原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

70歳過ぎてビンボーにはなりたくないが…

2013年11月18日 | 時事論評
 先だって朝日新聞下欄の雑誌広告内に、現在の我が身につまされるようなタイトルを発見した。

 「週刊現代」の一記事であるそのタイトルとは…

 「70歳からのビンボーはこんなに怖い(第3弾) 私はこうして70歳過ぎてビンボーになった <実例集> -幸せだった老後は簡単に瓦解したー」

 この記事を実際に読んではいない。  だが、定年退職後の亭主を自宅内に抱え“老後生活”に突入していると表現できる原左都子の日々の暮らしを鑑みるに、このタイトルは「明日は我が身」なる切実なインパクトをもって身近に迫ってくる。

 いえいえ、私の場合は、貧乏(というより“チマチマ生活”と表現するべきか?)には十分に慣れている。
 何分、子ども時代から「貯蓄」を一趣味としている私だ。  しがない庶民である私が趣味の貯蓄に励むには、日々の生活をチマチマと営む以外に方策はない。
 それでも、上京後の長い独身時代には全ての財産管理を自身が単独で執行可能だったため、その力量手腕によりそれ相応の華やかな時代も演出し得た。
 ところが、一旦家庭を持ち子どもを育てる立場ともなれば、やはり子どもの教育費の負担を第一義とせざるを得なくなるのは何処の家庭も同様であろう。 我が家の場合晩婚だったことがネックであろうが、亭主定年退職後の今現在尚、娘の大学学費等の膨大な費用が発生している。 その大まかな費用の蓄えは一応あるのだが、子どもが既に独り立ちして優雅な老後を送っている定年後のご家庭とは大幅に事情が異なることを実感させられる日々だ。

 加えて「原左都子エッセイ集」バックナンバーでも綴っているが、我が家は亭主定年退職後は夫婦間での「独立採算制」を挙行している。
 とは言え、これには一定の条件を設定した。 婚姻後子どもを産んだ後はその教育指導活動故に大した収入を得られなかった妻側の私であるため、一家の生活費に関しては亭主の企業年金に依存する事とした。 その他の公的年金に関して、お互いの「独立採算制」を挙行したのである。 要するに亭主の厚生・国民年金は亭主のもの。 私の厚生・国民年金(加えて私は独身時代に個人年金保険にも加入しているが)は私の自由裁量にするとの条件だ。(私の方は年金は未だ一銭ももらっていないどころか、60歳までの保険料負担が我が身にずっしりとのしかかっているが。)

 そうだとして、やはり亭主定年退職後の生活は厳しい現実であるのは当然だ。
 アベノミクス経済政策により、今現在自動車業界が再活性化して過去最高の利益を上げているとのニュース報道を見聞するにつけ、(実は我が亭主も定年まで自動車業界人だったのだが)あの過去の栄光を再び!と叫びたくもなる我が家が現在置かれているノスタルジー実態だ…。
 ただし、若き現役世代こそが厳しい現実を突きつけられていることも認識可能である。 今時晩婚・高齢出産が世に蔓延っている現実であろう。 それらの家庭が近い将来我が家同様、老後に及んで子どもの膨大な教育費負担を抱え込む事態も想像がついてしまうのが、ある意味空恐ろしくもある…。


 片や、現在保証人を引き受けている我が身内親族の年寄り達の暮らしぶりを考察すると、過去の政権政策のいい加減さの恩恵に与り、結構な年金を得てそれを老後の豊かな財源としている様子であるのは揺ぎ無い事実だ。
 義母の場合は、自分自身で実業家として経営を全うして得た財産を今現在有効利用し有料高齢者介護施設に入居しているため、他人である私がとやかく異論を唱える筋合いはまったくない。
 一方で我が実母など、自民党政権が勝手気ままに金権政治を築き上げ、年金も社会保障も“どんぶり勘定”のいい加減な時代に公務員を定年までまっとうした世代だ。 その歪んだ政権の恩恵の下で実力以上の年金を現在尚ゲットし続けている。  原左都子としては、この現状は自分の親とて許し難いものがある。 それを時折親に訴えるのだが、既に年老いた我が母はまったく聞く耳を持たない…。 現役世代こそが過去の政権政策失策のお荷物を膨大に背負わされている事実を私が母に理路整然と訴えようが、悲しいかな「あんたはあんたの自己責任で頑張れ」の一言で済まされてしまう…。


 ここで、上記「週間現代」の記事内容に関するネット上の反応の一部を要約して紹介しよう。

 <その1>  「週刊現代」はこのところ立て続けに「貧困老後」特集を打ってますねー。 この雑誌の定番コーナー化するんじゃないかと私の予想。貧しい老人が増え続けることは確実だから。 今週号は、「相続」「老人ホーム入居金」トラブル。 老親が死んで、さあ相続・・・となったときに骨肉化する兄弟の争いとかシリアスだけど、そういう話って老親が認知症になる前にちゃんと書類をつくっておけば回避できるトラブルですがね。
 「節約」って若い人の文化なんですよね・・・いくら節約しまくっていても、自分がいよいよ体の自由がきかなくなって、有料老人ホームに入ってしまえば”一律月生活費20万円以上”で、節約生活とは呼べない生活費になってしまう。
 祖父母は孫にお金なんかやらんでもよろしい。やっぱ親だよね、親がきちんと「おじいちゃんからお金をもらってはいけない」と日頃から子育てやっていないと。

 <その2>  「週刊現代」で70歳を過ぎてビンボーになった特集を連載していますが、共通しているのは長期的な資産防衛をしてきていないということです。 10年、20年、30年という期間を決めて資産をどのように運用し、どのように取り崩すかを予め決めていないために、70歳を過ぎて悲惨な老後となっているのです。
 仮に50歳の人が70歳になった時から資産を取り崩して老後を送る場合、一体いくらのお金が必要なのか自分で計算し、そのお金をいかに増やすか自分で研究し、そして一度決めたらその日がくるまで10年間触らないことにつきます。10年、20年、30年間じっと保有し続けることが、結果的に資産を増やし守ることにつながるからです。
 目先、目先を追い求めれば、結果リスクを背負いこみ、損を被るリスクが高まります。 『自分の資産は自分で守る」という事を実践し、決して3年、5年といった短期では運用収益を見ないということを徹底すれば、悲惨な老後はないかも知れません。
 (以上、ネット情報より引用。)


 最後に原左都子の私論に入ろう。

 「週刊現代」の「70歳…… 」の特集記事をご覧になり、ネット上で持論を展開しておられる上記2名の方の言及にほぼ同意する私だ。
 <その1>の方に関しては、我が家も既に公証役場にて義母の「遺言」を作成しているのに加え、いざ自分がケア施設に入居する場合には月20~30万円の節約生活とは言えない巨大な生活費を課せられる事実である事も十分承知している。
 <その2>の方のご意見に関しても、この世において長期展望の資産運営をせずして老後を迎えようとしている世代に警鐘を鳴らそうとのご見解に、賛同申し上げたい。

 今後老後を迎える人々にとって、政権が如何に移り変わろうが厳しい時代が待ち受けている事は揺ぎ無い事実だ。 
 家庭を抱えていようが独り身であろうが、僕(しもべ)の国民皆が自分自身の老後は自ら責任を持てずして成立し得ない程に、国家財政が厳しい現状であることを再認識しよう。

市民ランナーは如何に市民と共存するべきか?

2013年11月14日 | 時事論評
 私にはランニングの趣味があることを、本エッセイ集に於いて幾度か披露している。
 日々のランニング練習成果の程を確認するべく、年に2,3度のペースで公的に開催される素人ランナー向けの大会にエントリーし出場してきている。
 先だっての日曜日にも、都内某公立公園内で開催されたロードレースに娘と共にエントリーし出場した。

 
 今回の我がエッセイに於いては(当該ロードレースでの自分の“ヘボい”結果の程は後回しにして)、自治体が管理運営する公共公園内(及びその外周公道)等々でランニング大会を開催する事の是非に関しての私論展開を主眼とする。

 と言うのも以前より私自身が公共公園内等戸外でランニング練習する度に、重々気にしている事があるのだ。
 今現在、ランニング(及びウォーキング)愛好者市民は数多いのに加えて、今後益々増加の一途を辿るであろう。
 そのうちウォーキングに関してはさほどのスピードが出ないため、一般市民に迷惑を及ぼす事態の発生危険性頻度は少ないのかもしれないと捉える。
 一方、ランニングともなるとそのスピードが速い(私の場合決して速くはないのだが)ため、例えば公園内を散歩中のお年寄り達やベビーカーを押している親子連れを抜き去る場合など、大回りする等配慮して恐怖心を煽らないように気遣うべきと心がけている。

 そういった配慮に欠けていると思しき市民ランナーに遭遇する機会が多い現状である。
 上記のごとく原左都子の場合ランニングスピードが遅い事を認めるが、その真横を「こののろま野郎、邪魔だよ!」とでも言いたげに猛スピードで抜き去る市民ランナーに出くわす場面もあるのだ。  相手はおそらく相当のランニングつわものなのだろうが、ちょっと待って欲しい思いを募られる。 
 この場を一体何処とわきまえてるの? 一般市民が集う公園だよ。 そこを個人的ランニング練習場所にするならば、公的施設故の整合性も視野に入れたらどうなのよ! 

 中高学校陸上競技部に関しても、私は同様の感覚を持っている。
 特に都会に於いては、陸上競技部の練習の場が公共公園や公立陸上競技場にまで及ばざるを得ない実態は理解可能だ。 それにしても、一般市民が下手なランニング練習をしている場で、「そこどけ!」とばかりに一丸となって高速で真横を駆け抜ける事態は危険極まりない。
 一体どっちが悪い? 中高生陸上部員達の今後の成長を見守るべきなのに、公立公園内でよたよたとランニング練習などしている年寄りの私が悪いのか??


 そんな肩身の狭い思いを日々繰り返しつつ公的公園内等でランニング練習を重ねた後に、いよいよ都内某公立公園内及びその外周一般道を舞台として開催されたロードレースへ出場する当日と相成る。

 昨年もこの大会に出場した私だが、今年の会場の印象はどうやら(ボランティアも含めた)係員が激減しているのか??との事だった。 レースをスタートしてみると、案の定昨年に比して各所各所で対応する係員の数が目に見えるように少ない。
 例えばこの公園の場合、公園内のメインストリートやサブ道路が一般道の役割も果していて自転車及び歩行者の通行が多い。 昨年の場合、それをロードレース大会のためにほぼ全面「通行止め」にする措置が採られていたのだが、今年は様子が異なった。

 私がエントリーした5kmロードレースなど、何故か公園内の一般市民の通行路がスタート地点だ。
 その“道路”の両側に自転車が数多く駐輪している。 ちょうどスタート5分前に駐輪している自転車に乗って帰ろうとしたご婦人が、スタートラインに立つ大勢のランナーで道を占領され自転車を出せなくて困惑している場面に出くわした。 これ、どっちが悪い?  もちろん、こんな場所をスタート地点としたロードレース主宰者側が悪いに決まっているだろ!  私も直ぐ様そう判断した。  同じ思いの高齢者ランナー女性達が、スタートラインに立っているランナー側こそが場を譲るように指南した。 そして、自転車のご婦人は難儀しつつも帰路につけたとの話だ。

 あるいは私が5km終盤地点でメイン道路を横切ろうとした時、お年寄りボランティア係員の通行止めの措置が遅れたために、危うく自転車通行人と接触しかけた! これには一瞬驚くと同時に失速せざる得なかったものの、私の脳裏に「ここは公道、自転車通行者こそを優先して当然!」との思いが過ぎり、道を譲ると同時に自らを奮起し直せた。  10秒ほどのロスがあったもののそれが功を奏し、私は最終場面の陸上競技場ゴール手前で一人を抜き去れた事に、大いなる達成感をもらえた今回の大会だった。 


 ランニング及びウォーキング人口が急激に膨大する我が国である。 
 何故その種のスポーツ人口が膨大するのか、阿倍政権は認識されているだろうか?

 原左都子の結論を述べるならば、(我が身に照らして)カネがかからず実行可能なスポーツであるからに他ならない。 そして人間関係が希薄化した今の時代に於いて、単身で十分に楽しめるスポーツであるからこそに違いないであろう。

 そうだとしても、公立公園等の公共施設を自治体はこのままの形で野放図にランニング大会の会場として使用許可を出し続けて許されるのであろうか?

 市民の皆が人間関係の希薄化現象に悩み続けている実態の中、各世代及び多様な趣味を持つ市民の皆がそれぞれの立場や個性を活かしつつ公共施設を有効利用したいものと私は心得る。
 そういう意味では、一部のランニング団体が休日の一時に公的公園をロードレース会場として使用してもよいのかもしれない。
 
 それでもそれに出場した一市民の立場から、一般人の通行を塞き止めてまで「単なる素人趣味の“お遊び”でこんな事やってて許されるのか??」との申し訳ない思いを抱く人間が存在する事実にも、思いを馳せて欲しいものだ。

嫁に行きては嫁ぎ先の風習に従おう

2013年11月11日 | 人間関係
 NHK連続テレビ小説「ごちそうさん」は、ネット情報によれば60代以上の世代と関西地方で前作の「あまちゃん」を超える人気のようだ。

 どうりで、私もこのドラマに感情移入できるという訳か??
 (参考のため、原左都子は還暦一歩手前の年齢であるのに加えて、関西地方出身ではない。 ただし言葉のイントネーションに関しては関西弁の方が感情移入し易いと言える。)

 早速、以下に「ごちそうさん」に関する一ネット情報の一部を要約して紹介しよう。
 大人気を博した「あまちゃん」よりも、「ごちそうさん」の方にこそ視聴率の軍配が上がりそうだ。(「ごちそうさん」の平均視聴率の最高は10月16日放送の27,3%) 放送開始後15回目にして、早くも「あまちゃん」超えを果たしてしまった。  週毎の平均視聴率でも今のところ「ごちそうさん」の方が優勢だ。
 「“わかる奴だけわかればいい”という小ネタが満載の『あまちゃん』は、コテコテの笑いやストーリーを好む関西では視聴率が悪かった。 一方『ごちそうさん』は大阪放送局制作ということもあって関西人の心をガッチリとつかんでいる。 これからはヒロインのめ以子(杏)が大阪に嫁いでからの話になるので、この傾向はさらに強まるはず」 との論評があるのに加えて、
 「『ごちそうさん』の好調は中高年の支持によるところも大きい。」と上智大学文学部教授(メディア論)も言う。   「ごちそうさん」は、朝ドラらしいゆったりとしたスピードに戻って、爽やかな恋愛やヒロインの成長を楽しめる。 その“ゆるさ”が本来の朝ドラの視聴者層にとっては見やすく、心地がいいのでしょう」
 (以上、ネット情報より一部を要約して引用。)


 このエッセイを綴るきっかけを得たのは、本日(11月11日)NHK昼のトーク番組「スタジオパーク」のゲストが、「ごちそうさん」に於ける嫁のメイコの“いびり役”である(義理姉カズエ役の)キムラ緑子氏であったからに他ならない。

 そのトーク内容を紹介する前に、ここで一旦原左都子の私論に入ろう。

 ドラマ内で主人公メイコが嫁ぎ先である大阪の西門家に転居した直後は、さすがに義理姉カズエの“いけず”ぶりに一時メイコの肩を持ちそうになった私だ。
 ただ、その後私は冷静にドラマを観察し続けている。
 確かにカズエの態度には(せっかくメイコが作ったメンチをひっくり返したり、東京から持参した糠床を処分する等)行き過ぎかつ倫理面で責められるべき部分はあるものの…。  要するに脚本家氏としては、あえて義理姉カズエの“いけず”ぶりをオーバーアクションで描写することによりカズエを悪者に仕立て上げ、主人公であるメイコファン視聴者を番組序盤から失わない方策を採ったのであろう。

 そうであることなど百も承知だが、それでも私は義理姉カズエの論理こそを支持したいのだ。
 嫁いで来た矢先の新米嫁がその嫁ぎ先の見知らぬ家族達相手に、少しばかり実家で習ったフォンのだしを取った料理を披露するなど、現在の時代に於いても“もっての他”と私も判断する。  新入りの嫁がなすべき事とは、まずは嫁ぎ先の様子を伺いつつ出された料理をいただきお礼を述べるのが常識ではなかろうか。
 糠床に関しても同様だ。 そもそも何故そんなものを実家の親が娘に持たせたのかの責任こそを私は問いたい。 娘が見知らぬ土地や家に嫁ぐにあたり、とりあえず親とはその家に馴染むよう娘に教育するべきであり、娘が嫁ぎ先に慣れた暁に糠床を手渡し自己主張するべく指南しても遅くはなかったのではあるまいか。

 明治時代の物語であるにせよ現代の平成の世の中であるにせよ、あるいは世界各国の文化宗教が異なる場面に於いてであるにせよ、人間関係における「礼儀」や「配慮」には共通した基本があると私は心得ている。 それは、歴史文化を超越して他者を気遣う視点ではなかろうか。
 「ごちそうさん」のメイコには、明らかにそれが欠けていた。 大阪の嫁ぎ先へ行った直後から、若気の至り故に“自己の表出”を第一義としたことには間違いない。 そうではなく、人間とはまずは一歩退いて周囲の人間の出方を観察するべきではなかろうか。


 話題を本日のNHK番組「スタジオパーク」に戻そう。

 本日ゲストのキムラ緑子氏のトークが興味深かった。
 氏曰く、「意地悪役をいただき演ずる事に関しては役者冥利範疇と言える。 その演技をまっとうするため、今春台本を自分が出演しない場面まですべて読み尽くした。 舞台が大阪版になり、東京場面とは一転して主人公をいたぶらねばならない使命を理解しつつ、とにかく意地悪役に集中した。 その結果として本日スタジオパークでプラスマイナスの反応をいただけることに感慨する。」
 (あくまでも原左都子の観点で上記番組内容をまとめておりますため、キムラ氏の意思に沿っていない点がありましたらお詫び申し上げます。) 

 話題がテーマから逸れるが、このNHK番組「スタジオパーク」に関する疑義をここで一視聴者である原左都子から提案させていただこう。
 本日のキムラ緑子氏のトーク対応に於いて、NHK司会者側が幾度となく同様の質問を繰り返す場面が見苦しかった。 それは「いびり役」に関しての質問だが、番組冒頭そして主たる司会者から同様の質問が既にあり、それにキムラ氏も十二分に回答されているにもかかわらず、何故女性アシスタント氏からまたもや視聴者からの質問として繰り返したのであろうか??
 NHKが高視聴率を得ている「ごちそうさん」を売り物にしたい思いは理解できるが、生放送とは言え、もう少しゲスト氏こそを主役と捉えたトーク番組作りを展開できないものか?


 最後に表題に掲げたテーマに戻ろう。

 古い人間と後ろ指をさされようが、原左都子は「嫁に行きては嫁ぎ先の風習に従う」べくポリシーを持って、今現在も我が嫁ぎ先の人間関係の充実にこそ全力を尽くしている。

 と言うのも、人生のステップとは過去の取るに足りない栄光に捕らわれるよりも、更なる上昇気流に乗る事を目的として日々精進するのが人間の基本と捉えているからに他ならない。
 それは「結婚」とて例外ではない。 もしも何らかの障害を抱えた結婚であったとしても、自分なりの上昇気流に乗せるためにはその障害を乗り越える事こそが我が身に課せられた課題となろう。 それは時代の変遷や文化の差異によらず永遠普遍の人間のテーマかと私は心得る。

 そういう意味では、「ごちそうさん」主人公メイコも力強いまでの努力を番組内で重ねているではないか。
 弛まない努力とは必ずや人に伝わるものだ。 
 そんな一女性の努力の日々を、地道に丁寧に表現しようと試みているドラマ「ごちそうさん」はやはり素晴らしい。
 
 (人間とは、「あまちゃん」のごとく大した努力も能力もなくして突如としてタレントになどなれるわけがないし、そうしてなったタレント生命などはかなく虚しいものだ…)

薬を何処で買おうが自らの命は主体的に守り抜こう

2013年11月09日 | 医学・医療・介護
 冒頭から、我が義母が現在服用中の調剤薬の数々とその効用及び副作用に関して、その一部を以下に列挙して紹介しよう。 
 (参考のため現在義母は高齢者有料ケア施設に入居中であるが、その保証人代行を任されているため、施設内で定期的に実施される医療措置に関する詳細のデータが我が手元に月次報告の形で送付されてくるのだ。)

 ① 血圧降下剤 … 血管を拡げ血圧を下げる。 めまいやふらつきが起こる事がある。
 
 ② 骨粗鬆症対策剤(ビタミンD) … カルシウムの吸収を助け骨がもろくなるのを防ぐ。 

 ③ 総合消化酵素製剤 … 消化不良や食欲不振などを改善する。

 ④ 胃・十二指腸潰瘍及び胃炎剤(2種) … 胃酸やペプシンの分泌を抑えることにより潰瘍や炎症症状を改善する。 皮下出血、全身倦怠感、脱力、発熱等の症状が現れた場合使用を中止するように。

 ⑤ 末梢血管拡張剤 … 潰瘍や冷えを改善したり神経障害による足の痛みやしびれを改善する。 

 ⑥ 睡眠薬(2種) … 脳に作用して不安や緊張を和らげ寝つきを良くして眠りを持続させる。 薬の影響が翌朝まで及び、ねむけ、ふらつき、注意力の低下が起こることがある。

 ⑦ 鬱薬(2種) … 脳にはたらき神経を活発にすることにより憂鬱な気分やふさいだ気分を改善し、意欲を高める。 動悸、息切れ、めまい、意識喪失等の症状が起こった場合、直ぐに連絡せよ。

 ⑧ 沈炎症貼り薬 … 炎症により起こる腫れを取り、痛みを和らげる作用がある。アスピリン喘息がある場合使用不可。

 ⑨ 緑内障用眼圧低下剤 … 交感神経β受容体遮断により眼圧を下げ、緑内障を治療する。 気管支喘息、心不全、徐脈の症状がある場合使用不可。


 義理姉が膵臓癌により入院闘病を余儀なくされた(その後7ヵ月後に死去)時点で、義母の保証人を我々夫婦が義理姉から受け継ぐ形となった。
 早速ケア施設より届いた義母の上記「投薬」報告を一見して、元医学関係者の私は唖然とした! 
 「何これ! 主治医は本気で体が弱った義母相手にこの劇薬の数々を日々盛ってるの?? それって副作用の数々を併発させとっとと死ねと言ってるも同然だよね。 あなた達実の姉弟は今までその事実を認めてきたという事? 今すぐ、こんな理不尽な投薬医療をケア施設に訴えて無謀な投薬をやめてもらおうよ。」
 それに対する身内の判断に、悲しいかな私も従わざるを得ない実態だった。
 身内曰く、「母には医学的知識が皆無故に、昔から体調が悪いと医療に頼る日々だ。 そんな母にとって医師の指示こそが我が身を救ってくれると信じられる事に間違いない。 今更我々が医学的知識を母に教育しようったって、それは既に老いぼれている母には負担が大き過ぎる。 ここは担当医を信じ医療に頼る母の意思を尊重して、母の希望通りの投薬を叶えてやった方が母自身が安心でき、余生を楽しめると思う。」…

 確かに我が身内が言う通りであろう。 80余年の人生を主治医の判断に頼り、それを信頼して生きてきた義母の医学的価値観を今さら変える力など他人の私には到底ない。
 加えてホメオスタシスの観点も無視できない。(ホメオスタシスを簡単に説明すると、生命体とは環境等の要因に適合しつつその生命を保っているとの理論だが)
 申し訳ないが、副作用で苦しむのは承知の上で義母にはこのまま“薬漬け”の人生を全うさせてあげるしか方策が取れないとの結論であろう。
 (参考のため、我が郷里で一人暮らしの実母とて医学的知識がまったくなく、主治医の指示に頼り多くの調剤薬に頼る日々である…。)


 ここで話題を変えよう。
 一般用医薬品(大衆薬)のインターネット販売を巡る争いが、再び法廷の場に持ち込まれそうだ。
 先だっての11月6日に開かれた緊急記者会見で、楽天の三木谷浩史会長兼社長やケンコーコムの後藤玄利社長は、大衆薬のインターネット販売を一部制限する政府方針に反対し、ケンコーコムを中心に行政訴訟を起こす構えを見せた。
 最高裁判所は13年1月、ケンコーコムなどが厚生労働省を相手に起こしていた訴訟に対し、国の上告を棄却する判決を言い渡した。これで医薬品のネット販売を巡る争いは終結したと思いきや、政府は医療用から切り替わったばかりの市販薬23品目と劇薬指定の5品目はネット販売を認めないという新たなルールを設定。 ネット通販業者側がこれに猛反発したとのいきさつだ。
 その一方で、当然ながら薬害防止の観点から「何が何でも規制緩和」という方針に異を唱える人もいる。  医薬品のネット販売を巡る争いは、新たな段階に入りはじめたようだ。  (以上、ネット情報より一部を要約して引用。)


 元医学関係者である原左都子の立場から、最後に私論を述べよう。
 
 特定薬剤に依存し続けねば命が持たない類の、切羽詰った難病に罹患している人々の存在も当然ながら承知している。 厳しく辛い副作用を承知の上で、命を張ってでもその苦痛に耐えつつこの世に生命を繋ぐため薬剤を使用している患者さん達にとっては、その薬剤こそが命の源である事には間違いない。

 今回の一般大衆薬インターネット販売騒動とは、まさかそこまでの重篤な患者さん達が日々依存している薬剤をもターゲットとしていない事と信じたいが如何であろうか?
 要するにあくまでも安全が保証されている「一般薬」の販売のみをインターネット業界が欲しているとするならば、原左都子としては許容範囲と結論付けられる。

 ただし、困難な問題もあることも予想可能だ。
 自分自身では「薬で治る」と信じてネット販売に頼ったのに、実はその病気が難病であったような場合である。
 そこで私論だが、ネット販売に於いてもネット顧客が欲するままにいつまでも継続して無責任に当該薬を販売し続けるのではなく、一定の販売期間の限度を設定しては如何か?
 もしも顧客の薬購入期間が長過ぎるような場合、一旦ネット販売を打ち切り病院医院を強制的に受診させるべくシステムを導入するとの方策もあろう。

 ネット販売で購入した薬剤で早期に治癒するような症状とは元々“一過性”であり、その薬に依存せずして治癒する大した病気(怪我)ではないと私は心得る。 その種の薬剤に関しては(気休め範疇の意味合いで)ネット販売に頼っても事足りよう。

 片や、大した病気でもないのに患者側の無知さ故の勝手な思い込みで、医療機関受診に全面依存する事の弊害こそが今まで大きかったのかとも考察する。
 過去に於ける政権と医師会及び大手製薬業界との癒着に翻弄され、多くの人々が不要な薬を大量に処方され続けた挙句の果てに副作用死させられて来た事態が、今後薬ネット販売により回避可能な場合もあるかと結論付けたい。

食材偽装表示 vs ブランドに弱い愚かな日本人の心理

2013年11月07日 | 時事論評
 安物輸入海老や成型肉に牛脂加えたステーキを高いカネ支払って食べさせられたとて、消費者側がそれを堪能出来ていたのなら、今更被害者ぶって「騙された!」と大騒ぎする事もないんじゃないの~??

 現在世を騒がしている「食材偽装表示事件」に関する原左都子の感想を冒頭でいきなり述べるならば、
 「どっちもどっちだよ。」

 まったくもって加害者側・被害者側共々低レベルで馬鹿らしく、私にとってはどうでもよい話題ではある。
 そうとは思いつつ今回のエッセイに於いては、現在世を騒がせている「食材偽装表示事件」に関する私論を展開する事にしよう。


 大阪の名門ホテルに端を発した「食材偽装表示事件」はその後高島屋、東急ホテルズ、そして昨夜のニュースでは伊勢丹等の大手デパートにまで偽装範囲が拡大しているようだ。
 更には本日夜のニュースによると、ホテルオークラまでもが平成18年より偽装を実施し続けていたとの驚くべき事実だ。

 ここで原左都子の私論を少し述べよう。

 そもそもこの事件とは“内部告発”により事が発覚したようだ。
 へえ~、そうだったんだ。  私はてっきりそれを注文した顧客側から、ホテルのテーブルに出された料理を食した直後にレストラン現場でクレームが出たものとばかり思っていた。
 と言うのも、一応名門ホテル(とやら)で高額のカネ支払ってその種の食材を利用したメニューを注文する顧客とは、それが美味しいことを十分承知の上か、あるいはその評判を周知しているが故にその行動を取るのではなかろうか?  そうした場合、運ばれてきたディッシュを一見すれば、輸入安物海老や成型肉などその形態や色彩上、この料理嫌いの私でも見抜けるような気もするのだが…。
 いやそうではなく、オードブル段階で出されるワイン等の酒を堪能してメインディッシュが運ばれて来る頃には酔いが回り、視覚では食材の信憑性を捉え損ねたのかもしれない。 それでもいくら多少の酔いが回っているとは言え、テーブル上のメインディッシュを実際に食せば、国内産の伊勢海老や黒毛和牛の霜降ステーキと比し偽装食材は大いに風味が異なることなど、この原左都子とて実感可能と思うのだが…。

 ここで私事に移ろう。 
 上の続きだが、たとえ料理嫌いの私が家庭内で出す食材とて“偽装”したならば家族皆に即刻バレるのだ。
 遠い昔のある時、スーパーで売っていた安物の成型肉サイコロステーキを夕食メニューの一品としたところ、「これ、まずいよ!」と一瞬にして亭主に叩かれるではないか! それに娘も同調する。  やむを得ず「これ、成型肉よ…」と暴露する私に、「今後は勘弁して」と両人から訴えられてしまった…。 私自身も家族2人の意見から、確かに成型肉とは妙に油がベタつき気持ち悪い風味である事を自分の舌で実際に悟った。 その後は特に肉をステーキ状態で出す場合は、たとえ安物とて本物の肉に頼る日々である。

 もしかしたらホテルレストラン現場で出された食材を、これは偽装であるとホテル側に訴えた顧客も存在したのかもしれない。 ところが、まさかホテル側が弱小立場の顧客の訴えになど耳を傾けるはずもなかったとの論理か? 
 結局、この事件は「内部告発」との勇気に満ちた(あるいは恨みつらみ、あるいは無謀)行動によらねば、解決不能だったとの事であろう。


 食材偽装事件を起こした超本元である、名門ホテルやデパート側の責任ももちろん追及せねばならない。

 ここで、朝日新聞11月6日社説 「客力で食を変える」 と題する評論の一部を要約する事により、その追究を試みよう。
 ホテルで食事といえば、客にはハレの席。 高いお金を払って一流のものをという信頼を正面から裏切った罪は重い。 ホテル側は「偽装ではなく誤表示」などと弁明し騙す意図は無かったと弁明しているがピントがずれている。 
 今、多くの人はグルメブームを卒業し安全・安心な食を求めている。 そんな顧客の意識も逆手に取った今回の偽装の責任は重い。 ここは顧客側こそが、ブランド頼みと距離を置くチャンスだ。 イメージや宣伝に惑わされず「本当においしいか」を吟味するべきだ。 本来日本人とは繊細な味覚の持ち主だ。偽物を淘汰する客力で健康的で美味しい食の世界を育てたい。
 (以上、朝日新聞11月6日社説より一部を引用。)


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 一般市民が現在ブランド志向を卒業して安全・安心な食を求めているとの上記朝日新聞社説内容が、そもそも私には信憑性に乏しく感じる。 ましてや、日本人が先天的に“繊細な味覚の持ち主”だったのかに関しても首を傾げざるを得ない。
 私論としては、とにかく日本人とは過去に於ける「学校教育」の失策により個々人が主体性を失い、メディア情報に流され易い国民性を培っている事には間違いないであろう。

 その主体性の無さは加害者側に於いてこそ顕著とも言える。
 日本に名立たる名門ホテルないしはデパートが、長年に渡り食材偽装を繰り返してきた事実とて、「皆でやれば怖くない」との無責任な“集団心理”が業界内で蔓延っていた事が揺ぎ無い実態という話だ。
 当然ながら、食材偽装を施した業者である加害者側がその責任を取るべきなのはもちろんの事だ。

 ただ私論としても、この国の消費者どもの軟弱ぶりには辟易とさせらているが故に、朝日新聞社説論評と同様に暗雲が漂うばかりである。
 自ら“グルメ”を名乗り世の一流処の食材を買い求めたり、名門ホテルのレストランを食べ歩きしているリッチ族にこそ物申したい。
 貴方達に“グルメ”の自負があるのならば、即座に偽装食材を見抜きその場で加害者側と折衝してその愚行を阻止させるべきだったのだ。  それが叶っていたならば、今回の「食材偽装問題」もこれ程長年に渡って世間に蔓延り世を揺るがさずに済んだはずである。

 結局それが叶わなかった元凶とは、実は被害者族側こそが“グルメ”とは名ばかりで実質舌が肥えていなかっただけの話じゃないの???