何とも“臭い”新聞記事を目にしてしまった。
「便所飯」だと???
朝日新聞7月6日(月)夕刊一面トップの「友達いなくて便所飯?」と題する記事は、一人で昼飯を食べる姿を周囲に見られたくないばかりに、トイレの個室に隠れて“みじめ”に昼飯をとる学生が全国各地の大学等において増殖中であるという報道なのだ。
皆が楽しく語らうキャンパスで、自分には友達がおらず一人ぽっちであるという“烙印”を周囲から押される恐怖や不安があるため、そんな姿を学食等で晒すのが嫌で「便所飯」に走るのだと言う。
私に言わせてもらうと、これはちょっと胡散“臭い”話だぞ。
人間関係の希薄化が急激に進んでいる現代社会において、一人で昼飯を食べる人種が急増している現象は社会の至るところで私もよく目にする。 世間では「お一人様」という新語まで登場しているし、実はこの私も「お一人様」愛好家の一人である。
先だって、高校生の我が子に便乗して大学のオープンキャンパスに足を運んだ。 広々としたカフェテリアには、「お一人様学生」(教員も?)用のカウンター席や窓側の眺めのよい一等席に「お一人様」用の席が数多く用意されている。やはり、今時は一人で昼食をとる学生(や教員)も多いのだなあ、自由でいいなあ、と私などは好印象♪である。
と言うのも、この私も普段一人で街に出て“ランチ”を食する機会がたまにあるのだ。 そういう場合、席にはこだわりのある私(バックナンバー「居酒屋の居心地」を参照下さい。)は、まかり間違っても周囲に騒がしいおばさん連中(失礼!)等のグループ客が蔓延っていて“至福の一時”を汚される不運だけは避けたいと考えている。そのため、「お一人様席」のある食事処を探しては狙って入店しているのだ。
そんな私の過去を振り返ると、27,8歳独身の頃から職場における昼飯「一人飯」に突入した。 ここで当時の社会状況を解説すると、独り身でいる女性に対して世間から「売れ残り」「行き遅れ」と後ろ指を指される年齢にちょうど差し掛かった頃である。
それまではこの私もグループでキャピキャピしつつ、職場での昼飯を皆と一緒に社員食堂でとっていた。
私の場合、当時世間で言うところの“売れ残った”頃から、折りしも自己実現に目覚め水面下でその準備のために公私共に超多忙状態となったのだ。
こうなると、企業における(拘束されているが無給の位置づけの)昼休みとて私にとっては貴重な時間との計算が成り立っていた。 昼飯に要する時間は約20分、残りの約40分は無駄なく私的自己実現の夢のために当てたいのだ。 今までのように、入社後年数が経たない若きギャル達のくだらないキャピキャピ話や、子どもを産んで尚居座っているおばさん達(失礼!)の取りとめのない家庭内のぼやき話の聞き役をしている暇など、申し訳ないが私には到底ない。 ましてや、こちらからも自分が目指す学問分野の話、あるいは当時はまっていた不倫関係の泥沼の辛さなど、職場で相手構わず披露するような非常識な私でもない。 昼休みの残り時間は一人で“朝日新聞”を読み各方面の情報を収集することに集中したものである。
その後も、組織における私の昼飯は「一人飯」が続く。
30歳を過ぎてからの二度目の学業生活や、派遣社員生活、はたまた結婚出産後のアルバイト稼業等多岐に渡る職場の場面においても、申し訳ないがまずは周囲の皆とどう努力しても話が合わず、つまらない。 持ち前のサービス精神を発揮して“聞き上手”に徹する割にはその報酬たるや一銭たりとてない。 休み時間であるはずなのに“集団昼飯”とは私にとっては胃が痛くなる程の虚しい時間ばかりが通り過ぎてゆくのだ。(もちろん、この私とて相当我慢してそもそも話が合うはずもない周囲に合わせるべく無理もしてきているよ。)
どのような視点から考察しても、職場の昼飯時の周囲との話題の共通点が私には見出せないのだ。これは本人にとっては心底辛い。
周囲を観察していると皆さん意外と義務感ではなく、そこそこ話に乗っているようだ。 何でこんな“つまらない話”に同意できるのだろう?? 私にとっては、そのような“無駄な時間”が一時も早く通り過ぎて欲しかったものだ…。悩み抜いた挙句の果ての私の“一人昼飯”の決断でもあるのだ。
(参考のため、この私にとって話の共通項が見出せて有意義な時間を共有できる方々が古今東西存在しますので、読者の皆様どうかご心配なきように。)
という訳で、集団内において“一人昼飯派”を貫く人間の心理を、少しは理解していただけたであろうか。
ここで結論のみを端的にまとめると“一人昼飯”の現状とは、“寂しい”のを泣く泣く我慢してやむを得ず一人で食べているのでは決してなく、ただただ食事中の集団内の“鬱陶しい会話の煩わしさ”に耐え切れないだけの話なのである。
中高生位の十代の年端も行かない年齢であるならば、昼飯を“一人”で食べている姿を自分自身で客観的に捉えた場合、確かに周囲の視線等がプレッシャーになり得るのかもしれない。
ところが、大学生をはじめいい大人が“一人昼飯”を実行する実態においては、「友達がいないことを周囲に悟られる」などという“せこい”プレッシャーを耐えている訳では決してなく、人間関係におけるもっと切実な“鬱陶しさ”を回避したい思いが根底にあるものと私は考察するのである。
(トイレで昼飯せざるを得ない大学生が真に存在するのであれば、大学の今後の進化のためにも早急に学食に「一人席」を増設するべきだよ。)
今回の朝日新聞記事を書いた記者は、もしかしたら「友達」が出来ずに“寂しい”青春時代を歩んで来られたのであろうか???
大学であれ企業であれ、たかが「昼飯」時の過ごし方が友達に恵まれている、いない如何の“証拠”や判断材料でもあるまいに…。
そういう意味で名立たる新聞がこんな記事を取り上げていること自体が“臭い”よなあ。
加えて、ちょっと低俗な“辛さ”も感じさせられる今回の朝日新聞一面トップ記事に出くわした私は、これを綴った記者の心理を慮り、現在の若者の人間関係の希薄化現象の深刻さへの懸念にさらに拍車をかけられた次第なのである。
「便所飯」だと???
朝日新聞7月6日(月)夕刊一面トップの「友達いなくて便所飯?」と題する記事は、一人で昼飯を食べる姿を周囲に見られたくないばかりに、トイレの個室に隠れて“みじめ”に昼飯をとる学生が全国各地の大学等において増殖中であるという報道なのだ。
皆が楽しく語らうキャンパスで、自分には友達がおらず一人ぽっちであるという“烙印”を周囲から押される恐怖や不安があるため、そんな姿を学食等で晒すのが嫌で「便所飯」に走るのだと言う。
私に言わせてもらうと、これはちょっと胡散“臭い”話だぞ。
人間関係の希薄化が急激に進んでいる現代社会において、一人で昼飯を食べる人種が急増している現象は社会の至るところで私もよく目にする。 世間では「お一人様」という新語まで登場しているし、実はこの私も「お一人様」愛好家の一人である。
先だって、高校生の我が子に便乗して大学のオープンキャンパスに足を運んだ。 広々としたカフェテリアには、「お一人様学生」(教員も?)用のカウンター席や窓側の眺めのよい一等席に「お一人様」用の席が数多く用意されている。やはり、今時は一人で昼食をとる学生(や教員)も多いのだなあ、自由でいいなあ、と私などは好印象♪である。
と言うのも、この私も普段一人で街に出て“ランチ”を食する機会がたまにあるのだ。 そういう場合、席にはこだわりのある私(バックナンバー「居酒屋の居心地」を参照下さい。)は、まかり間違っても周囲に騒がしいおばさん連中(失礼!)等のグループ客が蔓延っていて“至福の一時”を汚される不運だけは避けたいと考えている。そのため、「お一人様席」のある食事処を探しては狙って入店しているのだ。
そんな私の過去を振り返ると、27,8歳独身の頃から職場における昼飯「一人飯」に突入した。 ここで当時の社会状況を解説すると、独り身でいる女性に対して世間から「売れ残り」「行き遅れ」と後ろ指を指される年齢にちょうど差し掛かった頃である。
それまではこの私もグループでキャピキャピしつつ、職場での昼飯を皆と一緒に社員食堂でとっていた。
私の場合、当時世間で言うところの“売れ残った”頃から、折りしも自己実現に目覚め水面下でその準備のために公私共に超多忙状態となったのだ。
こうなると、企業における(拘束されているが無給の位置づけの)昼休みとて私にとっては貴重な時間との計算が成り立っていた。 昼飯に要する時間は約20分、残りの約40分は無駄なく私的自己実現の夢のために当てたいのだ。 今までのように、入社後年数が経たない若きギャル達のくだらないキャピキャピ話や、子どもを産んで尚居座っているおばさん達(失礼!)の取りとめのない家庭内のぼやき話の聞き役をしている暇など、申し訳ないが私には到底ない。 ましてや、こちらからも自分が目指す学問分野の話、あるいは当時はまっていた不倫関係の泥沼の辛さなど、職場で相手構わず披露するような非常識な私でもない。 昼休みの残り時間は一人で“朝日新聞”を読み各方面の情報を収集することに集中したものである。
その後も、組織における私の昼飯は「一人飯」が続く。
30歳を過ぎてからの二度目の学業生活や、派遣社員生活、はたまた結婚出産後のアルバイト稼業等多岐に渡る職場の場面においても、申し訳ないがまずは周囲の皆とどう努力しても話が合わず、つまらない。 持ち前のサービス精神を発揮して“聞き上手”に徹する割にはその報酬たるや一銭たりとてない。 休み時間であるはずなのに“集団昼飯”とは私にとっては胃が痛くなる程の虚しい時間ばかりが通り過ぎてゆくのだ。(もちろん、この私とて相当我慢してそもそも話が合うはずもない周囲に合わせるべく無理もしてきているよ。)
どのような視点から考察しても、職場の昼飯時の周囲との話題の共通点が私には見出せないのだ。これは本人にとっては心底辛い。
周囲を観察していると皆さん意外と義務感ではなく、そこそこ話に乗っているようだ。 何でこんな“つまらない話”に同意できるのだろう?? 私にとっては、そのような“無駄な時間”が一時も早く通り過ぎて欲しかったものだ…。悩み抜いた挙句の果ての私の“一人昼飯”の決断でもあるのだ。
(参考のため、この私にとって話の共通項が見出せて有意義な時間を共有できる方々が古今東西存在しますので、読者の皆様どうかご心配なきように。)
という訳で、集団内において“一人昼飯派”を貫く人間の心理を、少しは理解していただけたであろうか。
ここで結論のみを端的にまとめると“一人昼飯”の現状とは、“寂しい”のを泣く泣く我慢してやむを得ず一人で食べているのでは決してなく、ただただ食事中の集団内の“鬱陶しい会話の煩わしさ”に耐え切れないだけの話なのである。
中高生位の十代の年端も行かない年齢であるならば、昼飯を“一人”で食べている姿を自分自身で客観的に捉えた場合、確かに周囲の視線等がプレッシャーになり得るのかもしれない。
ところが、大学生をはじめいい大人が“一人昼飯”を実行する実態においては、「友達がいないことを周囲に悟られる」などという“せこい”プレッシャーを耐えている訳では決してなく、人間関係におけるもっと切実な“鬱陶しさ”を回避したい思いが根底にあるものと私は考察するのである。
(トイレで昼飯せざるを得ない大学生が真に存在するのであれば、大学の今後の進化のためにも早急に学食に「一人席」を増設するべきだよ。)
今回の朝日新聞記事を書いた記者は、もしかしたら「友達」が出来ずに“寂しい”青春時代を歩んで来られたのであろうか???
大学であれ企業であれ、たかが「昼飯」時の過ごし方が友達に恵まれている、いない如何の“証拠”や判断材料でもあるまいに…。
そういう意味で名立たる新聞がこんな記事を取り上げていること自体が“臭い”よなあ。
加えて、ちょっと低俗な“辛さ”も感じさせられる今回の朝日新聞一面トップ記事に出くわした私は、これを綴った記者の心理を慮り、現在の若者の人間関係の希薄化現象の深刻さへの懸念にさらに拍車をかけられた次第なのである。