原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ウィーン旅行中の“移動手段”を本日娘と検討しました

2019年04月21日 | 旅行・グルメ
 (写真は、ウィーン交通路線図。)


 バックナンバーにて幾度も記載しているが、我が旅のモットーとは「旅を3度楽しむ」事に尽きる。

 その3度とは、まずは旅の事前調査や下準備、そして当然ながら実際の旅行旅程、三つめは帰宅後の旅の総括作業だ。

 その中で一番長い期間楽しめるのは、旅の事前調査と下準備だ。 それを出来るだけ長く楽しみたい思いが強く、いつも実際旅に出る随分前の時期に旅の予約を入れる習慣がある。

 加えて、昨夏の米国西海岸旅行予約の際にも経験しているが、特に個人旅行の場合、航空便やホテルの条件が良いもの程早期に売り切れるのが現在の常識のようなのだ。
 今回のウィーン旅行にしても、「直行便」は既に売り切れているようだ。
 私がウィーン航空便を予約したのは4月上旬だったが、「直行便」をゲット出来ている! 
 4月下旬に差し掛かっている現在、ウィーン行きの「直行便」は既に皆無、これから予約する人は「乗換便」しかない状態だ。

 こうなると大変。
 乗換便旅行は45年程前の米国短期留学時と、2012年のブエノスアイレス旅行時に経験しているが。 乗り換えのために費やす無駄な時間の何ともまあ長い事! そうでなくとも航空機での長旅とは疲労困憊するものだが、この乗換時の疲労感とは(特にブエノスアイレス旅行に於いて)筆舌に尽くし難いものがあった…。
 
 とにかく今夏のウィーン旅行の場合、早めの予約が功を奏して往復「直行便」をゲット出来たのは実に幸いだ。


 さて、娘の仕事が休みの日に7月に旅するウィーン旅行の旅程詳細検討会を少しずつ実施している我々母娘だが。

 本日は、「ウィーンでの旅程移動手段」にテーマを絞って二人で検討会を開いた。
 と言うのも今までの娘との検討会に於いて、ウィーンでの主たる行先に関してはある程度の方向性を見い出せている。
 第一希望の「ウィーン国立歌劇場」でのオーケストラコンサートは、既にチケットをゲット済みだ。
 第二希望の「ドナウ川クルージング及びヴァッハウ溪谷方面小旅」に関しても、ウィーン現地オプショナルツアーに参加しようかとの見解で一致している。

 その合間を縫って、是非ともウィーンの世界遺産名所旧跡を見て回りたいものだ。
 その移動手段を如何にしようかと話し合うのが本日の検討会の主テーマだった。


 そして先程午後に、ある程度の結論が出た。

 上記「ウィーン交通路線図」を確認し、我々が宿泊するホテルの最寄り駅がウィーン地下鉄U4路線のHietzing駅であることが判明した。
 ホテル予約時にも直ぐ近くに地下鉄駅があることは把握していたが、この地下鉄駅からの発着を最大限利用する事で娘と意見が一致した。
 そうした場合、旅行雑誌情報によると各種「フリーパスチケット」を購入すれば、安価にてウィーン市街を回って歩けることが判明したのだ。

 そのフリーパスチケットの中で、我々母娘が選択したのが「ウィーンカード」だ。
 これは現地ホテルにても購入可能な上に、地下鉄・バス・トラムを72時間乗り放題に加えて、観光スポットの割引もあって たったの €19,90ー とお得だ!
 これをウィーン初日にホテルで購入してウィーン探索を楽しもうと娘と同意した。


 あっと……  それにしても、ウィーンの地下鉄は乗車時にドアを自分で開けるかボタンを押さねばならないらしい…
 ただ娘よ、それは母である我が出身国内過疎地のJR路線で既に何度も経験済みじゃないか。 “あの貴重な”経験を活かせば、何ら問題ないよ。

 と娘を活気づけつつ、本日の娘との「ウィーン旅行中の移動手段検討会」は無事幕を閉じた。
 

絵むすび(朝日新聞2019.04.20編)

2019年04月20日 | 自己実現
 (写真は、朝日新聞2019.04.20付パズル「絵むすび」に原左都子が解答したもの。)



 朝日新聞パズル「絵むすび」ファンの皆さん、お待たせ致しました。

 今回の「絵むすび」は久々の“難易度4”でしたが かなり手ごたえがありましたね!



 とりあえず、「解答」」のみ公開致します。

 後程、解説を加えます。




 さて、それでは「解説」に入りましょう。



 本日仕事が休みの娘と昼食後、朝日新聞「絵むすび」を2部コピーして、「絵むすび早解き合戦」をした。

 設問の四角紙面をみて頭をひねりつつ、娘の解答ぶりを横目でみると。
 おおーーー、娘も苦戦しつつも頑張っているではないか! 
 
 この子、昔から集中力がある子だ。 それはサリバンとして3歳頃より大学卒業まで学習・学問指導を担当した私は十二分に承知している。
 ”音を上げる”という言葉を知らない。 放っておくといつまでも難題に取り組み続けるため、むしろ、サリバンの私がそれに配慮して「少し休憩しようよ」と声かけをした程だ。

 今日とて同じ。 「今回は難しいなあ…」等々独り言をいいつつ解答を続けるサリバンの横で、娘の無言の集中力の程は物凄い。

 いやはや“絵むすび解答マイスター”(??)の私としては、負ける訳にはいかない!



 そうこうしつつ、娘が引いた“1本の線”が我が横目の視野に入った。

 その線こそが、今回の「絵むすび」解答のキーポイントだったと言えよう。

 実際今回の絵むすびは、どのアイテムから手を付ければよいかの道筋が付けにくかった。

 まあどなたも真っ先に“左上の「ちょうちょ」に目が行く事だろう。 ただ、これを素直に結んでしまっては、他のアイテムの邪魔になる。
 次なる視点は、「鍋」だろうか? ところがこれも単純には結べない。

 娘も同じ思考に陥ったようだが、我が娘の鮮鋭さは「黄旗」を曲げながら結んだ点だ。


 それを真似てみて、我が解答完成の予想図が描けた!

 「黄旗」の次は、「鍋」を上にぐるりと回して結べばよい。
 その後、「ちょうちょ」をとりあえず下へ降ろして様子見しよう。

 そうすると、他のアイテム「プリン」「下駄」「鉛筆」の行く末は自ずと決定する。

 それらを道を譲りつつ結べば、今回の“難易度4”絵むすび解答は「投了」(いえいえ)「完成」だ!


 
 当該朝日新聞「絵むすび」を始めとして、パズルに励んでおられる方々とはご高齢域の人物が多数なのかとも想像するが。

 もしも、お孫さん等がそれに付き合ってくれるならば誘い入れて一緒に楽しんでみると、解答の方向性が定まったりもするかもしれませんね。

 

学者になれずとも学業を活かして生きる道はある

2019年04月18日 | 自己実現
 本エッセイ集 2015.04.29公開のバックナンバーに「原左都子が水面下で学者を目指していた裏話」と題するエッセイが存在する。

 当該エッセイの一部を以下に要約再掲載させていただこう。
 
 我が若かりし20代の頃、社会学者 上野千鶴子氏の一ファンであったことは当エッセイ集バックナンバーに於いて幾度か記載している。
 現在に至っては、上野氏のご活躍の程に直に触れるのは朝日新聞「悩みのるつぼ」のみなのだが、この新聞コラムを拝見する都度、(僭越ながらも)氏のご回答と原左都子の私論が一致する現象を実感させて頂いている。 何と言っても、上野千鶴子氏の相談者に対する“ズバッと繰り出す直言(苦言も含めて)”が痛快だ!  
 私が上野千鶴子氏のファンになったのは、遠い昔の我が20代後半期であるが、当時の私は既に結婚願望がさほど抱けないまま、医学関連企業内での日々の昼休み中に朝日新聞をむさぼるように読み込んでいた。
 おそらく当時の上野氏とは、氏の一番最初の就職先である地方短大の講師をされていた頃だったのではあるまいか?  その時代に上野氏が朝日新聞紙上で展開された持論(今となっては内容を記憶していないが)に大いに触発された私である。  その頃とは、我が国のメディア上で“女性学者”の意見が取り上げられ始めた創世期だったように記憶している。
 当時の私は所属していた医学関連企業を退職する事を視野に入れ、虎視眈々と次なる活動を開始し始めていた。 そんな我が行動に大いなる影響を与えてくれたのは、おそらく上野千鶴子氏を筆頭とする若き女性学者達が“世に意見申せる”立場に昇格していた事実である。 
 そして私は20代後半期にして今後の我が身の振り方を熟慮した。 ここは私も一つの選択肢として「学者」を視野に入れた将来を見つめようではないか!  私が30歳間際にして学問分野を180°方向転換したいきさつとして、そのような漠然とした背景事情も存在したものだ。
 実際その後、私は30代後半にして大学院修士課程修了直前の秋頃、新聞広告に頼り某私立短期大学専任講師一般公募に応募して、書類選考段階で即刻落とされる運命を経験した。
 ところが当時の現実を語るならば、大学教官になりたい場合(たとえその立場が講師であろうと)自分が所属する大学院ゼミ教官氏の縁故に頼るのが常識だったのだ。 その事を露知らなかった訳ではないのだが、偶然他ゼミ生の女子学生が教授の縁故に頼り某私立短大の講師に採用“されそうになった”と言う。 その内部実態を彼女から聞きて私は驚いた。 何と、専任講師とは言えども結局は“言っちゃ悪いが”某無名私立短大教授の秘書役。 週に2時間程しか授業をもたせてもらえず、その内容もまったく専門外の「秘書論」との事だ。 しかもその報酬とは年俸たったの300万円程也との薄給たる始末!
 勘弁してよ! との事実だが、要するに国公立大学院出身者と言えどもそれが天下の“東大京大”でもない限り、他大学(短大)にて学者を目指そうとてこれが日本国内の貧弱な実態だったのだろう。
 結果として、当時既に公立(夜間定時制)高校教員を務めていた私の年収が、名も無き短大にて講師をする事の“倍以上”だったため、何の迷いもなくそれを続行する道を選択した。
 話題を上野千鶴子氏に戻すと、その後の上野氏のご活躍の程が素晴らしい。 
 確かに、1980年頃の上野千鶴子氏の所属大学が“無名”だった事実を私も記憶しているが、京都大学・大学院ご出身の世に名を売られている学者氏にしては、所属大学の名を聞いた事すらないなあ… なる感想を描いた記憶がある。 上野氏はその後のメディア上でのご活躍による“売名”により、東大助教授及び大学院教授の立場で招かれたと記憶している。 残念ながらその後の上野氏の学者としての業績の程を、さほど認識していない私だが。
 そうだとしても、上野千鶴子氏はやはり素晴らしい。 恵まれた実家に生まれ出ていながら、こと就職に当たってはご自身のポリシーで積極的に動かれた事が実に素晴らしい。 元を辿れば、それ程のポリシーと行動力を京都大学・大学院時代に培われていた事実こそが圧巻だ。 そんな勢いがあられたからこそ、上野千鶴子氏とは自分自身の力で学者としてのスタートラインである最初の大学に出逢われたのであろう。
 人々の成功とは、偶然彼方からやって来るものではあり得ない。 本人が本気で努力した結果の賜物であることに間違いない。
 そういう意味では原左都子の場合「学者」になりたいと一時脳裏に浮かんだとは言えども、今振り返ってみても、その夢を本気で描いていたとは到底思えない。 そんな中途半端な事実こそを反省材料として、ここはあくまでも我が過去に於ける「学者」との夢物語をこっそり“水面下”で語らせて頂くに留めておこう。
 (以上、長くなったが「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を再掲載したもの。)


 話題を変えよう。

 昨日2019.04.18付朝日新聞朝刊内に「気鋭の研究者 努力の果てに」と題する記事があった。

 少しだけ、要約引用するならば。
 大きな研究成果を上げて将来を期待されながら、自ら命を絶った女性がいる。
 N氏、2016.02.02死去。 東北大で日本思想史を学び、04年に博士(文学)を取得。都内の実家に戻り両親と同居しながら研究に打ち込んだ。 翌日本学術振興会特別研究員に選ばれ、月額45万円の研究奨励金を支給されつつ、年に論文2本、学会発表本のノルマを自らに課した。 08年、初の著書を出版し高評価された。 だが、特別研究員の任期は3年間。 その後は経済的に苦しい日が続いた。
 そんな中、研究職に就く事を望み20以上の大学に応募した。 不採用の理由は明かされなかった。
 その後、「結婚する!」と両親に告げネットにて知り合った一回り年上の男性と同居を始めたものの、結婚生活は半年ももたず破綻。 自らを責めつつも、離婚届を提出したその夜、自死した。
 (以下略すが、以上朝日新聞記事より引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 当該女性が自死されている事態に関しては、ご冥福をお祈りする。

 ただ、20代前半期に郷里を捨て親を捨て上京後自らの経済力のみでこの世を渡って来た原左都子にとっては、何とも“弱き女性”とのイメージしか抱けない…

 そんな“弱き女性”が是が非でも「学者」を目指していたのならば、何故東北大学博士課程時代に担当教官にその旨を嘆願し、その“コネ力”を頼るとの指導を仰がなかったのだろう??

 更に厳しい指摘だが、この女性、自ら経済力を身に付けるすべを知らずしてこの世を渡ってしまっている事態が墓穴を掘っているとも推察する。
 何故、学者(研究者)を目指している立場にして、(失礼だが経済力の程が不明な)親元になど舞い戻ったのだろう?
 日本学術振興会の特別補助金に頼るのもいいが、わずか3年間で途絶えるそんな資金をあてにしつつの研究者生活の先は見えていたはずだ。
 しかも、安定した職業に恵まれない暁に“ネット”にて知り合った病気持ち男性と結婚に至るとはどうしたことか!
 そして行き着いた果てが、「自死」……

 なんとまあ、朝日新聞もこんな“世界で一番生き様を誤りつつ元研究者を目指した女性の自死”話題を取り上げたものだ。(当該女性やご家族にとって大変失礼な記述であることは重々お詫び申し上げます…。)

 その上で、表題に戻ろう。

 実際問題、「学者」を目指しそれが叶わずとも、自分の専門を活かしつつ人が生きる道は如何程も存在すると私は判断する。
 (無料奉仕でよければ)ブログとの媒体とて、自身の思想や実績を公開するまたとはない場ではなかろうか?
 
 だって、見てごらん。
 学者を退職した後の元学者のみすぼらしさを! (こういうことを平然と書くから、私ってバッシングされるのよねえ。)

 いえいえ、そんなことはあり得ません。
 私が過去に2度に及ぶ大学・大学院にてお世話になった恩師先生(医学部の故N先生、及び“文化勲章・秋の叙勲ご受章”の経営法学部門のY先生)より、その後もずっと長年に渡りプラスの恩恵を頂戴し続けておりますこと、誠に感謝申し上げる次第です。

人付き合い 交々(こもごも)

2019年04月17日 | 人間関係
 本日つい先程、編集画面「過去のアクセス」コーナーにて、今自分で読み直しても興味深い我がエッセイ集バックナンバーがランクインしているのを発見した。


 早速、2013.01.28公開の「人付き合いは自然体が一番!」と題するバックナンバーの一部を要約引用して再掲載しよう。

 我がエッセイ集を5年来ご贔屓にして下さっている常連読者のK氏より、某SNSサイト上に上記エッセイに関するコメントを頂戴し、それに対し返答申し上げた私だ。
 以下に、その我が返答コメントをそのままコピーして紹介しよう。
 Kさん、居酒屋が大好きで夜な夜な同僚との交友を深めていた古き良き時代が飲兵衛の私には確かにありました。 あの頃は酒のマナーどうのこうのと社会から後ろ指を指される事もなく、飲兵衛が大手を振ってのさばれた時代でした。 下戸の方々からすれば昨今を問わずとんでもない話かもしれませんが、酒の勢いでののしりあっても次の日にはまた一緒に杯を交わせる、そんな信頼関係が飲兵衛の間には成り立っていたものです。 
 話を変えて、人間が懇親に付き合える相手とは一生に渡り数える程の少数であるのが普通と私は心得ています。 某SNSサイト上でも友達の「数」を誇るがごとく数百人いえ、数千人の友達登録をしている方を多く見かけますが、商売人寄せ目的ならばともかく、一般人がそれをして何の得になっているのか私も不思議です。
 年老いて死を迎える時に、“あの人と知り合えたことが私の財産だった”と言える人物が少数存在する事こそが幸せと私は信じています。  Kさんが書かれている旧友との付き合いに関してても、私も慎重に対応するべきと考える派です。 時の流れというものは必ずや人の人格を変えるものですが、それを心得ず過去の感覚のまま接してこられる無礼さを私自身よく経験します。 
 ましてや、ネット上で見知らぬ人物と交流しようとする場合、まずは無礼とならない対応を心得るべきでしょう。 ネット上でも長く付き合いが続く相手というのは信頼関係が成り立っている証拠と捉えています。 長いお付き合いのKさん、今後共よろしくお願い致します。
 (以上、某SNSサイトに原左都子が投稿したK氏への返答コメントより引用)
 さて、本題に移ろう。 
 「原左都子エッセイ集」でお馴染みの朝日新聞「悩みのるつぼ」1月26日の相談テーマは、18歳男子学生による 「人と友好関係を維持出来ません」 だった。
 男子学生の相談内容を紹介する前に、今回の回答者であられる 歌手・俳優 三輪明宏氏の「人付き合いは『腹六分』でいい」と題する回答内容が、上に引用した原左都子の返答内容とダブる部分があるため、その回答内容から先に以下に一部を要約して紹介しよう。
 人間の付き合いというのは「腹六分」がちょうどいい。いつまでも付き合える人は一生に何人も出てこない。 親友なんて一人できればいい方で、助けが必要な時にいつでも助けてあげて、普段は当たり障りのない距離で見守っている人こそが親友でしょう。 何から何まで悩みも聞き、金も貸してくれる、そんな便利な人はいるはずがない。 離れていく人はニセ者だから、惜しむ必要はない。 本物は離れない。 仲良しだけれども、つかず離れず、それが大人の関係というものでしょう。 (以上、「悩みのるつぼ」三輪明宏氏の回答より一部を引用)
 (当時)そろそろ還暦を迎える年代の原左都子だが、もっと人生の大先輩である三輪明宏氏には失礼を承知の上で、氏と交友関係に関してほぼ同様の思想を抱いていた事に大いに感動の私である。
 更に、三輪氏は。
 今や人生90年。 成長も進化も遅くなり、30歳でやっと成人式との印象。 40歳、50歳になるとようやく経験を積んで大人になると言うか…。 10代では人間の「新品」だ。 世の中がまだ分かっていない。 微笑がない人に近づく人はいない。 口下手なら、聞き上手になればいい。 いつもゆったり微笑みながら、知識、教養、技術を身に付ける努力をすればいい。 (それらは)誰からも必要とされる。 (以上、三輪明宏氏の回答から再度一部を引用。)
 原左都子の私論でまとめよう。 
 上記の三輪明宏氏のご回答内容に関して言えば、“一部”を除きごもっともである。 (その“一部”に関しては最後に私論を展開させていただこう。)
 まさに三輪氏がおっしゃる通り、人生90年時代の現代だ。 それは相談者である18歳男子高校生に限ったことではなく、還暦近い年代の原左都子とて、ほんの少しばかり人生経験を積めてやっとこさ大人になりかけている感覚だ。 
 ただ、この18歳男子高校生は周囲への気遣いができるハートを生来的に持ち合わせていると、相談内容から私は感じる。 今はそれで十分ではなかろうか。
 三輪氏がご指摘されているような笑顔を、何も今現在無理にしつらえて周囲に振りまく必要はないと原左都子は結論付けたい。 むしろ、周囲の生徒とてピリピリせざるを得ない現在の若者群像を考察した場合、そんな作り笑顔などバレバレなのが歴然の過酷な現実世界でもあろう。
 今後男子高校生が進学して学業に励み自分の専門を貫く努力を重ねる過程、その後社会に出てもっと幅広く活動する過程が今後の人生に待ち構えている。 それらの階段を一歩ずつ踏み進み、知識、教養、技術を積み重ねる努力を続ける中で、いくらでも同類の人種と知り合え共感できる機会は到来するものだ。
 その時点で男子生徒が生来的に持ち合わせている自前のハートが自然体で表出することにより、少数であっても良き友好関係を築けたならば、それで十分な人生ではなかろうか?

 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を要約引用したもの。)


 実は、このエッセイには「別件」が付録で付いている。
 これが現在の私にとって今読めばいろんな意味で面白くて、再掲載させて頂く事とした。
 それでは、最後にその「別件」を公開させていただこう。

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 別件ですが……

 本日(2013.1.28)午前9時頃、私どもがネット上に公開しております当「原左都子エッセイ集」メッセージ欄に、「通りすがり」様名にてメッセージをお送り下さった方にこの場でご返答申し上げます。
 おそらく今回初めて「原左都子エッセイ集」をご訪問下さったものと承知申し上げます。
 この度は、私どもがネット上で公開しております拙いエッセイ集をご訪問頂き、誠にありがとうございました。
 「通りすがり」様のご指摘によりますと、我がエッセイ集は誤字脱字が多いとの事です。 その失態を反省し心よりお詫び申し上げますと共に、今後更に校正、監修作業を強化して参りたいと存じております。
 もう一点、私どもの記述に「人を見下している表現がある」とのご指摘がございました。 これに関しましても、今後当該ご指摘を肝に銘じそのように読者の皆様がお感じになられる表現に関しましては改善して参りたいと心得ます。
 貴重なご意見をありがとうございました。
 今後共、「原左都子エッセイ集」は皆様のご訪問をお待ち申し上げております。
 (以上、上記エッセイの最後に付け加えた「追記」を再掲載したもの。) 


 最後に、今現在(2019.04.17)時点の我が見解だが。

 この頃(2013年頃)の私は、ブログ上の人付き合いに於いて未だ“低姿勢演技”を貫いていた事を思い起こした。
 特に見知らぬ相手(しかも今後関わらなくて済むであろう相手)に対しては、議論をするよりも、軋轢無く事を終焉させればそれでよし! とのポリシーにて物事を処理していた記憶がある。

 2011年にコメント欄を閉鎖した後から、そんな私はネット上の人間関係に於いて徐々に“自由観”が増大していったように考察する。
 今となっては、まさに自由奔放だ! 

 もしも現時点で上記メッセージを頂戴したものならば、我が返答内容は大幅に異なるか、あるいは無視を決め込む事だろう。

 そもそも現在の我がブログ公開ポリシーは、「嫌われて結構! 嫌なら静かに去ってくれ!」に終結する。(近年のバックナンバーにてこのフレーズを幾度か述べているが。)

 今後共そのスタンスを貫く予定でおりますので、それでよろしければ引き続きどうかご贔屓下さいますように。
 

仏ノートルダム寺院大火災に呆然…

2019年04月16日 | 時事論評
 (写真は、我が娘が高校の修学旅行時に訪れたフランス・パリにて撮影した仏ノートルダム寺院の大聖堂を象徴する南北の塔。)


 今朝、パソコンを開いてすぐさま目に入って来た表題の“仏ノートルダム寺院”大火災ニュースを一見して、実に呆然・愕然とさせられた。
 これぞ、地獄の光景かと…

 現在、今夏のウィーン旅行に向けて下調べに励んでいる最中のこのニュース。
 ウィーンも世界遺産建造物が数多い国だが、それに勝るとも劣らないフランスの歴史的建造物世界遺産の代表格であるノートルダム寺院が大火災だと…… まさに悪夢のごとくだ。


 冒頭の写真に関して説明しよう。

 我々母娘は“別々に”フランス旅行経験があり、二人ともその旅程中に当然ながらノートルダム寺院を観光している。

 私自身がフランスへ旅したのは、今を遡る事40年程前の24歳の冬だった。 
 郷里の旧友と二人で、イギリス・イタリア・フランスを巡る10日程の旅程のツアーに参加した。
 片や娘は、高校の修学旅行にてフランスへ渡っている。 今から9年前の冬の事だ。
 
 今朝、このニュースを受けて、早速当時のフランス旅行の写真を探したのだが。
 残念ながら、我が40年程前の写真はフィルム方式であり、それをプリントした写真があるにはあるのだが、すべてが小さく貧弱だ。

 これに比し娘がデジカメにて撮影したフランス旅行の写真群は、我がパソコン内に未だ新しく燦然と保存されていた!
 午前中それを再確認してみるに。 それにしてもあの子、何ともまあ沢山の写真を撮影したこと!
 1000枚近くあったフランス旅行の写真の中から、冒頭の写真を選ぶのに難儀した。
 いやただ、娘がノートルダム寺院の写真を多数撮影してくれていたからこそ、冒頭にて紹介可能となった。


 さて、ネットより15日にパリにて発生したノートルダム寺院大火災関連ニュース2つを、以下に要約引用しよう。

 フランス・パリ中心部にある観光名所のノートルダム大聖堂で15日午後6時50分(日本時間16日午前1時50分)ごろ、大規模な火災が発生した。 火災は16日未明も続いているが、高さ約90メートルの尖塔(せんとう)が崩落。 大聖堂を象徴する南北の塔は崩落を免れた。 当時は閉館時間帯で観光客はいなかったとみられ、消防士1人がけがをしたとの情報がある。 改修工事中の失火の可能性があるとみられている。
 マクロン仏大統領は15日夜、フランスで続く反政権デモに関連して実施予定だった国民向けのテレビ演説を中止し、現場に駆けつけた。「最悪の事態は免れた」と述べるとともに、「国民が望んでいる」として、大聖堂の再建を誓った。
 仏テレビ「フランス24」などによると、消防士約400人が消火作業にあたったが、火は瞬く間に燃え広がり、出火から1時間ほどで尖塔が崩落した。 現在のところ放火されたことを示す証拠はなく、仏メディアは数カ月前から大聖堂で行われていた改修工事の足場付近から出火した可能性を指摘している。
 年間約1300万人の観光客らが訪れる大聖堂の火災は世界中のメディアが速報し、各国首脳も相次いでメッセージを発した。トランプ米大統領はツイッターで「パリのノートルダム大聖堂の大火災はとても恐ろしい」と書き込み、フランスとの連帯を示した。
 セーヌ川の中州にあたるシテ島に建つゴシック様式のノートルダム大聖堂は、12世紀に建築が始まり、修復や増築が繰り返されてきた。 1991年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された。

 仏パリのノートルダム寺院(Notre Dame Cathedral)で15日夕に発生した火災では、消防隊員約400 人が急速に広がる火の手に立ち向かった。 現場に急行した消防隊員らは、聖遺物などの貴重な文化財を無事運び出すことにも成功している。 当局者が明らかにした。
 火災は15日午後6時(日本時間16日午前1時)ごろ発生。 消防車数十台に加え、少なくとも18の高所放水機材、小型無人機(ドローン)数機、ロボット1台も投入された。
 エマニュエル・グレゴワール(Emmanuel Gregoire)パリ副市長はテレビ局BFM TVに対し、「極めて急速に屋根まで延焼した」と述べた。 火は12世紀に架けられた木の梁(はり)で急速に広がったが、グレゴワール副市長によると、最初に現場に到着した消防隊員らは「できるだけ多くの遺産を守ること」を優先事項の一つとして対応に当たったという。
 グレゴワール副市長と地元消防のトップは、消防隊が文化財を運び出すことに成功したと述べた。 運び出した文化財の数量は明らかになっていない。
 同寺院のパトリック・ショーベ(Patrick Chauvet)司祭によると、イエス・キリスト(Jesus Christ)が十字架刑に処される際にかぶっていたとされる聖遺物「いばらの冠(Holy Crown of Thorns)」や、列聖された13世紀の国王ルイ9世(Louis IX、Saint-Louis)が着用していたチュニックは無事だった。 同司祭は、これら2点の聖遺物はかけがえのない貴重な品だとしている。

 (以上、現地時間の15日に発生した“仏ノートルダム寺院大火災”に関するネットニュース2本を要約引用したもの。)


 最後に、原左都子の私見でまとめよう。

 本日昼のNHKニュースにて、当該ノートルダム寺院大火災に関する報道を見聞したが。

 火災現場に大勢のパリ市民が集まり、悲しみ涙ぐむ光景が映し出された。

 もしも我が国に於いて歴史的建造物文化遺産が同様の火災に遭ったとして、これ程の国民が涙するであろうか?? それはあり得ない、と結論付けてもバッシング被害を受けないとも想像するが。

 この国民間落差は何なのか?
 その一つは、仏ノートルダム寺院の場合人口が多い首都であるパリにて発生した火災である故だろう。
 そうだとしてもやはり、パリ市民が文化遺産歴史的建造物に普段から慣れ親しんでいる、その歴史文化的環境こそが市民の行動を煽るのだろうと想像する。

 私が現在住む大都会「東京」で、もしも同様の価値ある文化遺産が大火災に遭ったとして。(そんな価値ある建造物があるかどうかを今更調べる気にもならないが…)
 それに“涙する”都民が一体全体存在するのかに関しても疑わしくもある。


 この仏ノートルダム寺院大火災を受け、フランスのマクロン首相は「必ずやこの大聖堂を再建する!」」なる声明を本日力強く発表している。
 上記ネット情報によれば、現地消防士たちの最大限の活躍により、聖遺物などの貴重な文化財を無事運び出すことにも成功しているとの事ではないか!

 この私も、現在の歴史的建造物再建の最新科学テクノロジーにより、必ずや近い未来に仏ノートルダム寺院は再建されると信じている。

 パリ市民達よ、本日不幸にも発生したこの悪夢にめげず、ノートルダム寺院再建に向けて頑張れ!!