原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

外見が物語るもの

2008年12月06日 | 教育・学校
 某神奈川県立高校の過年度の入学者選抜において、茶髪や眉そり等の外見に関して学校独自の基準を設け、合格圏内にいながら不合格にしていた問題が明るみに出た。
 詳細を説明すると、同校には指導上の問題を抱える生徒が多く日頃より教員の負担が大きかったらしい。そのため公式の選考基準にのっとらずに学校独自の外見的基準を設けて、願書の受け付け時や受験日に教員が受験生をチェックし合否の判断材料のひとつとしていたとのことである。
 この問題を受けて神奈川県の教育長と当時の学校長が謝罪会見を開き、学校長は異動処分となったものである。


 さて、この問題に関して賛否両論の反響が各報道機関へ押し寄せているらしい。
 朝日新聞に寄せられた反響の9割以上は、「校長の判断は正しい」「異動はおかしい」等、学校擁護の立場をとる意見であるという。(朝日新聞11月23日朝刊の記事を参照)


 学校教育現場で指導を受ける生徒の外見をはじめ、人の外見とは如何にあるべきか、という議論は後回しにして、そもそもこの入学者選抜が抱えている問題点を先に指摘してみよう。

 上記の朝日新聞記事に寄せられている意見の中にも、そもそも選考基準で示されていない物差しで合否を決めることが問題だとする投書も少数ながらあるようだ。例えば「茶髪での入学は絶対だめですよ、とあらかじめ念を押した上で合否を決めるべきだった」「今後は身だしなみの基準を選考基準の中に設けるべきだ」等々… 
 ごもっともである。外見的要因を合否決定の一基準としたいのならば、あらかじめ生徒募集要項や入学者選抜説明会時にその旨の詳細を明記し公開しておくべきなのは言うまでもない。


 ここで私事を述べて恐縮だが、我が子が通学する私立中高は外見的指導がすこぶる厳しい学校である。それは単に風紀上の理由のみからではない。著名デザイナーのデザインによる制服を採用しているのであるが、制服全体としてのバランス等のファッション性を生徒個々人の勝手な解釈で着崩すことのないよう日頃厳しい指導をしている。 そのため入学前の制服購入時の採寸は体各部位の詳細に渡り実施されたのに加え、入学後も子どもの体の発育と共に長さや幅調節は学校側が卒業までの6年間無償で請け負い、生徒一人ひとりの体型に合う制服を卒業まで提供するシステムとなっている。
 私の目から見ても、なかなか中高生らしくかつ洗練されたデザインである。しかもスカートはフォーマルとカジュアルで2枚を使い分け、ブラウスやリボンの色の選択肢や、ベストやセーター等のアイテムも多く、気候や各種行事に合わせて自分なりにアレンジできる自由度もある。TPOに合わせて組み合わせを生徒自らが考えるという教育的役割も果たしているし、また生徒のファッションセンスも磨こうという狙いもあるようだ。
 このような我が子の学校の制服指導のお陰で、学校参観等でたまに出かけても生徒個々人による勝手な着崩し等の見苦しさがまったくなく、正直なところ親としては気分が良いものである。
 ただ、公立も含めてすべての学校がこういう方式を採用することは困難であろうことは重々認識しているつもりではある。


 ところで、私は本来外見とは自由度が高くあるべきだと考えている。学校における度を過ぎた外見的風紀指導には首を傾げてきた部類の人間である。茶髪も超ミニも本人がやりたければやればいいと思っている。
 ただし、まず最低限自分に似合うのかどうか位は鏡でも見て冷静に考えて欲しいものである。大変失礼ながら、“ぶっとい”太股を平気で晒して歩いている超ミニ制服娘を街で見かけると、足を少しでも細くするのが先決問題じゃないの??? と言いたくもなるし、また、その制服に茶髪やピアスはぜんぜん似合ってないぜ、と感じることも多い。(ごめんなさいね。性悪おばさんで…)
 自分が思っているよりも外見とは多くを物語っているものである。
若い世代の人たちには多少手厳しい見解かもしれないが、そんな自分の外見を殺すも引き立てるも自分を客観視できうる能力次第ということなのではなかろうか。 
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オピニオンと苦情

2008年12月04日 | 教育・学校
 近頃、どうも引っかかってすっきりしない言葉がある。「モンスターペアレント」というあれである。

 この「モンスターペアレント」とやら、先だってはテレビドラマにまで登場した様子である。(ニュースと天気予報以外テレビを見る趣味がほとんどない私は、残念ながらこのドラマは見ていないのだが。) どうやら、学校にご意見申し上げる保護者の存在自体を、世を挙げて悪者に仕立て上げようとするがごとくの社会風潮が蔓延してきているように感じるのは私だけであろうか。

 この言葉、元々はおそらく公教育を受ける側ではなく提供側から発せられたのであろうと推測するのだが、学校や教育委員会等自治体に対して、保護者をはじめとする社会一般から物を申させないようにする“言論統制”の意図が見え隠れしているようにすら感じられ、私は大いに憂えている。


 話を整理して考えてみよう。
 まず第一点であるが、“オピニオン(意見)”と“苦情”は似て異なるものである。これをごちゃ混ぜにしてしまう過ちを犯してはならない。
 そして“理不尽な要求”とは言わずと知れているが、上記二者とまったく異なる意味合いの言葉である。
 仮に、「モンスターペアレント」という言葉を学校に対して“理不尽な要求”をしてくる保護者のみに限定して使用しているのであれば、私も許容範囲である。
 ところが、学校に対して“苦情”ましてや“オピニオン(意見)”を述べてくる保護者までをも「モンスターペアレント」という言葉でシャットアウトしようという風潮があるとするならば、これは明らかに“言論統制”であろう。


 私自身、特に子どもが小学校在学中に所属していた公立小学校に対して、保護者の立場から何度か学校運営や教育方針に関する“オピニオン(意見)”を提出させていただいたことがある。 私の場合、電話等の口頭は一切避け、必ず文書化して「意見書」の形で学校長や担任宛に提出していた。
 これは提出するだけで嫌われる。それを重々承知の上での提出だった。
 学校側は最初の頃は案の定、意見書の内容を読みもせずに「学校運営に対する理解、協力を…」等の決まり文句で無視を決め込んでいたものである。ところが、諦めずに何度か意見書を提出しているうちに、私のオピニオン内容に信憑性、妥当性があることを学校側が認めるようになり、そのうち対話の場を設けてくれるようになってきた。例えば、緊急電話連絡網の濫用防止対策、通学路の安全性の確保等、において私が提出した意見書に基づいた話し合いにより相当の改善策が取られた事例もある。
 このように、保護者が提出した“オピニオン”を学校側が真摯に受け入れる例も皆無と言う訳ではないのだが、大抵の場合は門前払いが実情ではなかろうか。

 この「モンスターペアレント」という言葉は、ここ1、2年のうちに流行り始めた言葉であるが、もしかしたら過去において学校へ意見書を提出してきた私も「モンスターペアレント」と言われ後ろ指を指される立場だったのか??、と背筋がゾッとしたりもする。
 もしそうだとするとそれはとんでもない濡れ衣である。学校はこのような一種の差別用語を振りかざして、外部からの意見等の諸情報をシャットアウトするべきではない。公教育の場とは、社会に広く門戸を開放し積極的に外部と意見交換していくことにより進化し、より良い教育を提供してゆくのが使命であるはずだ。

 
 信憑性があって正当な意見は受け入れるが“苦情”は勘弁して欲しい、という声も学校側から聞こえてきそうである。 これは私の願望であるが、保護者からの“苦情”も一応聞く耳を持つ寛容さが学校には欲しいものである。“苦情”というのは意見の原点でもある。表現力や論理力の乏しい保護者が、もしかしたら直接的に“苦情”を学校側にぶつける場合もあるかもしれない。そのような“苦情”の中には教育改革の原石となる要求も含まれているものでもある。民間企業における新商品開発など顧客の苦情から始まると言っても過言ではない。
 公的機関のひとつである公教育現場の学校とは、一般社会に甘えたり逆に排除するのではなく、大きなキャパシティを持って一般市民社会を受け入れることがその役割ではないのか。

 そして、保護者側も学校と対等に対話したいのであれば、“苦情”を直接ぶつけず一呼吸置き、論点を整理し表現方法を考慮した上で冷静かつ良識的な対応を心がけたいものである。


 「モンスターペアレント」などという一種の差別用語が社会から消え去り、学校と保護者等一般社会が対等に対話し合える教育環境が確立されることを望みたいものである。 
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年賀状どうしよう?

2008年12月02日 | 人間関係
 師走に入り、来年の年賀状をどうしたものか頭を悩ませている。
 年賀状全面廃止とまでは踏み切れないでいるのだが、ここ数年、毎年この時期になると頭を悩ませる事柄である。通信技術の変遷や個人情報保護の浸透、また人間関係の希薄化等、社会情勢の移り変わりと共に、年賀状の重みが年を追うごとに急激に軽くなってきていることは事実であろう。


 我が家では、3年前まで家族連名の年賀状を私が全面的に引き受けて作成するのが恒例であった。子どもが小さい頃は親バカぶりを発揮し、毎年子どもの写真入り年賀状を作成し投函していた。

 この子どもの写真入り年賀状に関しては賛否両論あって、毛嫌いしている人も多いことは重々承知の上ではあるのだが、我が家では私の好みにより採用していた。
 私自身は長い独身時代においても、結婚し子どものいる友人知人からの子どもの写真入り年賀状を受け取ることを好んでいた。あれは結構面白いのだ。年毎にみるみる大きくなっていく子どもの成長を見るのは、他人の子と言えども感慨深いものがある。 加えて“遺伝子のなせる業”を一人ほくそ笑みながら楽しんだものである。“母親に似ていれば人生明るいだろうに、残念…”などと、要らぬお節介心が湧いたりもした。

 子どもが小学校高学年以降は、家族の1年間の様々なイベント、出来事の写真数十枚をインデックス風にアレンジして年賀状に入れ込んだりもした。

 子どもが中学生になって以降は子どもの成長に合わせ家族連名を廃止して、一人ひとりが個々に年賀状を作成するようになった。
 昨年の私は、本ブログ「原左都子エッセイ集」のPRをしたいがために多めに年賀状を作成した。その年賀状を見てブログを訪ねて来て下さった知人が何人かいらっしゃる。(ご訪問ありがとうございます。今後共お訪ね下さいますように。)


 昨年、年賀状で大失敗をしでかした。年賀状を出させていただいた知人の一人が急死していたのである。その前年の年賀状で「近いうちに是非会いましょう」と書き合い、その方はご自宅の電話番号を明記して下さっていたのに私が連絡せずにいたのだ。私が故人宛に投函してしまった年賀状を受けて、ご家族よりご本人が8月に急死された旨のお便りをいただき、驚いたものだ。今後そういう事例がどんどん増えるのかもしれない。


 近年は個人情報保護の観点から、住所以外の連絡先が不記載の年賀状が圧倒的多数である。(私自身もここ何年かはその例外ではない。) 一昔前までは、年賀状がコミュニケーションのひとつの媒体としての役割も果たしていたものであるが、現在は年賀状により連絡を取り合うことが困難な時代でもある。
 こうなると年賀状の果たす役割とは、年賀状そのものを楽しむことのみとなる。ところが、パソコン等による印刷のみで直筆の一文もない年賀状をいただくことも多い。近況報告程度は欲しいものであるが、そのような現状において年賀状とは単なる紙切れでしかなくその位置付けはさらに軽くなってきている。


 もう既に喪中はがきも何枚が届いているが、さて、来年の年賀状はどうしたものか。  おそらく出す相手を厳選し、相当枚数を減らすことになりそうである。
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