原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

洗剤が届かない

2008年12月17日 | その他オピニオン
 今回の記事では、たまには“中年おばさん”の意地汚い本性でも曝け出してみることにしよう。


 私は長年に渡る朝日新聞の愛読者である。独身の20歳代半ば頃から朝日新聞とは肌が合うため一筋に購読を続け、もうウン十年になる。
 結婚後も、身内と朝日新聞に関してのみは趣味が共通している。結婚当初は身内が読んだ後の食べ物のシミだらけの乱雑にたたんだ汚らしい新聞を読まされることが我慢ならず、個々人で一部づつ取ろうかと考えたこともあったが、紙資源の無駄も考慮してさすがに踏み留まり現在に至っている。


 さて、本題に入ろう。
 朝日新聞に限らず各社の新聞の購読契約時に、新聞販売店が洗剤やゴミ袋等の日用雑貨物品を顧客に配布して購読を促進することが、おそらく日本国中で慣習となっている模様である。
 この雑貨物品を少しでも多くゲットするため、細切れに購読新聞を替えてみたり、取ったりやめたりする、という“堅実”な主婦の話を小耳に挟んだりもする。

 我が家の場合は長年朝日新聞一筋であるため、このような“堅実”な小技は使えない。半年に一度の購読契約更新時にほんの少しばかりの洗剤を契約担当者が置いていく程度である。

 先週、この半年に一度の購読契約更新手続きのため朝日新聞販売店ASAの契約担当者が我が家にやって来て契約更新をした。いつもの洗剤は持たずにやって来て、後で届けると言う。その言葉を信用した私は洗剤が届くのを首を長~~くして 待っていたのであるが、2日経ち3日経っても洗剤は届かない。 
 そして契約更新より5日が過ぎた本日、堪忍袋の緒が切れた私はASAに一本のメールを打った。 単刀直入に「洗剤を早くよこせ!」と書けば簡単だし事は済むのであるが、こういう場合、体裁を付けたいのが人情というものである。

 そんな私が今日打ったメールの内容を以下に要約して紹介してみよう。
 「先だって朝日新聞の購読契約を更新させていただきました××と申します。その際に契約担当者の方が、後程“洗剤”を届ける旨のお話をして帰りましたが、未だにその洗剤を届けていただいておりません。 新聞の購読契約において物品のやり取りがなされることに関しては、問題を孕んでいると以前より考えております。本来ならば、物品により購読者を釣るというような姑息な手段は避け、新聞とは情報力やオピニオンにより読者を獲得していくべきです。現行のような悪習は速やかに撤廃されるべきでしょう。ですが、契約時に“洗剤”を届けると言った以上、その約束は守られるべき…(云々)……」


 情報伝達手段が劇的に多様化している現在、新聞の購読拡販は至難の業の時代であろう。どう考察しても、各新聞社、販売店共に今や厳しい経営を余儀なくされていることは誰しも察しがつく。
 “洗剤”はどっちでもいいが(嘘だよ、ちゃんと届けてよ!)、新聞ならではの紙面という特質を活かした情報伝達のあり方を再考する等、新聞業界には今後さらなる経営努力が要請されることであろう。
 大手新聞社の方々、販売店という下請けの中小企業に販売促進を任せ購読者募集が芳しくない責任を取らせ続ける経営方針は、今の時代自腹を切ると申し上げたいものでもある。 少しは新聞の読者という庶民に思いを馳せ、弱者の視点も取り上げつつ、社会や時代や世界のバランスを重視しながら経営努力を重ねられては如何がと思う私でもある。
 時代は既に移り変わっていると申し上げたいものである。


 “洗剤”は未だ届かないよ~~。 イラつくなあ、もう!! 
Comments (16)

学ぶ意欲は育つのか?

2008年12月15日 | 教育・学校
 2007年に実施された子どもの「国際数学・理科教育動向調査」の結果を受けて、文部科学省は「学力低下に歯止めがかかった。各学校における取り組みが一定の成果を上げつつある結果であり、国の教育政策の方向性は間違っていないことが確かめられた。」と自己評価した。

 ところが、この国際学力調査の結果を2003年に実施された前回の同調査と比較すると得点は横ばいか微増でしかなく、文部科学省の自己評価に信憑性があるのか疑問との声も聞かれる。
 某大学数学研究所教授は「算数や数学の学力が下げ止まったとは言えない。むしろ学力低下の“定着”ではないか。」と反対意見を述べている。そしてその原因のひとつとして、入試で数学が要らない大学が増え勉強の動機付けが難しい点を指摘している。
 注意すべきは得点の上下や順位のわずかな上下ではなく、子どもの意識がきちんと学びに向かっているかどうかだ、という専門家からの指摘はかねてより多い。

(以上、朝日新聞12月10日記事「学ぶ意欲 なお低迷」より抜粋、要約)
 

 数学、理科に限らず、子どもの学力向上を議論する場合にその前提となるのは(上記の朝日新聞で取り上げられている通り) 「学ぶ意欲」 の向上である。学習をせずして学力が向上するはずもない。 子どもが学習に向かおうとする意欲を如何に育てていくかの議論がまずはなされるべきであろう。


 この「学ぶ意欲」についての私論を先に述べさせていただこう。

 小中学生位の年齢の子どもを捉まえて「学ぶ意欲」とはいささか大袈裟ではなかろうか。
 今や、学問を追究するべくはずの大学生でさえ「学ぶ意欲」もないのに大学へ入学し、在学中に学問に触れることもなく、学問とは何かすら知らずに卒業していく不届き者の学生が多い現状である。

 しかも小中高とはそもそも“学問”を追究する場ではない。学問の前段階の“知識の習得”が小中高の役割である。 小中高における「学ぶ」という言葉の意味は、あくまでも“既存の知識の習得”すなわち“学習”の意味合いでしかない。

 そして“意欲”という言葉も多少ひっかかる。既存の知識の習得にしか過ぎない“学習”に対して年端もいかない子ども達に“意欲”を要求するのも少々酷ではなかろうか。
 私自身の小中高の経験を思い起こしてみても、学習とは正直なところ概してつまらないものであった。にもかかわらずなぜ私が子どもの頃比較的精力的に学習に励んだのかを分析すると、それは向上心であり、律儀で負けず嫌いな性格によるのであり、決して学習そのものに対する“意欲”とは言えないのである。

 加えて“意欲”とは長続きしないものでもある。年端もいかない子どもを学習に向かわせるのは本人の“意欲”よりも“習慣”ではなかろうか。

 という訳で、私論としてはこの「学ぶ意欲」を「学習習慣」という言葉に置き換えて考察してみたい。
 すなわち、子どもの学力向上のためには子どもの「学習習慣」の定着が肝心なのである。


 では、子どもに如何にこの「学習習慣」を定着させるか?

 いつも私事で恐縮だが、現在中3の我が子にはこの「学習習慣」が身に付いている事だけは私は自負している。
 我が子は決して私ほどの向上心はなく負けず嫌いでもないタイプの子である。早い話が放っておいたら学習をしない部類の子どもなのだ。そんな我が子の特質を早期に見抜いた私は、「学習習慣」を身に付けさせるべく小1から我が子の学習のフォローをしてきている。そのフォローとは“共に歩む”ことである。

 一般的な親がよくやる失敗は「勉強しなさい!」という言葉だけ投げかけて後は我関せずで、後に子どもの成績の悪さだけを責めることである。これは子どもを相当傷つける行為であり、反発をくらうだけで逆効果だ。
 結果よりも過程が重要なのは言うまでもない。子どもの普段の学習の様子を見守る(一声かける等、少し気にかけるだけで十分)ことで子どもの「学習習慣」は育つものであると私の経験から申し上げたい。


 子どもの学力向上のため、学校も理科の実験を多く取り入れる等、実体験学習を導入する等の“小手先”の工夫はしているようではある。 だが、残念ながら現在の学校における個性を重視し得ない一斉授業システムにおいて、“小手先”のまやかしのみでは、今後も個性豊かな子ども一人ひとりに対応することは不可能に近いであろう。
 
 結論としては、子どもの「学ぶ意欲」すなわち「学習習慣」を身につけさせるのは、やはり家庭での子どもへの理解と愛情が基本となるのではなかろうか。
     
Comments (17)

次の女が出来た、だと!?

2008年12月12日 | 恋愛・男女関係
 恋愛関連の記事が続くが、今回は前回の記事「失恋の痛み」の続編とでも言おうか、“別れ”を違った角度から考察した記事を綴ってみることにしよう。


 前回の記事において、失恋で心がズタズタになった21歳の女子大学生の相談を取り上げた。 その失恋相談の内容というのが、交際相手の男性から突然「好きな人が出来たから別れて欲しい」と伝えられ、トンカチで頭を殴られた気分。彼にひどいことをされて、心はズタズタ、涙しか流れない、というものであった。

 今回の私の記事の表題に掲げた「次の女が出来た」と「好きな人が出来た」とではややニュアンスが異なるかもしれないが、それにしてもこの相談女子大学生の交際相手の男の“アホさ加減”に呆れるのは私だけであろうか。
 それとも今の若い人たちの間では、恋愛の終焉時に「好きな人が出来た」だとか「次の女が出来た」から別れる、というような短絡的な言葉が当たり前のごとく相手に対して平然と発せられているのであろうか。

 たとえば、散々すったもんだした挙句の喧嘩別れのような場合、その場の勢いで上記のような直接的な言葉を浴びせてしまうこともあり得るかもしれない。だが、この相談例の場合そうではなさそうだ。直前まで二人の関係はうまく行っていたらしいのに、まったく突然の発言であったようだ。女子大学生が訴えているように、この別れ方は“ひどい”としか言いようがない。それともこういう別れ方は、今の若い世代の人々にとっては“後腐れ”のない別れの一手段であるのだろうか。


 別れ方にも礼儀あり、ではないのだろうか。

 それ以前の問題として、そもそもこういう短絡的な別れ方をもたらす付き合いとは、どれだけお互いに踏み込めているのか、二人の間に真の恋愛関係が築かれていたのか、という疑問も湧いてくる。


 私事になるが、私の過去の長い独身時代の数多い恋愛遍歴 (いつもこればかり引き合いに出してスミマセン…) に伴う“別れ”においては、相手からこういう類の言葉を投げかけられたことは一度もない。 真実は知らないよ。もしかしたら相手に“次の女”や“好きな女”がいた事例もあったのかもしれない。だが、少なくとも私はその事実を知らずして相手と別れている。
 もし仮に相手に“次の女”や“好きな女”がいたにもかかわらず、相手からその話題が出なかったのにはいろいろな理由が考えられる。 相手の私に対する配慮だったのかもしれない。 あるいは“次の女”が出来たことよりも私と別れたい気持ちの方が決定的だったため、別れる理由として“次の女”の話を持ち出す必要性がなかったということも考えられる。 そうだとすれば、その“別れ”は辛くとも納得できる話である。
 逆の立場を思い浮かべてみても、私から「次の男が出来たから別れる」などと切り出したこともない。 それに近い状況はなくはなかったかな?? ただ、恋愛相手との別れとは、“次の男”が出来たせいでは決してない。元の恋愛相手との関係にひびが入りギクシャクしている隙間に“次の男”が徐々に顔を出してくることはあったかもしれない。だが、恋愛相手との別れが早かれ遅かれ訪れる必然性は“次の男”の出現の有無にかかわらず元より存在していたものと思われる。


 もしも、今の若い世代の人々の間で「次の女(男)が出来た」「好きな人が出来た」ことが“別れ”の理由として一般化していて、この言葉が相手に公然と告げられているとするならば、これもやはり“人間関係の希薄化”の一現象であると捉えられるのではなかろうか。

 恋愛とは、1対1の深い人間関係である。そのような至って親密であるはずの人間関係の終焉時の言葉が、これほどまでに軽薄化した時代と社会を寂しく感じる私でもある。
Comments (15)

失恋の痛み

2008年12月10日 | 恋愛・男女関係
 「初恋はいつですか?」という質問はよくあるが、「初めての失恋はいつですか?」という質問は滅多になく、聞かれても意外と即答できないものではなかろうか。

 この世の中、成就する恋よりも失う恋の方が圧倒的多数である。そして恋の終焉に自然消滅ということはあり得ず、必ずや“失恋”という痛みを伴い終わりを告げるものである。 恋の数だけ失恋があると言っても過言ではない。
 この失恋とは誰にとっても辛いものであり、稀にこの失恋がきっかけで鬱病を患い自殺により命を落とす人もいる。 一方で、あれだけ辛い思いをした割りには、喉元過ぎると意外と忘れ去っているのが失恋というものの特徴でもなかろうか。
 

 さて少々古くなるが、朝日新聞10月24日(金)夕刊、“こころ”のページ“悩みのレッスン”のテーマは「失恋」であった。

 それでは早速21歳大学生の女性の「初めての失恋」と題する相談を以下に要約してみよう。
 私は21歳になって初めて失恋をした。交際をしている間、私はメールが来れば心が躍り、彼の一言で何でも頑張れる気がしていた。私たちは別れることはない、と思っていた矢先に急に「好きな人ができたから別れて欲しい」と伝えられた。トンカチで頭を殴られた気分で、心はズタズタ、涙しか出ない。 「合コン行こう!」「新しい人をみつけなよ!」などと周囲から言われても、心に響かない。他の男の子を見つけることが本当に私にふさわしいことなのか。

 この相談に対する回答者は哲学者の森岡正博氏である。以下に回答内容を要約しよう。
 失恋はつらい。絶望じみた気持ちになってくるものである。友達からの「合コン行こう!」の声もきっと空虚に響くことだろう。今はつらい気持ちを抱えながら毎日を過ごしていくことしかできないかもしれない。失恋した後とは皆そんな気持ちになるものだ。そしてある程度時間が経つと、少しずつ世の中の見え方が変わってくる。その見え方とは人それぞれだ。あなたにはあなたの新しい世界が広がることであろう。
 ところで、「失恋したら次の恋人!」というアドバイスはそれほど正しくないかもしれないということを知っておいて欲しい。「若者は恋愛しなければならない」というイデオロギー(固定観念)を“恋愛至上主義”と言う。これに振り回されると「恋愛依存症」になってしまう危険性もある。人生を豊かにするために“恋愛”があるのであって、“恋愛”するために人生がある訳ではないだろう。
 失恋を通過したあと見えてくるものこそが、あなたにとって真の宝となるはずだ。人生の意味や勉強をする意味について、立ち止まって考えるチャンスにしてみるのがよいと思う。
 

 それでは“失恋”に関する私論に入ろう。

 この相談者の女子大学生は、心がまだまだ純粋で楽天家のように私は感じる。
 私の場合は、若かりし頃から恋愛中に“失恋の予感”のようなものがあった。この相談の例のように、突然恋愛相手から「好きな人ができた」などと切り出される前に、相手の心が離れようとしている予兆を感じ取って先手に出る作戦に出たものだ。
 そのような行動は、若かりし頃の私の自己防衛本能から発していたものだったと考察する。心がズタズタになり破滅することを回避したかったのだ。そんな私の行動の背景には、恋愛よりも自分の生活を優先したいという心理が強かったためであろうと分析している。

 恋愛において、上記の過去の私のような自己防衛本能が強すぎる人間は不幸であるような気が今はする。我が身可愛さに危険回避のために常にアンテナをはって自己防衛に回っていたのでは、恋愛の喜びを自ら捨て去っているようなものだ。 
 その点、この相談者の女子大生の純粋さを羨ましくも思う。心をズタズタにされてしまうような失恋の痛みとは、真の恋愛上必要不可欠のもののようにも感じる。

 回答者の森岡氏が記されている“恋愛至上主義”というイデオロギーは一種特殊な世界であり、それに振り回されると「恋愛依存症」になってしまう危険性があるという回答には一理あると私も考える。
 とは言え、今現在心がズタズタになっている失恋直後のうら若き女子大学生をつかまえて、人生の意味や勉強について考えるようアドバイスをするのは無理難題であり、ある程度人生経験を重ねた私など、かえって虚しさを感じてしまう。

 この女子大学生に限って言えば、今はとことんズタズタになっていればよいのではなかろうか。まだ若い世代の学生でもあるし、ズタズタになった自分に浸り、涙が枯れるまで泣き果てているうちに、合コン(や“ダンパ”)に少しでも行く気になったら行ったらどうか、と私ならばアドバイスしてあげたい。
(ただし、あくまでも鬱病にならない程度にね。)


 それにしても、心をズタズタにされる程の失恋が訪れるような大恋愛でもしてみたいものだなあ。 
Comments (16)

彼女はなぜモテる?

2008年12月08日 | 恋愛・男女関係
 若かりし頃の話になるが、私は学生時代に“ダンパ”に行く事を好んでいた。
 この場合の“ダンパ”とは“ダンスパーティ”の略だが、学生ロックバンドが主催する生演奏のダンスパーティのことである。田舎の学校のため、大抵は学内の学生会館で催されていた。
 当時学生バンドが好んで演奏していたのは、ディープパープルやレッドチェッペリン、ローリングストーンズ……、といったところだっただろうか。

 元々無類の音楽好きでしかもダンス好きな私は、この“ダンパ”の開催情報を入手しては常連で通ったものだ。
 “ダンスパーティ”と言えども、学生主催による古びた学生会館でのパーティのため、気の利いた演出等は何もなく、飲食もなく、ただ広間で生演奏に合わせて踊るだけなのだが、私にとっては我を忘れて音楽とダンスに浸れる楽しい一時だった。

 この“ダンパ”、表向きはダンスパーティなのだが、その実は多くの参加者の一番の目的は言わずと知れているが“ナンパ”である。
 当時の“ナンパ”と言えば男の子が女の子を“ひっかける”のが主流だった。女性は学外の女子大生の参加者が圧倒的に多く、学内の男子学生がこの女子大生を“ひっかける”ためのパーティだったと言っても過言ではない。と言う訳で、学内の女子学生の参加は至って少ないという特徴があった。

 そんな中、私は純粋に音楽とダンスを楽しみたいがために(??)このダンパに参加していた。一人で参加する訳にもいかず、いつも学内の親友を誘うのだが、この親友はそもそも音楽にもダンスにもさほど興味はなく、当初はあまり気乗りしないままついて来ていた。

 ところがどっこい、この親友がダンパ会場で男子学生にモテるのである。(親友の名を仮にD子としよう。) D子は当時決して女らしいタイプだとは言えず(失礼!)、本人にもモテようなどという裏心も一切ないのだが、どういう訳かモテるのだ。

 そこで、当時の私はD子がなぜモテるのか分析してみた。冷静に観察してみると確かに外見は“いけてる”。秋吉久美子に似た瞳の印象的な色白の個性派美人で、体系的にも私より少し小さめだがスタイルも良い。うんうん、実は男好みがしそうなタイプだったんだ!と、私も新発見で重々納得である。
 それに加えて、ダンパ会場で踊り過ぎてはいけないのだ。私のように最前列でノリノリで踊っては敬遠されてしまう。 その点、D子の場合ダンスが好きな訳ではないため、壁の花でいる場合が多い。そこを狙って“ナンパ”されているようである。 時代背景的にも“しゃしゃり出る女”は敬遠される傾向にあるような、まだまだそんな時代でもあったなあ。

 そして面白いことに、モテはじめるとD子とてやはりモテることを楽しむようになってくる。最初はさほど乗り気ではなかったダンパに積極的に参加するようになった。しかも、ファッションやヘアスタイル等の外見的要素をも磨き始めた。
 ある時街のブティックで、山口百恵がテレビで着ているのと同一の白のワンピースを二人で見つけた。色白のD子にとてもよく似合い、D子はそれを購入した。
 そのワンピースをD子がダンパに着て行ったところ、D子を狙った男子学生二人がD子を奪い始めるではないか。困惑したD子ではあるが、D子の意思でそのうちの一人を選び付き合うこととなった。D子とその時選ばれた男子学生との交際はその後何年も続く事となる。


 上記のようにダンパ会場でモテモテだったD子と私との友人付き合いは、その後もう何十年もの間遠距離にもかかわらず続いている。私にはない彼女の純粋さを今でも私は好んでいる。だから付き合いが続いているものと思われる。
 そんな彼女の飾らない純粋な持ち味が、あの時“ダンパ”でモテた本当の理由だったのかもしれない。 
Comments (12)