連休前の4月25日(金)朝日新聞朝刊の報道によると、文部科学省は改定された小中学校の学習指導要領のうち、理科と数学の授業時間と内容の大幅増を、09年度すなわち来年度から前倒しで実施する方針を発表した、とのことである。
その結果、小学校においては11年度春の全面実施を待たずして、来春から各学年で授業時間が週1コマ増えることになる。
その他、小学校低学年での体育の増加、同高学年に導入される「外国語活動」の各校判断での実施、「総合的な学習の時間」の削減も前倒し実施となる。
11年度春からの全面実施後は、小学校低学年でさらに週1コマ、中学校では各学年で週1コマ増える。
今回のこの学習指導要領の改定においては、現行の「ゆとり教育」が批判を浴び、国際的な学力調査でも日本の成績低下が問題となる中、学力向上の姿勢を明確に打ち出している。そのため、現行の「生きる力の育成」は掲げたまま、知識の習得、それを活用する力、学習意欲を身につけさせることを趣旨とし、40年ぶりに総授業時間と学習内容を増やすことを決めたものである。
その他の内容としては、教育基本法の改定を受けて「公共の精神」の育成や伝統、文化の尊重も盛り込まれている。
なお、道徳の教科化に関しては、本ブログ教育・学校カテゴリーのバックナンバー記事「道徳教育私論」において既述の通り今回は見送られており、道徳の教科化案を憂慮していた私は胸を撫で下ろしている。
さて、今回の教育改編において一番懸念されているのは、「詰め込み教育」の復活である。
実は、私論もこの点を大いに懸念している。
「ゆとり教育」の反省、国際的な位置づけでの日本の学力低下からの脱却を歌い文句に、短絡的に授業数と学習内容を増やすだけの今回の安易な改定案に首を傾げるばかりである。
この改革案の全面実施を待たずして、既に「ゆとり教育」は崩壊しつつある。 この「ゆとり教育」の趣旨を、“個に応じたきめ細かな教育指導”、“人為的に作出される競争の排除”と勝手に解釈した上で、私は「ゆとり教育」賛成派である。公教育が、詰め込み教育、偏差値偏重、へと逆戻りしていく現状を大いに憂えている。
本来、“教育”とは子ども個々の学力向上を含めた全人格的成長を育む使命を担うべき事柄である。子ども個々の成長がひいては社会全体の発展をもたらし、国際競争力の向上へとつながっていくのであろう。
「ゆとり教育」の“社会が言うところの失敗”に関しては、実は公教育現場の勘違いが大きいのではないかと私は懸念する。
「ゆとり教育」の趣旨は底上げにあったはずだ。すなわち、いわゆる“落ちこぼれ”、言い換えると学習困難者にもわかる教育の実施だったはずなのだ。上記の私の解釈に基づく「ゆとり教育」を遂行するには、教える側にとっては多大な時間と労力を要する。個々の生徒の能力に応じたきめ細かな指導を実施することは、教える側にとっては重労働となろう。ところが、学校が週5日制になったこともあり、大変失礼ではあるが、教える側が“ゆとり”の意味を勘違いし、自ら“ゆとり”を堪能してしまったというような失敗がなかったと言い切れるのであろうか。
私はあくまでも教育についてはボトムアップ思想を支持したい。というのも、学習に関して述べると、学習強者すなわち学習能力のある人間というのは、放っておいても自ら学習に取り組む意欲やその環境にあると判断するからである。ボトムアップ教育を実施することが、結果として全体の学力向上につながると私は推論する。
社会全体のレベルアップひいては国際競争力の復活、維持を望みながら、義務教育において国を挙げて強者育成の教育に安易に走るのは短絡的過ぎる、との私論をこの記事において主張したいのである。
公教育の本来のあり方とは、学習困難者に重点をおいた学習指導を遂行するのがその使命だと私は考える。
さらに教える側に深い思慮と能力と広い視野、そして何よりもすべての子どもの成長を願う愛情と教育指導に対する熱意があるならば(公教育とは、そういう人材を指導者として採用し育成するべきである。)、子どもの学習能力に応じた対応、すなわち“個に応じた教育指導”を望みたいものである。
その結果、小学校においては11年度春の全面実施を待たずして、来春から各学年で授業時間が週1コマ増えることになる。
その他、小学校低学年での体育の増加、同高学年に導入される「外国語活動」の各校判断での実施、「総合的な学習の時間」の削減も前倒し実施となる。
11年度春からの全面実施後は、小学校低学年でさらに週1コマ、中学校では各学年で週1コマ増える。
今回のこの学習指導要領の改定においては、現行の「ゆとり教育」が批判を浴び、国際的な学力調査でも日本の成績低下が問題となる中、学力向上の姿勢を明確に打ち出している。そのため、現行の「生きる力の育成」は掲げたまま、知識の習得、それを活用する力、学習意欲を身につけさせることを趣旨とし、40年ぶりに総授業時間と学習内容を増やすことを決めたものである。
その他の内容としては、教育基本法の改定を受けて「公共の精神」の育成や伝統、文化の尊重も盛り込まれている。
なお、道徳の教科化に関しては、本ブログ教育・学校カテゴリーのバックナンバー記事「道徳教育私論」において既述の通り今回は見送られており、道徳の教科化案を憂慮していた私は胸を撫で下ろしている。
さて、今回の教育改編において一番懸念されているのは、「詰め込み教育」の復活である。
実は、私論もこの点を大いに懸念している。
「ゆとり教育」の反省、国際的な位置づけでの日本の学力低下からの脱却を歌い文句に、短絡的に授業数と学習内容を増やすだけの今回の安易な改定案に首を傾げるばかりである。
この改革案の全面実施を待たずして、既に「ゆとり教育」は崩壊しつつある。 この「ゆとり教育」の趣旨を、“個に応じたきめ細かな教育指導”、“人為的に作出される競争の排除”と勝手に解釈した上で、私は「ゆとり教育」賛成派である。公教育が、詰め込み教育、偏差値偏重、へと逆戻りしていく現状を大いに憂えている。
本来、“教育”とは子ども個々の学力向上を含めた全人格的成長を育む使命を担うべき事柄である。子ども個々の成長がひいては社会全体の発展をもたらし、国際競争力の向上へとつながっていくのであろう。
「ゆとり教育」の“社会が言うところの失敗”に関しては、実は公教育現場の勘違いが大きいのではないかと私は懸念する。
「ゆとり教育」の趣旨は底上げにあったはずだ。すなわち、いわゆる“落ちこぼれ”、言い換えると学習困難者にもわかる教育の実施だったはずなのだ。上記の私の解釈に基づく「ゆとり教育」を遂行するには、教える側にとっては多大な時間と労力を要する。個々の生徒の能力に応じたきめ細かな指導を実施することは、教える側にとっては重労働となろう。ところが、学校が週5日制になったこともあり、大変失礼ではあるが、教える側が“ゆとり”の意味を勘違いし、自ら“ゆとり”を堪能してしまったというような失敗がなかったと言い切れるのであろうか。
私はあくまでも教育についてはボトムアップ思想を支持したい。というのも、学習に関して述べると、学習強者すなわち学習能力のある人間というのは、放っておいても自ら学習に取り組む意欲やその環境にあると判断するからである。ボトムアップ教育を実施することが、結果として全体の学力向上につながると私は推論する。
社会全体のレベルアップひいては国際競争力の復活、維持を望みながら、義務教育において国を挙げて強者育成の教育に安易に走るのは短絡的過ぎる、との私論をこの記事において主張したいのである。
公教育の本来のあり方とは、学習困難者に重点をおいた学習指導を遂行するのがその使命だと私は考える。
さらに教える側に深い思慮と能力と広い視野、そして何よりもすべての子どもの成長を願う愛情と教育指導に対する熱意があるならば(公教育とは、そういう人材を指導者として採用し育成するべきである。)、子どもの学習能力に応じた対応、すなわち“個に応じた教育指導”を望みたいものである。
御無事で何よりです。主婦が一番大変。お元気だとよいのですが。
おっしゃる通りですよね、全体のレベルがあるていど高くあってこその国際競争力でありましょう。いまいちなレベルの大量の一般人を、少数のエリートが導きつつこの生き馬の目を抜く世界でやっていくなんて、資源ない上に一億人も人口あるこの国にできる筈なんかありません。
一般のサラリーマンや、一般の先生方や、一般のおじさんおばさん子どもたちが賢明であってこそやっとこさ先進国の片隅にとどまっていられる・・・というのが我々の実力と言うものではないでしょうか。
お金や物や土地家屋や名前だけの学歴だけをいくら集めてみても、中身が伴っていなければ空しいですよね。
教員育成にも採用にも、早急に改革が必要ですよねー・・・。
どうしたらいいんでしょう。
今回の記事を読んでいる時、なんだか唐突に、「世界がもし百人の村だったら」を思い出しました。
人間は数が増えすぎました。
ゆとり教育の理念にある、個々の云々・・・は、常識的に考えて現在の人口をカバーできるとは思えません。少子化だー、高齢化だーと騒いではいても、この国は一億超えの人口を抱えているわけですし。
詰め込み教育は世代ではないのでよく分からない部分もあるので、賛成か反対かを決めにくいのですが・・・。今度の改正も、教育の危機感を抱いていない人たちが決めたことですから、こちらも賛成できるかといえば・・・。
それこそ、世界が(正確には日本が)百人の村だったら、ゆとり教育が最大効力を発揮したのではないかなぁと。
結びつきあってこその個々。かつての日本にはあったはずなのに、それが見失われているのは妙な話です。
またも長文失礼しました。
確かに誰に「ゆとり」があったのか疑問を感じます。
教育を受ける側には授業の不足は塾で補う
という話が当然のようにあり
各家庭の経済状況にもよりますが
詰め込みがなかったとするのも違うように思います。
ある程度の努力をしながら現状の事態を招いたのは
皆が目標を見失っているからではないでしょうか。
試験で得点を稼ぐ学校に合格することが目標では
効率的な問題への対処(解答)に重点が置かれがちです。
今回の改変が諸外国との比較において劣ってみえる
ということが出発点であるとするなら
目標や到達点も志の低いところに落ち着きそうです。
世界標準から劣ったままだとしても
個々のこどもたちにひとつずつ得意分野があるようにする
そんなことのほうが私には重要なように思います。
競争力も必要でしょうが
誇りを持つことの大切さを知ってからのことです。
誇り高くいるために自ずと努力も生まれると信じています。
こんな具合なので理想主義者と言われたりするのですが。
凡庸な思いを長々と失礼しました。
では、ごきげんよう。
量さん、いまいちレベルの一般人の大量生産の話は面白いですね。ところが、いまいちレベルならばまだいいのですが、「大学全入時代…」の記事でも既に書きましたが、分数もできない、英語も英検3級レベルに達していない大学生相手に、大学で中高の勉強の復習をやっているというのですから、その実態は“一億総落ちこぼれ化現象”かもしれません。
これ、どうしたんでしょうね。一体小中でどんな授業をしているのでしょう?
落ちこぼれ相手に授業時間や授業内容を増やす云々より、教員のレベルアップ、指導法の改善が先決問題かと思われます。
(話をわかりやすくするため、あえて差別用語を用いております。読者の皆さん、どうかお許し下さい。)
この百人村いただきました。
教育の基本はまさに百人村精神かもしれません。すなわち、子どもひとりひとりに対する愛情がその基本だとkuisinさんのコメントを読んで考えました。
一斉授業という中高の授業形態の中で、生徒ひとりひとりの“個”を無視し、“皆さん”相手にひとりよがりの授業をする教員は残念ながら多いのではないかと思います。
例えば、我が子の話を出しますと、とてもおとなしい子なのですが、1年間一度も個別に声をかけてくれないまま終わる担任もいるんです。本当の話です。我が子の場合は、学習に関しては私がずっと見てきましたので落ちこぼれずに済んでいますが…。
そんな教員に“個”が把握できているとは思えません。
教育の基本、子どもの学力の向上の原点は子どもに対する愛情だとの結論が導けそうです。
原左都子が書きました。
教育の諸問題を盛り込んだコメントをありがとうございます。
個と誇りの育成、これは子どもひとりひとりが将来的な目標を持ってそれに向かい努力するために重要な要素ですね。これに関しては家庭が主体となって果たすべき教育であるかもしれません。
もちろん、公教育機関においてもこれは子どもの教育上重要な要素だと思います。
そして子どもが夢をかなえるためには、どのような分野であれ小中の基礎学力は欠かせないでしょう。それさえも満足に出来ていない現状で、授業時間と内容を増やすと言う短絡的な発想がどうして出るのでしょうね。ますます、勉強嫌いな子どもを増産してしまうだけのように思います。
また是非お越し下さいね。