原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

突然訪ねてきた男友達

2008年09月20日 | 雑記
 何ヶ月かぶりに雑記カテゴリー記事を綴ってみよう。


 私は長い独身時代を通じて基本的にずっと女の一人暮らしだったのだが、時々彼氏以外の男性が自宅に一人で訪ねてくることがあった。特に20歳代前半の若かりし頃にそういう機会が何度かあった。
 
 例えば水道がポタポタ水漏れしたりする。そういう話を職場ですると、「じゃあ、今日の帰りに寄ってパッキンを替えてあげよう。」と親切な男性が助け舟を出してくれる。
 ある時はオーディオの接続に困惑している話になると、音楽関係の同趣味の友人男性がそれの接続に来てくれる。
 多少迷惑な話では、夜遅い時間に酔っ払って私の部屋のドアをたたく職場の先輩男性もいた。これは即刻お引き取り願ったが、次の日「酔っていたとは言え申し訳ない!」と平謝りだった。


 そんな中で、あの訪問の意図は一体何だったのだろうと未だに不可解で不思議に思う男友達の突然の訪問があった。20歳代前半の頃の話である。

 休日前の夜9時頃のことであった。一人で部屋でくつろいでいると、職場の同年代の同僚男性が突然一人でやってきた。
 その男性は、普段から何人かのグループで飲みに行ったりカラオケに行ったりドライブに行ったりと、比較的仲良くしている友人の一人だった。フィアンセのいる男性でこちらとしても恋愛感情は全くないのだが、人柄も人当たりも良く“癒し系”といった感じの好感を持てる人物である。
 その男性を「Aさん」と呼ぶことにする。

 誰かがドアをノックするので出てみると、Aさんだった。Aさんとは上記のごとく普段よりある程度仲良しであるため、突然我が家を訪ねて来てもさほど違和感はないといった感覚である。そして「近くで用があったから寄った。」と言って、別に酔っ払っている様子でもなくいつものAさんだ。「じゃあ、どうぞ。」ということで部屋に入れた。
 おそらくお茶でも飲みながら、まったくいつものようにあれやこれやと結構楽しく話をした。Aさんのフィアンセの話も出た。(昔は人と人とが実によく語り合ったものである。)何分もう夜遅い時間であるため、そのうち帰るだろうと思っていたところ、Aさんの口から意表をつく言葉が発せられた。

 「泊まっていってもいい?」 
 “妙齢”の独身女性の私としては当然一瞬たじろぐ…。
 ただ、若い頃から“場”や“相手の心情”を読み取れる力のある私の直感ではAさんには“下心”はないと判断した。どうも、純粋にもっと談話を続けたい様子だ。多少躊躇はしたが、当時おそらくたまたま彼氏がいなかった私はAさんの宿泊を許可することにした。
 6畳一間とキッチンしかない部屋であるため、6畳の部屋で布団を並べて寝ることになる。来客用の布団というのを特に用意していなかったので、夏布団から冬布団まですべて引っ張り出して適当に二つに分けて敷いた。(人が宿泊する時はいつもそうしていたのだが。)
 そして、二人で別々に布団に入ってまだ談話は続いた。特にこれといった話の“テーマ”はないのだが、話はずっと途切れずに続き、そのうち二人共寝たのであろう。
 朝になって、私はサンドイッチを作りコーヒーを入れた。そして、二人で朝食を食べた後、Aさんは“一夜”のお礼を言って帰っていった。


 未だにAさんの突然の夜の訪問の目的が何であったのか不可解なのだが、ひとつ手探りで思うのは、あの時Aさんは何らかの理由で“寂しかった”のではないか、ということだ。純粋に誰かと朝までの時間を共有したかったのではなかろうか。
 人間関係が希薄ではなかった、若かりし青春時代の“一夜”の出来事である。
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「H&M」は日本に根付けるか?

2008年09月18日 | 時事論評
(写真は昨日の私。「H&M」で購入した衣料ではありません。)

 先週の9月13日の土曜日、東京の銀座に衣料専門店「H&M(ヘネス・アンド・モーリッツ)」が開店した。
 この「H&M」は47年にスウェーデンで創業し、世界に約1600店を展開している売上高世界第3位を誇る世界規模の大型チェーン衣料品専門店である。
 “高いファッション性と品質を備えた衣服を最良の価格で提供する”ことを歌い文句に、日本での第1号店となる銀座店を皮切りに日本全国への店舗展開を予定しているとのことである。
 デニムパンツやニットという定番商品のみならず、流行の色や素材を使用したワンピースやドレス等も品揃えしているのが強みで、カジュアル衣料チェーン店には珍しくカラフルな色彩の商品が目立つとのことである。
 日本の衣料市場は不振が続く中、「H&M」の最高経営責任者は世界への出展の経験から大いに強気であるらしい。

 これに対し警戒感を抱くのは、「ユニクロ」等の国内カジュアル衣料大手企業だ。 商品価格帯がほとんど重なるのに加え、「ユニクロ」は現在女性向け商品強化の方針を採っているためである。
(以上、朝日新聞9月12日朝刊経済面記事より引用、要約)


 私はまだこの「H&M」へは出かけていない。少しほとぼりが冷めた頃にでも、一度銀座まで見学に行ってみようとは考えている。

 私はどうも「ユニクロ」のような大型衣料チェーン店を好まない。大量生産の同じデザイン、形、色の商品が何十枚も売られていて、まるで“制服屋”のようであるからだ。
 10年程前に「ユニクロ」がオープンした時に、ひとつの社会現象のごとくブームになった。周囲の皆が「ユニクロ」に行き、皆が「ユニクロ」の商品を着たとも言える時代があった。当時、あまりにも周囲が「ユニクロ」「ユニクロ」と騒ぐので私も試しに出かけてみた。第一印象は失礼ながら“体操服と寝巻きを扱っている店なのか!?”という感覚だった。「ユニクロ」はホームウェアが主力商品であるため言わばその通りなのであろうが、たとえ家で過ごす時でも人と同じものを着せられるのは勘弁願いたいものだ。
 品質の良さとリーズナブルな価格が売りらしいが、価格感受性の高い私に言わせていただくと、決して安価とは言えない。第一、皆と同じ“制服”を着て街を歩く気には到底なれない。未だかつて「ユニクロ」では1枚たりとて洋服を購入したことはない。

 独身の頃はお気に入りのブティックが何店かあり、洋服はそういう店で購入していた。私は決して若かりし頃からブランド志向ではなく、既に価格感受性も強かった。知名度や価格さえ高ければ満足という単細胞消費者では決してなく、私なりの洋服に対するこだわりがあった。コストパフォーマンスが重要なのだ。満足度と価格はバランスが取れている必要がある。そういう観点からお気に入りのブティックを何店か探して通っていた。 
 近頃はお気に入りのブティックをやっと見つけても、直ぐにテナントが入れ替わる。夏に流行っていた店が冬にはもう潰れているということをよく経験する。そのため、近年の洋服の買い物は行き当たりばったり傾向にならざるを得ないのだが、近頃は店員が客にまとわり付き押し売り状態になることは滅多にないので、買い物がし易いと言える。


 景気の後退に加えて、ここのところの物価の急激な上昇で消費行動は今後ますます陰りが見えてくることであろう。
 衣料業界においても苦戦を強いられている大手企業が多い中での「H&M」の日本上陸であるが、果たして「H&M」は日本に根付くことが出来るのであろうか。
 とりあえずは、世相に流されずいつの時代もバランス感覚のある消費者であることを自負する私の目にかなう店であるのかどうか、一度覗きに行ってみることにしよう。 
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不妊症の友

2008年09月16日 | その他オピニオン
 私は長い独身時代に不妊症の女性何人かと縁があった。

 多くの不妊症の女性にとって何よりも辛いのが子どもの話題であるようだ。子どものある女性との付き合いにおいては、どうしても子どもの話題が中心となる。それを避けるため、当時の私のような子どものいない独身者との付き合いを好む傾向にあるようで、あちらから私に接近して来るのだ。

 私自身は結婚に関しても子どもに関してもどうあるべきといったこだわりはなく、両者共にどうしてもどちらかでなければならない(結婚はするべきだとか、子どもは産むべきだとか)というような固定観念は一切なかった。決してポリシーがない人間という訳ではないのだが、自己の人格形成と自立を常に最優先に考えていた結果、それらの優先順位が相対的に二の次となっていた。

 二者のうち、結婚に関しては事は比較的簡単だ。結婚とは単なる法的手続きに過ぎないため、たとえ結婚しても解消しようと思えば相手の合意を得て離婚という法的手続きを取りさえすればいつでも独身に戻れる。一端結婚に踏み切ったところで後の融通はいくらでもきくと言える。
 ところが子どもに関してはそうはいかない。産んでしまった以上一生母親としての人生が待ち構えている。死ぬまで子どもの母親であることを解消することはできない。女性にとって子どもを設けることは、人生における最も重大な意思決定と言えるであろう。(男性にとっても子どもの父親の立場として同様であろうが、世間を見渡すと、どうも子どもに対する責任感は母親の方が強いように見受けられる。)


 不妊症の方々の苦悩は推し量って余りある。不妊症の女性にとっての大前提は子どもを設けることである。ところが、この人生において最大とも言える意思決定が自分の意のままにならないのだ。子どもを設ける意思決定を下しているにもかかわらず、神のいたずらでそれが叶わない。これは何とも不条理な事態だ。

 そういう心情を理解した上での不妊症女性とのかかわりであったのだが、正直言って独身の私にとっても“腫れ物に触る”ように神経を使う付き合いだった。
 そもそも基本的な生き方がまったく異なる。子どもがいないという点では確かに共通しているのだが、あちらは精神的に経済的にご亭主に依存しながら何年も暮らしている人達である。(もちろんそうでない方もいるが。)独り身ですべての事を独力で執り行っている私とは、バックグラウンドもライフスタイルもまったく異なる。どうしても話の接点が探りにくい。
 その上、子どもの話は厳禁である。私の場合、決して将来的に子どもを設けないという意思決定を下していた訳ではない。子どもを持つ夢を思い描くこともあったのだ。そういう話題には決して触れられない。心情を理解しつつも気苦労の多いぎこちないお付き合いであった。
 私は晩婚だったとはいえ子供を授かるのは早かった。私に子どもが授かったことが判明するや否や、不妊症の女性達は皆一斉に私から遠ざかって行った。「(私が)子どもを産もうと考えていたとは思っていなかった…」と言い残して…。私の配慮心から子どもの話題に一切触れなかったため、子どもに興味がないものと捉えていたのであろう。どうやら裏切られたような感覚があったようだ。その後、その女性達の誰からも一切連絡はない。

 感動する話もある。職場で短期間だが一緒だった女性がやはり不妊症だった。その方は十年の不妊期間を経た後、(ご本人の表現によると)神から一子を授かった。
 その女性はそもそも根っからの子ども好きで、自身が不妊症であるにもかかわらず子どもの話は禁句どころか、分け隔てなく他人の子どもを積極的に可愛がる人だった。そして不妊症も10年にさしかかろうとしていた頃、知人の可愛い赤ちゃんのためにベビードールを編んでプレゼントしようと、心ゆったりと編んでいた時のことだそうだ。なぜか妊娠しそうな不思議な感覚に包まれたそうである。その感覚はさまに現実となり、まもなく妊娠が判明したという話だ。知人の赤ちゃんのためにベビードールを編む彼女の純粋な愛情、ゆったりとした精神が彼女に赤ちゃんをもたらしたのかもしれない。 現在は子ども思いの母の鏡のようなお母様でいらっしゃる。


 先だっての朝日新聞の報道によると、現在各種医療機関において「不妊カウンセラー」の認定を行い、不妊症女性の様々な精神的ストレスを解消するべくカウンセリングを実施しているそうである。
 女性にとって人生最大の意思決定である「子どもを持つ」という選択肢の入り口で苦悩する女性達…。
 う~ん、「子ども」に対してさほどの執着がなかった私が議論に加われる立場にもないのだが、「子ども」とはかけがえのない存在である反面、持ったら持ったで親としての責任は地球よりも重く、苦悩の連続の日々でもあるのだが…。
     
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敬老の心得

2008年09月14日 | 医学・医療・介護
 身内に“後期高齢者”が二人いる。

 私の母と義母であるが、共にそれぞれ現在一人暮らし中である。体の痛みや生活上の不自由さ等を二人が時々電話等で訴えてはくるが、幸いな事に二人とも辛うじて介護を要する体ではない。

 このうち、私の母は遠隔地の田舎での一人暮らしである。定年まで公務員を全うした元々社会派で行動的な母である。今尚気丈で負けん気が強い。
 片や義母も、会社経営を亡義父の裏で実質的に牛耳ってきた凄腕女実業家であるのだが、数年前に亡義父の介護鬱症を患ってからは意気消沈気味である。 

 二人とも経済的には十二分に自立し、孫の各種お祝い事には一般常識より二桁多い“大金”を祝儀(祝儀というより贈与に近いが)として手渡してくれるような何とも有難くて美味しい存在である。(不謹慎な私です…
 義母も意気消沈しているとは言え自立心は失っていない。こちらは都内に在住しているのだが、よくレストランを予約して我々一家を食事に誘ってご馳走してくれる。
 このように、普段はほとんど手間のかからない子孝行な親二人である。


 という訳で、この二人の身内の“後期高齢者”に対する私の普段の敬老の主たる仕事は、専ら電話で話を聞くことである。
 これが“長い”。そして、同じ事を何度も繰り返して訴えてくるのが共通の特徴である。決して痴呆症という訳ではないのだが、お年寄りの特徴であるようだ。

 そのうち、母とは血縁のある親子でもあり遠慮がないため聞いている私は堪忍袋の緒をよく切らす。一応身内と子どもには遠慮しているらしく、大抵私が一人で家事に励んでいる平日午前中に電話をかけてくる。この長電話の相手をしていると掃除もできないし洗濯物も干せやしない。それでも、重要な用件でもある場合は中断して聞くのだが、そういう訳ではないのだ。この前も聞いた重要性の低い話をまた繰り返す。
 年に一度、田舎に帰省すると大変だ。私が着替えをしていても荷物の片付けをしていても横にやって来て、この長話を機関銃のごとく浴びせてくる。長話も度を過ぎると暴力に近い。2泊程しかしないのだが、私の堪忍袋の緒が切れて必ず大喧嘩となる。一人暮らしの日常で積もる話があるのは理解できるが、年寄りの話し相手は忍耐力を要する重労働である。

 一方、義母の方は一応わきまえてくれている。亡義父介護中はよく取り乱して電話をかけてきたのだが、事情を察して余りあるため誠意を持って対応した。義父が亡くなった後は多少不安定ながら落ち着きを取り戻し、まだ子育て中の私に遠慮し配慮しつつ電話をかけてくる。
 この義母が美人で淑女なのである。もう80歳に近いのだが、たかが近場で私達身内に会う時でも、いつも綺麗にお化粧をしてドレスアップしてハイヒールを履いて颯爽としている。そして会うといつも開口一番娘と私に「○○ちゃん(娘)はどんどん美人になっていくわね。△子さん(私)はいつも綺麗ね。」とリップサービスしてくれる。自身の方が数段美しいにもかかわらず…。これにはいつも頭が下がる思いだ。私も80歳にしてそうありたいものだ。 
 
 二人に共通しているのは、将来不安である。今は何とか一人で暮らしていける体であるが、いつ要介護の身となるやら測り知れない。二人とも異口同音に口にするのは「ポックリ逝きたい。」という言葉だ。元気とは言えずとも何とか一人で生きられる体を維持して、ある日突然倒れそのままあの世に行くのが理想だといつも言う。気持ちはわかるし、介護をする子の立場としては正直なところそうあってくれたら本当に子孝行であるとも思う。


 我が身にとってもそう遠い未来ではない「老後」であるが、身近に“後期高齢者”が2人存在するお陰で、私自身が「老後」に向けて進むべき道程を展望するにあたり、この2人の生き方が大いに参考になる。
 二人に共通しているのは“自立心”である。奇しくも私の身近な両高齢女性はご両人が生きて来た男尊女卑等の時代的背景にもかかわらず、若い頃から自立心が旺盛であったようだ。その延長線上に今があると私は捉える。
 そんな母に育てられた私も“自立心”旺盛な人間であると自負するため、老後は意外と明るいかもしれないなあ、などと敬老の日を前に根拠なく安心する私である。       
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お茶しよう!

2008年09月12日 | 人間関係
 昔、“お茶をする”という文化があった。
 この“お茶をする”というのは、喫茶店で人と会って珈琲でも飲みながらゆったりと談話することである。

 現在は、この“お茶をする”文化がすっかり陰を潜めてしまっている。そもそも、“正統派”の喫茶店をほとんど見かけない。見かけるのは「スターバックス」等の、飲料をセルフサービスで提供され、軽く腰掛けて短時間で飲むような外食チェーン店ばかりである。そこには“語りの場”はないのが特徴である。


 私がまだ田舎で暮らしていた頃の学生時代に、この喫茶店がよく流行っていた。9月7日の朝日新聞別刷の「喫茶店」の記事の中でも取り上げられていたが、ちょうどフォークグループ「ガロ」の“学生街の喫茶店”が流行った頃だ。“君とよくこの店に来たものさ、訳もなくお茶を飲み話したよ♪” まさにその通りで特にこれといった理由もないのだが、女友達とダベる時も、彼氏とデートをする時も、どういう訳がとりあえず喫茶店なのだ。

 そのうち、女友達と喫茶店に行く時は飲み物だけでなくデザートや軽食などの食べ物にもこだわった。
 当時、田舎においてさえ喫茶店は多くの店が競合していて、各店が様々な工夫を凝らしていた。珈琲等の飲料のみならず、パフェの美味しいお店があれば、ホットケーキは絶品の店もある。夏ならばフラッペ(かき氷)がたまらない。またピザならお任せのお店やら、ドリアならこのお店に限る等々、より取り見取りなのである。次々と新しい喫茶店を開拓しては、日替わりで色々な喫茶店に通ったものである。
 女友達とは学校で1日中話しているのに、どういう訳かいつも帰りの時間になると「サテンに寄ってから帰ろう!」という話になるのだ。(“サテン”とは茶店、すなわち喫茶店の略語であるが。) そして喫茶店で美味しいデザートや軽食を食べて珈琲を飲みながら、1、2時間はくっちゃべる。一体何をそんなに話すことがあったのだろうかと今になっては不思議に思うのだが、きっとお互いに好きな男の子の話でもして盛り上がったのであろう。

 一方、彼氏と“サテン”に行く場合は、珈琲専門の純喫茶や、ジャズ喫茶、ロック喫茶などが多かったように記憶している。あるいは、ドライブがてらドライブインの喫茶店にもよく行った。当時、珈琲にこだわっている男の子は多かった。私など珈琲と言えば“ブレンド”しか注文しないのだが、彼氏の方は、ブルマン、キリマン、モカ、等々、彼女の前でカッコつけたい年頃だ。そしてブレンドを注文しようとする私にも勧めてくれる。“ガテマラ”は学生時代に彼氏に教えてもらって初めて知った銘柄だ。
 そしてやはり1、2時間は語り合う。一体何をそんなに語り合ったのだろう。お互いの将来の夢でも語り合ったのだろうか、記憶にないなあ。

 喫茶店には音楽がつきものである。ジャズ喫茶やロック喫茶等の音楽専門喫茶店でなくとも、必ず音楽が流れている。洋楽であったり、歌謡曲であったり…。 喫茶店で流れていた音楽が、その時喫茶店で話し合った内容や自分の心情と交錯するのだ。
 この喫茶店での音楽に関して、今尚忘れ得ぬ思い出がある。私が上京する直前の3月のことであったが、彼氏と喫茶店で珈琲を飲んでいた。既に二人の関係はギクシャクしていて、私の上京と共に別れが訪れることは特に取り決めを交わさずとも二人共暗黙の了解だった。
 そんな別れを目前に、それでもなお未練を引きずって向かい合っている二人の空間に流れたのが「甲斐バンド」の“裏切りの街角”であった。 “わかったよ、どこでも行けばいい♪”“プラットホーム…”“切符を握りしめ…”“あの人は見えなくなった…♪” 未練を引きずる私の壊れかかった心に、これらの歌詞がグサリ、グサリと突き刺さる…
 そして数日後、彼氏を郷里に残して私は一人で東京に旅立った。


 “お茶をする”文化とは“語り合う”文化でもある。珈琲を味わいながら気の合う相手とゆったりと語り合う…、何とも贅沢な文化である。あの頃は人々の心にはまだ、そういう時間や空間を人と共有できる余裕が持てる時代だったのであろう。

 セルフサービスのチェーン店では、人は順番待ちをして飲み物を注文し高椅子に腰掛け一人で短時間を過ごした後、そそくさと席を立ち喧騒の街の中へと消え去っていく。現在は、そんな風景を日々見慣れる時代にすっかり移り変わっている。
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