原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「副業解禁時代」に “二足のわらじ” が活きるね!

2019年02月03日 | 仕事・就職
 (写真は、朝日新聞2019.02.02付「副業を解禁する企業が増加 なぜ?」と題する記事のイラストを転載したもの。)


 私め原左都子ほど、実直かつ真面目に学業に励んだ上で“二足のわらじ”人生を貫いている人材はこの世に於いて希少価値なのではなかろうか??


 その一つの分野が「医学」だ。

 パラメディカル分野で国家資格を取得し、主に基礎医学分野にて専門業務に励んできている。
 一番最初は新卒にて民間医学企業に就職し、免疫学分野の仕事に励んだ。 私の人生に於いてこの医学分野での職務経験が一番長い。
 その後新たな学業に励む合間を縫い、医学関連企業にて医学専門人材派遣社員として活躍した。
 あるいは国立研究開発法人理化学研究所や東大物療内科にて、医学実験担当職員として研究の手助けをした経験もある。 

 もう一つの分野は「教育」だ。

 30歳時に入学し再び学んだ大学・大学院にて「経営法学修士」を取得し、高校教諭及び非常勤講師を経験している。
 その後フランチャイズ自営にて「学習教室」を開設したが、これは赤字経営に陥り残念ながら早期事業撤退と相成っている…
 それ以前の頃には、中高生の家庭教師を何度も経験している。

 他にもあるなあ。
 二度めの大学時代に、その食い扶持として様々な仕事に励んだ。
 「パーティコンパニオン」に「ラウンジコンパニオン」、それから「ワープロデモンストレーター」もやったぜ!  とにかく真面目で誠実で(?)誰よりも“場を読む”能力に長けていたため、何をしても職場内で中心的人材として認められつつ高収入を得たものだ。

 まだまだあるぞ。
 30歳独身時に単独で購入したマンション物件ローンを独身時に全額完済した後、晩婚後賃貸運営し20年間に渡り収入源とした。 5年程前に悪質賃借人に遭遇しやむを得ずオーナーチェンジにて売却したが、その売却資金は我が老後資金の役割を十分に果たしてくれている。 


 “空虚な過去の栄光”自慢話はここまでにして。

 昨日2019.02.02付朝日新聞別刷「be」内で、「副業を解禁する企業が増加 なぜ?」と題する記事を発見した。 対話形式記事のため要約しにくいが、以下に私なりに要約引用しよう。

 日本の企業で長らく御法度だった副業を解禁する例が目立っている。 終身雇用が崩れる中で、若手の人材確保や新規事業の開拓にも有効なほか、シニア層にこそその意義も実用性も大きいとされている。
 テレビでも「副業元年」等々やっているが、一つには企業が参考にする厚労省の「モデル就業規則」から昨年、副業禁止規定が削られ、代わりに副業・兼業を認める規定が加わったことも影響している。
 最近に至っては、「本業」「副業」と分けるのではなく、個人が複数の仕事を持つ「複業」の考え方が日本でも広がっている。 そもそも「二足のわらじ」とは、広辞苑によれば「両立しないような二種の業を兼ねる事」と、多少ネガティブな意味がある。
 ただ、副業を持つと休む時間が無くなるとの心配もあるし、実際「労災認定」に於いては法定労働時間を超過した部分のみしか労災が認められない。 
 そうであれ、副業を持つ事とは、自分の働き方を見つめ直すきっかけとなるという事でもあろう。
 (以上、朝日新聞記事を私の認識・価値観を交えつつ勝手に要約引用したもの。)


 一旦、私見に入ろう。

 この朝日新聞記事内に、冒頭に掲載したイラストが掲載されている。
 これを見て、実に我が「二足のわらじ」人生を的確に描いているものとマイナスイメージで実感させられる。 
 実際、「自分がどういう職種に携わってきたのか?」に関して初対面の人に説明する時にいつも困惑するのだ。
 “二足のわらじ”(あるいはそれ以上の)人生を歩みつつ現在に至っている私にとって、それを一言で説明するのは並大抵の事ではない。 こっちを言えば、こっちが立たない…  
 ただ、相手の専門力が明瞭である場合は簡単でもある。 例えば医学関係者との関係に於いてはもちろん我が医学経験を語る。 相手が教育関係者の場合は、「私にも教員経験があります」と言えばその後話が弾む。
 そうではない相手には、一体私の何を訴えればよいのか実に悩ましい現実だ…
 そういう場合には相手の経歴等々を想像しつつ、こちらを前面に出すべきかと判断する事が多い。 そうした場合、おのずと万人に分かりにくい「医学」よりも「教員」の方がご理解頂けると想像し、それを告げる機会が多いかもしれない。
 
 現在に於いては「原左都子エッセイ集」の名刺を差し出し、これをお読み下さいと言って済ませているが…。
 ただ現実問題として、「ブログ」に対する世の位置付けとは未だ“軽薄感”があるのが厳しい実態だよねえ……  手渡した後で「あ~~、また失敗したか……」なる思いを抱く事がしょっちゅうだ…


 話題を、「副業解禁時代」に戻そう。
 
 これは産業界に於いては前進と結論付けられそうだ。
 ただ労災認定等々の法的規定に於いて、未だ出遅れている現実こそが今後の課題でもあろう。

 それよりも何よりも私程の年代の人間にとっては、きちんと学業に励みその専門力を培ってゲットした“二足のわらじ”を履いていようが…。
 この年齢に至っては、何処からもその専門分野の求人が無い事こそが一番の問題でもあるよなあ。 

“哺乳瓶の消毒”、 私も産院から信憑性無き指導を強制された

2019年02月02日 | 医学・医療・介護
 (写真は、娘生後1ヶ月頃1993.12の我が「育児日誌」ページを撮影したもの。 黒塗り部分は「〇子(私の本名)病院」と記されている。 緊急帝王切開手術にて超難産で我が子を産んだ私は、産後重症の膀胱炎に罹患し、娘1か月後も未だ微熱が続き通院を余儀無くされていた。)


 エッセイのテーマが、突如として我が育児時代に舞い戻るが。

 私が出産して四半世紀(25年)もの年月が流れているにもかかわらず…。

 先だっての2019.01.28付朝日新聞夕刊にて、許し難き記事を発見した。
 何でも今尚 、“その必要性に関する信憑性が欠ける”「哺乳瓶の消毒」を産婦に対し強制指導する産院が存在する事実に実に驚かされた原左都子だ。

 記事によれば。
 「長女が生まれてから1日8回、昼夜問わず3時間おきに母乳と粉ミルクを与えていた。哺乳瓶は毎回洗剤で洗い、消毒剤のタブレットを溶かした水につけた。 赤ちゃんは自分の手もなめているし、おもちゃ消毒もしていないのに、哺乳瓶だけ念入りに消毒する必要があるのだろうか?」と嘆くのは、生後8か月の赤ちゃんを育てる27歳の女性。
 
 記事の途中を飛ばし、結論部分の大学教授のコメントを紹介しよう。
 「完璧主義で疲れてしまい、子どもが可愛いと思えなくなる親もいる。気楽に楽しく子育てしてくことが一番です。」

 ここで一旦私事を述べるならば。

 我が25年前の授乳時に於いては、消毒剤ではなく授乳前にいちいち鍋で哺乳瓶を煮沸消毒していた。 夜中とて然り。 それを「絶対にせよ!」と厳しく産院から指導を受けていた。
 郷里から育児応援に駆け付けた実母が、産後の肥立ちが悪く微熱も抱える私が日々夜中にもそれをする姿をみて、「そこまでする必要はないのではないか?」との意見を述べてくれた。
 ところが体調が悪く微熱で意識朦朧としている私の脳内判断能力がマヒしていて、いつものように頭が働かないのだ…  「いや、これをせねば、この子が死んでしまう!」と本気で実母に対抗したものだ。

 上記写真をご覧頂こう。
 その尋常では無い身体状況で、私は更に毎日、上記のごとく詳細な「育児ノート」を付けていた。
 写真のページには離乳食を含めたカロリー計算は未だ行っていないが、その後は日々摂取させたカロリーまで綿密に計算して記録した。 更に、「母子手帳」には身長・体重測定を定期的に実施し、グラフ化して記録したものだ。
 まあ私の場合元々医学実験を主たる業としていた身でもあり、「実験ノート」記録に関してはお手の物だったのだが。
 それにしても、今このノートを見直しても当時の衰弱した我が身体状況が蘇る。 上記大学教授がおっしゃる通り、子どもが可愛いどころか、我が人生で一番辛い時期だったと振り返る。


 本エッセイ集開設直後期の2007.09.07公開「聖母マリアにはなれない(Part1)」より、一部を要約して以下に紹介しよう。

 私は我が子が新生児・乳児の頃大きな失敗をしでかして、未だに後悔している事がいくつかある。
 (以下は、1990年代前半の頃の話だ。 現在では、産院及び自治体の育児指導はこの頃より進化を遂げていることと信じたい。)
 私が子どもを産んだ病院は授乳教育が徹底的にマニュアル化され、授乳時間が厳格に決められていて、毎日その時間になると母体の健康状態にかかわらず母親は全員強制的に授乳室に集合させられた。 そして、赤ちゃんのグラム単位の体重測定を経て授乳を行うのだが、母乳が足りない赤ちゃんには人工乳で補うという手順となる。 ところが、生まれたばかりの赤ちゃんと言えども千差万別であるし、また時にはご機嫌斜めで授乳を拒否する等のハプニングは当然のことであるのに。 その産院では、赤ちゃんが規定量を飲む(無理やり飲ませる)まで母親は病室に帰れないシステムとなっていた。 我が子は不運にも母乳も足りていなければ人工乳の飲み方も少ない子で、私と私の赤ちゃんは授乳の時間毎に授乳室に居残りとなり、授乳の都度胃が痛い思いをする辛い入院生活を味わう羽目となった。
 この拷問に近い仕打ちを余儀なくされた産院を何とか無事退院したものの、元々完璧主義で神経質な私は、この後もこの産院の悪しき習慣を引きずってしまう。 後になってみれば、愚かな新米母親であった自分をつくづく恥じ入るばかりである。 だが、小さくていたいけな我が子を目の前にすると、その産院の授乳習慣に従わないとこの子は死んでしまうのではないかとの呪縛にがんじがらめとなり、冷静な判断ができなくなってしまうのだ。 医学的、教育学的バックグラウンドがあり、結婚・出産が遅かった分人生経験も豊富だと自負していたこの私でさえも…。
 ただ幸運だったのは、我が子は退院後授乳量が急激に増え、準備した規定量を難なく飲み干してくれスクスク(というよりは丸々と)大きな赤ちゃんに成長してくれたことである。 
 ところが、今度は我が子のその大きさが新たな呪縛を呼び起こす原因となる。(Part2へ続く)
 (以上、本エッセイ集バックナンバーより一部を要約引用したもの。 その後Part2、Part3に於いて、徐々に我が身体が回復するにつれ本来の私らしさを取り戻しつつ、真に強い母親となっていく姿を綴っておりますので、よろしければご覧下さい。)


 未だ、産院(や育児雑誌?)に於いて旧態依然とした授乳指導がなされている事実に愕然とさせられる。
 そうでなくとも、出産直後の母体とは(私のように緊急帝王切開手術でなくとも)大打撃を受けているものだ。
 そんな母体にも十分配慮しつつ、退院後は楽しい育児がなせるよう“大らかな授乳”を提案して欲しい、と切に希望する。