我が郷里出身大学ご出身者の中で一番の業績を立ち上げ、そして更なる業績を上げようと志されている人物は、2014年にノーベル賞物理学賞を受賞された 現在米カリフォルニア大学特別教授の中村修二氏であると、私は昔から大いに評価申し上げている。
その中村教授が、現在核融合発電の実現に取り組んでおられるらしい。
2024.03.09付朝日新聞記事「核融合で起業『平和つなげたい』」を、以下に要約引用しよう。
中村教授が、8日朝日新聞のインタビューに応じ、「戦争につながるエネルギー問題を解決できる。核融合で平和につなげたい」と強調。 30年の実現を目標に、年内にも国内で実証実験を始めるという。
青色発光ダイオード(LED)を発明した中村氏は22年、レーザーを使った核融合を目指す新会社を米国で設立。 学生時代から核融合実現が夢だったという中村氏の企業のきっかけの一つがロシアにウクライナ侵攻だったという。
核融合は太陽の内部と似た反応で原子核の融合を起こす。 実現できれば、燃料1グラムで石油8トンを燃やしたのと同等のエネルギーが得られる。
「戦争の原因の多くはエネルギーやその資源をめぐって起きた。ふんだんにあれば防ぐことができるはずだ」
世界人口増や、急成長する人工知能(AI)による電力逼迫にも応えることを目指すと強調。 これまでに、50億円超の投資が集まっているという。 (中略)
核分裂が続く原子力発電と異なり、核融合はレーザーを止めれば反応が止まるため「非常に安全」だと話す。
ただ、発電炉の実現には数千億円規模の資金が必要だとする。
「日本の製造業の技術は素晴らしく、十分な資金があれば核融合は実現可能だと考えている」と話す。
(以上、朝日新聞記事より一部を要約引用したもの。)
大学以降 同郷の中村修二教授の事は、当然ながらノーベル賞ご授章のずっと以前より存じ上げている。
ここで、ウィキペディアより中村修二氏に関する郷里にての若かりし時代の情報を以下に引用させていただこう。
中村 修二、1954年(昭和29年)5月22日 )は、電子工学を専門とする技術者、研究者。徳島大学博士(工学)。日亜化学時代の1993年に世界に先駆けて実用的な高輝度青色発光ダイオードを開発し、その発明により赤﨑勇・天野浩とともに2014年のノーベル物理学賞を受賞した。2005年までは日本国籍であったが、その後アメリカ国籍を取得している。
日亜化学工業開発部主幹研究員、同社 窒化物半導体研究所 所長を経て、2000年よりカリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)教授。科学技術振興機構のERATO中村不均一結晶プロジェクトの研究統括を務めるとともに]、大学発ベンチャー「SORAA」も立ち上げた。中村を中心としたUCSBの研究グループは、2007年に世界初の無極性青紫半導体レーザーを実現した。2014年文化功労者、文化勲章受章。2017年、日本工業大学特別栄誉教授。
来歴
徳島大学時代
大学進学にあたり中村は理論物理や数学を志していたが、教師から「食えんから」と言われて工学部に変更したという。徳島大学工学部に進学し、学科は物理学に近い電子工学科を選択する。下宿で専門書を読み耽るとともに、哲学の思索にも時間を割いたという。3年生の時に後に妻となる教育学部の同級生の女性と出会い、交際を始めている。
3年生では当時助教授であった福井萬壽夫の固体物性の授業に面白さを感じ、中村は材料物性に興味を持つ。卒業研究では同分野の教授である多田修の研究室に所属。多田は実験装置の手作りを重視しており、中村は旋盤や溶接などものづくりの経験を積む。
中村はトップクラスの成績で学部を卒業後、同大学大学院工学研究科修士課程に進学。また、大学院1年生の時に結婚し、修了時には子供もいた。
(以上、ウィキペディアより中村修二氏の大学院時代までの経歴を転載。)
そうだったんだ。
この原左都子は中村修二氏より1歳若いが、ほぼ同時期に私は郷里同大学の医学部に入学している。
ただし医学部(及び歯学部、薬学部)と工学部では県内のキャンパス位置が異なるため、残念ながら私は在学中にただの一度も中村修二氏にお会いする機会は無かったようだ…
余談だが。
徳島大学工学部と教育学部(その後教育学部は別大学として独立し、現在では徳島大学は理系総合大学として特化し更なる発展を遂げ続けている)が存在した常三島キャンパスへは、「情報処理実習」にて夏季に2週間程集中講座を受講しに行ったなあ。 あるいは、土曜夜に常三島キャンパスにて開催されたダンパ(ダンスパーティー)には足繁く通いましたよ!!!😵 😷
話題が大幅にズレたことをお詫びします…
今思えば、ノーベル賞受賞者であられる中村修二氏とほぼ同時期にかの過疎地大学に通っていた事実が。
身勝手ながら、嬉しくもあるなあ~~~ 😁 😜