原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

学者になれずとも学業を活かして生きる道はある

2019年04月18日 | 自己実現
 本エッセイ集 2015.04.29公開のバックナンバーに「原左都子が水面下で学者を目指していた裏話」と題するエッセイが存在する。

 当該エッセイの一部を以下に要約再掲載させていただこう。
 
 我が若かりし20代の頃、社会学者 上野千鶴子氏の一ファンであったことは当エッセイ集バックナンバーに於いて幾度か記載している。
 現在に至っては、上野氏のご活躍の程に直に触れるのは朝日新聞「悩みのるつぼ」のみなのだが、この新聞コラムを拝見する都度、(僭越ながらも)氏のご回答と原左都子の私論が一致する現象を実感させて頂いている。 何と言っても、上野千鶴子氏の相談者に対する“ズバッと繰り出す直言(苦言も含めて)”が痛快だ!  
 私が上野千鶴子氏のファンになったのは、遠い昔の我が20代後半期であるが、当時の私は既に結婚願望がさほど抱けないまま、医学関連企業内での日々の昼休み中に朝日新聞をむさぼるように読み込んでいた。
 おそらく当時の上野氏とは、氏の一番最初の就職先である地方短大の講師をされていた頃だったのではあるまいか?  その時代に上野氏が朝日新聞紙上で展開された持論(今となっては内容を記憶していないが)に大いに触発された私である。  その頃とは、我が国のメディア上で“女性学者”の意見が取り上げられ始めた創世期だったように記憶している。
 当時の私は所属していた医学関連企業を退職する事を視野に入れ、虎視眈々と次なる活動を開始し始めていた。 そんな我が行動に大いなる影響を与えてくれたのは、おそらく上野千鶴子氏を筆頭とする若き女性学者達が“世に意見申せる”立場に昇格していた事実である。 
 そして私は20代後半期にして今後の我が身の振り方を熟慮した。 ここは私も一つの選択肢として「学者」を視野に入れた将来を見つめようではないか!  私が30歳間際にして学問分野を180°方向転換したいきさつとして、そのような漠然とした背景事情も存在したものだ。
 実際その後、私は30代後半にして大学院修士課程修了直前の秋頃、新聞広告に頼り某私立短期大学専任講師一般公募に応募して、書類選考段階で即刻落とされる運命を経験した。
 ところが当時の現実を語るならば、大学教官になりたい場合(たとえその立場が講師であろうと)自分が所属する大学院ゼミ教官氏の縁故に頼るのが常識だったのだ。 その事を露知らなかった訳ではないのだが、偶然他ゼミ生の女子学生が教授の縁故に頼り某私立短大の講師に採用“されそうになった”と言う。 その内部実態を彼女から聞きて私は驚いた。 何と、専任講師とは言えども結局は“言っちゃ悪いが”某無名私立短大教授の秘書役。 週に2時間程しか授業をもたせてもらえず、その内容もまったく専門外の「秘書論」との事だ。 しかもその報酬とは年俸たったの300万円程也との薄給たる始末!
 勘弁してよ! との事実だが、要するに国公立大学院出身者と言えどもそれが天下の“東大京大”でもない限り、他大学(短大)にて学者を目指そうとてこれが日本国内の貧弱な実態だったのだろう。
 結果として、当時既に公立(夜間定時制)高校教員を務めていた私の年収が、名も無き短大にて講師をする事の“倍以上”だったため、何の迷いもなくそれを続行する道を選択した。
 話題を上野千鶴子氏に戻すと、その後の上野氏のご活躍の程が素晴らしい。 
 確かに、1980年頃の上野千鶴子氏の所属大学が“無名”だった事実を私も記憶しているが、京都大学・大学院ご出身の世に名を売られている学者氏にしては、所属大学の名を聞いた事すらないなあ… なる感想を描いた記憶がある。 上野氏はその後のメディア上でのご活躍による“売名”により、東大助教授及び大学院教授の立場で招かれたと記憶している。 残念ながらその後の上野氏の学者としての業績の程を、さほど認識していない私だが。
 そうだとしても、上野千鶴子氏はやはり素晴らしい。 恵まれた実家に生まれ出ていながら、こと就職に当たってはご自身のポリシーで積極的に動かれた事が実に素晴らしい。 元を辿れば、それ程のポリシーと行動力を京都大学・大学院時代に培われていた事実こそが圧巻だ。 そんな勢いがあられたからこそ、上野千鶴子氏とは自分自身の力で学者としてのスタートラインである最初の大学に出逢われたのであろう。
 人々の成功とは、偶然彼方からやって来るものではあり得ない。 本人が本気で努力した結果の賜物であることに間違いない。
 そういう意味では原左都子の場合「学者」になりたいと一時脳裏に浮かんだとは言えども、今振り返ってみても、その夢を本気で描いていたとは到底思えない。 そんな中途半端な事実こそを反省材料として、ここはあくまでも我が過去に於ける「学者」との夢物語をこっそり“水面下”で語らせて頂くに留めておこう。
 (以上、長くなったが「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を再掲載したもの。)


 話題を変えよう。

 昨日2019.04.18付朝日新聞朝刊内に「気鋭の研究者 努力の果てに」と題する記事があった。

 少しだけ、要約引用するならば。
 大きな研究成果を上げて将来を期待されながら、自ら命を絶った女性がいる。
 N氏、2016.02.02死去。 東北大で日本思想史を学び、04年に博士(文学)を取得。都内の実家に戻り両親と同居しながら研究に打ち込んだ。 翌日本学術振興会特別研究員に選ばれ、月額45万円の研究奨励金を支給されつつ、年に論文2本、学会発表本のノルマを自らに課した。 08年、初の著書を出版し高評価された。 だが、特別研究員の任期は3年間。 その後は経済的に苦しい日が続いた。
 そんな中、研究職に就く事を望み20以上の大学に応募した。 不採用の理由は明かされなかった。
 その後、「結婚する!」と両親に告げネットにて知り合った一回り年上の男性と同居を始めたものの、結婚生活は半年ももたず破綻。 自らを責めつつも、離婚届を提出したその夜、自死した。
 (以下略すが、以上朝日新聞記事より引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 当該女性が自死されている事態に関しては、ご冥福をお祈りする。

 ただ、20代前半期に郷里を捨て親を捨て上京後自らの経済力のみでこの世を渡って来た原左都子にとっては、何とも“弱き女性”とのイメージしか抱けない…

 そんな“弱き女性”が是が非でも「学者」を目指していたのならば、何故東北大学博士課程時代に担当教官にその旨を嘆願し、その“コネ力”を頼るとの指導を仰がなかったのだろう??

 更に厳しい指摘だが、この女性、自ら経済力を身に付けるすべを知らずしてこの世を渡ってしまっている事態が墓穴を掘っているとも推察する。
 何故、学者(研究者)を目指している立場にして、(失礼だが経済力の程が不明な)親元になど舞い戻ったのだろう?
 日本学術振興会の特別補助金に頼るのもいいが、わずか3年間で途絶えるそんな資金をあてにしつつの研究者生活の先は見えていたはずだ。
 しかも、安定した職業に恵まれない暁に“ネット”にて知り合った病気持ち男性と結婚に至るとはどうしたことか!
 そして行き着いた果てが、「自死」……

 なんとまあ、朝日新聞もこんな“世界で一番生き様を誤りつつ元研究者を目指した女性の自死”話題を取り上げたものだ。(当該女性やご家族にとって大変失礼な記述であることは重々お詫び申し上げます…。)

 その上で、表題に戻ろう。

 実際問題、「学者」を目指しそれが叶わずとも、自分の専門を活かしつつ人が生きる道は如何程も存在すると私は判断する。
 (無料奉仕でよければ)ブログとの媒体とて、自身の思想や実績を公開するまたとはない場ではなかろうか?
 
 だって、見てごらん。
 学者を退職した後の元学者のみすぼらしさを! (こういうことを平然と書くから、私ってバッシングされるのよねえ。)

 いえいえ、そんなことはあり得ません。
 私が過去に2度に及ぶ大学・大学院にてお世話になった恩師先生(医学部の故N先生、及び“文化勲章・秋の叙勲ご受章”の経営法学部門のY先生)より、その後もずっと長年に渡りプラスの恩恵を頂戴し続けておりますこと、誠に感謝申し上げる次第です。