原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

布団を干すのも頭脳勝負!?

2009年05月19日 | その他オピニオン
 本ブログでは大変珍しいことなのだが、今日は“主婦業”に関する話題を取り上げることにしよう。

 当ブログのその他オピニオンカテゴリーのバックナンバー「料理嫌いな女」においても既に取り上げた通り、私は“主婦”としての殊勝な心がけなど一切持ち合わせていない「主婦失格女」である。
 と言う以前に、この“主婦”という言葉には結婚前より大いなるアレルギーがある私は、結婚後外部に対して自ら“主婦”と名乗ったことなど一度もない。 (不労所得はあるものの)ここ数年職業らしきものから離れている現在、例えば履歴書の職業欄に何と書くべきか等、現在の自分の身分を表現する言葉にいつも困惑するのであるが、まかり間違っても“主婦”などとは記載しないで“無職”の表現を用いることを好む私である。

 このように、普段“主婦”という自覚がまったくない私であるが、その実はと言うと、料理以外は日々結構まめに“主婦業”に励んでいる種の人間なのである。
 それには理由がある。 私の“主婦業”行動は、根っからの「綺麗好き」気質に端を発しているのだ。


 独身時代の一人暮らしの頃から、例えば外で飲んだくれて深夜に帰宅しても、必ずシャワーは浴びて、その日着ていた衣類を手洗いで(洗濯機は騒音を発するため)洗濯してから就寝した。翌日の朝起きてその記憶がおぼろげな私は、ベランダに衣類が干されているのを発見して、自分の“頑張り”にいつも驚きつつ感心したものである。

 仕事のない休日の午前中は、必ず部屋の掃除と布団のシーツ等の大きいものの洗濯、そして晴れた日には布団干しに勤しんだ。
 休日の日課はこのノルマが最優先で、これをこなしてからでないと外出しないことに決めていた。 例えば彼氏に休日朝からの遠出ドライブ等に誘われた場合も、我が“綺麗好きノルマ”達成のために約束の時間をずらしてもらったりしたものだ。

 独身時代からのこの習慣が現在も“主婦業”という形で続き、掃除洗濯、布団干し、部屋の整理整頓等に日々勤しみ、休む間のない私なのである。


 話が変わるが、5月16日付朝日新聞「声」欄に、82歳主婦からの“雨上がりの布団干し避けよう“と題する、一風変わった“信憑性”に乏しい投書があった。
 この投書を少し紹介すると、どんなに晴れていても雨が降った翌日は湿気が多いので布団干しはいけない、と女学校の家庭科で教えられ、母からもきつく言われそれが常識と思っている。ところが、今は雨の翌日に平気で布団を干している家が多いのに驚く。お天気との付き合い方などの教えや知恵がだんだん失われていくようで、寂しい…、とのことである。

 82歳という人生の大先輩に対して物申すのも気が引けるのだが、ここでは「その言葉、ちょっと待った!!」と異論を提示するしかない。

 布団干し暦30余年の“ベテラン布団ホッシャー”(何じゃそれは??)の私に言わせていただくと、この投書内容は明らかに“がせネタ”である。 たかが主婦の一仕事でしかない“布団干し”と言えども経験がものを言うものだ。
 この道のエキスパートともなれば、外の空気を鼻で一瞬嗅いだだけでその日の湿度のパーセンテージがほぼ正確に分かるのである。 空気を鼻で嗅がずとも、ベランダの雨の残り具合や排水溝の乾き具合を少し観察すれば、その日の湿度の状態が一目瞭然で、今日は布団を干せるか否かが一瞬にして分かるのものだ。
 (もちろん、この投書の女性は高層集合住宅など皆無だった頃の教えに基づき投書されたのであろうが。)

 私論に入るが、雨の翌日が必ずしも湿度が高いとは言い切れない。湿度は気圧配置や風の向きに大いに左右され、たとえ雨の翌日と言えども爽やかに晴れ渡る日は多い。
 “布団干し”と湿度は確かに切り離せないものである。だが、その日や前日の天候のみによって杓子定規に布団を干すか干さないかを判断するのではなく、たとえ馬鹿でもできる(失礼!)“主婦業”の中の一仕事であれ、昔伝授された知識に頼るのみならず、自らの経験により得た勘等も活かしつつ日々取り組むべき業であろう。


 ついでの話になるが、布団干しには“危険も伴う”事実もわきまえるべきというアドバイスを“ベテラン布団ホッシャー”の私からご伝授しよう。
 我が布団干し歴30余年の間に、ベランダに干した布団を風で飛ばす、という大失態を経験している。

 特に高層住宅の上階では強風のビル風が吹き荒れ易いのであるが、我が家が超高層タワー物件に居住していた時に、この失敗を経験している。
 この超高層タワー物件においては、物件購入契約締結時の「重要事項説明書」にベランダに布団を干すことを禁止する条項が盛り込まれていた。入居後も「管理組合規則」としてベランダへの“布団干し”禁止を厳しく指導していた。 なぜならば、激しいビル風で飛ばされた布団が凶器と化すからである。飛んだ布団が下を通行している車や人に当たった場合の惨事をご想像いただくと、布団が凶器と成り得ることは想像がつくであろう。
 それが理解できていながら、当時まだまだ人生経験が足りず未熟だった私は、自らの“綺麗好き”の本能に任せて超高層タワー物件で果敢にも布団を干したのだ!!
 干したはずの布団の姿がベランダに影も形もない光景を目にした時には、心底怯えたものである。(布団って、本当に飛ぶんだ…… 
 急いで飛んだ布団を探しに外へ出た私は、命拾いをした。布団はタワー敷地内の植栽の上に落ちていた。 (ホッ…) 人目を気にしつつ飛んだ布団を持ち帰った私は自分の愚かさを恥じつつ、(こんな超高層タワー住居では、ホカホカの布団で寝るというような人間らしい暮らしは所詮無理なのかなあ…)との感覚を抱いたものだ。
 その後、我が家はまもなく(他の理由もあったが)低層住宅地に住居買換えの運びとなる。


 太陽光を浴びたホカホカの布団のぬくもりは毎晩はずせないよなあ。あれは「布団乾燥機」では到底味わえない贅沢であるのかもしれない。
 これからもまずは自分の安らぎのために、私は“ベテラン布団ホッシャー”でい続けるぞ。 
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円満である必要はない

2009年05月17日 | 人間関係
 「人間関係」カテゴリーの記事が続くが、世間では人間関係における理想像として“円満”という言葉がよく使用されるようだ。
 例えば「家族円満」「夫婦円満」等々…。

 この“円満”の言葉の意味であるが、国語辞典によれば、十分に満ち足りること、欠点・不足のないこと。あるいは、角がなく穏やかなこと、感情が激しくないこと、等と記載されている。

 私が“円満”の言葉から抱くイメージとは、例えば「家族円満」の場合、家族全員が食卓を囲み、何でも包み隠さずに話し合って笑い声が絶えない風景や、仲良く家族旅行へ出かける姿、はたまた、妻は仕事で疲れた亭主を労い、夫は妻を慮って、明るく素直に育った子どもの成長を喜び合う……
 ここまで書いてくると、あまのじゃくでへそ曲がりの私などは何だか気恥かしささえ漂い、背中がむず痒くなってきて、かえって居心地が悪く自分の身の置き場に困惑しそうである。


 さて、昨日5月16日(土)朝日新聞別刷「be」の相談コーナー“悩みのるつぼ”に、この“円満”に関する相談が取り上げられていた。

 まずは、50代会社員男性による相談内容を要約して以下に紹介する。
 定年目前の会社員だが、男は仕事で後れをとってはならぬと心得るのが男の生き方と信じ「会社一筋」で生きてきた結果、家事はもちろん、子育てや親類、近所付き合い等々、家に収入を入れる以外のことはすべてかみさんに任せてきた。
 最近気がつけば定年も近く、「濡れ落ち葉」の言葉が目に入るようになった。「夫婦共通の趣味を」と誰もが同じ事を言う。その言葉を聞くと途方に暮れる。
 “破滅型”の車谷先生(この相談の回答者)でさえ、四国のお遍路さんを奥様と歩き仲良く暮らしているように見えて、ショックを受け焦っている。
 何か老後の夫婦が円満に生きるための一夜漬けでできる秘訣があったら、教えていただきたい。

 引き続き、この相談に対する“破滅型”の作家・車谷長吉氏の「円満の秘訣などひとかけらもなし」と題する回答を紹介しよう。
 私は遺伝性の疾患があるため結婚はしないと青年時代から決心していたのだが、48歳の秋に懇切丁寧な嫁はんと結婚して感謝している。子どもはいない。
 私は破滅を志したことは一度もないが、貧乏が好きで極端な貧乏生活をしていた。だが失意を感じたことはなく、知人達は不思議がっている。
 嫁はんをもらうと貧乏が好きとばかりは言うてられず強迫神経症になり、嫁はんの発案で四国お遍路に行った。75日間遍路道を歩いて、死後は地獄に落ちた方がいいという覚悟ができた。作家になって心に残ったのは罪悪感だけだ。
 老後夫婦が円満に生きるための秘訣などひとかけらもない。この世は苦の世界で、私も夏目漱石のような作家になりたいと決心してから1日4時間以上眠ったことは一度もない。ただひたすら勉強するだけの日夜だった。
 私の知人にもあなたのような男がいる。今までのところ、あなたはなまくらな人だ。世の9割の人はそうなのだが。
 以上が、作家・車谷氏による相談に対する回答内容である。


 私論に入ろう。

 私は“破滅型”作家の車谷長吉氏の著作を残念ながら読ませていただいたことはないのだが、今回の相談の回答ぶりを拝見して、その人格的一部分において私と共通項があるような感覚を持たせていただいた。(一小市民の一般人の身で、大変失礼な物言いをお許し下さい。)
 この私も決して“破滅”を志してはいない。 車谷氏とは異なり、貧乏が好きな訳ではなく(かと言って私の場合も“金持ち志向”は一切ない)、地獄に落ちたいと思えるほど超越できてもいない。 そしてどうやら車谷氏よりも私の方が精神面では丈夫に出来ているようで、精神的疾患の罹患履歴はない。
 車谷氏は努力家でいらっしゃるようだ。僭越ながらこの私も努力家であることを自称している。そうであるから氏の回答が受容できるのだが、この相談者に向かって「あなたはなまくらだ」と回答し切れ、世の9割の人はその類の人だと言ってのけられる人物は、恐らく“破滅型”作家として“誉れ高い”車谷氏しか存在しないのかもしれない。


 そうだよなあ。 確かに“なまくら”だよ、この相談者は。
 今まで会社一筋に生きて来て、定年が近づいたからと言ってやわら焦りを感じ、老後をかみさんと同じ趣味で生きたい、と急に言われてもねえ。 自分の生活をそれなりに確立しているかみさんの立場としては、そんな話を突然持ちかけられても…、 それは身勝手で考えが甘過ぎるとしか思えないよ。
 そんな勝手がまかり通ると思っている男が多いから、熟年離婚が絶えないのさ。

 我が亭主の話題をブログ記事でほとんど公開していない「原左都子エッセイ集」であるが、実は我が家でも亭主の定年退職をわずか3年足らず後に控えている。
 我が家の場合も晩婚であるが故に、結婚後まだ十数年しか年月が流れていないことも車谷氏と一致しているのかもしれない。そうした背景があるとしても、老後の夫婦円満を突然「夫婦の共通の趣味」に一方的に求められても、妻としては大いに困惑しそうだ。(急に2人で仲良くしようったって、違和感があるよなあ…。) 

 結論であるが、男性の方々、定年退職後の老後はどうか精神面で自立なさって下さいますように。
 夫婦なんて元々“円満”である必要はないと思うんですけど…。 冒頭の“円満”の国語辞典の意味を再読下さい。人間関係においてそもそも“欠点、不足がなく十分に満ち足りること”など絵空事でしかないですよ。
 それよりも重要なのは、人間同士の信頼関係ではないでしょうか? それが長い結婚生活期間においてきちんと築かれているならば、たとえ老後であっても、共通の趣味がなくとも、夫婦とは長続きするようにも思うのですけど…。
 相談者の退職後のお幸せをお祈りします…。
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ママ友付き合いの過酷な試練

2009年05月15日 | 人間関係
 美容院を訪れると、その待ち時間等は置かれている週刊誌でも覗くしか時間を潰す手立てがないものだ。
 美容院に配備されている類の女性週刊誌ほどこの世においてつまらない書物はないというのが、発行者には大変失礼ながら正直な私の感想である。

 先だって美容院へ行った折に、その辺にある女性週刊誌を適当に手にとってパラパラめくっていて「ママ友」に関する記事を発見した。
 確かにこの手の週刊誌に目を通す読者の対象年齢女性は、ちょうど「ママ友」の世代なのであろうか。


 「ママ友」ねえ。
 この言葉自体に子どもを産む以前よりアレルギーがあるとも言える私なのであるが、一応子育てをしている私もそういう“苦難”の時代を経験してきている。

 高齢出産で子どもを産んだ私であるが、当時としては周囲のママ達とは年齢的に一回りも二周りも上の年代の私であるし、また、長い独身時代に女性よりも男性の友人が圧倒的に多かった私は、「ママ友」と直接対峙する機会も少ないのではないかと考えていた。
 子どもが既に高校生になっている今現在は、既に「ママ友」というべき相手との義務的付き合いは修了して正直なところ清々している私なのであるが、特に子どもが小学生までの期間は、やはりこの私も「ママ友」付き合いの“鬱陶しさ”を避けては通れなかったものである。
 

 この週刊誌の記事は「ママ友」の悩みに回答者が答える方式で展開しているのだが、女性週刊誌としては珍しくなかなか内容がまとまっていたのだ。そして回答者の回答が結構的を射ていたのも印象的である。

 その記事に連ねられている「ママ友」の悩みを列挙してみると、“公園デビュー”“習い事”“学校のPTA”“子どもをめぐるトラブルの親同士のかかわり”等々なのであるが、「ママ友」との接触をなるべく避けて通ってきたこの私もそれらすべてを経験したものである。

 例えば子どもが幼稚園入園前に昼間母親が子どもを公園で遊ばせる機会は多いのだが、いるいるどこの公園にも「ママ友」グループが。 グループの一員になって「ママ友」と“つるもう”などという趣味が毛頭なかった私は、意識してなるべくグループとの接触を避けて、単独行動者同志で差し障りのない会話などをしたり、子どもを公園にいるお年寄りに可愛がってもらったりしながら淡白に公園ライフをこなしたものだ。

 “習い事”に関しては、我が家は子どもが2歳時より幾つも掛け持ちで通わせた部類であるが、これは「ママ友」どもから大いに嫌われる標的となる。 元々「ママ友」付き合いに興味のない私としては、むしろ綺麗さっぱり嫌われてしまった方が周囲のママ達とかかわらずに済んで好都合であるため、結果として楽を出来たとも言える。
 ただし、“習い事”の場において「ママ友」同志のかかわりを避けきれない場合もある。特に“バレエ”などはその最たるものであり、これについてはこの私も相当鬱陶しい思いをしてきている。どうやら“バレエ”とはある程度高所得層でないと通わせられないというような、「ママ友」間における歪んだ特権意識があったようだ。それ故に「ママ友」達のライバル意識による壮絶なバトルが展開される場と化していたようである。(まったくもって「他者との比較は“みみっちい”」… 詳細は本ブログの前々記事をご参照下さい。) これに関して我が家の場合は、プロバレエ団併設のバレエスクールへ移籍することにより、アホ臭い「ママ友」間バトルを回避したものである。(参考のため、プロバレエ団併設スクールの場合、親との接触をほとんどせずに済みます。)

 学校のPTAに関しても似たようなものだ。 私の場合、自らの教育に関する理念が元々明確であるが故に、学校と意見交換をする目的でPTA役員になることは別段いとわないとも考えていた。 一方で、やはりPTA役員である「ママ友」との付き合いが煩わしいことは重々想像できたため、一貫して避け通してきている。

 “子どもをめぐるトラブルの親同士のかかわり”に関しては、これは親としてはどうしても避けて通れないものである。 特にママ同士が懇親にしている場合は、一旦トラブルに発展すると今後の対応に大いに難儀することであろうと察する。
 私の場合、さほど親しい「ママ友」を作らない主義だったことが幸いしたのだが、やはりこの種のトラブルは経験している。 一例として、この週刊誌にも取り上げられているのだが、親が日中在宅しない家庭の子どもが連日我が家に入り浸って夜遅くなっても帰らないという事例を経験している。この例の場合、親同士の付き合いが一切なかった我家の場合、相手の親に対してきっぱりと苦情を提言できたため、解決も早かったものである。


 「ママ友」付き合いとは、自分独り身で統治できる範疇を超えて、可愛い我が子がからむが故に難儀さを伴う人間関係である。そのため、母親が苦悩に陥らざるを得ない事象であることは私も大いに理解できる。

 それを承知した上で、この女性週刊誌の回答者も主張しておられるのだが、例えば何故に“公園デビュー”するのかを親として再考する余裕を持つべきでもあろう。 公園の例の場合、回答者が書かれている通り我が子を遊ばせることが主たる目的であるはずなのだ。
 そういう場にあっても親であるママが友達を作るのはもちろん大いに好ましい事である。 そこで今一度初心に戻って子どもを育てるという観点から、母が一人格者の立場で、母親同士として付き合う価値がある相手か否かを自らが判断していけばよいことであろう。

 友達関係とはあくまでも自然発生的に出来上がってくるものと私論は捉えている。 気がついたらどういう訳か親しくなっているというのが、友達という存在なのではなかろうか? 下手に故意に仕立て上げた友人関係というのは弊害が大きく、早期に脆く崩れ去る運命にあるものだ。
 可愛い我が子のためならば尚さら「ママ友」付き合いは無理をせず、慎重に対処するべきと私は捉えて、子どもを育ててきているのだが…。  
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コメント返答遅延のお詫び

2009年05月14日 | お知らせ
 日頃より「原左都子エッセイ集」にご訪問いただきまして、誠にありがとうございます。


 皆様より頂戴しております当ブログ記事へのコメントに対する原左都子よりの返答コメントが滞り、大幅に遅れておりますことをお詫び申し上げます。


 近日中に時間を取り、まとめてご返答申し上げる予定でおりますので、もうしばらくお待ち下さいますように。


 今後共、「原左都子エッセイ集」への皆様のご訪問をお待ち申し上げております。



 
 コメント返答をお待ちいただいております間に、我が「原左都子エッセイ集」のバックナンバーの中から、著者である原左都子がお気に入りの“自画自賛”記事を思いつくままに抜粋して、以下に何篇かご紹介させていただくことに致しましょう。


 ○「他者との比較は“みみっちい”」 (人間関係カテゴリー)

 ○「トマトのアイデンティティー」 (雑記カテゴリー)

 ○「対称性の破れ」 (学問研究カテゴリー)

 ○「次の女が出来た、だと?!」 (恋愛・男女関係カテゴリー)

 ○「料理嫌いな女」 (その他オピニオンカテゴリー) 


 

他者との比較は“みみっちい”

2009年05月12日 | 人間関係
 朝日新聞毎週土曜日夕刊“こころ”のページに連載中の「悩みのレッスン」は、若者からの相談内容のレベルの高さがその特徴と以前より私は捉えている。
 ところがどういう訳か5月9日(土)付夕刊の当コラムの今回の相談内容が、珍しくありきたりでレベルが低いことに拍子抜けさせられた私である。


 早速、その「悩みのレッスン」の19歳の大学生男性の“ゴールが見えない”と題する相談内容を以下に紹介してみよう。
 中学でいじめを受けたために、人間不信で自身が持てない。当時「お前より成績は良い」といじめた相手に言ったが、「運動やルックスで勝っている」と言い返されいじめはエスカレート。今も引きずり「すべて他人より上でないと」との強迫観念に駆られる。大学に通り資格も取得したが気分は晴れない。不信感、敗北感を一生背負っていく恐怖と絶望に苦しみ、プライドが高く反社会的で攻撃的な性格の自分に嫌気がさす。自暴自棄の自分にゴールはあるのか。

 今回の相談の回答者は本ブログではお馴染みの創作家の明川哲也氏であるが、明川氏もこの相談を読み私同様に“拍子抜け”された模様だ。
 その、いつもながら“冴えた”明川氏の回答の冒頭部分を紹介しよう。
 悩んでいる人に向かって「笑っちゃいました」と言うのは立場上まずいが、ずい分みみっちいことを言い合っていじめたりいじめられたりしているんだね。 そのまま大人になって居酒屋で顔を合わせたりすると、「俺の給料はお前より高い」「福利厚生で勝ってるし、かみさんがセクシーだから悔しくない」とか言い合うのかな。最近のお父さん向け雑誌と同じだね。大企業の給料をばらす特集が多くて、お父さん達はそういうページに引っ張られ、不幸な顔をして電車に揺られている。 比較さえしなければ、今夜のお酒も美味しかったはずなのに。
 ほぼすべての不幸は比較から始まる。… (以下は略すが、明川氏は相談者に対し、大袈裟に苦しむ前に、比較を絶つ勇気を持つことを勧めている。)


 さて、私論に移ろう。

 まったくもって、他者との比較とは大抵の場合は“みみっちい”ものでしかなく、端で見聞していると明川氏がおっしゃるように呆れて“笑っちゃう”しかない場合が多いものである。

 「私の方が美人だわね」  「でも、胸は私が大きくてナイスバディよ」

 「うちの家の方があんたんちより大きいわよ」  「でも、うちの方が都心に近いし路線価も資産価値も高いわね」
    ………
 口には出さずとも内心で他者と比較して、“みみっちく”密かにほくそ笑んでいる俗人は世に蔓延していることであろう。
 他者との比較とはあくまでも自分の内心で行って(「内心の自由」は法的にも保障されている)、一人芝居で優越感に浸ればよいレベルのものである。 それを材料に不信感、敗北感を抱く程度までならばまだしも、反社会的で攻撃的になって自暴自棄に陥られてしまっては、社会がますます混乱し危機に陥ってしまう。 

 大学生男性の相談内容に話を戻そう。
 冒頭の「成績云々…」と「運動とルックス云々…」の会話だけを読んだ場合、これは単なる“売り言葉に買い言葉”で中学生の痴話喧嘩の範疇であって、これを“いじめ”とまで言うのか?との疑問と、そもそも喧嘩を売ったのは相談者の方との感想を抱く。
 悩んでいる人を捉まえて厳しい見解を述べ申し訳ないが、この相談者はどうやら“いじめられる”素質を生来持っているのか、とも推察してしまう。人格的背景に何らかのコンプレックスが見え隠れしていて、それを他者との比較によりカバーすることにより自己の存在を肯定しつつ、何とかバランスを取って今まで生きてきたかのような印象さえ受ける。

 では、今後この若者が他者との比較という“悪癖”を乗り越えて、自らが背負っているコンプレックスを根本的に解消していくには、如何なる手立てを打てばよいのか?
 この若者の場合、“自称”成績が良いらしく、大学にも通り資格も取得したとのことである。 それらの長所、武器を“みみっちい”他者との比較の材料にして一時の優越感に浸るのではなく、今後の更なる成長のための素材として活用したいものである。 その目標の内容は何であってもよいと思う。
 自らの長所をこの若者が自己の何らかの「成功」に結び付けることにより達成感が得られたならば、きっと世に対する視界も少しずつ違ってくるのであろう。
 
 人生とは、“目標設定”とその目標到達への努力、そして目標到達後の達成感、満足感の享受、これらの繰り返しで年月が過ぎ去っていくものと私は心得ている。
 その過程において、「他者との比較」が自己評価を行うためには欠かせない一指標と成り得ることは確かである。 ただし、元々人それぞれの「目標設定」が千差万別であるが故に、その比較はあくまでも一指標としか成り得ないことも明白であろう。


 以上の私論に基づいた上で、今回の相談者の若者の心情はこの原左都子おばさんにも重々理解できるのだ。
 ちょっと似てると思うのよ、私はあなたと。
 若かりし頃は「すべて他人より上でいないと」気が済まないとの強迫観念に駆られて、下手なりに我武者羅に頑張ってきたような気が私もするのだ。

 今だってそうだよなあ。
 何でこんな一銭にもならないブログを、日々貴重な時間を割いて執拗なまでに綴り続けているかというと、それはまだ自分の人生の「ゴールが見えない」からだと自己診断してるよ。
 だけど、どういう風に生きたって、ゴールとは一生見えないものかもしれないね。
 そしてその方が、この先もずっと我が人生を楽しめそうにも思えるのがこれまた不思議だよね。
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