原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

何ゆえ渦中に身を投じた?

2009年05月09日 | 時事論評
 5月9日早朝の「新型インフルエンザ国内初確認」のニュース報道を受けて、本日このニュースに関連する話題を取り上げるブログはさぞや多いことであろう。
 こういう時には他ブログとの情報の錯綜を避けたい等の理由で、あえて若干時期をずらして“冷静さを装いつつ?”記事として取り上げるというのが、以前よりの私のブログの基本的な姿勢であり理念でもある。

 それに加えて、実は私は4月の連休前よりの今回の新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)に関する日本政府の対応の仰々しさ、それに平行したマスメディア報道の騒々しさには「騒ぎ過ぎ」の感が否めないでいると同時に、経済的大損失を憂えていた。(その医学的バックグラウンドに基づく私的見解については本記事では避けて通ることにするが。)

 ところが本日(5月9日)、今回の新型インフルエンザの発症者が国際交流事業旅行に参加した“公立高校の生徒と教員”であるという報道を今朝耳にした私は、仰天させられた。
 何ゆえに、未成年者である公立高校グループが公的事業として、この大騒動の渦中に新型インフルエンザ感染地域を2週間以上にも渡って旅行していたのであろうか?? 大いに不可解感を抱いた私である。

 そこで今回、本ブログにおいてはこの新型インフルエンザ国内初感染の話題を、教育論も交えつつ取り上げてみたいと考える。


 今回の世界規模での新型インフルエンザ感染騒動の皮切りは、4月24日に発症が確認されたメキシコに端を発しているようだ。
 このメキシコ(米国も含めて)での発症についての最初のニュース報道を見聞したのは、日本においては4月25日だったと認識している。
 その日にカナダから帰国した横浜市の私立高校生の「新型インフルエンザ感染騒動」の前例などは、報道直後から私は“騒ぎ過ぎ”の感が否めないでいたのだが、やはり診断結果は「陰性」とのことであり、騒がれた当人とその周辺の迷惑の程に同情したものである。


 新型インフルエンザの全世界的感染の広がりを受けて、厚生労働省及び文部科学省が全国の教育機関に対し、大規模な指導に乗り出したように見られる。
 
 我が子が通う私立高校からも5月1日付で「新型インフルエンザへの対応について」との表題の、在校生全保護者宛の通達文書が配布された。
 その文書によると、関東地区で新型インフルエンザの発症が確認された場合その翌日から学校を閉鎖する、とのことである。 加えて、5月の連休中のインフルエンザ流行地への渡航に関しては同居の家族を含め学校へ届け出ること、帰国後インフルエンザに似た症状が見られた場合直ぐに保健所へ相談すること、等の追加記載もあった。

 この文書を受け取った当初もやはり“仰々しさ”が否めない私であったが、感染症とは学校や職場、また交通機関等の大勢の人が密集する場において加速的に大規模に蔓延していく経緯を考慮した場合、学校のこのような対応はやむを得ないものと把握した上で、我が子の安全も配慮して私も内心承諾した。


 今回の大阪府立高校生グループのカナダ、米国方面への国際交流旅行の出発日は4月25日だったとのことで、まだ日本においては新型インフルエンザ世界的流行の報道が伝えられる以前の出発決行であったのかもしれない。 
 だが、今回の報道を受けて交流事業の途中で集団旅行を中断し、早めに日本へ引き返す選択も十分可能だったはずだ。 現地の日本の民間企業でさえ最低限の要人のみを残し、社員やその家族の日本への帰国の措置を取っている。大手企業等国内の様々な集団組織においても、現在では不必要な海外への渡航の禁止措置を取っている現状である。

 この公立高校グループ及びその指導機関は、何故に感染者の多い地域での未成年者集団の重要性が高いとは到底思えない海外交流事業を中断する勇断が下せず、最後まで集団旅行を続行したのか。

 本日昼間のテレビ報道によると、学校や教委は「それ相応の指導はした」と報道機関のインタビューで応えている様子である。それにもかかわらず引率教員が「現地では誰もマスクもしておらず大丈夫だと思った」とのことで、帰国時の飛行機内でもマスクの着用もしていなかったとの報道である。
 
 しかも感染している高校生の一人は、飛行機の機外に出た後に体調不良を訴えたとのことで、その周辺にいた本来隔離されるべく人々が既に入国し帰路に着いているとのニュース報道でもある。


 さらに本日(5月9日)14時24分の最新情報によると、飛行機内での濃厚接触者49人のうち6人が体調不良を訴えて医療機関に搬送される予定とのことでもある。 体調不良を訴えずとも、飛行機内で感染者の周囲に同乗した乗客は5月17日まで成田近辺のホテルに監禁状態で停留せねばならず、被る迷惑及び損失は計り知れないものがある。


 集団内感染が及ぼす周囲への感染拡大を最大限考慮し、特に集団行動においては早めの決断が要求されることが、今回の公立高校生グループの新型インフルエンザ感染において実証されたと言える。

 とりあえずは、感染者の回復が最優先されるべきである。
 その上で、今回の公立高校の取り返しのつかない“大失態”ぶりは、今後の教訓、課題として教育現場及びその指導機関において重々活かされるべきであろう。
        
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“濡れ衣”は水に流そう…

2009年05月07日 | 人間関係
 今日は連休中に経験したちょっと不愉快な出来事について、皆さんに聞いていただくことにしよう。


 都会の女子トイレとはいつ何時も大抵の場所で混雑していて、長蛇の列が出来ているのが見慣れた光景である。
 あるターミナル駅の女子トイレに立ち寄ろうとしたところ、やはり例外ではなくトイレの外の通路まで長蛇の列である。待つこと数分、中に入ってみると、どうやら混雑のためか使用後の水の流れが悪いようである。 小用を足した後、レバーを何度か操作しても水が流れ切らない。 やむを得ずそのまま個室から退室した私であるが、次に待っていた“おばさん”(恐らく、私よりも若い女性と思われるが)から大目玉を食らった。
 「ちょっと、あんた!! ちゃんと流して行きなさいよ!!!」

 (ひえ~~~、 怖いなあ~~)と思いつつ、「流れが悪いようですよ…」と消え入りそうな声で弁解するのが精一杯の私であった。

 こういう「事件」を“濡れ衣”すなわち“無実の罪を着せられた”、とまで言うと少しニュアンスがズレるのかもしれないが、人間長年生きていると結構遭遇する出来事である。

 この種の出来事とは“誰が悪い”という判断が難しい事象ではあるが、責められた当人としては大いに後味が悪いものである。その日は後々まで不快感を引きずり、暗く過ごしてしまったものだ…


 以前にも、似たような経験がある。
 子どもの幼稚園の入園式で、入学手続きのため親子で順番待ちの列を作って並ぶことになった。列が2列出来ていて(そのように私の目には見えた)、当然ながら短い方の列に並んだところ、長い方の列の後方にいた父親らしき男性から、
「おい! そこの親子!! ズルをしないでちゃんと並べよ!!!」
 と大声で罵声を浴びせられてしまった。
 とっさに訳がわからない私であったが、どうやら我々親子が責められているようだ。状況をよく把握できないでその罵声に不服感を抱いたまま、長い列の最後尾に並び変えたのであるが、何で我々親子が非難されねばならぬのか、やはり納得できない。
 その後後方から状況を観察していると、どうも列からはみ出して子供達が動き回って遊んだり、それを放ったらかして井戸端会議に夢中の親同士のグループが列を大幅に乱していて、後から来た私には一見2列あるように見えたようである。

 こういう場面において、落ち度のない人間が悪者に仕立て上げられてしまうことは、至って不本意なものだ。かと言ってどこかに対して異議申し立てを出来るという程の大袈裟な事象でもなく、罵声を浴びせられた本人が不快感を心中に溜め込んで悶々とするしか手立てはない。


 逆の立場のような場に出くわすこともある。
 そのような場に居合わせても、客観的状況判断を常に心がけている(?)私は、決して、決して、その人物を責めたりはしない。 だが残念ながら、自分の感情に任せて大声で責め倒す“単細胞”人間とはやはり世に存在するものである。(前記事の続きになるけど、「体罰」教師の気質などこれに近いんじゃないの?)
 例えば高齢のお年寄りが銀行のATMを使用しようとして、順番待ちをわきまえない場合がある。これにイラついた順番待ちの顧客から、そのお年寄りに対して非難の大声が投げつけられることがたまにある。 これは、端で見ていて痛々しい限りである。 フロアに配置している顧客担当係が滞りなくそのお年寄りの適切な誘導を成すべきであろう。

  
 以上のような周囲からの“濡れ衣”を回避するためには、まずは状況判断力を身に付けるべきかと考える。
 例えば、上記の私の幼稚園での順番待ちの列の例のような場合は、周囲の状況を十分に観察して並ぶことにより、他者からの罵声による痛手は回避できる。

 ただ冒頭のトイレの例のように、使用した後でないと効果が分からない事態においては、状況判断力どうのこうのの問題ではない。
 こういう場合、他者から責められてもやむを得ないと諦め、非難された本人がストレスを溜め込むしか打つ手はないのだろうか?


 それにしても“濡れ衣”による不快感を後々引きずることは、精神衛生上、人間誰しも回避したいものである。
 (えっ? そんなくだらない事をいつまでも根に持ってないで、これからも内容の濃い「原左都子エッセイ集」を綴る事に精進しつつ、根本的な部分で心を発散したらどうか、ですって??)
     
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「体罰」と「指導」の狭間

2009年05月05日 | 教育・学校
 小学2年生の男子児童の胸倉を掴んでその児童を背中から廊下の壁に押し付けた教員の行為が、「体罰」にあたるかどうかが争われた裁判において、「体罰」であると認めて損害賠償を命じた一審、二審判決をこの度最高裁は破棄し、原告側の賠償請求を棄却する逆転判決を言い渡した。

 先日、私はこのニュース報道をNHKテレビで見聞したのであるが、その見聞に基づいて“事件”の詳細をここで紹介することにしよう。
 小学2年生の男児2人(?)が、廊下を歩いていた小学5年生の女児数人にいきなり“蹴り”を入れた。そこをたまたま通りがかった教員が2年生男児を叱咤したところ、通り過ぎようとしているその教員の背後から男児の一人が“蹴り”を入れた。教員はその児童の胸倉を掴み廊下の壁に押し付けて大声で叱った、というのが今回の“事件”の全貌であるようだ。


 早速私論に入ろう。
 今回のニュース報道を見聞した限りにおいて当該教員の行為のみをピックアップした場合、これは明らかに「体罰」(と言うよりも)、とっさの個人的感情による「暴力」に当たるのではないかと私は判断する。
 (いい大人、しかも義務教育過程の教員として採用されているべく人物が、いかなる理由があれ何故に幼少の児童の胸倉をとっさに摑まねばならぬのか…)


 この最高裁判決に関しては、世に様々な見解が交錯している模様だ。

 例えば、生徒と教員の間に信頼関係があったならばこれは「体罰」ではなく「指導」として容認される、という見解もある。

 あるいは、この男子児童の親こそが非難されるべきであり、子どもが教員に“蹴り”を入れたことを保護者が当該教員に対して謝らせるべきだった、との見解もある。

 法廷において判決を導くためには、法律に準拠して議論がなされるべきである。その法的手続きと、事件に関する世間の民意との間にはそもそも埋められない“溝”が存在する。
 一応法律を学問としてたしなんできている私は今回の民意に添えず申し訳ないが、この記事においてはその辺の議論は避けて通らせていただくことにする。


 ガラリと話を変えて、私自身の幼少の頃の「体罰」体験を綴ることにしよう。

 私は学校では一応真面目な児童生徒だったためか(??)、教員からの“精神的嫌がらせ”らしき行為を被った経験は何度かあるものの、「体罰」を受けた体験は皆無である。
 私自身の義務教育期間は今から遡る事ウン十年前の話なのだが、時代背景的には義務教育過程の教員の「体罰」が教育現場で容認され、正当な指導としてまかり通っていた頃である。そのような環境の中、私自身は体罰を経験せずとも、周囲の児童が教員から「体罰」を受けるのを学校現場で日々目の当たりにせざるを得ず、その残影に今尚トラウマを抱えていると言っても過言ではない。

 一方で私は家庭内において、私の記憶では2、3度、我が父親から「体罰」を受けている。これに関しては、一生忘れもしない大きな傷跡となって今尚我が心に刻み付いているのだ。
 その一つをここで紹介しよう。 私が小学2年生の時の出来事である。
 当時、女の子の間で“ひだスカート”が流行っていた。私も日々この“ひだスカート”を着用して小学校に通うのだが、潔癖症の私は子供心にこの“ひだ”にピシッと折りが入っていないと気持ちが悪いのだ。それを重々承知の母が、毎晩布団の下に敷いて「寝押し」をしてくれるのだが、ある日、共働きで忙しい母が「寝押し」を忘れた。それを翌朝、私が責めた。「こんなみっともないスカートじゃ、学校に行けない!!」
 自分が寝押しを忘れていた母は、慌ててアイロンを取り出してスカートにひだを入れてくれようとした時に、父の怒りが爆発したようだ。
 父は無言で私に近づき、思い切り私を床に投げ飛ばした。
 腰を床に打ち付けた痛みで一瞬息が止まり起き上がれず、しばらく訳が分からなかった私も、すぐさま状況を把握した。朝の皆が忙しい時間に私の我がままが過ぎたことは、すぐに幼少の私にも理解できた。
 息を整え、腰の痛みに耐え、ひたすら黙り通して“ひだのとれた”ままのスカートを履き健気に学校へ行った私の心の中には、一生消えることのないトラウマのみが残った。

 いい年をした大人が、自分のその場の激昂した感情に任せて幼い子どもにいきなり体罰を与えて自分一人が一瞬せいせいするのではなく、間髪をおいて、論理的な言葉で子どもに誤りを伝える余裕が欲しかったものだ…。 それが理解できない娘ではないことを、我が父も既に重々承知していたはずなのに…。 その場に直面した母とて、本来ならば幼少の私をかばいつつ、我が子の直前で父が犯した過ちを訂正させるのが片方の親としての役割だったはずだ。それが出来なかった母に対しても、その軟弱ぶりを私は心の片隅で未だに根に持っている。

 以上のように、自己の幼き日の経験に基づくトラウマを今尚抱えているという理由もあって、「体罰」(イコール「暴力」)にはあくまでも否定の立場を貫き通したい私である。
 

 5月4日付「徳島新聞」の社説に“「体罰」最高裁判決 容認とみるのは早計だ”と題する、私論とほぼ一致する見解を先程ネットで発見した。
 その「徳島新聞」の社説の要約を紹介して、私論の結論としよう。

 いじめや暴力行為、学級崩壊といった児童生徒の問題行為が深刻化する中、批判を恐れて厳しい指導が難しくなっている学校現場の実情に、今回の最高裁判決は一定の配慮を示したとみる専門家は少なくない。
 だが、これで児童生徒に対する教員の体罰が、教育目的であったら許されると考えるのは早計に過ぎる。
 この判決を契機に、安易な体罰容認論が広がることのないようにしたい。
 安倍元首相の肝入りで発足した教育再生会議における見直し提言を受けて、文科省は教職員が暴力制止等の目的で「実力行使」に及ぶことを容認する判断を提示している。
 今回の最高裁判決は、こういった文科省の見解に沿ったものとみられる。
 児童生徒へ毅然とした態度を示す上で「体罰」が必要不可欠だとは思えない。体罰とは、感情的になり易い教育手法だ。子どもの心にも傷を残す。プロの教師であるならば、安易な体罰に頼ることなく子どもの「指導」ができるよう研鑽を積んで欲しい。
 教育行政も、教職員に過剰なストレスが掛からないよう支援を充実させる必要がある。 
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私の嫌いな日本の良識

2009年05月03日 | 人間関係
 昨夜一家で外食したのだが、その帰りに娘と二人で書店へ立ち寄った。

 「何か本を買って帰って、連休中に読もうか?」と私が娘に声をかけると、娘は何冊がパラパラと立ち読みし、2冊の本を買うことに決めたようだ。

 帰宅後、「どんな本を買ったの? 見せて。」と言いつつ、娘が買い求めた本のタイトルを見た私は、一瞬我が目を疑った。
 まずはここでその本のタイトルのみを紹介すると、「私の嫌いな10の人びと」「私の嫌いな10の言葉」である。 

 本のタイトルのみを一見した私の頭の中に、様々な思いがよぎった。
 (我が娘もまた随分と否定的で退廃的な本を読みたいと思っているものだなあ。 これはどうしたことか? 人間関係において現在何か悩みでも抱えているのだろうか? 親の目には私に似なかったのが幸いして至って素直で温順で、否定的な思考なぞするはずもないと信じている我が娘に、実は嫌いな人物がいて、日常的に嫌な言葉を投げかけられ、日々悶々と過ごしていたのであろうか?) 
 (ぎょっ!! もしかしたらそれは私のことではないのか?? 実は、我が娘は日頃一番かかわりが深く親密な母の私に嫌気がさしているのではなかろうか? 私が普段娘に対して何気なくかけている言葉が、大いに娘を傷つけているのだろうか?)
 (そうだよなあ。 そう言えば昨日も娘に対して「さっさとしなさい!」「何ボーッとしてるの!」どうのこうのと責めたよなあ…。どう考えても鬼母の私は、いずれ娘に嫌われる運命にあったのか?? 娘が高校へ進学して、その時期が到来したのか!? 娘が親に向かって金属バッドを振り回し始める日も近いのか!!? それはそれで親としては自業自得だ。 娘の“鬼の征伐”を堂々と受けて立とうじゃないか!! 

 元々想像力豊かな私の妄想は尽きない。

 その傍らで、明日から学校が4連休に入る娘はいつもよりもさらに気分が解放されているようで、無邪気にはしゃいでいる。幼少の頃から小学校高学年までリビングに学習机を置き母子二人三脚で学習に励んできているせいか、娘は高校生になった今尚、自分の部屋よりもリビングの方を好んでいる。(それで、私の「とっとと自分の部屋へ行って勉強しろよな!!」等の堪忍袋の緒が切れた罵声が飛び交うのだが…)


 今日になって改めて、娘がこの連休中に読もうとしている上記の 中島義道氏著 の「私の嫌いな…」の2冊の本の“目次”に目を通してみた。

 な~~るほど。
 中島義道氏著のこれらの本は、決して“否定的”でも“退廃的”でもなく、むしろ私が今までの人生において培ってきている思想とほぼ一致しているのではないか、ということに気付かされたのである。

 その中島氏著による2冊の本の“目次”をここで紹介してみよう。

 まずは、「私の嫌いな10の言葉」から。
 「相手の気持ちを考えろよ!」   「ひとりで生きているんじゃないからな!」
 「おまえのためを思って言っているんだぞ!」   「もっと素直になれよ!」
 「一度頭を下げれば済むことじゃないか!」   「謝れよ!」
 「弁解するな!」   「胸に手を当てて考えてみろ!」
 「みんなが厭な気分になるじゃないか!」   「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!」

 ここで私論になるが、まさに“なるほど!なるほど!”でガッテンである。
 これらの言葉とは、“単純馬鹿”なくせにどういう訳か人の上に立ってしまっている人物(例:学校の熱血教師等)から、日常的によく発せられる言葉である。
 私など、幼少の頃からこういう“アホ臭い”言葉に先天的なアレルギーがあったものだ。こういう種の、一見もっともらしいが実は周囲の微細な心情が見えていない自分本位の言葉に嫌悪感を抱きつつ、私の確固たる反骨精神が培われてきたとも言える。

 次に「私の嫌いな10の人びと」の“目次”を紹介しよう。
 「笑顔の絶えない人」   「常に感謝を忘れない人」
 「みんなの喜ぶ顔が見たい人」   「いつも前向きに生きている人」
 「自分の仕事に『誇り』を持っている人」   「『けじめ』を大切にする人」
 「喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人」   「物事をはっきり言わない人」
 「『おれ、バカだから』という人」   「『わが人生には悔いはない』と思っている人」

 私論であるが、いやはや、中島義道氏の「お嫌い」な人物像のご指摘は、これまた私の見解と一部を除き一致する。
 (中島氏と見解が一致しない“一部”に関して先に述べると、「「物事をはっきり言わない人」と「『わが人生において悔いはない』と思っている人」である。この私はその時々の諸状況に応じて、自分が結果として損を被ることは承知の上で、あえて物事をはっきり言わない場面はよくある。そして私は至って未熟ながらも「悔いのない」人生を刻み続けるべく、あくまでも私なりではあるが日々努力しているつもりでもある。)
 その上でこの私も、日本の“いわゆる”良識において“善人”であるとされているような、中島氏が羅列されている人物像が実は大の苦手である。いい年をしてこのような人物像を目指そうとする人々の、やはり“単純馬鹿”さ加減には申し訳ないが私はちょっとついて行けない気がするし、“あまのじゃく”を自負する私自身がそういう通り一遍の善人のような人生を、微塵も歩みたくないと思いつつ日々を送っている。

(これら2冊の本の著者でいらっしゃる中島義道氏には、“目次”に目を通したのみでこのような勝手な論評をさせて頂きましたことを、ここでお詫び申し上げます。 貴著を娘が読ませていただいた後に、私も拝読したく存じております。)


 幼少の頃より母(私のことだが)の影響を大きく受けて育ってきている我が娘は、実は本屋の店頭でこの本の“目次”を一覧して私同様に中島氏に同感して、この2冊を読みたいと欲したのだろうか?
 そういうことはまだ詮索せずに、娘が読み終わった後で軽く感想などを聞くことを、親としては今は楽しみにしていようかな。 
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漢字能力の真義

2009年05月01日 | 教育・学校
 漢字能力検定協会が公益法人でありながら暴利をむさぼり、その歪んだ体質の醜態を社会に晒している実態については、既に皆様も周知のことであろう。


 この私が「漢検」の存在を知ったのは、かれこれ10年程前のことである。
 “東大卒”を売り物にしている女優の菊川玲(あの方、今何をしているのかしら??)が、当時私が好んで見ていたテレビのクイズ番組“クイズタイムショック”に出演して、「私は漢検2級を取得していま~~す!」と高らかに豪語しているのを見聞してからだ。
 それまで「英検」の存在は知っていたものの(一応この原左都子も、英検2級を取得していま~~す! 何の自慢にもなりゃしない…)、「漢検」なるものは初耳だった。東大卒業者が自慢する程の資格だとすれば、相当社会的権威があるのか??との印象だけは残ったものだ。

 その後我が子が進学した中学校では、在学中に「英検」に加えて「漢検」「数検」を受験し、中学卒業までに全員が英漢数すべて最低限“3級”をクリアする事が在学中のノルマとして課せられた。(我が子の場合全部クリアしての卒業だった。「漢検」に関しては、中三の8月の受験で“準2級”まで合格済みである。)
 その中で我が子の「漢検」受験に際して、(ははあ、あの東大卒の女優も合格しているとやらの「漢検」ね。)との記憶が蘇った私は、早速子どもの「漢検」指導に入ることとなる。


 我が子の「漢検」準2級までの受験指導経験者の立場から結論を先に述べると、あの検定試験は「過去問」を繰り返し学習しさえすれば必ずや合格できる資格試験である。少なくとも準2級までに関しては、他に何ら受験対策は必要とせず、比較的簡単に取得できる資格との印象が強い。

 私自身も子どもと共に家庭で「漢検」過去問に挑戦してみたのだが、既に老化の一途を辿り蜘蛛の巣が張り巡らされつつある私の頭でも、2級問題を9割方回答可能である。

 3級あたりまでの問題はまずまず無難な内容であり、合格しておいても損はないかもしれない。
 ところが準2級ともなると、早くも“奇問・珍問”と思しき出題がちらほらと出現してきている。半世紀以上日本語を操りつつ生きてきている私が、見たことも聞いたこともないような四字熟語の出題もある。類似語、反義語の出題においては、これを類似語、反義語と位置づけていいのか?、微妙なニュアンスにズレがあるように思うが…、との疑念が頭をもたげる出題もある。 準2級までの場合7割正解で合格のため、私の判断で奇問・珍問をはじめ、むしろ中学生に学習させると弊害がありそうな設問は切り捨てつつ子どもに過去問に取り組ませ、合格をゲットさせてきている。
 
 このように、中学生時点で既に「漢検」準2級まで合格している我が子であるが、日常的に子どもに接している私の目から見て、我が子の漢字力は至って貧弱である。厳しい親であるかもしれないが、そう判断している。 一夜漬けで過去問を詰め込んで「漢検」に合格したところで、生きた漢字力が身につくはずもない。「漢検」に限らずそもそも試験とはすべてそういうものであろう。


 4月24日(金)朝日新聞朝刊「声」欄に、77歳の女性からの“漢字検定ってほんとに必要?”と題する投書があった。
 以下に、その一部を抜き出して紹介しよう。
 難解な字が読める、書けることに級や段をつける。趣味としてなら分かるが、これが一つの資格ということになると首をかしげたくなる。難解な文字を知っていることが即、教養があることにはならない。
 公益法人にして検定を実施する必要はない。何でも検定だの資格だのと称して利益を得ようとする機関があるようだ。もう一度よく考えてみる必要がある。


 私論もまったく同感である。

 日本語という言語体系の中で、一表現要素として位置しているのが漢字である。その位置づけは主要ではあるが、あくまでも言語の全体のバランスの中で機能するべき漢字でもある。
 「漢検」とは、その中から漢字のみをえぐり出して一人歩きさせたような、一国の言語としての全体的バランスに欠ける出題内容である感が否めない。さらに、級が進むにつれマニアックになってくる様子だ。これでは、単に“漢字オタク”を育成するだけの趣味的資格でしかあり得ない。
 「漢検」受験に挑戦し合格をゲットすることが、自己の今後のさらなる国語力の強化に連結していくひとつのきっかけになるならば、それはそれで受験が奨励されてもよいとも考える。 我が子の場合も、「漢検」に合格した事がその後の国語の学習への励みにはなっている様子である。

 少なくとも「漢検」合格とは、決して国語力のゴールでもなければ自己の教養のアピール手段でもあり得る訳がない。これに合格したからといって、いい大人がテレビ番組で公共の電波を使ってそれを吹聴して、でかい態度を露呈する程の快挙でもないことは明白だ。

 ましてや朝日新聞の投書者もおっしゃる通り、公益法人が実施するマニアックな検定試験が大きな顔をして長年まかり通り、暴利をむさぼることを容認してきている教育行政のお粗末さには、落胆させられるばかりである。 
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