原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

電話での重要案件処理は避けるべき

2010年05月13日 | 時事論評
 昨日、ある程度まとまった金額の買い物の決済をクレジットカード一括返済にて行おうとしたところ、どういう訳かカードが使用不能状態となっているようだ。
 自己破産の経歴もなければ、クレジット返済の遅延とてただの一度もない。引き落とし口座の預金残高にはいつも十分に余裕がある。
 お店の担当者がクレジットカード会社に問い合わせの電話を掛けてくれ、本人確認のために私が直接電話口に出ることになった。

 どうやら今回のカード使用不能の原因は、決済額が「借り入れ限度額」を超過しているため、とのことである。
 「借り入れ限度額」なるものの存在すら周知していなかった私であるのだが、それにしても“ある程度まとまった金額”とは言えども決して何百、何千万円の買い物をしようとしている訳ではない。 私の借り入れ限度額は50万円であるとのことだが、個々人の決済能力にかかわりなく何故に「借り入れ限度額」が一律少額に設定されているのかと不満に思いつつ、現金を持ち合わせておらずカードに頼るしか手段がないため、とりあえず如何に対応するべきかクレジット会社の担当者に相談したところ、「一時的な限度額の増額がこの電話で可能です」との返答である。
 そうしてもらえれば私はさしあたりこの場で商品を入手できるため、電話での口頭で限度額の増額を申し出た。 その結果いとも簡単に増額申し出が受理された様子で、お店とのカードによる売買契約は成立した。
 (話が変わるが、今時は銀行のATMでも個々人の預金残高にかかわらず1日50万円以上のお金が引き落とせないため、まとまった現金が必要な時には何日にも分けてATMへ通わねばならない不便な経験をよくさせられている。)

 後で思うに、どうも腑に落ちない。 電話で本人確認をしたとは言え、例えば私ではない別人が盗難物である私のカードと私の身分証明書を持ち合わせているような場合でも、この電話での案件処理は成り立つ訳である。
 電話処理という安直さを思い知らされる気がする。


 以前、こんな経験もあった。
 インターネット通信の「ひかりコース」のバージョンアップのため契約の更新をしたところ、私の勘違いミスで契約者名を書き違えていたようだ。(旧契約では私自身が契約者であったのに、それを忘れていた私が新契約では身内の氏名を書き入れてしまったのだ。)
 後日担当者から電話があり、新旧の契約者名に齟齬があるため確認したいとのことである。 電話での口頭による受け応えの結果、結局、私が書き入れた身内の名で新契約を更新することになったのであるが、こちらに落ち度があったとは言え、やはり腑に落ちない。
 契約者名とは契約の最たる事項である。 これを、本人確認は一応したとはいえ電話に誰が出たかの実証もないまま、口頭による確認のみで新旧契約の齟齬を片付けてしまってよいものなのか。 出来る事ならば契約書を再度郵送いただいて、契約書を書き直しの上再提出させて欲しかったものである。(あるいは、こちらから事業所に出向いて再契約してもよかったのだが。)


 先だって、新聞の投書欄に於いても同様趣旨の訴えを発見した。
(スクラップを取ってあったのだが紛失した模様で探しても見当たらないため)憶えている範囲で紹介すると、 やはり重要案件で某事業所から個人情報確認のための電話が投書者宅に突然掛かってきたそうである。 年配者である投書者は近頃流行りの「振り込め詐欺」や「オレオレ詐欺」を警戒しつつ恐る恐る個人情報を述べたものの後々不信感が募ったため、投書者側から改めて電話発信元に電話を掛け直したとのことである。 その結果、某事業所からの電話であったことには間違いはなかったのだが、重要案件に関しては電話連絡は避けて欲しい、旨の投書であったと記憶している。


 さて、私論に入ろう。

 やはり、電話での重要案件の処理は避けて欲しいものである。
 まず、現在は「電話」の“存在価値自体”及び“信頼感”が失われている時代であることは否めない。
 元々電話嫌いな私であるが、近年は特に電話が鳴ったと思えばそのほとんどが“セールス”である。(皆さん宅もそうでしょ??) ナンバーディスプレイ装置をフル活用して管理・警戒しているとは言えども、例えば白昼に電話番号通知で掛けてくる電話の中には上記のごとくの重要案件もあったり、また今尚電話という手段でアクセスしてくるかつての知人もいたりするため、すべて無視する訳にはいかないものである。
 私の年代は、まだ「振り込め詐欺」や「オレオレ詐欺」(うちには息子がいないからラッキー♪)には無縁であるが、“出ればまたセールス”の電話にはホトホトうんざりである。
 これ程に市民の“信頼感”を喪失してしまっている電話において、もはや重要案件の連絡は意味を成さない時代なのではなかろうか。


 現在は、「電話」を通り越して「ネット」での売買契約等の各種契約締結が市民権を得ている時代である。
 これに関しては原左都子もその利便さ故に日頃大いに利用しているため、「電話」に関してもあまり大きな口は叩けない立場にはある。

 もちろん、「ネット」世界とて個々人の警戒バリアーは必要であろう。
 私の場合、必要最低限以外の個人情報をネット上において決して漏らさないようにしたい思いの警戒心は強靭である。 
 例えば、アクセス数の多い「原左都子エッセイ集」が何故に今尚“無料バージョン”のgooブログを使用しているのかというと、ランクアップして有料バージョンにすることで、金融機関口座やクレジット番号等の個人情報をネット上にむやみに登録したくないという警戒心からに他ならないのだ。(そこまで警戒してるよ~


 今となっては、例えば携帯通信料金等における使用料金明細や料金請求書の郵送料までもが、その“郵送を希望する顧客側の負担”となる (今年7月から大手携帯会社で実施予定であるようだが) 程に「郵送」という手段が蔑まれている時代である。
 
 そのような時代であるからこそ、各種事業所は個人情報保護や犯罪防止に鑑みて、「電話」や「ネット」での重要案件処理に当たっては再度十分な顧客保護を念頭に置いて欲しい思いである。
            
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お金に対する正しい執着とは…

2010年05月11日 | お金
 妻の節約術の中で、夫が一番して欲しくないことは 「スーパーのポリ袋を大量に持ち帰ること」 だそうだ。 以下、「1円でも安いものを探してスーパーをはしごすること」「風呂の水を2回使うこと」…  と続くらしいのだが…


 確かにいる。私も目撃したことがある。 スーパーのレジを通過後の買い物を袋に入れる台に置かれている、惣菜の煮汁等の漏れ防止のためにスーパー側が設置しているポリ袋を  “ぐるぐると手繰って” 大量に持ち帰る女性が! 
 その行為を“合法”と捉えているらしき女性達も存在するようである。 「このポリ袋を持って帰るといろいろ使えて便利よね」「そうね」 などと話しつつ、当然の権利のごとく2人で大量に持ち帰った女性達を目撃したこともある。
 “盗人猛々しい”とはこのことかもしれないが、これ、立派な窃盗罪なのではなかろうか??

 これに対して「1円でも安いものを探してのスーパーのはしご」や「風呂の水を2回使う」などは、まだしも主婦の健気な節約術であるのかもしれない。

 ここで私事を述べると、原左都子は両方共絶対やらないね~~。 
 「スーパーのはしご」に関しては “タイムイズマネー!感覚” が鋭い私にとっては時間的ロスの損失感の痛手の方がずっと大きいし、 「風呂水2度使用」については、“綺麗好き・潔癖症”気味の私の心理眼には風呂水に雑菌等の微生物がうようよ浮いているのが見えてしまうからである。  


 さて、上記の「夫の妻にしてもらいたくない節約術」報道と時を同じくして、5月1日朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”に 「もっとお金持ちだったら、と」 と題する主婦からの相談が寄せられていた。
 以下に、この相談内容を要約して紹介しよう。
 40代の主婦であるが、子どもの頃からあまり裕福ではない家庭に育ち母が節約する姿を子供心にもせつない気持ちで見ていた。 結婚した今は昔よりはるかに良い暮らしをさせてもらっているが、夫の給料は高くなく家計は赤字である。 毎朝スーパーのチラシを見て1円でも安い店をチェックし、「一人1個限定」商品に関しては家と店を何度か往復したりして購入している。 だが、自分が買った商品が他店でもっと安い値段で売られているのを発見した時のショックといったら、それはそれは憂鬱な気分である。ポイントカードを忘れてポイントをつけてもらえない時も後々まで落ち込む。 日々の買い物でこれ程に落ち込む私は、もっとお金持だったらこんな悩みはなくなるのにと今の生活を恨めしく思うこともある。人生このままでは楽しくないが、どうしたらいいのか。


 私論に入ろう。

 「原左都子エッセイ集」において毎度おなじみの朝日新聞“悩みのるつぼ”の例外ではなく、“ほんとにこんな奴が存在するの??”と思ってしまいそうな、私にとってはまたまたアンビリーバブルな相談である。

 現在40代の主婦ということは、20年程前の学生時代にちょうどバブル期に遭遇していた年代ではなかろうか?  当時は新卒者が就職において“超売り手市場”の時代で、(極端に表現すると)誰でもどこにでも就職できた時代であったと私は記憶している。
 この相談主婦のこれまでの人生の経緯をこの相談内容からは把握できないが、“結婚して昔に比べればはるかに良い暮らしをさせてもらっている”との記述より、ご自身には就職の経験がないものと推測できる。 職業経験がないまま、現在の家庭で主婦業に専念しておられるのであろう。

 それはそれでよしとしても、これは一体どうしたことなのだろう?
 この主婦の人生の目的は日々のスーパーでの買い物にしかないのかと、この相談を読む限り思えてしまうのだ。
 確かに現在は厳しい不況が長期に及んでいる時代ではある。 それにしても、もう少し発想の転換ができないものなのだろうか。
 朝日新聞に投稿したということは、少なくとも新聞を購読できる程度の家計の経済力と新聞を読む時間的余裕があるのであろう。 そうであるならば、家計を立て直す別の手立てに思いを馳せることも可能であろうに…

  
 「もっとお金持だったら…」などというこの相談者の発想自体が至って他力本願的であり、自分の人生において自ら「お金」と直にかかわった経験が皆無であることの証明なのではなかろうか。

 まずは、この世を一人の人間として自立して生き抜いていく第一の手段として、自分でお金を稼ぐことにより自分なりの「お金持ち」になるべく少しは努力をするべきであろう。  そうではなく「結婚」により生活の安定を得ようとの選択枝も今現在尚あり得るのかもしれないし、逆バージョン(夫が妻の収入に依存する)も存在する今の時代のようでもあるが…
 この相談主婦にとっての自立の手段の結論が 「結婚」 であったとしたなら尚更、日々そのお金を稼いで家計を支えてくれている夫への配慮を最優先するべきではないのか。
 にもかかわらず、その矛先が日頃の“スーパーの買い物”にのみ結集され、金銭感覚がその域を超えられないでいる貧弱な発想が、端から見ていて何とも辛い思いである。

 今からでも遅くはないから一度でも自分で「お金」を稼ぐことにチャレンジしてみて、自分自身の「お金 対 生活」感覚を紡いでみれるといいのだが…
 それは無理だとしても、今一度新聞のいろんなページを読んでもう少し視野を広く持ち、日々のスーパーでの買い物だけではない自分なりの「お金に対する執着」の矛先を探り直してみてはいかがなものだろうか。
            
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初夏の味覚の宅配便

2010年05月08日 | 人間関係
 (写真は、先日宅配便にて直送いただいた採れ立ての“ウド”)


 日本の中央アルプスや南アルプスが展望できる信州の実り豊かな大地に大規模農場を営んでいらっしゃる “とある方” (ここでは K氏 と呼ばせていただくことにしよう)から、年に何度か採れ立ての農作物を宅配便にて我が家に直送いただくようになって、今年の春で3年目を迎える。

 K氏の大農場に於ける主生産農作物はブロッコリー(K氏名付けて “ブロッ娘” 『ブロッコ』 とよみます。 K氏が可愛い娘のごとく愛を込めて育成され毎年春秋に市場に届けていらっしゃいます。) であられる。 そのため、春秋の“ブロッ娘”を中心に、早春のフキノトウ、そして今頃の季節はワラビやウドといったごとく、都会で暮らす原左都子が普段滅多に目にすることがない“土”がついたままの旬の農作物を何ともありがたいことに我が家まで直送いただけるのである。


 ここで大規模農場主のK氏と私が知り合った経緯を述べさせていただくと、実はそのきっかけは この 「原左都子エッセイ集」 が根源なのである。 (ネット上の人との付き合いについてブログ上であれこれと批判的な私論を展開し続けている私であるが、実はこのような実りのある出会いを過去においてまんまとゲットしている原左都子でもあるのだ。
 K氏はご自身の農場経営でご多忙な中、当時まだ開設後数ヶ月しか経過していなかった「原左都子エッセイ集」をご訪問下さって、ネットという世界に未熟でブログのあり方さえも心得ない私が綴る拙ブログの一記事一記事にコメントを書き入れて下さる等の手段で心温まる応援を下さった方である。
 その後、K氏の農場経営における“ブロッ娘”の生産拡大によるさらなるご多忙等と相俟って、現在のK氏はネット上から遠ざかっていらっしゃるようだが、それでも今尚、過去においてブログ上で知り合った私に採れ立て農作物を直送して下さるという恩恵に授かり続けている私なのだ。 
 

 先日直送いただいた上記写真の“ウド”など、その名は知れども土がついたままの採れ立てのウドをこの目で実際に見るのは、私にとってはおそらく初めてのことであった。
 テレビの報道等により、この白い“ウド”を立派に育成するには大変な労力を要すると見聞していた私は、(ここでは「料理嫌い」を返上して)早速美味しく頂く手立てを模索するためにネットで“ウド料理”のレシピを検索したのである。
 
 さすが“ウド”は初夏の今時に収穫される味覚であるためか、あるある、ネット上にいろんなレシピが…
 採れ立ての山菜とは“あく”が強いのがその特徴であることを、K氏から毎年直送いただいている“ワラビ”や“フキノトウ”等の山菜で把握済の私であるので、まずは“ウド”のあく抜きに試みた。
 ネット上に水に30分程晒すという簡単情報もあったためこれに挑戦したところ、以外や以外“ウド”のあくは水だけで程々にとれるようだ。(山菜のあくを取り過ぎると何を食しているのかの特質性が失われるため、むしろ少しあくを残存させた方が“通”には美味しいのではあるまいか??)
 そしてネット上に掲載されていた「ウドの三杯酢」「ウドの酢味噌和え」「ウドのカレー炒め」等を参照して、原左都子バージョンとして「ウドの味噌マヨネーズ和え」「ウドとマッシュルームと人参のカレー炒め」などを今日の昼飯までに作成していだたいた我が家である。
 参考のため 「ウドの炊き込み御飯」も美味であるようなので、今晩の夕飯にこれから挑戦しようと志している私である。


 それにしても、K氏よりのお便りによると、自然と共存してこそ成り立つ農業世界とは“日々気まぐれに移り行く天候とのバトル”であることが今更ながら身に滲みる私である。
 分子遺伝子生物学の発展が農業における品種改良にもたらす恩恵や、工業分野での技術革新の農業分野への進出による発展は凄まじいものがあることであろう。
 とは言えども、農業とは“生き物”を扱う世界であるからこそ今尚自然との共存がその主眼であり、天候や気温による打撃を直に受ける産業であることを実感させられる思いである。
 特に今年の春の寒さ及び連休以降の酷暑や強風等との闘いの連日を慮った場合、農業に携わるK氏のお便りからの日々のご苦労を重々実感させていただける思いの私である。


 K氏の農場を以前よりご訪問したく思いつつまだそれを実行できないでいる原左都子なのだが、そのうち中央アルプスを臨む大農場で一生に一度くらいは我が子と共に農作業を経験させていただきたいものと志す私である。
 それまでに少しは筋力でも鍛えておかねば、足手まといにしかならないのも重々承知の上ではあるのだが…
         
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「連休分散化」政策より個人連休取得制度の充実を

2010年05月06日 | 時事論評
 盆暮れと5月の連休程、主婦にとって憂鬱な期間はない。

 昨日をもってやっとこさゴールデンウィークが終了して肩の荷が下り、本日久しぶりにある程度まとまった自分の時間が確保でき我に返ることが可能となった私である。

 とにかく、我が家の場合“混雑ほど鬱陶しいものはない”という観点では家族全員(とは言っても3人だが)の認識が一致しているため、よほどの差し迫った事情でもない限り連休中の“ビッグバカンス”は避けることにしている。  そうなると連休中は必然的に皆が家でうだうだと過ごす時間が多くなり、結果として「料理嫌いな女」(バックナンバーを参照下さい)として世に“名高い”原左都子にずっしりと“飯炊き女”等のストレスフルな負荷がかかる定めとなるのだ。


 先だってより「連休分散化」政策案が新政権より提出されているようだ。
 既に観光庁は “春と秋に5連休を設け地域ごとに西から順に休む” などとする「連休分散化」政策に対する具体案を提示し、その実現に向けて9自治体で実証事業を始めているとの報道である。
 この案には、“休日を分散すれば混雑が減る → 観光しやすくなる → ワーク・ライフ・バランスや経済活性化につながる” なる論理的背景があるのだそうだが……  

 朝日新聞5月1日別刷「be」“between”の今回のテーマは 「連休分散化に賛成? 」であったのだが、読者のその回答結果は 賛成が31%、反対が69%とのことである。

 
 上記朝日新聞の記事内容を交えつつ、私論を展開していくことにしよう。

 「連休分散化」案自体に対しては、原左都子は大いに賛成である。
 国土が狭く人口密度が高い日本で皆が一斉に連休をとれば、現在のごとくの道路の大渋滞を引き起こし観光地の混雑も招く。 それと平行して観光料金や航空便等各種交通、及び宿泊代金等の高騰をもたらす結果となる。
 ならば海外で連休を過ごそうと意図しようが結局発想は皆同じであるため空港は混雑するし、海外ツアー参加者がその時期のみに殺到しやはりパックツアー料金は大いに高騰する。 たとえ個人旅行を欲しようとその波及を受けるはめとならざるを得ない現状である。

 上記朝日新聞記事を垣間見るに、観光庁の“地域ごとの連休分散案”はどうやらドイツに真似ているようである。 ドイツにおいてはこの“地域ごと分散案”が功を奏し、親子等の家族単位で長期休暇を安価で楽しめる時間が確保され、この案は成功を収めている様子である。
 ただ、未だに“集団志向”が根強い日本において“地域ごとの連休分散案”は如何に評価されるのであろうか?
 上記朝日新聞のアンケート結果によると、親族や友人等の“団体のまとまり”を志向する日本人の場合、やはり “それらの人々の休みがばらばらになる” という理由が政府の「連休分散化」政策案反対意見の圧倒的多数を占める結果となっているようだ。


 そんな中、私論とほぼ同様の観点からの意見も朝日新聞記事内に掲載されている。
 「連休分散より有給休暇取得の促進が先」 「どんな職業の人でも休める体制を作らないと…」  これらの見解は私論に近いのだが、どこの職場においても自由に有給休暇が取れるシステム作りが政治主導による「連休分散化」に先行して欲しい思いである。

 ところが、これが至って困難なことは原左都子はもちろん認識できている。
 労働者の有給休暇を確保しようなどという議論は、不況のどん底の現実社会においては一部の“恵まれた”労働者間でしか成り立たない議論であるのかもしれない。 この問題の根源を直視すると、少なからずの国民が現在就職にあえいでいる実態なのだ。
 5月の連休が終わり皆が職場に戻った今、職を欲してありつけない人々の重苦しい心情を察するに、政府が提案している「連休分散化」案には“砂上の楼閣”感が漂う気もする…。

 「連休分散化」政策案を顕在化させるためには、そもそも労働者の雇用問題を早急に解決するべくこの国の経済情勢を立て直す事が先決問題であろう。


 それを承知の上で「連休分散化」に対する私論をさらに展開させていただくならば、政府が意図するところの“地域ごと分散化案”はやはり回避するべきかとの結論に辿り着くのだ。
 ドイツが現在どのような人口分布状態であるのかは残念ながら私は心得ないのだが、東西に分断されていた過去の地理的歴史を考慮した上で日本の現状の人口配置と比較した場合、その人口分布図が大いに異なるのではないかと推測する。
 しかも本記事の上部に既述のごとく、この国の国民の今に至って尚根強い“集団帰属志向”を政府はもっと認識するべきであろう。 「連休分散化」案作成に当たっては、国民の慣習や思考的特性を最大限考慮せずして改革など出来るはずはないであろう。


 それはそうとして、昔から“集団帰属”よりも“個人行動”を志向しつつ生きている原左都子としては、今回の記事の表題に掲げた通り、 個々人が欲する時期に自由に休暇が取れるような「個人連休取得制度」の確立による「連休分散化」の充実を本当は望んでいるのだけどね…
                             
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画家 レンピッカ - 弛まぬ“美”への挑戦 -

2010年05月04日 | 芸術
 (写真は、現在 東京渋谷の Bunkamuraザ・ミュージアム にて開催中の「レンピッカ展」のパンフレット 及び 代表作の一つ “ピンクの服を着たキゼット”の葉書より引用)


 芸術分野においてド素人の原左都子が、レンピッカという女性画家の存在を知ったのはつい最近の事である。
 先だっての朝日新聞の芸術欄で、上記写真右の“ピンクの服を着たキゼット”が取り上げられそれに関する評論が展開されていたのであるが、この絵画を見たことがきっかけで私は画家レンピッカに初めて遭遇したのだ。

 (あくまでも私自身の感覚に過ぎないのだが)、その日の朝日新聞一面の端っこにあった 本日の記事紹介 の中で“ピンクの服を着たキゼット”のいとも小さく縮小された絵画の何とも言えない斬新さに引き込まれる思いだった。 

 早速新聞をめくって芸術ページに辿り着き、ある程度拡大された“ピンクの服を着たキゼット”の絵画を再確認した。
 まずは作品に対する論評を読まずして、私はこの絵は近年活躍中の若い画家が描いた作品なのだろうか? との感想を抱いた。 その理由の第一点として、描かれている少女の体型が現代風の八頭身であり、少女が身に付けているミニスカートの上下の衣装や靴下、そしてヘアスタイルが今風であるからだ。 加えて、描写手法が現代の“漫画”や“イラスト”風であるようにも感じたのだ。 何分美術ド素人の私は愚かにも、当初この作品が“油絵”であることにまったく気付かなかった。

 その後この絵画に関する新聞の論評を読んで、さらに驚かされることになる。
 この“ピンクの…”の絵画の作者はレンピッカという女性画家であり、何と1926年、すわなち今から84年も以前に描かれた作品だったのだ!  しかも論評によると、この絵に描かれている少女はレンピッカの年端も行かない(確か16歳時点の?)“実の娘”であるとのことだ。
 女性画家レンピッカは(既に自分が当の昔に過ぎ去った)16歳という我が娘の若さを羨望、嫉妬しつつ、その娘の挑発的な視線と片足抜いた靴に性的意味合いも匂わせながら、少女から大人の女へと移り変わる少女の一面をこの絵で描いたということである…
 しかもレンピッカ自らがモデルとしての人生を歩む中、画家としてのレンピッカがその生涯に渡って描いた女性の肖像画は上記の実娘キゼットの肖像画も含めて、実はすべて自画像であった、との朝日新聞の論評でもあるのだ。


 これは、レンピッカの作品をこの目で実際に確認せずには済まないと思った私は、昨日(5月3日)、“ピンクの…”に描かれたキゼットと同じ年頃の我が娘を引き連れて渋谷の Bunkamura まで向かったといういきさつである。

 ここで遅ればせながら 画家 レンピッカ(タマラ・デ・レンカッピ)氏の略歴を簡単に紹介することにしよう。 
 ワルシャワの良家に生まれ、ロシアで思春期を過ごし18歳で結婚。ロシア革命を機にパリへ亡命し、“狂乱の時代”とも呼ばれた1920~30年代のパリで、独特の画風とその美貌で一世を風靡する。その後、第二次世界大戦の脅威の中アメリカに亡命。一時完全に忘れ去られるが、晩年再評価され82歳でその劇的な人生を終えた。自分の魅力と才能を武器に自らを貫いた「セルフプロデュース」の女王である。
 (以上、今回の「レンピッカ展」パンフレットより全文引用。)


 さて、「レンピッカ展」を鑑賞した原左都子の第一印象は、とにかく作品の数が多いことに唸る思いだった。 レンピッカ氏が82年の生涯に渡って制作した作品の中から、今回の展覧会に出品されているのはその一部に過ぎないであろう。 この事態を考察しただけでも、画家レンピッカ氏が如何に美術特に絵画を愛しその制作に多大な時間を捧げたかを慮る私である。
 しかも、レンピッカ氏はその美貌故にモデル業もこなし、当時としては珍しく自分で車を運転する等積極的に諸活動に励んでいたとの情報でもある。
 そして、結婚も経験して愛娘キゼットを産み愛育している。 レンピッカ氏は愛娘キゼットの肖像作品を多数残しているのだが、冒頭の左側のパンフレット表紙に取り上げられている絵画はキゼット娘時代の妖艶な姿である。 (絵画題名“緑の服の女”)

 今回原左都子が「レンピッカ展」を鑑賞しての最大の収穫として感慨深い事象は、レンピッカ氏が82年の人生の最後の最後まで絵画制作に励んだことであり、また、その最後まで美しい女性であり通したことである。
 それを証明するごとく、モデルでもあったレンピッカ氏の多くの写真が絵画と共に展示され影像も放映されているのが今回の展示会の特徴でもある。

 例えば、レンピッカ氏の愛娘であるキゼットの、おそらく30代か40代頃の肖像画もこの展覧会で展示されているのだが、申し訳ないが私の目にはその肖像画に描かれているのは、ちょっとデブった“ただのおばさん”の姿でしかなく、そこには既に“女”のキゼットは存在しない。
 それに比し、レンピッカ氏自身の晩年の姿は(展示されている写真で考察するに)80代にして尚、実に美しいのだ。


 以上のごとくのレンピッカ氏80余年の長き人生に渡る“美”への執念が、朝日新聞が論評しているところの“作品のすべてが実は自画像であったと考えられる”との表現に象徴されるような、ある意味では“ナルシシズム”とも捉えられるごとくの絵画を通した“美”への挑戦だったのではなかろうか。

 生涯に及ぶ自らの“美”への揺ぎない執念のエネルギーこそが、 裕福な家に生まれたとは言えどもその後激動する世界情勢に巻き込まれ狂乱の時代に生きることを余儀なくされる中にあって尚、レンピッカ氏の豊かな絵画の世界を創り上げたものと、 昨日「レンピッカ展」を垣間見た私は考察するのである。
                   
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