小中学生に携帯電話を持たせることの是非について、世間では議論が白熱している。
基本的には各家庭の教育方針や経済力等に合わせて保護者個々が判断すればよい問題であるにもかかわらず、各界の見識者までが登場してその是非につき喧々諤々と議論がなされている。
例えば、少し前になるが朝日新聞6月15日付朝刊では、首相補佐官の山谷えり子氏、ソフトバンク社社長室長の嶋聡氏、青少年メディア研究協会理事長の下田博次氏がそれぞれの持論を展開している。
山谷氏は小中学生が携帯電話を持つことに関して否定的立場を貫いている。出会い系サイトを通して性犯罪に巻き込まれたり、掲示板がいじめの温床になっている点を懸念し、また、“嫌われたくない”がための強迫観念を伴った友人同士のメールのやりとりは子どもにとって残酷な事態であるとする。そして、自我が未発達の小中学生はたとえ携帯の正しい使い方を教えても、きちんとコントロールが出来ないため、携帯から解放してあげることが肝要との意見を述べている。
ソフトバンクの嶋氏はその立場上、さすがに全面肯定派だ。子どもにとって今や「読み・書き・携帯」の時代であり、携帯には様々な機能があって教育にも使える、小学生の早い時期から持たせた方がよい、とする。携帯が子どもの発達を阻害するという裏づけはない。有害サイトの遮断は年齢や子どもの成長に応じてきめ細かく自主的に整備することにより克服可能である。消費者の要望を大切にしてよりより商品を提供したい、としている。
下田氏は、「インターネットのジャングル」に子どもを放り出す前に、政府や携帯電話会社が手を打たなかったことにつきまず批判している。すでにケータイを自由に使う楽しさを知ってしまった子どもに、今さらそれを禁止したり規制しても反発をくらうだけである、ケータイを持たせる前に①情報の良し悪しの判断力②有害情報や誘惑への自制力③ケータイを持つことの責任能力を子どもに教えることの必要性を主張している。
それではここで、我が家の携帯事情について述べさせていただこう。
私自身は2年程前まで携帯は“持たない主義”だった。携帯を持つことにより“ノルマ”が増えることを嫌ったのだ。かかわる必要のない人とはかかわらずに済ませたい、私にはそういう基本的思考が根底にあるため、外出先にまで電話を持ち歩く理由が見出せなかったのである。携帯を持っていないということはこの上なく自由であり便利であった。携帯番号やメールアドレスを教えてとせがまれても、ないものはないで済ませられた。 残念ながら、2年前にフランチャイズ自営にチャレンジした時にフランチャイズ元から強制的に携帯を持たされてしまい、現在に至っている。
こんな私であるが、子どもには早いうち(小3の3学期)から携帯は持たせた。その目的は家庭内危機管理である。すなわち、子どもの外出時の安全確認のためだ。ただし学校へは持ち込み禁止(現在通っている中学校は制限付きで持ち込み可)であるため、それ以外の外出時にしか持たせられないのであるが。
子どもに携帯を持たせた張本人である私が携帯を使った事がないのだから、その使い方について知る由もない。子どもは最初から家庭への電話連絡のみに携帯を利用し今に至っている。中学生になってから、友達とのメール交換によるコミュニケーションを私はむしろ奨励した。ただし、特段の用件がない場合は基本的に2往復までで終了すること、先にメールをした方から切り上げることを提案した。我が子の場合、山谷氏の言う“強迫観念”とは何ら縁もなく健全なメール交換がなされているようである。
このように、子どもに携帯を至って“正当”に使用させている保護者として困惑するのは、学校が携帯の持込を禁止、あるいは制限している点である。これでは危機管理のために持たせている携帯が本来の役割を果たせないのだ。例えば、小学校時代によくあった事例であるが、学校で急に居残りになったりする。学校からはその旨の連絡が一切来ない。携帯を持たせられたなら本人から家庭にその旨一報入れれば事が済むのに、外が真っ暗になっても帰って来ない。こちらから学校に問い合わせればよいのだが、度重なると学校からうるさい保護者だと嫌われる。子どもが無事に帰宅するまで何時間も安否を気遣い気をもまされることになる。
そもそも、携帯電話の当初の基本的機能は“連絡”であったはずだ。
携帯を子どもに持たせ、子どもに外出時の非ルーチン事態を家庭に報告させることを習慣付け、危機管理を小さい頃から子どもに教え込むことは私は有意義であると考えた上での判断である。
携帯電話が多機能化し、確かに世間では子ども達が“インターネットジャングル”に放り出され危険な状態ではある。だが、我が家のようにそういう事態に何ら縁がない家庭もある。その差はどこにあるのだろう? 家庭での携帯電話使用環境にあるのかもしれない。
外出すると携帯に振り回されている大人を目にしない日はない。携帯を使いこなせない私は、何が面白くて四六時中携帯とにらめっこばかりして暮らしているのだろうと不思議で仕方がないのだが、そんな風景が家庭内でも繰り広げられているのだとすると、子どもがその真似をするのも致し方ない事であろう。
子どもに携帯を持たせることの是非を議論する前に、大人が携帯電話の使い方を再考することの方が先決問題であるかもしれない。
基本的には各家庭の教育方針や経済力等に合わせて保護者個々が判断すればよい問題であるにもかかわらず、各界の見識者までが登場してその是非につき喧々諤々と議論がなされている。
例えば、少し前になるが朝日新聞6月15日付朝刊では、首相補佐官の山谷えり子氏、ソフトバンク社社長室長の嶋聡氏、青少年メディア研究協会理事長の下田博次氏がそれぞれの持論を展開している。
山谷氏は小中学生が携帯電話を持つことに関して否定的立場を貫いている。出会い系サイトを通して性犯罪に巻き込まれたり、掲示板がいじめの温床になっている点を懸念し、また、“嫌われたくない”がための強迫観念を伴った友人同士のメールのやりとりは子どもにとって残酷な事態であるとする。そして、自我が未発達の小中学生はたとえ携帯の正しい使い方を教えても、きちんとコントロールが出来ないため、携帯から解放してあげることが肝要との意見を述べている。
ソフトバンクの嶋氏はその立場上、さすがに全面肯定派だ。子どもにとって今や「読み・書き・携帯」の時代であり、携帯には様々な機能があって教育にも使える、小学生の早い時期から持たせた方がよい、とする。携帯が子どもの発達を阻害するという裏づけはない。有害サイトの遮断は年齢や子どもの成長に応じてきめ細かく自主的に整備することにより克服可能である。消費者の要望を大切にしてよりより商品を提供したい、としている。
下田氏は、「インターネットのジャングル」に子どもを放り出す前に、政府や携帯電話会社が手を打たなかったことにつきまず批判している。すでにケータイを自由に使う楽しさを知ってしまった子どもに、今さらそれを禁止したり規制しても反発をくらうだけである、ケータイを持たせる前に①情報の良し悪しの判断力②有害情報や誘惑への自制力③ケータイを持つことの責任能力を子どもに教えることの必要性を主張している。
それではここで、我が家の携帯事情について述べさせていただこう。
私自身は2年程前まで携帯は“持たない主義”だった。携帯を持つことにより“ノルマ”が増えることを嫌ったのだ。かかわる必要のない人とはかかわらずに済ませたい、私にはそういう基本的思考が根底にあるため、外出先にまで電話を持ち歩く理由が見出せなかったのである。携帯を持っていないということはこの上なく自由であり便利であった。携帯番号やメールアドレスを教えてとせがまれても、ないものはないで済ませられた。 残念ながら、2年前にフランチャイズ自営にチャレンジした時にフランチャイズ元から強制的に携帯を持たされてしまい、現在に至っている。
こんな私であるが、子どもには早いうち(小3の3学期)から携帯は持たせた。その目的は家庭内危機管理である。すなわち、子どもの外出時の安全確認のためだ。ただし学校へは持ち込み禁止(現在通っている中学校は制限付きで持ち込み可)であるため、それ以外の外出時にしか持たせられないのであるが。
子どもに携帯を持たせた張本人である私が携帯を使った事がないのだから、その使い方について知る由もない。子どもは最初から家庭への電話連絡のみに携帯を利用し今に至っている。中学生になってから、友達とのメール交換によるコミュニケーションを私はむしろ奨励した。ただし、特段の用件がない場合は基本的に2往復までで終了すること、先にメールをした方から切り上げることを提案した。我が子の場合、山谷氏の言う“強迫観念”とは何ら縁もなく健全なメール交換がなされているようである。
このように、子どもに携帯を至って“正当”に使用させている保護者として困惑するのは、学校が携帯の持込を禁止、あるいは制限している点である。これでは危機管理のために持たせている携帯が本来の役割を果たせないのだ。例えば、小学校時代によくあった事例であるが、学校で急に居残りになったりする。学校からはその旨の連絡が一切来ない。携帯を持たせられたなら本人から家庭にその旨一報入れれば事が済むのに、外が真っ暗になっても帰って来ない。こちらから学校に問い合わせればよいのだが、度重なると学校からうるさい保護者だと嫌われる。子どもが無事に帰宅するまで何時間も安否を気遣い気をもまされることになる。
そもそも、携帯電話の当初の基本的機能は“連絡”であったはずだ。
携帯を子どもに持たせ、子どもに外出時の非ルーチン事態を家庭に報告させることを習慣付け、危機管理を小さい頃から子どもに教え込むことは私は有意義であると考えた上での判断である。
携帯電話が多機能化し、確かに世間では子ども達が“インターネットジャングル”に放り出され危険な状態ではある。だが、我が家のようにそういう事態に何ら縁がない家庭もある。その差はどこにあるのだろう? 家庭での携帯電話使用環境にあるのかもしれない。
外出すると携帯に振り回されている大人を目にしない日はない。携帯を使いこなせない私は、何が面白くて四六時中携帯とにらめっこばかりして暮らしているのだろうと不思議で仕方がないのだが、そんな風景が家庭内でも繰り広げられているのだとすると、子どもがその真似をするのも致し方ない事であろう。
子どもに携帯を持たせることの是非を議論する前に、大人が携帯電話の使い方を再考することの方が先決問題であるかもしれない。
期に、道具そのものが安全か危険かを議論しようとす
ることはちぐはぐな印象を受ける。最初の命題と次の
命題では意味が違う。論理のすり替えはやめるべきだ
と思う。
携帯電話自体は欠かせない存在です。危機管理上重要な役割を果たします。
そのような重要な役割を果たすべき携帯電話を弱者である小中学生に持たせてはいけない、あるいは持たせることに制限を設けるというような論理は、携帯を本来の目的で使用している人間にとっては大きな障害です。
カズさんがおっしゃる通り、まさに使い方の問題です。持たせるか持たせないかではなく、誤った使い方をしているその背景こそが議論されるべきと私も考えます。
ある意味に於いて、携帯電話は厄介な道具なのでしょう。電話以上の機能が備わっていますから、本当は携帯電話と呼ぶ事が可笑しいのかもしれません。
モバイルコンピューターとでも呼ぶ方がぴったりです。或いは、ユビキタス、インターフェイス、など。
どの様な道具でも、使い方次第で良い結果も悪い結果も生むでしょう。メリットもデメリットもあります。
その価値基準や判断基準は、多面的な観点から家庭内で確りと親から子供に伝えられるべきだと考えます。
ただ、疑問なのは、殆どの家庭の親御さんが、携帯電話の使用による電磁波の子供の脳に及ぼす影響を指摘しない事です。これが不思議なのです。
科学的な根拠が無いと言われればそれまでですが、電磁波の悪影響を指摘している有識者は大勢いらっしゃいます。電磁波の悪影響は携帯帯電以外でも科学的根拠とデーターに基づいて証明されている筈です。
携帯電話を耳に当てて話をしていると3000個以上の脳細胞が死ぬと言われています。実際、私もその根拠となる実験を見ています。
電車の中で、携帯のマナーを呼びかけていますが、表立って電磁波が危ないと言えませんので、マナーに重点を置いたメッセージになっていると言う指摘もあります。
ドイツでは子供(何歳までかは未確認)に携帯電話を持たせないとも聞いています。
科学が進みテクノロジーが進化した今日、利便性の裏に危険性が潜んでいる事をも、親御さんは正しい知識に基づいて教える必要があるのではないでしょうか。
抽象的な言い方かも知れませんが、バランス感覚が大切だと思います。
日本からの悲惨なニュースを聞いていると、人間性のある教育が、かなり欠如しているのかと思います。
携帯電話でのイジメ
または危ないサイトへの誘い
そして秘密から走る不倫など、
今、溢れるほどの問題を抱えています。
我が家の場合
高校2年の息子は
主義ではないけれど携帯電話を持っていません。
自分の時間を有効にしたいという理由のようです。
でも、クラスの友達も多く
イジメに発展することもないのです。
私と夫は持っていますが
秘密にしてはいけないという約束ごとがあります。
誰が見ても良いことにし
必要なときはそれを子供に持たせる日もあります。
携帯は秘密にしない限り
悪い方向には行かないような気がします。
使い方をもう一度考える時期にあるのかもしれませんね。
携帯電話は今や電話のみの機能だけでは無く沢山の機能が備わったモバイルである、従って名称を変更したら如何と提案したいのです。
携帯電話に於ける電磁波の影響を懸念する私ですが、
話を拡大して若者たちがキレる事や犯罪を犯す事などと関連付ければ、原因の一つは電磁波であり、 もう一つは環境ホルモンだと考えます。素人が何を言うのか、科学的根拠があるのか、と言われそうですが、これらに関して多くの関連図書が出ている事も事実です。しかし、一般的に言って殆どの家庭はこのような事に無関心であるように私には映ります。
日本の社会では、電磁波と環境ホルモンを語るのはタブー視されているかの如くです。
今の20代から40代の年代層は、電磁波と環境ホルモンによって脳内汚染が起きていると素人ながら考えるのです。食事や栄養の問題もこれに絡んでくるでしょう。更にはこの様な事を問題視せず、物質的な豊かさを求め、それを享受する事に価値を見出す家庭、特に母親の母親としてのあり方、子供への接し方に問題があると思います。
一昔前までは考えられなかった様な昨今の事件を想ううにつけ、この様な感想を抱くのです。
携帯電話の話しから論点がずれてしまいましたが、この辺まで拡げて掘り下げないと、「携帯電話の望ましいあり方」そのものをも考察できないと考えます。
ガイアさんがご心配されている電磁波の人体に及ぼす影響に関しましては、私もふと怖くなることがあります。パソコンも同様かと思うのですが、ブログを開設して以来パソコンに向かう時間が大幅に増えた私は、体調が悪いともしかしたらパソコン生活のせいか?と考えることもあります。
電磁波は目に見えないだけに確かに不気味です。
携帯電話は子どものみではなく、大人も含めて今後の望ましいあり方、使われ方が再考されるべきと私も思います。
私の場合、携帯をほとんど使っていないに等しいですので議論を出来る立場ではないのですが、例えば「出会い系サイト」というのがあるらしいですね。なぜ携帯を介さなければ人に出会えないのか、私にはよく理解できないのです。普段の普通の生活の中で生身の相手に出会っていけばそれでよいはずなのに…。
その背景には人間関係の希薄化減少があると思います。生身の相手とうまくコミュニケーションがとれないという病理が現代社会に存在するのでしょう。それでも人間は人恋しくて、簡単で手っ取り早い手段として「出会い系サイト」とやらを利用するのでしょうね。
メールにしても同様です。大した用件もないのにむやみやたらとメールして、相手に強迫観念まで抱かせる程の返信を要求するのは、“寂しさ”のなせる業でしょう。
そのような社会的病理が携帯乱用社会に拍車をかけているのでしょうね。
特にまだ未熟な子ども達にとってはなおさらなのでしょう。人間性を欠如させてしまう携帯の存在は怖いです。
文明の利器として一人歩きしてしまっている携帯に道徳観、倫理観が追いついていないですね。
ご両親の理念ある携帯のオープンな利用のし方をずっと見ていらした息子さんは、携帯の理想的なあり方を自然と学習していらっしゃるようですね。
仲睦まじいご一家でいらっしゃるのでしょう。
携帯って大抵は個人所有ですよね。そこには“閉鎖的”で“排他的”な世界が繰り広げられているように思います。
そうではなくて、tontanさんご一家のようにオープンな携帯の使用の仕方を社会が奨励していけば、携帯の未来も明るいように思えてきました。
人間関係の希薄は何故起きるのか。様々な要因を上げることが出来ますが、端的に申しまして、それは家庭内教育力の低下とコミュニティの崩壊にあると捉えています。
ノンフィクション作家:柳田邦男氏の文章を以下に引用さて頂きます。
(前略)例えば、母親の対話能力の低下は深刻です。小児科病院の待合室は、昔は子育ての苦労や旦那への愚痴で賑やかでしたが、今は全員がケーイをいじり、
「無言空間」です。
父親も然り。嫌われたくない、波風を立てたくないばかりに子供を叱る事が出来ない。そして、それを本人の「個性」を伸ばしているのだ、などと勘違いしている人が増えている。(後略)
私の子供の頃は両親が厳しかったです。よく叱られました。勉強せよ、良い点を取れとは言いませんでしたが・・・。それに、近所の人も、隣の子供であれ、悪い事をする子供を叱りました。勿論、学校の先生もです。コミュ二ティが形成されていたと言う事でしょうか。しかし、今は、あらゆる社会でコミュ二ティが崩壊されていると思うのです。
話を携帯電話に戻します。今日、電車に乗ったのですが、多くの男女がアナウンスを無視してケータイいじりに夢中でした。私は左右をケータイいじりに挟まれましたので即座に席を替えました。電磁波が強烈に伝わって来て気分が悪くなるのです。
「ケータイを持ったサル」が座っている光景は異様な
雰囲気でした。
そこまでして情報が必要なの?退屈だったら新聞や本でも読んだら?