原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

親分の言いなりの子分達も同罪

2010年01月16日 | 時事論評
 民主党幹事長・小沢一郎氏の政治資金規正法違反(疑)事件は、いよいよ元秘書(現民主党衆議院議員)石川氏と現公設秘書大久保氏の逮捕にまで東京地検特捜部が踏み込んだ模様である。

 本日(1月16日)の昼のテレビニュースの段階では、この期に及んで尚、小沢氏本人はふてぶてしくも満面の笑みで登場し「自分は何ら法に違反しておらず潔白である」と白を切り通しつつ、幹事長辞任の意向はまったくないと公言している。
 ただ、昼のニュースによると逮捕された石川氏が既に事件への関与の供述を始めているという報道でもあるし、今後小沢氏本人の事件への関与に関しても解明が図られることであろう。


 しかしまあ今回の事件で呆れ果てるのは、国民の誰が推測しても小沢氏の事件関与の疑いが濃厚であるにもかかわらずふてぶてしさを貫き通す独裁親分の小沢氏本人は元より、その子分達である民主党幹部をはじめとする民主党議員達のマスメディアへの対応ぶりである。

 私が一番呆れたのは、一昨日(1月14日)の鳩山総理のテレビニュースにおけるインタビューへの対応であった。
 「小沢氏は幹事長を辞任するべきではないのか?」との質問に対し、総理は「本人が法に違反していないと言い幹事長辞任の意向もないので、私もその必要はないと考える」と回答。 さらには「小沢氏の政治資金規制法違反への疑念は8月の総選挙以前より存在していた話である。それを承知の上で尚“国民の皆さん”は我が民主党を選んで下さっている訳だから、我々新政権は今までの体制のまま今後も国民の皆さんの期待に応えるべく政権を担っていく責任がある」云々……
 当初より民主党を支持していない私としては驚くばかりの発言である。 親分に言いなりの一子分の立場に過ぎない“お飾り総理”の鳩山氏としては精一杯の親分弁護だったのかもしれぬが、これでは既に民主党が掲げた「政権交代」の論理は破綻している。 前自民党政権でさえ、近年は政治資金規正法違反の議員に対しては総理が厳しく対応していたような記憶がある。 
 たとえ鳩山氏が“お飾り総理”でしかなく裏で小沢氏に操られていることが既に国民にバレバレだとしても、総理たるもの言葉は慎重に選び毅然と対応するべきである。 8月の総選挙において小沢氏の政治資金法違反疑念を容認して民主党に投票した国民など皆無であるのは自明の理である。それでも、他に選ぶべき政党が存在しないから民主党に投票せざるを得なかった国民が大多数であったことを、当初より民主党幹部はわきまえるべきだ。

 少しまともなコメントを述べているのは国交省大臣の前原氏である。
 「公共事業で政治家に多額のお金が渡ること自体、税金のキックバックのような話で許されざることだ。 小沢氏が無実であれば説明責任を果たすと思う。」 「企業献金が裏でなされるのはもともと違法。一般論として違法行為があるならば言語道断。」 としたまではよかったのだが…。 そこまで直言できた前原氏にしても「捜査を見極める必要があるが、本人が無実と言う以上は辞める理由はない」……
 冷静な理論派であられる前原氏にして、小沢独裁には逆らえないのか…

 今回逮捕された石川議員に関しては、自殺の恐れが生じたことまでが報道されている。それを回避するために東京地検が緊急逮捕したとの情報もあるのだが、それ程までに小沢氏の民主党内における独裁が強力だとすると、その独裁は既に「暴力」の域に達していることを一国民として懸念せざるを得ない。


 これは、我々国民はとんでもない政権に国政を委ねてしまっているという話になろう。
 民主主義国家である一先進国における政権政党が“親分”一人の独裁に操られ、政権幹部をはじめ子分達が何も物申せない状況下に置かれている現状…。 そんな独裁者に子分達が恐れおののきつつ操る国政が正常な機能を果たせるすべはない。

 東京地検特捜部による小沢氏の事件への関与の今後の捜査が待たれる現状である。
 鳩山総理は元より民主党幹部をはじめとする議員の皆さん、真に国民の幸せを念頭において国政に臨んでいる自負があるのであれば、どうか勇気をもって黒幕親分の小沢氏に対してせめて「説明責任がある」ぐらいのことは説得して欲しいものである。
 そして、石川議員は自殺などしている場合ではない。 くれぐれも命を大事にしつつ、あなたの供述がこの国の将来にかかっていることが、今のあなたに残されている議員としてのせめてもの役割であることを肝に銘じて欲しい。

 真にクリーンな国政の未来を祈る、弱者国民の一員にしか過ぎない原左都子である。    
Comments (13)

天空に輝く星たち

2010年01月13日 | 学問・研究
             (写真は、「コニカミノルタプラネタリウム満天」のチラシより転写)


 報道によると、冬の星座の王者であるオリオン座の一等星「ベテルギウス」で超新星爆発へ向かうと見られる兆候が観測されているとのことである。
 この15年でベテルギウスの大きさが15%減ったという報告もあり、専門家は「爆発は数万年後かもしれないが、明日でもおかしくない」と話しているらしい。
 もし爆発すれば満月ほどの明るさになり昼でも見えるようになるそうだ。
 冬の大三角の一つでもあるベテルギウスは赤色超巨星であり、直径は太陽の一千倍。 重いため一生は短く既に寿命は近い。 最後は超新星爆発を起こしブラックホールなどになるとされる。
 昨年米欧の研究者が3本の論文を発表し、ベテルギウスが大量のガスを放出していることや大きさの急減が示された。 ガスの放出によって星の表面が梅干のようにでこぼこに膨らんでいるらしい 。ある研究員は「爆発がいつかはわからないが、死の直前を見ているのは間違いない。 今まで想像するしかなかった星表面の様子も実際に見て確かめられるようになってきた」と話しているそうだ。
  (以上、朝日新聞1月10日一面記事より抜粋)


 話が変わるが、1月11日の成人の日に我が子と共に東京池袋サンシャインシティの中にある「古代オリエント美術館」(エジプト展開催中)と、そして上記写真の「プラネタリウム満天」を訪れた。
 私がプラネタリウムファンであることは既に当ブログのバックナンバーでも公開済であるが、あれは私にとってはまたとはない“癒しの空間”である。 あのリクライニングシートに身を委ねて、巨大な天空のスクリーンを眺める1時間を堪能するために時々出かけるのがこの「満天」である。 今回は連休中でもあり満席だったのが少々窮屈だったのだが…。

 今回私が観賞したのは「STARS(ディスカバリー・ザ・宇宙)」と題するCG番組だった。 これが、終演後に“ブラボー!!”と叫びたくなるような、なかなかの傑作だったのだ。
 憶えている範囲でその内容を少し紹介してみよう。
 「プラネタリウム満天」の場合、番組上演に先立ちまず今の季節の星空紹介がある。 冬の星座の代表格は冒頭に記した通り“オリオン座”なのだが、ギリシャ神話に登場する猟師である“オリオン座”のオリオンと、その周辺の“大犬座”“子犬座”そしてオリオンの狩猟の相手である“牡牛座”等の冬の星座が紹介された。
 今時のプラネタリウムCG番組は、その名の通りCG技術を駆使して大スペクタクル影像が展開されるため迫力満点であることは、当ブログのバックナンバー記事でも記述済である。 もしもお台場のジョイポリスへ行かれた方がいらっしゃるならばご存知であろうが、ジョイポリスの場合も各アトラクション共にCG画面が駆使されて大迫力の世界なのであるが、欠点は時間が5分程度と短いことにあろうか。これが「満天」のCG影像の場合、約40分間大スペクタクル画面が楽しめるのだ。
 そんな子どもじみた“目くらませ”に喜んでいるだけでも十分楽しく身体が癒されるのだが、毎回頷かされるのはその番組構成の見事さである。

 今回の「STARS」のテーマは“ディスカバリー・ザ・宇宙”とのことで、星の誕生から死滅までを辿ることにより宇宙の歴史の一部を分かり易く垣間見せてもらえた。
 と同時に、宇宙に浮かぶ星の一つである地球にも話が及ぶのである。 冬の星座で紹介された猟師のオリオンと大犬が可愛らしくもアニメで登場して、地球上の天空とのかかわりの太古からの歴史を小さい子どもにも分かり易く再現しているのだ。
 古代エジプト文明から始まって、古代ギリシャにおける哲学、数学の発展により物事の概念化、数量化が可能になった話、後のガリレオ・ガリレイの登場による宇宙論における「天動説」から「地動説」への歴史的転換、その後のニュートン力学の功績からアインシュタインの相対性理論への移り変わり…。 
 アインシュタインの登場以降、目覚ましく発展を遂げる宇宙論をはじめとする科学の歴史を面白おかしく迫力満点の大画面で綴っているのがこのプラネタリウムCG番組「STARS」であった。


 我が子が誕生の際に私が贈った命名は古代ギリシャ哲学から引用している。 そして我が子が生まれて最初の海外旅行の行き先は、その命名の由来地であるギリシャと世界文明の曙の地でもあるエジプト以外にあり得ないと志向し、その地に誘おうと考えそれを実行した親の私である。
 猛暑の時期での訪問だったが故に、現地で激しい下痢を起こして高熱を出し苦しんだ我が子であるが、そんな辛い思い出があるからこそ印象深い海外旅行であった様子でもある。

 我が家の事情はともかく、今回紹介した「満天」のプラネタリウム番組「STARS」は、特に小中学生程度の小さい子どもさんのおられるご家庭には、子どもさんが宇宙の神秘や地球の科学的歴史に楽しんで触れられるまたとない機会ではなかろうかと推奨する。
 (いつもながら決して原左都子はコニカミノルタの回し者ではございませんで、自らの意思で本記事を綴っております。)
        
Comments (10)

お金持ちになりたいですか?

2010年01月09日 | お金
 私が20代のサラリーマンだった頃、春闘時の賃上げ要求に際して、会社の労働組合組織から「給料をいくら上げて欲しいか?」とのアンケート用紙が全社員に配布されたことがある。
 そのアンケート用紙を見ると5択の回答方式になっているのだが、選択肢が何千円レベルから何万円までと何とも“せせこましい”数値なのだ。 当時若気の至りの私は(給料は多ければ多い程いいに決まってるじゃん!)と思いつつ、その他欄にその旨コメントを書き入れた記憶がある。 労働組合組織側のこのアンケートの趣旨としては、当然ながら会社の業績に見合った回答を欲していたのであろう。
 私が勤めていた会社は当時としては珍しかったのではないかと推測するが、「全員参加の経営」をモットーとして毎月「社内報」において会社の毎月の売上高や純利益等々の経営収支を事細かく全社員に公開していた。 そういった背景もあって、「社内報」を一覧して経営実績を総合的に評価した場合、どれ程の金額を人件費に回せるかの判断が一社員としてある程度可能であったため、上記のようなアンケートが実施されたといういきさつだったのであろう。 (ただ、社内報で公開されている経営実績とはあくまでも表向きの数値であって、必ずや裏側に“隠蔽資金”はあったはずだと私は今尚推測するのだが…)

 それにしても国内某J航空会社のごとく、所属していた会社が既に破綻しているにもかかわらず、しかも、過去の放漫経営に安穏として会社を潰した責任を取るべき立場のOBが、国民の血税をつぎ込んでもらってでも自らの多額の年金を死守しようとしている何ともぶざまな有り様は一体どうしたことか?? 


 前置きが長くなったが、朝日新聞本日(1月9日)の別刷「be」“between”のテーマは「一攫千金を夢見ますか?」だった。
 このテーマの読者の回答は、「はい」が75%、「いいえ」が25%と、やはり一攫千金を夢見ている人々が多数を占めているようだ。
 そして、一攫千金を目指すために何を実行しているかの回答としては「宝くじ」「クイズに応募」「株」「トト」「ギャンブル」「FX]等々と、大変失礼ながらその手段が私に言わせていただくと“せせこましい”ばかりである… 

 さらに、この朝日新聞記事には「100万円以上の大金が入るならばいくら欲しいか?」との設問もあるのだが、その解答として3000万円以内と答える読者が半数以上を占めている実態も、これまた何とも“せせこましい”…… 
 上記のごとく“せせこましい”読者の回答を受けて、記事の最後に専門家のコメントがある。その一部を紹介しよう。 「景気の悪さが長引き、全体的な“シュリンク(縮み)現象”に覆われて若い世代を中心に“大金のスケール感”自体が失われていると指摘する。」


 では私論に入ろう。 と言うよりも、今回は私事とそれに伴う私の経済観念、金銭感覚についてその一端を述べさせていただくことにしよう。

 最初から決してこれぞ「一攫千金」と狙ってそうした訳ではないのだが、私には「一攫千金」だったとも言える経験がある。 それは結婚に際してなのだが(ここでは金額は申し上げられないが)私の結婚には“新居”が付録で付いてきた。(税法上、何の問題もなくクリアしておりますのでどうかご心配なきように。)
 ところが「一攫千金」とは上記朝日新聞記事内にもその事例が記載されているがごとく、必ずや破綻の道程の運命が待っているようである。 我が家の場合もその例外ではなく、「一攫千金」の新居に飽き足らず、その後住居買い替えを繰り返し多額の損失を計上する道程を私は歩む事になるのである。 (当ブログの「お金」カテゴリーバックナンバー「住宅ローンの早返し」でその損失の詳細を綴っておりますので、よろしければご覧下さい。)

 ただ、お金を生かすも殺すも自分自身の力量と心得つつ、独身時代から我が人生を歩んで来れていると私は自負するのだ。 
 もしも上記の「一攫千金住居」を経済観念が鋭い私がその損得勘定のみで死守するがあまり家族の意向に添えなかったとすれば、我が家は当の昔に崩壊していたのかもしれない。 経済的に大損失を計上してでも優先するべきなのは、(経済破綻を生じない範囲内で収支バランスを保ちつつの)円滑な人間関係なのではなかろうか。?


 今回の記事の表題に掲げた「お金持ちになりたいか?」などという問いかけ自体が、虚しくも既に形骸化している今の不況の時代なのであろう。
 その一方で、上記朝日新聞記事内に「お金は人生の幸せの何%を占める?」との設問もあるのだが、その解答の過半数が「50%」前後を占めているのも事実である。

 世界的な経済不況の真っ只中とは言えども、これ程までに世界経済が発展し尽くしている浮世の実態においては、たとえ庶民であれある程度の「お金」なくして世を渡っていけるはずもない。

 私は独身時代から「経済力も自己責任」とのスローガンの下に生き延びてきている。
 なぜ私が不況の現在に至って尚自身の経済観念を当ブログにおいて何度も公開しているのかと言えば、「経済力も自己責任」の思想を貫く事により、少なくとも世の好不況にかかわらず自分自身が食い逸れずに生き延びていられるからに他ならない。
       
Comments (10)

朝寝坊したって、日の目は見れるさ。

2010年01月07日 | その他オピニオン
 明日から我が子の学校の3学期が始まるため、また早起き生活に戻らねばならない。
 この厳寒の時期のまだ日が昇らない時間帯の早起きは、基本的に「夜型人間」と自覚する私にとって実に辛く体にこたえる。
 我が子が一人前に育った暁の、さしあたっての私の一番の楽しみは“朝寝坊”することだ!  あと何年経ったらその日が訪れるかと、今から指折り数えて心待ちにしている私である。


 私が「夜型人間」を志向する原点となったのは、思春期の高校生の頃からであろうか。 
 ちょうど大学受験勉強に励んでいた頃であり、たとえば学校の定期試験前などは学校から帰宅後すぐに仮眠し(この仮眠が5、6時間と長かった!)家族が寝静まる頃起き出して勉強に励むという生活パターンを送っていた。 今思えば、あの悪しき習慣が当時まだ成長期の私の心身に打撃を及ぼしたと考察するのだが、その頃私は情緒不安定で過食症状(当時はそういう医学的症状名さえない時代だったのだが)に苛まれた辛い経験がある。 その原因は成長期にしての不規則な睡眠習慣によるものかと後に推測する私である。
 (話が本記事の趣旨から逸れるが、上記のごとくの不安定要因を抱えながらも私の生まれ持っての真面目で?律儀な?性格の賜物で、高校へは重い体を引きずりつつ3年間ほぼ無遅刻無欠席で通い通した。 ただ受験生であるにもかかわらず授業がまったく面白くなく、交友関係等々すべてが充実しない我が人生における最大の失策の思春期の一ページである。 ところが今思えば、そういう失策の時期を高校生という至って未熟な時代に早めに通り過ぎておけたことが、我が後々の人生にとって大正解であることを今現在重々実感できるから、人生とは面白い!

 我が苦難の高校生時代を過ぎ去って以降は、上記のような昼夜が逆転する程の夜型生活からは脱却し、心身状態も至って正常に戻った。


 だが、どうしても朝起きることが地獄のごとくの、滅法朝に弱い私の習性は今尚続いている。

 そんな私が、今までの半生において一番快適と思える生活パターンを堪能できたのは、30代後半に定時制高校の教員をしていた時期である。 その頃の生活パターンと言えば午前11時頃に起床し、夜の就寝は平均すると夜中の2時頃というサイクルだった。 (ただし飲み会をこよなく愛する私としては朝帰りの機会が甚だ多く、その際には午前11時に起きるのも死ぬほど辛かったものだが…

 それはさておいて、上記のごとくの“深夜に寝て朝遅めに起きる”生活パターンが我が心身に最適なのではないかとの結論を既に導き出している私は、結婚以降一家の休日には家族の理解を得てそれを実行させてもらってきた。
 ところが、この生活時間パターンもどうやら身体の加齢と共に変動する運命にあるようなのである。 数年前から、たとえ休日であっても朝ある程度早めの時間帯に目覚めてしまうのだ。 何と悲しいことに“もっと寝たいのに!”という私の心身の欲求とは裏腹に…。
 そこでその対策として、今となっては休日とは言えども午前9時には起床する習慣が定着して現在に至っている。

 
 ところで話が変わるが、「原左都子エッセイ集」にコメントを頂く読者の皆様のコメント記載時間を拝見すると、昼夜関係なく24時間体制で生活されている方々が今の時代世に蔓延している時代のようだ。 これには仰天させられる私であるが、一体皆さん、いつ寝ているの…??? 
 と思っていたら、過去においてその生活の実態を知らせて下さった読者の方がいらっしゃる。 サラリーマンであられるその読者の方は、どうしても夜中に目が覚めるらしい。そうしたら自然に逆らわずに起きてきてパソコンを覗き、例えば私のブログにコメントを書き入れて下さるとのことなのだ。 (いや~。私も夜中に目覚めることは夜な夜なだが、だからといって起き上がって作業する気力はないなあ… 脱帽です…


 昨年11月の朝日新聞記事の調査によると、「早起き派」が58%、「夜更かし派」が42%と、僅差で「早起き派」が上回っている今の時代であるようだ。
 昔から「早起きは三文の徳」と言い伝えられているが、上記朝日新聞記事内にも「三文の徳」は確かにあるとの内容の文面がある。 その文面によると、朝早く起きると沢山の仕事がこなせるという若い世代のパワフルな生き様や、早起きで早朝に飛んでいる鳥を観察できるとのご年配世代の趣味の充実が紹介されている。 (それがご自身にとって「三文の徳」ならば、どうぞご勝手にして下さい… と「夜型人間」としては言いたくもなるよね~ 


 まあ、人の時間的観念分野での生活習慣とは上記朝日新聞の事例のごとくの、自分の経済生活の優先であったり趣味的レベルの話に過ぎないのが今の時代の実情ではあるまいか。
 結局、何時に起きて何時に寝るかなどという話は、これ程文化科学が発展し人間の生き様が多様化した時代においては、人のプライバシーにも及ぶ事象であろうし、選択肢が様々であってこそ人それぞれの実りある人生が展開できる話題なのではなかろうか。
 
 我が子が一人前に成長した暁には、どこのどなたが起こしに来ようが、絶対「朝寝坊」したい原左都子であるぞ。
          
Comments (8)

五感でコミュニケーションすることの意義

2010年01月04日 | 人間関係
 昨日、我が嫁ぎ先一族の新年会に出席した。
 一族とは言えども義父母と義姉一家、そして我が家の総勢8名(一昨年に義父が他界して以降は7名)での会合である。
 とかく嫁の立場としては、嫁ぎ先一族との付き合いなど出来れば避けて通りたいものであろう。 ところが我が一族の場合、都会的現代的にソフィスティケイトした思考の持ち主であられ尚且つリーダーシップ力のある義母が、親戚付き合いを最大限簡素化するべく一族を統制し、嫁の立場の私の負担を大幅に軽減してくれているのだ。
 その義母の配慮のお陰で普段会う機会がほとんどない我が嫁ぎ先一族であるが、年に一度のみ義母の主催による新年会で一族と顔を合わせて今年で十数回目となる。
 (当ブログでも何度か公表済だが)結婚以来、義父母に厚遇され続けている私の新年会での役割は、毎年“飲み食い”に励む事、それのみである。 今年はフグ料理処でフグ三昧の新年会だったのだが、フグのお造りはもちろんのこと、てっちり鍋にフグ白子の天ぷら、から揚げにフグ鍋雑炊……  それからフグヒレ酒にビール、冷酒、焼酎と、お酒をこよなく愛していた義父亡き後を継いで、今では一族で一番大酒飲みの私である。  (これが許容される恵まれた立場の私なのです…)

 この義母の粋な計らいによる新年会は、一族の親睦上大きく功を奏していると私は捉えるのだ。 義母とは日頃交流がある一方で、普段会う機会のない義姉一家と鍋を囲んで談話することによりコミュニケーションの一時を共有でき、一族の中においては赤の他人の嫁である私の立場なりに親族の一員として受け入れられている実感が得られるのである。
(いやいや、そう思っているのは実は私のみで、「あの嫁には酒と美味しいものさえ与えておけばご機嫌だから、扱い易いよね~」と一族皆が陰でほくそ笑んでいるのかもしれない… 


 話が変わって、昨日(1月3日)の朝日新聞オピニオンページの“2010年 どんな時代に”と題する欄に、写真家・作家の藤原新也氏が「ネットが世界を縛る」とのオピニオン記事を綴られていた。
 この藤原氏のオピニオンが、 “ネット上の付き合いよりも人間生身同士での五感のコミュニケーションを尊重したい”と当ブログのバックナンバーにおいて再三主張し続けてきている私の見解と一部一致するのだ。
 そこで藤原氏の上記の記事を(私なりに多少アレンジしつつ)以下に要約して紹介しよう。

 2010年のコミュニケーションの姿を考える手がかりに、この10年間のコミュニケーションはどうだったのか思い巡らせてみた。
 SMAPの草薙事件は「いい人キャラクター」を演じ続け押し潰された結果と考察するが、この草薙型の「いい人への過剰反応」は若い世代のみならず大人の世界でも蔓延しているように見受けられる。今やタレントのみならず、一般人、企業やマスメディア、政治までもがその“好感度”という尺度で査定される時代である。 その目に見えない風圧に晒され、いい人を演じて波風の立たない人間関係を作ることに個々人が腐心する。そこには、相手の言葉や行為を正面から受け止め、たとえ軋轢が生じても自らの思いや考えを投げ返すという本当の意味でのコミュニケーションが希薄だ。
 そんな時代の空気を作り出したのはネットの影響も大きい。 ネットほど便利なものはないが、負の部分はそれが思わぬ監視機構として機能してしまうことであろう。
 今は誰でもブログを書く時代だが、それは個人情報を公の下に曝すということでもある。この私(藤原氏)のような弱小ブロガーにさえもアフガン戦争について否定的なことを書いたときに米国の国防総省からアクセスがあった程である。ネット社会における監視の目は交友関係のみならず世界規模に張り巡らされ、同調圧力の風圧が強まる中、今後のコミュニケーションはどうなるのか。
 ネット社会が臨界に達した時に、ゆり戻しが来るのではないかと期待している。そして既にその兆候がかすかに見えている面もある。 例えば米国の人気歌手マドンナが人と直接対面するライブイベントに活動をシフトしている。それはネットのダウンロード等でCDが圧倒的に売れなくなった等の理由によるものであるが、皮肉にもネットの臨界現象が“身体性”を復活させている。
 子どもや若年層が「ツイッター」による究極の相互監視システム故の辛酸をなめた結果その参入から退き始めているのと入れ替わるように、おじさん、おばさん達が嬉々としてそれにはまろうとしている光景は、ネット相互監視のダメージの経験のない世代の平和な光景にも見える。
 (以上、朝日新聞1月3日記事より藤原新也氏のオピニオンを原左都子が一部アレンジして引用)


 上記の藤原氏のオピニオンは、(私が以前より主張し続けているごとく)“ネットよりも生身の人間との五感でのコミュニケーションを大事に” との今回の記事のテーマからは若干趣旨がずれるものの、ネット上のバーチャル人間関係の怖さの究極は、藤原氏が主張される通り「相互監視システム」という個人(公人)対 個人(公人)の襲撃にまで及んでいる実態にあるとの見解に、私も同様の懸念を抱くのである。 
 今や国民2000万人が公開しているといわれるブログと言う“個人的日記”、ましてや、(私は未だ経験がないが)ツイッターとやらのネット上の交信システムを高齢者をも含めて国民誰しもがいとも容易く利用できる時代の裏側には、若年層を自殺に追い込んだり殺人事件が起こる程の「相互監視システム」という悲惨な現実が存在することも事実である。


 それでも確かに、この私とて我がブログに言語による反応を頂戴することは大変ありがたい。
 ただネットの世界とは、あくまでも「言語・言論」(画像・影像も含まれるが)という人間の五感の中のごくごく一部分でのコミュニケーション手段による付き合いの域を超えていないことを、いい大人が今一度再認識するべきであろう。 ネット上の付き合いとは決して全人格的付き合いではないことを送受信側双方がわきまえた上で、互いに礼儀を尽くしつつスマートに渡っていくべき人間関係であると私は考察する。

 やはり本来の人間関係の醍醐味とは、生身の五感でコミュニケーションして通じ合い親睦を深めていくことにあろう。
           
Comments (8)