私の本格的な「教育」が早くも始まった。   我が子は“見よう見まねで育つ”という部分において多少の困難があり、すべての事柄を手取り足取り教え込む必要があった。 一例であるが、“スプーンを口に運んで食する”という行動が見よう見まねで出来ない。これを、まずスプーンを手に持つ動作、食べ物をすくい取る動作、それを口まで運ぶ動作、口の中へ入れる動作、等々、一動作毎に分解して段階を経つつ、時間をかけて学習できるように導くのだ。   生活上のほぼすべての行為に関して、上記のような懇切丁寧な指導を必要とした。 何事の習得においても、おそらく人の数倍以上の時間を要した。  
 小学校入学後は子どもの学習机をリビングにおいて、学校での学習の復習を来る日も来る日も私が付きっ切りで行い、確実な学習内容の理解に努めさせた。 義務教育段階で学習に遅れをとったのでは、その先々の自立が危ぶまれるためである。 低学年の頃は、国算社理4教科のみならず音楽や体育等の復習まで付き合った。(どういう訳か図工と家庭科の実技に関しては本人が興味を示し、下手で時間はかかるのだが独力で成し遂げてくれた。)さすがに高学年以降はそこまでの時間が取れず、4教科の復習のみとなったのだが。
 中学校進学段階で我が家が私立の中高一貫校を志望したのは、高校受験における私の指導の負担を回避するためというのが、実は本音の理由である。  
 我が子の場合、天性の素直さと相当の努力家であることが学習能力の向上に大きく幸いしたようだ。 加えて幼少の頃からの親子二人三脚での学習への取り組みにより、娘には学習習慣が確実に身に付いている。 中2の半ば以降は本人の学習意欲を尊重し、私は子どもの家庭学習から一歩退き、子どもの疑問質問にのみ答える方針に切り替えて現在に至っている。
 以上のように、私も共に学んだ9年間だった。  私は人生において2度、義務教育の学習をしたような感覚である。 いや、自分で学ぶことは容易であるが、人に指導する事とは自分が学ぶ何倍ものエネルギーと忍耐力を要するものだ。   そんな娘も、上記のごとくの持って生まれた素直さと忍耐力の賜物で、学習面においては何ら見劣りがしない程の学習能力を身につけての中学卒業である。
 もしかしたら、我が子ほど9年間に渡り弛まぬ努力を続けた小中学生は他に類を見ないかもしれない。
 “学ぶ権利”と“学ばせる義務”。 ふたつの力の二人三脚で、我が子の「学び」に対して真っ向から立ち向かった我が家における義務教育の9年間だった。
 心から、卒業おめでとう。
 We can graduate!
 (以上、「原左都子エッセイ集」 娘の義務教育卒業時点でのサリバンの思いを綴ったエッセイを紹介したもの。)


 いやはや、これが娘の大学卒業ともなると、サリバンとしても卒業式に対してさほどの思い入れが無い事実に救われる思いだ。

 実は、私は娘の大学卒業式には出席しなかった。
 どうせ会場後ろの方で他の卒業生父兄と一緒くたに座らされ、寒さに耐えさせられるのが“おち”だろう。
 「勘弁して欲しいよなあ」と既に成長した娘に告げ、「式典が終わった後に貴方の写真を撮影しに行くから」と申し出る“我儘・天邪鬼母”の意向を快諾してくれた娘だ。


 ただこれで、我が「サリバン任務」が終わる訳ではない。 
 
 現世は安倍政権アベノミクス経済政策の大失策により、実に歪み多き世の中と変わり落ちぶれ果てていく事であろう。
 こんな混とんとした時代に社会に進出して労働力を提供しつつ生き抜かねばならない娘の未来を、今後も引き続きサリバンの私が陰ながら見守らねばならない日々は続く。

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