原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

野球界元スーパースター覚醒剤汚染転落にみる男の悲哀

2016年02月19日 | 時事論評
 イタリア旅行中 日本国内のニュース報道に一切触れなかったが、帰国後一番に我が視野に入って来たのが表題の事件報道である。


 元々プロ野球には一切の興味がない私だが、清原和博容疑者のことはもちろん知っている。
 何と言っても、高校野球甲子園大会で桑田選手と共にPL学園の名を全国にとどろかせた時の印象は強い。

 ところが清原容疑者がプロ野球を現役引退した後、すっかり彼の話題を耳にしなくなった。(少なくとも私は。)
 ウィキペディア情報によれば、清原容疑者は1967年生まれの48歳。 現在の肩書きは野球評論家、タレントとなっている。
 いつ現役を引退したのかも一切心得ない私だが、野球評論家やタレントとして彼をメディア報道にて見聞したためしがない。

 片や、同じくプロ野球界に於ける元スーパースター達の情報は、各種報道にて目にする事は多い。
 例えば、イチロー選手。 「国民栄誉賞」の対象となったにもかかわらす果敢にもそれを辞退したこの方など、今現在もアメリカンリーグで選手として活躍中と理解している。
 あるいは、同じく松井秀樹選手。 この方も日本に帰国後、何らかの形でプロ野球界にかかわっている様子だ。
 少し古いが原辰徳選手など、巨人軍の監督にまで上り詰め、監督として貢献したと把握している。


 それらのスーパースター達に比し、引退後報道で取り上げらることが滅多にない清原容疑者だ。

 彼に関して私がメディア上で見た報道とは本人に関するものではなく、奥方であるモデルの清原亜希氏が40代にして売れ筋ファッション雑誌に登場しているとの話題だ。
 ファッションには興味があるものの、その種のミーハー雑誌を買って読もうなどとの気が一切ない私だが、朝日新聞下広告欄にて、表紙を飾っている亜希氏の写真が何度か目に入ったことがある。
 (へえ~。 元スーパースターの奥方とは旦那の過去の著名度に便乗してその世界にのさばれるんだなあ~。 ただ、旦那が何かの理由で“転んだ”暁には一体どうやって自身のモデルとしての生命力を繋いでいくんだろう??) などど、意地悪視線で斜視していたものだ。

 その後、清原容疑者と亜希氏との離婚騒動がメディアにて報道される事となる。
 この時も、(結局、奥方自身の稼ぎが多くなると、現役引退して仕事が無い亭主など捨てられる運命なのだなあ。 それにしても、亜希氏側のモデル稼業の今後の生命力も如何程のものなのだろう??  亜希氏は子供を引き連れて離婚したとのことだが、一生に渡り子供を養育していける慰謝料を元旦那からたんまりとゲットしているのだろうか??)
 他人事ながら、清原一家のその後を無責任に心配申し上げた私だ…


 イタリアから帰国後、清原容疑者覚醒剤疑惑事件関連ニュースの数々をメディアにて見聞した。

 その中で、私が一番気になったニュース報道を紹介しよう。
 私がイタリアより帰国後間もない頃のNHKニュースウォッチ9での報道だったと記憶しているが、清原容疑者の覚醒剤容疑が明るみに出る前にNHK取材班が清原氏を追っていて、たまたま彼が一人でいる時に取材が叶ったのだと言う。
 通常そのような場合、元スーパースターの清原容疑者側は断固として取材を断るのかと思いきや、NHKの突発取材に応じたのとのことだ。
 そして彼は取材班に現況等を語った後、「今、寂しい…」 なる一言を取材班相手につぶやいたのだと言う…。

 私はこのニュース報道を見聞していて、本心から泣けてきた… 

 輝かしき時代を自らの努力と活躍で勝ち取ったにもかかわらず、その活躍の時代が短期間である事が宿命故に、若くして引退を突き付けられる。
 その後自分の時代を築き直そうとしても、他に身を助ける能力や素養が何も無い。
 現役時代には尽くしてくれた奥方も、自分に家族を養う力が無いと見限った途端、子供を連れて離婚との選択をする。
 では、その寂しさを紛らわすために、如何なる行動を採るべきか?  それさえ考えが及ばないまま、現役時代から付き合いがある暴力団(?)が薬物を勧めてくれる事に手を出すしか手立てが打てない…


 ここで我が私事に入らせていただこう。
 
 清原容疑者程の輝かしき業績を残せているはずもないが、この私も過去に於いて自分がそれまで築き上げた医学分野の業績を(あくまでも自分の意思に於いてだが)一旦チャラにして他の分野へ転身した経験があるため、彼の心理が悲しくも理解出来るのだ。
 (2013.8.15公開 「原左都子エッセイ集」バックナンバー「“二日酔いで最も苦しむのは29歳説”に同感!」を、よろしければご参照下さい。)

 私が我が進むべき道を大きく方向展開しようと志したのは、未だ29歳時点であった事が幸いしたと後に振り返る。
 しかも清原容疑者のごとく決して著名でもなく単なる庶民だったことが幸運であり、かつ独身を貫く意志が当時確固だったことも幸いして、誰に気兼ねするでもなくその方向転換を実行出来て今に至っている。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 過去にスーパースター(イコール著名)であった事実とは、如何にその後“不自由な人生”を要求されるのかを再認識させられる今回の事件である。 
 そして、清原選手がそのまま野球人生を(世に言う)定年までまっとう出来たならば、奥方もそれに付き添ってくれたであろうか?

 スポーツ界のスーパースターがその旬を過ぎた後歩むべき人生の程は、その現役時代が短い故に厳しいのを実感だ。 
 それは野球界にとどまらず、全てのプロスポーツ界に共通する課題であろう。

 特にそれが男性である場合、未だ若くして妻と子供達に捨てられる運命にもあろう。
 その後覚醒剤に依存するしか人生の選択肢がなかった清原容疑者の切羽詰まる極限状態を思うと、いたたまれない気もする…

人は何故年齢を重ねると認知力が低下するのか?

2016年02月17日 | 時事論評
 昨日約1ヶ月ぶりに高齢者有料介護施設に住む義母の整形外科受診の付き添いのため、義母と再会した。


 イタリア旅行より帰国後連日幾度も電話を掛けて寄越した母だが、実際の姿を見るのは久々の事だ。
 介護認定が「要介護1」までランクアップ(ダウンというべきか?)してしまった義母だが、その後施設内で如何に暮らしているのか、久しぶりにその実態観察が叶う。

 さて施設にて義母に再会してみると、血色も良好そうだしご機嫌の様子だ。
 何と言っても、相手の姿が見えない電話での会話と実際に会うのとでは、その心理背景が大きく異なる事は承知だ。
 まずは身元引受人である私が施設を訪問した事に、心より安堵した様子だ。 満面に笑みを浮かべ、 「○子さん(私の事)少しお茶でも飲んで部屋で休憩しましょう」と誘ってくれるのだが、それをしていたのでは整形外科の受付が遅くなってしまう。
 「病院の待合室でゆっくりお話しましょうね」と義母を促し、施設よりタクシーに乗せる。

 そのタクシー内でも、よほど久々の私の病院付き添いが嬉しいのか義母は上機嫌で私に語りかけて来る。
 しかも、どうやら(義母の不注意で落としたのも含めて)幾度も買い替えた補聴器の調子も良さそうだ。 いつもならば補聴器を付けているにも関わらず会話が成り立たないのに、今回は私の大声が少しは聞こえているようで、理解出来た問いかけには返答をして来るし、自ら私に語りかけたい様子も伺える。


 さて、到着した整形外科(大病院の一診療科)は、相変わらずの混みようだ。

 結果として義母の診察順番まで待ち時間3時間を費やしたのだが、その間義母と会話が叶った内容等々から、私なりに義母の認知力低下の要因につき考察してみることとした。
 元々他者や外界の観察・分析力に鋭い私であるのに加え、そうでもしなければ、本心で快く認知力低下人物になど付き合い切れないのが本音でもある。

 こんな事を書くと、もしかしたら認知症状がある人物と直接関わった事がない方(あるいは頻繁にはかかわっていない方々)からは「もう少し親切に接してあげたらどうなの?」等々のご意見が届く事であろう。 ところが、認知力低下者との会合とはそう甘くはないのが実情だ。 もちろん親切に接するのが鉄則だ。 かと言って本音で会話が成立する訳がない事は、ご経験者にはお分かりいただけることであろう。

 そうした場合、どうしても介助者の演技力がものを言うということだ。 相手が何を欲しているかを探りつつ、「こう回答するのがベスト!」なるベストアンサーを脳内で模索しながらの対応となる。

 それをつつがなく実行する私に対し、昨日補聴器の調子が良かった義母が待ち時間の3時間に渡り私に心の内を訴え続けた。
 その内容とは、認知症状があってもなくてもお年寄り全般の共通項だろうが、“いつも同じ話題の繰り返し”である。  ただ既に慣れ切っている私は、その話題が100回目であろうが200回目であろうが、いつも初めて聞くかのごとく「へえー、そうですか!」などと相槌を打ちつつ耳を傾けている振りを義母の前で大袈裟にする。 (そろそろ、主演演技賞が欲しいものだ…)
 そしていつものことだが、それが心地よいのか義母の声が徐々に大きくなっていく。


 昨日も病院待合室にて義母より“いつもの話題”が展開されたのだが、この中から、義母の認知症状が何故低下したかを探れる話題を以下に紹介しよう。

 義母は元々、お江戸日本橋に船問屋を経営していた家系のお嬢さんとしてこの世に誕生している。
 金銭的には恵まれていたものの、「女に学は不要!」なる当時としては珍しくない歪んだ親の考えの下に、あくまでもお嬢さんとしての花嫁修業に勤しむ事を強要されたらしい。 
 ところが義母の兄である大卒の長男がふがいなかったらしく、結果として妹の義母がその後の家業を引き継ぐ事となった。 義母には養子の夫を取り、義母に船問屋(現世では海運業)の経営を実質任されたとのことだ。 (まるで、NHK連続ドラマ「あさが来た!」を再現するような話だが。)
 時代が変遷し、義母が産んだ子供達(我が亭主も含めて)にその事業を継く意思と能力がまったくない事が判明した時、義母は思い切ってその事業の営業権を赤の他人に(もちろん有償にて)譲渡した。
 ただ私の感想としては、要するに経営主だった義母に跡継ぎを育てる力量がなく、代々続いた船問屋(海運業)を軟弱な義母が手放して(潰して)しまったとも言い換えられよう。 そもそも私に言わせてもらうと、我が嫁ぎ先である原家一族は皆が生来のDNA資質として軟弱だ。

 その海運業経営当時から、義母は税務申告(青色申告)を一人で実施していたらしい。
 それが今尚義母の自慢である様子で、私に会うとそれを自分の力で実施していた事を幾度も告げる。 
 ところが一応税理士資格の半分を取得している私に言わせてもらうと、その内容とはド素人感覚の範疇を出ておらず、とんでもなく勘違いした申告を実施していた様子である。 そもそも義母は「脱税」と「節税」の違いすら全く理解出来ていない。
 それでも義母としては自分なりに一生懸命税務申告を実施していた事が過去の「プライド」であり、高齢に達した今尚その事実を私にいつも告げるのだ。
 これが、私にとっては悲しいし鬱陶しい。

 「学」が無いことが義母にとってそれ程悔しかったのならば、どうして自分なりに奮起して「学」を身に付けなかったのだろうか??  と思うのも我が疑問点の一つだ。  豊かな家庭に育った義母にそのチャンスは幾らでもあったはず、と私など推測する。
 義母として遅ればせながら、40代にしてそのチャンスを「料理学校」に求めた事も私は聞いている。 その腕を磨いたのは確かなものの、今現在一切料理に興味がない事実も気がかりだ。 要するにあくまでも“お嬢さん”のノリで、好きでもない分野に要らぬ時間を費やしたという事ではなかろうか??

 現在義母が入居している高齢者施設内での義母の行動も気にかかる。 
 何らの自主的活動をするでもなく、単に受動的に施設が提供するプログラムに興じている様子だ。


 そんな事に思いを巡らしていた頃、義母の診察順番となった。

 そして担当医師から告げられたのは、「骨折は完全に完治しています。 ところで、お義母さんは骨折中炊事をどうされていましたか?」  である。
 待合室で懇親に話を聞く私に対しては聴力があるのに、肝心の整形外科医の質問が一切聞こえず、勝手気ままに話を続ける義母だ。 
 仕方がなくその質問に付き添いの私が応えて曰く、「母は完全介護の施設に入居して長いですから、ここ4、5年一切の炊事をしていません。」 
 その回答に驚いた医師が「施設でそんなに甘やかされているのですか!?」 私応えて「炊事のみならず掃除も洗濯もすべてが施設任せです」  呆れた医師が義母に対して曰く「施設内でもっと動きましょうね」  その医師の指導も聞いていない義母を引き連れて、私は診察室を出た。

 まさに、上記整形外科医先生がおっしゃる通り! と私も再認識出来た思いだ。
 
 高齢者認知症患者を減らす第一の手段とは、高齢者自らが自分が生きて行くに必要な家事を最低限の課題として、男女を問わず自分自身でこなし続ける事と実感した。
 それを自分の力で実行し続けようとする意志を、高齢者自身が持ち続けることこそが肝要だろう。


 原左都子の私論結論をまとめよう。

 高齢域に達して「認知症」にならないための条件・鉄則とは…

   ○  生来のDNA資質
   ○  「学」や「交友関係」等、自主的に獲得した自身にとってプラスとなる後天的人生経験
   ○  高齢域に及んで後の「自己管理力」及び「主体的に生きようとする力」 (これは上記2つとダブるが…)

 これらすべてに於いて若き時代より義母は欠けている部分があるにもかかわらず、その事態に自身が気付かないまま、歪んだプライドを持ちつつ年老いてしまったのではないか? と思うふしがある…


 いやいや義母を反面教師として、年老いても「認知症」にだけは絶対になりたくない原左都子の勝手な論評に過ぎないエッセイだが…

フォトチャンネルの写真にタイトルとコメントを入れました

2016年02月16日 | 旅行・グルメ
 (写真は、サンピエトロ寺院内の一写真。)




 大変遅ればせながら、左欄フォトチャンネル 「2016冬イタリア旅行1 ローマ・ピサ編」の写真一枚一枚にタイトルとコメントを入れました。


 よろしければ、ご覧下さい。



 フォトチャンネル 「2016冬イタリア旅行2 フィレンチェ編」 に関しましては、今後時間が取れる時にタイトル・コメントを入れる予定です。

ローマ・ピサ・フィレンチェ 列車と徒歩の旅 -総括皆さんありがとう!編-

2016年02月14日 | 旅行・グルメ
 (写真は、フィレンチェ アルノ川にて。  余談ですが、ETよりも長い指にご注目! アルノ川が強風だったため単に髪をかき上げた直後の写真ですが、実際私の指は足も含めて異様に長いです。  写真とは実に正直だ…)


 私の現在のパスポートは4冊目だ。 
 思い起こす事今から40年程前の19歳学生時代、夏季休暇を利用して米国西海岸へ1ヶ月間語学短期留学の旅に出たのを皮切りに、その後各国へ出向いたものだ。

 4冊目のパスポートがもうすぐ10年目を迎えるが、おそらく次回の旅行時には新たにパスポートを作り替えねばならないだろう。

 4冊目のパスポートのページをめくりつつ、ここ9年間の我が旅物語を少し振り返ってみよう。

 娘が未だ中学生の時に家族旅行でエジプト・ギリシャを訪れている。
 我が娘の名前は私のたっての希望によりギリシャ哲学より命名しているが、その娘を古代ギリシャ哲学の聖地であるプラトンのアカデメイアに引き連れることが旅行の一番の目的だった。 これは自由行動時間内に叶ったものの、所詮団体旅行に参加したとの大いなる制約があり、旅行全般に及んでは主体的に行動出来たか否かに関して課題が残った。

 その後娘の造形絵画の恩師である、美術家先生(長はるこ先生、こんなところでご登場頂き大変恐縮ですが)が国際的にご活躍されている事に便乗し、インド、韓国ソウル、アルゼンチンのブエノスアイレスへ連れて行って頂いた。 (と言うよりも、私が勝手に“金魚のウンチ”のごとく、はるこ先生の国際賞授賞式やアートフェア開催に便乗し御邪魔したと言う方が正解だが…) 
 はるこ先生、お陰様で海外にて実に豊富な経験を積ませて頂いた事に、改めてこの場にて御礼申し上げます。 


 そして、いよいよ今回のイタリア旅行だ。

 名目は娘の大学卒業旅行であるものの、その実は私自身が一人で計画を練り仲介旅行会社と交渉しつつ、主体的な個人旅行として成就した初めての旅行だったと言えよう。

 還暦を迎えている私にとって、今回の旅行実行程大変だった事は今までに経験していない。
 とにかく計画段階から旅行実行に漕ぎつけるまで、その前準備を完璧にやりこなす作業自体に弱音を吐きそうにもなった。 それが災いして出発前夜に歯痛による歯茎の腫れにともなう微熱が出てしまう始末だ。 夜中中体温を測定し元医学関係者としては微熱段階で経過している事に安堵し、解熱鎮痛剤のお世話になりつつ当然ながら翌朝はイタリア旅行出発実行だ!

 別に何てことはない。
 成田空港行のリムジンバスに乗った時点から、我が心は既にイタリアに向けてウキウキ気分だ。 機内持ち込み鞄の中にひそめていた追加の解熱鎮痛剤などに頼る必要も何もなく、娘と共に元気にローマ空港へ到着と相成ったものだ。



 ここ2週間、全26編に渡って公開させて頂いた原左都子による「イタリア旅行記」だが、それ程に私にとってインパクトがあった今回のイタリア旅行だった。

 何と言っても自分自身の力ですべての旅程をまっとう出来たのが、実にうれしい。

 今回のイタリア旅行で、私はイタリア(特にフィレンチェ)に“将来住んでもいい”とまでの感想を抱けた事が一番の収穫でもある。

 その実行には、数々の障壁を乗り越えねばならないのであろう。 
 が、実際問題、過去に於いて各国を訪問している私が、この種の感覚に至れたのは今回のイタリア旅行が初めての事だ。
 
 もちろん、言葉の問題は大きい。
 ただ自分自身が努力を重ねれば、単身での海外生活も叶う!との実感を得る事が出来た今回の旅行に感謝感激である。



 それにしても、旅行中にお世話になったローマ・ピサ・フィレンチェの皆様、ありがとうございました。

 留守中家で一人で頑張った亭主や、日頃私に100%依存している高齢の義母と実母の心中はさぞや心細かったであろう。 快く私をイタリアへ行かせてくれた身内3人にも、御礼を言っておこう。

 それからそれから、今回の旅行の資金源となった公的年金制度にも御礼を言うべきだろう。 厚生年金を60歳から受給出来るのは昭和30年生まれの私の年代が最後だ。 今後段階的に受給年齢が引き上げられていく。

 そして何よりも、我が拙い 「原左都子 イタリア旅行記 全27編」 に2週間もの長きに渡りお付き合い下さいました、gooブログの皆様とFacebookのお友達の皆様、誠にありがとうございました!!

ローマ・ピサ・フィレンチェ 列車と徒歩の旅 -フィレンチェ旅立ちの日-

2016年02月13日 | 旅行・グルメ
 (写真は、フェレンチェ ペレートラ空港 待合室にて撮影したもの。)



 イタリア旅行最終日、フィレンチェ旅立ちの日は早朝から冷たい雨模様だ。

 ローマでもフィレンチェでも朝方雨が少し降った日はあったが、昼間や夜間外出中に傘をさす事は皆無だった。
 本格的な雨天は今日が初めてだ。


 最後の朝食(アメリカンスタイルバイキング)をホテルのレストランで食した後、部屋の片づけを済ませ少しのチップを残し、0階まで降り、フロントでチェックアウトをする。

 いつも親切な若手男性フロント係氏(この方、超イケメンのイタリアンにもかかわらず、ホテルマンとしてのマナーの程が心地よい!)が“顔パス”の我々の姿を見るなり、「ノーチャージ ナンタラカンタラ」と英語で告げてくれる。
 そして「タクシーを呼ぶかどうか?」を聞いてくれるのだが、「カードライバーを雇っていて、その人がここまで我々2人を迎えに来てフィレンチェ空港まで連れて行ってくれるから大丈夫」の旨を英語で伝えると、「そちらのソファーで寛いで下さい」とのことだ。

 この時、一言「貴方の写真を映していいですか?」とイケメンホテルマンに問いたかったのは山々なれど、おそらくイタリアでも個人の肖像権が保障されているものと推測して、それを諦めた。 (このイケメンホテルマンに限らず、他のレストラン等々、幾多の場所で出会ったイタリアンに対して、写真撮影を諦めた私だ。 日本国内で法学を心得ている私の法的観念が強過ぎただろうか??)


 そして、私が日本にて雇ったカードライバー氏は約束時間より早くホテルまで迎えに来てくれ、20分程のドライブの後、フィレンチェ ペレートラ国内空港へ到着する。
 このドライバー氏も、至って優しい。
 イタリア語しか話せないと聞いていたのに、到着後に英語にて「この空港は小さいから迷うことはないから安心して。 入口を入って直ぐにチェックイン場所があるから、それを探し当てたら後は大丈夫!」と我々を励ましてくれる。  
 どうやらイタリア内の何処でも、我々は二人の娘達と解釈されて来たようだ。 
 既に還暦を迎えている我が目から見ると、当該ドライバー氏など、ずっと年下とお見受けしたのだが…  ただ、これぞ好都合! まるで娘のごとく可愛らしぶるサービスをしつつ御礼を言い、空港内へ向かう。


 冒頭の写真は、フィレンチェペレートラ空港の待合室で撮影した写真だ。
 ここで預けたスーツケースを、経由地であるローマを通して成田まで運んでもらえる事が実にラッキーだ。  むしろ、国際便発着地である大規模空港 ローマ空港内で重いスーツケースを引っ張って右往左往させられるより、ずっと楽チンした気になる。
 そして、我々母娘は、ローマ フィウミチノ(別名レオナルドダビンチ)空港内では、昼食を食べ、免税店に寄れる自由時間をゲットした。
 

 旅慣れた方々は既にご存じだろうが、イタリアでは「出入国カード」を廃止している。
 我が国 日本も最近廃止したのだろうか?  今回のイタリア旅行で初めて出入国カードの提出を要求されなかった。

 そうした場合、出入国が至って簡単だ。
 パスポートと航空券を出入国審査所で見せるだけで、目指す航空機ゲートへと移動が可能となる。


 その恩恵を受けつつ、我々親子がローマ フィウミチノ空港にて搭乗した成田行き アリタリア航空 AZ784便は12時間後に無事成田へ着陸した。