先だって美術賞受賞のため私がインドまで同行させていただいた美術家の長はるこ氏は、ご自身の美術家としてのご活動と平行して、東京西池袋にてギャラリー「B-gallery」を主宰、運営されている。
この「B-gallery」に於いて、現在「櫻庭春来展」が開催中なのであるが、昨日櫻庭氏による作者ギャラリートークを拝聴するため、私はギャラリーへ出かけた。
まず、今回「B-gallery」に於いて個展を開かれている櫻庭春来氏について、その略歴を簡単に紹介しよう。
櫻庭氏は現在ドイツ、フランス、米国等諸外国で活躍されている日本画家でいらっしゃる。
氏は、画廊や美術館が日本においては実社会とかけ離れた状況にあることを懸念され、90年代後半より、公共性のある建築空間や人々の日常生活に近い場でのアートワークによる精神的な豊かさを創り出していく試みが現在の日本では重要と考えられた。そして、建築家とのコラボレーションを中心に、公共建設、集合住宅、能舞台、各種店舗等のアートを手がけられ、現在ご活躍中である。
また、近年、中高生の学校のカリキュラムでどんどん削られていく美術教育についての問題点や、美術が社会とリンクして人々の精神的豊かさを創り出すことの重要性を一般の人々に身近に捉えてもらう事を目標として、講演活動を行なっている美術家でもいらっしゃる。
今回の「B-gallery」の作者ギャラリートークにおいても“美術が実社会に創り出せるもの”とのテーマで、櫻庭氏のこれまでの美術家としてのご経験等に基づいた興味深いお話が展開された。
以下に昨日の櫻庭氏のトーク内容を紹介しよう。(だたし、あくまでも美術に関してはド素人の私の貧弱な聴き取り能力や身勝手な興味関心に応じた内容にアレンジしてしまっていることも重々考えられますため、もしも櫻庭氏のご思想や論点と大きく外れておりましたならば、この場で失礼をお詫び申し上げます。)
“美術”とはこの世の中で一体何を求めてきたのか?
古代においては、それは“生存の祈り”であった。
中世に入り、人々が共存する上での哲学、ルールの確立の要請が生まれ、宗教が広まることになる。そのような社会の要請と相俟って“宗教絵画”が流行した。
近代になると市民、民衆の力が王政等の絶対権力に対抗して底辺から湧き出てくる時代へと移行し、自由を勝ち取り人々は解放されてゆく。そんな時代の美術も表現者としての自由と解放に向かう時代に移行する。
第二次大戦後の現代の日本においては、ヨーロッパから短期間に多くの現代美術を吸収していく時代へと突入する。その過程において単なる“様式”のみを模倣してしまうという過ちも犯しつつ美術は発展する。そのような流れの中、人間本来の姿を一から問い直すシュールレアリズム等のダダイズムの動きとも相まみえつ現在の美術に至っていく。
学校の美術教育が目指すべくは、10人いれば10人の発想があること、すなわちお互いを認め合う個性の尊重である。にもかかわらず、現在の日本の教育制度の変遷(偏差値教育への偏向)と共に、中高における美術教育の時間がどんどん削られてきている現状は大変遺憾であり残念な状況である。
以上が、櫻庭氏のギャラリートークの内容の私の聞き取りの要約である。
そして櫻庭氏は、芸術と市民、そしてその市民が暮らす地とのコラボレーションが現在日本国内でも進行している実例について紹介された。香川県の直島町の事例なども紹介されつつ、人々が日々暮らしを営む実社会との融合を目指す芸術の諸活動の展開の例と共に、ご自身の美術家としての現在の思いを熱く語られた。
詳細は「B-gallery」において現在開催中の「櫻庭春来展」に足を運ばれましたら、更なる発見があることと思います。
以下に、「B-gallery」の連絡先を記します。
〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-31-6
(自由学園 明日館 西隣)
TEL&FAX 03-3989-8608
E-mail baru@beige.ocn.ne.jp
URL http://www.B-gallery.info
(今回の記事は、あくまでも本ブログの著者である原左都子が自主的に綴りました内容です。記事内容の欠落、瑕疵等の責任はすべて原左都子に帰属致します。)
この「B-gallery」に於いて、現在「櫻庭春来展」が開催中なのであるが、昨日櫻庭氏による作者ギャラリートークを拝聴するため、私はギャラリーへ出かけた。
まず、今回「B-gallery」に於いて個展を開かれている櫻庭春来氏について、その略歴を簡単に紹介しよう。
櫻庭氏は現在ドイツ、フランス、米国等諸外国で活躍されている日本画家でいらっしゃる。
氏は、画廊や美術館が日本においては実社会とかけ離れた状況にあることを懸念され、90年代後半より、公共性のある建築空間や人々の日常生活に近い場でのアートワークによる精神的な豊かさを創り出していく試みが現在の日本では重要と考えられた。そして、建築家とのコラボレーションを中心に、公共建設、集合住宅、能舞台、各種店舗等のアートを手がけられ、現在ご活躍中である。
また、近年、中高生の学校のカリキュラムでどんどん削られていく美術教育についての問題点や、美術が社会とリンクして人々の精神的豊かさを創り出すことの重要性を一般の人々に身近に捉えてもらう事を目標として、講演活動を行なっている美術家でもいらっしゃる。
今回の「B-gallery」の作者ギャラリートークにおいても“美術が実社会に創り出せるもの”とのテーマで、櫻庭氏のこれまでの美術家としてのご経験等に基づいた興味深いお話が展開された。
以下に昨日の櫻庭氏のトーク内容を紹介しよう。(だたし、あくまでも美術に関してはド素人の私の貧弱な聴き取り能力や身勝手な興味関心に応じた内容にアレンジしてしまっていることも重々考えられますため、もしも櫻庭氏のご思想や論点と大きく外れておりましたならば、この場で失礼をお詫び申し上げます。)
“美術”とはこの世の中で一体何を求めてきたのか?
古代においては、それは“生存の祈り”であった。
中世に入り、人々が共存する上での哲学、ルールの確立の要請が生まれ、宗教が広まることになる。そのような社会の要請と相俟って“宗教絵画”が流行した。
近代になると市民、民衆の力が王政等の絶対権力に対抗して底辺から湧き出てくる時代へと移行し、自由を勝ち取り人々は解放されてゆく。そんな時代の美術も表現者としての自由と解放に向かう時代に移行する。
第二次大戦後の現代の日本においては、ヨーロッパから短期間に多くの現代美術を吸収していく時代へと突入する。その過程において単なる“様式”のみを模倣してしまうという過ちも犯しつつ美術は発展する。そのような流れの中、人間本来の姿を一から問い直すシュールレアリズム等のダダイズムの動きとも相まみえつ現在の美術に至っていく。
学校の美術教育が目指すべくは、10人いれば10人の発想があること、すなわちお互いを認め合う個性の尊重である。にもかかわらず、現在の日本の教育制度の変遷(偏差値教育への偏向)と共に、中高における美術教育の時間がどんどん削られてきている現状は大変遺憾であり残念な状況である。
以上が、櫻庭氏のギャラリートークの内容の私の聞き取りの要約である。
そして櫻庭氏は、芸術と市民、そしてその市民が暮らす地とのコラボレーションが現在日本国内でも進行している実例について紹介された。香川県の直島町の事例なども紹介されつつ、人々が日々暮らしを営む実社会との融合を目指す芸術の諸活動の展開の例と共に、ご自身の美術家としての現在の思いを熱く語られた。
詳細は「B-gallery」において現在開催中の「櫻庭春来展」に足を運ばれましたら、更なる発見があることと思います。
以下に、「B-gallery」の連絡先を記します。
〒171-0021 東京都豊島区西池袋2-31-6
(自由学園 明日館 西隣)
TEL&FAX 03-3989-8608
E-mail baru@beige.ocn.ne.jp
URL http://www.B-gallery.info
(今回の記事は、あくまでも本ブログの著者である原左都子が自主的に綴りました内容です。記事内容の欠落、瑕疵等の責任はすべて原左都子に帰属致します。)
中高の美術教育がどんどん削られている事は現実であり、これに関して私も憂いを覚えます。
美術、広くは芸術と言っても良いのですが、これらの基本は創造性にあります。人間の生命力の発露でもあります。
創造性を広義に捉えるならば、何も美術や芸術に限りません。自然科学の領域の教育に於いても創造性は大切です。
創造性を根幹とした人文科学系と自然科学系のコラボレーションは今後ますます重要視されるでしょう。
教育の基本は従来の価値体系を学ばせる事にあるのは勿論ですが、それ以上に創造性の価値を理解させ、指導する事も大切であると考えます。
しかしながら、教育の成果を偏差値のみの価値基準で評価し、創造性を蔑ろにするのが現状の教育であり、殆どの家庭に於いても多くの学校に於いてもそれらに関する議論が真摯に為されていないのが現状ではないでしょうか。面倒だから、その様な議論はしないのでしょう。偏差値と言う尺度を信じる方が楽ですから。
話は変わります。「自由学園」は素晴らしい学園です。確か、羽仁もと子さんが1921年に創立されました。歴史学者の羽仁五郎氏はもと子さんの娘さんの説子さんと結婚され、羽仁姓になった筈です。
五郎氏と設子さんを両親とするのが映画監督の羽仁進さんです。自由学園に学ばれています。奥さんは女優の左幸子さん。
羽仁五郎氏の著書:「都市の論理」は私たちの学生時代のバイブルでした。必死で読みました。
●一行目・・・桜庭春来氏(誤)→櫻庭春来氏(正)
●二行目・・・桜庭市(誤)→櫻庭氏(正)
昨今の美術教育は「カレッジで学ぶもの」との考え方に変わったように思います。小学校時代の野外写生の時間が楽しかったことを思い出します。
本来想像力は幼少時に育つもののように思います。成人してからの教育では「上等な物まね」になってしまうのではないかと心配です。手前味噌になりますが、我が息子の絵は小学校の運動会のポスターを毎年のように採用されていた。今思えばダイナミックな絵であったように記憶しています。でも何故そんな絵が描けるようになったかはわかりません。
サマータイムなどを使用して美術の時間を稼ぎ出すのも良いのではないかと、たった今考えました。指導は?暇を持て余した高齢者がたくさんおられます。
絵を描き、メカニカルな分野にも芸術の面でも天才ぶりを発揮しています。
多分、右脳の働きがいいのでしょうか?
現在、芸術は、音楽や文学、スポーツとは異なり、飯が食べていけない分野に成り下がってはいないでしょうか?
私も高校で、芸術大学を希望した事があったけど、家族の猛反対にあいました。
反対理由は簡単、飯を食っていけないからです。
どの世界でもそうですが、頂点を極めないとダメですが、特に芸術は厳しい。
風景画を描くよりもマンガ家の方が、ずっと金持ちである。
芸術家が華々しいスポットを浴びれるように、日本の芸術家さん達に頑張ってもらいたいです。
コメントに対する返答を熟慮しなければならない程、ついつい後回しにしてしまっております事をお詫び申し上げます。
さすがに芸術家でもいらっしゃるガイアさん、ご丁寧なコメントをありがとうございます。
芸術とは創造性と生命力の発露であり、それは何も芸術に限らず人文科学、社会科学、自然科学すべてに通ずる根源の力であるとお書き下さったことに、私もまったく同感申し上げます。
私も曲がりなりにも学問の道を長年志して参りましたため、思うところはガイアさんと共通点があります。
だからこそ、ズブのド素人でわからないなりにも芸術分野に興味がありまして、その道に少しだけ足を踏み入れようとしております。
「偏差値」とは安易で楽な尺度ですね。それで“真の人材を育てよう”という理想のないこの国の公教育において偏差値一辺倒になってしまうのも無理もないのですが、今後はもっとグローバルな視野で子どもの教育に臨んで欲しいものです。
私は自由学園に関する知識はほとんどなかったのですが、そういう歴史もあったのですね。ガイアさん、情報提供をありがとうございました。
isseiさん、いつもコメントをありがとうございます。
私の場合は、残念ながら小中高での美術教育は大変つまらないものでした。その割には私も多くの賞を取得しているのですが、決して自分自身が楽しんで創作に臨めていないので、私には一切その分野に思い入れはなく能力もないものと今尚捉えております。
他者が見てもダイナミックな絵を描けたisseiさんの息子さんは、創作に喜びを感じていらっしゃったのでしょう。
私は今、下手でも時間がかかっても創作が好きだと言う我が娘を見ておりまして、芸術はすばらしいと感じさせてもらっております。
isseiさんがおっしゃるようなサマースクールの開催案もすばらしいですね。
ドカドンさんて、本当に不思議な方です。
もう何度も私のブログにずっとコメントを頂戴しておりますが、私はドカドンさんに対して毎回新しい発見があります。
ドカドンさんは芸術分野も目指されたのですね!そうとはまったく知りませんでした。
確かにドカドンさんがおっしゃる通り、芸術とはすばらしいにもかかわらず、一番“飯が食いにくい”世界であるのかもしれません。
ところが、この芸術は実は人間にとって本当は一番重要な世界なのかもしれません。私がそれに気付いたのも意外と最近のことなのです。
本当に、今ご活躍中の芸術家の方々には華々しいスポットを浴び、今後共ご活躍いただきたい思いです。