九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

掌編小説  日本精神エレジー  文科系

2021年04月27日 09時49分05秒 | 文芸作品

この小説は何度目かの掲載ですが、また載せます。

 
「貴方、またー? 伊都国から邪馬台国への道筋だとか、倭の五王だとか・・・」
 連れ合いのこんな苦情も聞き流して、定年退職後五年ほどの彼、大和朝廷の淵源調べに余念がない。目下の大変な趣味なのだ。梅の花びらが風に流れてくる、広縁の日だまりの中で、いっぱいに資料を広げている真っ最中。
「そんな暇があったら、買い物ぐらいしてきてよ。外食ばっかりするくせにそんなことばっかりやってて」
「まぁそう言うな。俺やお前のルーツ探しなんだよ。農耕民族らしくもうちょっとおっとり構えて、和を持って尊しとなすというようにお願いしたいもんだな」

 この男性の趣味、一寸前まではもう少し下った時代が対象だった。源氏系統の家系図調べに血道を上げていたのだ。初老期に入った男などがよくやるいわゆる先祖調べというやつである。そんな頃のある時には、夫婦でこんな会話が交わされていたものだった。
男「 源氏は質実剛健でいい。平氏はどうもなよなよしていて、いかん」
対してつれあいさん、「質実剛健って、粗野とも言えるでしょう。なよなよしてるって、私たちと違って繊細で上品ということかも知れない。一郎のが貴方よりはるかに清潔だから、貴方も清潔にしてないと、孫に嫌われるわよ」
 こんな夫に業を煮やした奥さん、ある日、下調べを首尾良く終えて、一計を案じた。
「一郎の奥さんの家系を教えてもらったんだけど、どうも平氏らしいわよ」
男「いやいやDNAは男で伝わるから、全く問題はない。『世界にも得難い天皇制』は男で繋がっとるんだ。何にも知らん奴だな」
妻「どうせ先祖のあっちこっちで、源氏も平氏もごちゃごちゃになったに決まってるわよ。孫たちには男性の一郎のが大事だってことにも、昔みたいにはならないしさ」
 こんな日、一応の反論を男は試みてはみたものの、彼の『研究』がいつしか大和朝廷関連へと移って行ったという出来事があったのだった。

 広縁に桜の花びらが流れてくるころのある日曜日、この夫婦の会話はこんな風に変わった。
「馬鹿ねー、南方系でも、北方系でも、どうせ先祖は同じだわよ」
「お前こそ、馬鹿言え。ポリネシアとモンゴルは全く違うぞ。小錦と朝青龍のようなもんだ。小錦のがおっとりしとるかな。朝青龍はやっぱり騎馬民族だな。ちょっと猛々しい所がある。やっぱり、伝統と習慣というやつなんだな」
「おっとりしたモンゴルさんも、ポリネシアさんで猛々しい方もいらっしゃるでしょう。猛々しいとか、おっとりしたとかが何を指すのかも難しいし、きちんと定義してもそれと違う面も一緒に持ってるという人もいっぱいいるわよ。二重人格なんてのもあるしさ」
 ところでこの日は仲裁者がいた。長男の一郎である。読んでいた新聞を脇にずらして、おだやかに口を挟む。
一郎「母さんが正しいと思うな。そもそもなんで、南方、北方と分けた時点から始めるの」
男「自分にどんな『伝統や習慣』が植え付けられているかはやっぱり大事だろう。自分探しというやつだ」
一郎「世界の現世人類すべての先祖は、同じアフリカの一人の女性だという学説が有力みたいだよ。ミトコンドリアDNAの分析なんだけど、仮にイブという名前をつけておくと、このイブさんは二十万年から十二万年ほど前にサハラ以南の東アフリカで生まれた人らしい。まーアダムのお相手イヴとかイザナギの奥さんイザナミみたいなもんかな。自分探しやるなら、そこぐらいから初めて欲しいな」
男「えーっつ、たった一人の女? そのイブ・・、さんって、一体どんな人だったのかね?」
一郎「二本脚で歩いて、手を使ってみんなで一緒に働いてて、そこから言語を持つことができて、ちょっと心のようなものがあったと、まぁそんなところかな」
男、「心のようなもんってどんなもんよ?」
一郎「昔のことをちょっと思い出して、ぼんやりとかも知れないけどそれを振り返ることができて、それを将来に生かすのね。ネアンデルタール人とは別種だけど、生きていた時代が重なっているネアンデルタール人のように、仲間が死んだら悲しくって、葬式もやったかも知れない。家族愛もあっただろうね。右手が子どもほどに萎縮したままで四十歳まで生きたネアンデルタール人の化石もイラクから出たからね。こういう人が当時の平均年齢より長く生きられた。家族愛があったという証拠になるんだってさ」
妻「源氏だとか平氏だとか、農耕民族対狩猟民族だとか、南方系と北方系だとか、男はホントに自分の敵を探し出してきてはケンカするのが好きなんだから。イブさんが泣くわよホントに!」
男「そんな話は女が世間を知らんから言うことだ。『一歩家を出れば、男には七人の敵』、この厳しい国際情勢じゃ、誰が味方で誰が敵かをきちんと見極めんと、孫たちが生き残ってはいけんのだ。そもそも俺はなー、遺言を残すつもりで勉強しとるのに、女が横からごちゃごちゃ言うな。親心も分からん奴だ!」

 それから一ヶ月ほどたったある日曜日、一郎がふらりと訪ねてきた。いそいそと出された茶などを三人で啜りながら、意を決した感じで話を切り出す。二人っきりの兄妹のもう一方の話を始めた。
「ハナコに頼まれたんだけどさー、付き合ってる男性がいてさー、結婚したいんだって。大学時代の同級生なんだけど、ブラジルからの留学生だった人。どう思う?」
男「ブ、ブラジルっ!! 二世か三世かっ!?!」
一郎「いや、日系じゃないみたい」
男「そ、そんなのっつ、まったくだめだ、許せるはずがない!」
一郎「やっぱりねー。ハナコは諦めないと言ってたよ。絶縁ってことになるのかな」
妻「そんなこと言わずに、一度会ってみましょうよ。あちらの人にもいい人も多いにちがいないし」
男「アメリカから独立しとるとも言えんようなあんな国民、負け犬根性に決まっとる。留学生ならアメリカかぶれかも知れん。美意識も倫理観もこっちと合うわけがないっ!!」
妻「あっちは黒人とかインディオ系とかメスティーソとかいろいろいらっしゃるでしょう?どういう方?」
一郎「全くポルトガル系みたいだよ。すると父さんの嫌いな、白人、狩猟民族ということだし。やっぱり、まぁ難しいのかなぁ」
妻「私は本人さえ良い人なら、気にしないようにできると思うけど」
一郎「難しいもんだねぇ。二本脚で歩く人類は皆兄弟とは行かんもんかな。日本精神なんて、二本脚精神に宗旨替えすればいいんだよ。言いたくはないけど、天皇大好きもどうかと思ってたんだ」
男「馬鹿もんっ!!日本に生まれた恩恵だけ受けといて、勝手なことを言うな。天皇制否定もおかしい。神道への冒涜にもなるはずだ。マホメットを冒涜したデンマークの新聞は悪いに決まっとる!」
一郎「ドイツのウェルト紙だったかな『西洋では風刺が許されていて、冒涜する権利もある』と言った新聞。これは犯罪とはいえない道徳の問題と言ってるということね。ましてや税金使った一つの制度としての天皇制を否定するのは、誰にでも言えなきゃおかしいよ。国権の主権者が政治思想を表明するという自由の問題ね」
妻「私はその方にお会いしたいわ。今日の所はハナコにそう言っといて。会いもしないなんて、やっぱりイブさんが泣くわよねぇ」 
男「お前がそいつに会うことも、全く許さん! 全くどいつもこいつも、世界を知らんわ、親心が分からんわ、世の中一体どうなっとるんだ!!」
と、男は一升瓶を持ち出してコップになみなみと注ぐと、ぐいっと一杯一気に飲み干すのだった。


(当ブログ06年4月7日に初出。そのちょっと前に所属同人誌に載せたもの)
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随筆 日本人男女  文科系

2021年04月13日 12時00分38秒 | 文芸作品
 

 同人誌仲間のHさんがある日僕に言う。「脚が軽くなったねと、夫に驚かれたよ!」。そう言えば、傍らを歩いている八〇近いこの女性、歩き方がこれまでとはだいぶ違うと、既に僕の目が感じていた。ベターッとした歩き方が消えて、どういうか、腿が上がって足が利き、そもそも歩幅が大きくなっている。「片足つま先立ち・脚裏ストレッチなんかもやってきたんだよね!」、目を輝かせて続ける。二か月前の月例会後だったかに皆でいろいろ話し合っていた下半身強化法を早速実践してみた成果というわけだ。昔痛めた腰のせいでくの字型を右に倒したような彼女には特にこれが不可欠だよとは、そこで皆が述べたこと。ちなみに、「腰の怪我・前曲がり」は僕の母のトレードマーク。明治生まれで二一世紀に入って亡くなった彼女は、脳内出血で倒れるまで下半身強化には励んでいた。

 ここ一〇年ほど、僕は三つの人間集団に関わってきた。そこでつくづく感じたことなのだが、日本人高齢男女の生活差違はことの外大きい。この事で最初に目を見張ったのは、僕の壮年期に父母と同居して観察できたこと。二人とも職業人という当時は珍しいカップルだっただけに、感得できたことのようだ。
 僕の父は、老後が即余生だった。一言で言えば、一人で居るときに熱中できるものがなく、こういう人は早く老いて早く死ぬ。好きなテレビ番組を観ていても、ドラマの途中で眠っているというように早くからなっていたし。他方母の方は、同じ職業人を通しながら、退職後を一言で言えば文化活動に費やした。その内容は、身体のケアと、三味線、俳句である。身体のケアは体操グループを作り、日常では一日八〇〇〇歩が目標。三味線は師匠について八〇歳直前まで発表会に出ていたし、俳句はよくNHKで入選した。

 さて、この父母を基準として僕が属する三グループの人々を区分けしてみると、同じことに気付く。同人誌は僕以外は女性グループだし、高校同級生飲み会は逆に一人を除いては七人の男グループだった。そして、ギターのグループは男女ほぼ半々である、そこで観た男の文化度を中心に、ちょっと箇条書きしてみよう。
一、飲み会の男たちは一般に父に似ているが、父よりもやや文化度が高い。その内容は身体のケア志向が第一で、芸術も含めたいわゆる文化系はとても弱い。
二、ギターグループの男たちは、文武両道が多い。今の日本ではかなり珍しい男性集団と思うが、ギターという文化系の男が身体ケアにも熱心なことが興味深い。
三、さて、同人誌の女性たちだが、これも見事にバランスが取れていて、面白いのである。
 六五前後から八〇歳過ぎまでの同人誌女性のほとんどがこの三年ほどで順にパソコンを覚えた。文字入力だけの方もいらっしゃるが、一人を除いて全員である。七十代半ばのある女性がパソコンを買い込んで先陣を切ったのを機に、吾も吾もとばかりのことだった。そして、この先端女性こそ、作品冒頭のお方なのである。こういう女性群に較べると、高齢男性には「一念発起」ということが圧倒的に少ない。なぜかと訝っていたら、二つの事に思い至った。難しい言い方だがこうだ。一つは、文化系でしか扱えないものに対する感性の不足。今一つは、これの裏面として、目に見え手で触れるような物事にしか興味を持てないこと。要するに今後はオタクも増えるだろうというような、歪んだリアリズム。

(2017年3月発行の同人誌に初出)

 
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随筆 庭の桜を切るー終活   文科系

2021年04月13日 11時54分16秒 | 文芸作品
 晩年の両親の家に次男の僕が入って、三〇年。そこには母の好みの花木を中心とした一五〇㎡ほどの庭がある。現役の時はもちろん母親に、母親が亡くなってからも連れ合いに任せっきりで、僕の出番は大きな木を切るなどの力仕事の時だけ。が、停年後は年々、庭に出て行く機会が増えている。そんな僕に十年ほど前から、ある悩みが生まれた。庭で一番大きなしだれ桜を切らねばならぬだろうというものだ。こんな名古屋の中心部に近い小さな庭にサクラって母もよく植えたものと人は言うだろうが、この家は築五七年、しかも僕がここに入ったころでさえ隣近所はもっとまばらで平家ばかり。僕の新家が無かった庭そのものもずっと広かった。それが今は高い家に四方を囲まれた猫の額にこの大木! 一重の素朴な白い花に心持ち灰色もかって、薄墨桜ってこんなだろうかと想像したりしてきたお気に入りであった。おまけに、僕はこの木を生き返らせた体験まで持っていた。母の「桜切るバカ」が過ぎて半分枯れかけ花もほとんど咲かなかったこの桜を、引っ越してきたばかりの僕が復活させたのである。腐った幹の空洞に樹木補強材を詰め、なぜか土の上に出てきた太い根っこには土をかぶせて、肥料もいっぱいやって。そんな手当の甲斐あって、年々花も増え、深く重なった花の塊はいっそう薄墨桜の趣を見せてくれた。

 さて、「四方を囲まれた猫の額のこの大木」を切ろうと決められたのは、僕の終活の一つと決めたからである。そう決めたからこそ、こんな辛い仕事を自分自身でやり切ることができたのだ。これを遺されたこどもらは一体どう処理できるのか。クレーンだとかなんだとかお金もさぞかかるだろう。僕ならば・・・と思い立った。自分が木に登って、大きな枝の先の方から切っていった。太い枝を上から順に切り落とす時はロープを縛り付けておいてやがて少しずつ下ろしていく。最後に残った幹を切る時も運べる重さを見計らって上から順にという運びだ。これら全てをチェーンソーも工面せずにあえて普通の鋸でやった。「俺も後から逝くのだからな。それに、今を逃がすともう俺の手ではできなくなるのだから」とつぶやきながら、涙も出てきた作業になった。

 さて、この桜がなくなって五年になるのだが、その西隣にあった一株から五本立ちのキンモクセイがみるみる内に伸びてきた。成長が遅いはずのこの木が今はもう桜に負けないような高さにまで伸びている。この固い葉っぱがあまりに繁るからというわけでその五本の内二本を去年までの二年で順に間引いてきたのだが、そこにある日、驚きの光景を目にすることになった。今年四年生になったばかりの女の孫ハーちゃんが、二本の切株に順に足を掛けて去年間引いた木のすき間をぬって、五mほどの高さにまでよじ登っていたのだ。五歳になる弟が僕を呼びに来たから分かったことだが、このセイちゃんまでが僕の目の前でするすると上っていったその光景! ちなみに、ハーちゃんは赤ちゃんの時からこの庭で育ったようなもの。だからこそ、ダンゴ虫はもちろん、ミミズでも平気でつまめる子に育っている。その彼女が、僕と庭を観ている最近こうつぶやいたことがあるのをすぐに思いだしたものだ。「あそこの木の間の石が並べてある回り道、よくくぐっていったよねー・・・、セイちゃんにもいー思いで作って上げてよ!」。そう、セイちゃんにもそれができたに違いない。幼いハーちゃんが春にくぐった桜とキンモクセイの間を通る道の、その真上に二人が今上っている。

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随筆紹介  一人暮らしの老い   文科系

2021年04月05日 12時27分14秒 | 文芸作品

 随筆紹介  一人暮らしの老い   H・Tさんの作品です
                     

〝あっ、またやった、どうしてこんな事を〟、いらいらしながら冷蔵庫の前で声を上げた。扉は開いたまま、中の物は水をぶっかけたようになっている。こんな事も、二度三度だ。気をつけているのに・・・。ガスでなくてよかったと言いながら、落ち込む。ここへ何を取りに来たのかわからない時もたびたび。窓の閉め忘れも、電気の消し忘れも、気をつけているのに・・・。昨日は洗濯物の取り入れを忘れ、夜中に・・・。それは、部屋にぶら下げて干した。
 毎朝の味噌汁の時も、味噌の味が予定と違いすぎていて、時々驚く。こんなことは、まったくなかったのに。
〝人は長く生きると、老いという罰を受ける〟という、これは罰だろうか?

 私は今年九十歳になった、子どもも居ないずーっと一人暮らし。何の努力もしないのに、気がつけば白寿の老人。
〝私もいずれは老いるだろう。老いの経験は誰も無いのだ。それぞれに老いて、生きている。だから・・・〟、若い時はそう思っていた。が、現実はそんな想像をはるかに超えて、とんでもないもの。

 また、〝老いは足から〟というが、足が弱れば、体力だけでなく気力、思考力、すべてが衰える事に気づく。ペンを取れば、文字の忘れ、語句が出てこない・・・。今ではこれもパソコンなど機械化が進み、おどろく程便利になったというが、使うのは私たち人間であって、老いとともに手が出なくて・・・。調理も便利になって、スイッチ・ポンで煮たり焼いたりどんな料理も手間いらずというが、不安で、私は使えない。

 もの忘れ、思い違いもなんと多いことか。失せ物探しに時間のかかること。メモをと人は言うが、メモを見てもわからん事があったりして、さらに深く落ち込む。外出をと思えば、杖は、老人手帳は、眼鏡は、財布はとうろうろ、うろうろ。予定通りに出られたことなどないのである。これが長命の罰だろうか。

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随筆紹介  森じいさんの言語録   文科系

2021年03月25日 08時45分43秒 | 文芸作品

   森じいさんの言語録    H・Sさんの作品です                                               
                                     

「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる・・・」この発言で女性蔑視だと国民から非難を受けた森喜朗じいさん。この発言を聞いた時(またやったかー。じいさん。こりないなあ)と言うのが私の素直な思いだった。その瞬間、私がすぐ思いつくだけでも国民蔑視、女性蔑視発言を六つも並べることが出来る。
一、IT革命を、「イット革命」。二、「無党派層は選挙に関心がないといって寝てしまってくれればいい」。三、えひめ丸事件。水産高校の実習船がアメリカの原子力潜水艦に衝突され沈没。高校生九名が犠牲になった日、ゴルフ場にいて知らせを聞いた後もプレイを続け「私が官邸に行かないことで何が遅れたのか」。四、「女の人だなあ、やっぱり視野が狭いなあと思った」。五、「子供を一人も作らない女性が好き勝手に自由を謳歌して楽しんで、年をとって税金で面倒を見なさいと言うのは、ほんとうはおかしい」。六、「あの子(浅田真央選手)、大事な時には必ず転ぶんですね」。この発言には「私は別に何とも思っていないですけど、森さんが今少し後悔しているのではないかな」と、練習の結果が出せなくて一番悔しく辛い思いをしていたはずの真央ちゃんが言い返した。いくつもの仰天発言に対して一矢報いたのは真央ちゃんだけ、これらの発言に新聞への投書は見かけたが、真正面から異議を唱えた人はいない。今回は、前述の発言で話が長いと標的にされた女性が、「私の事です」と、本名で名乗り出た。これも世論を動かしたようだ。一応、文化国家と見られている日本国だ。この様な国の在り方は、女性蔑視発言に始まり、国民蔑視の発言を許容してきた社会、政治構造に問題があると世界はこの国を見たことだろう。この放言で国際的な批判の嵐が起こり、やむなく辞任に至った。と言うのが森じいさんの本音だろう。

 去り際もいじましかった。じいさんは、「辞める」といえば引き止めてくれるのは、誰なのか見定めた様子だ。予測通り多くの委員がじいさんの留任を認め、居直りを許した。世論は、国際的非難を支持。じいさんに味方する人はいなかった。二転、三転。辞任が決定。後任の会長職を自分の息のかかった人に渡したく、ご指名。指名された本人もやる気だったが、さすがに周りの批判状況を見て、これはまずいと思ったのか急ぎ辞退に至った。

 森じいさんが率いたスポーツ業界は、誰もじいさんに逆らえないのだ。「物言えば唇寒し秋の風」の萎縮ムードを日本のスポーツ界に感じていると、記者が綴っていた。本人が「辞める」と言った時がチャンス。頼み込んで居座りを許してしまう。何とも解せない不思議な国だ。こういうやり方が世界に知れ渡る。恥ずかしいことだ。怪我の功名で女性役員を増やして体制を立て直してオリンピックに臨むのだと言う。コロナ禍が終わりもしないうちにオリンピックの予定日が来てしまう。これでいいのか? 国が疲弊するぞー。
「オリンピックなんかやめてしまえー」。私は毎日そう叫んでいる。

 

(文科系の所属同人誌、月例冊子3月号から)

 

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随筆紹介  婆孝行   文科系

2021年03月25日 08時41分58秒 | 文芸作品

  婆孝行       K・Kさんの作品です                                                                 

 ひょんなことから、中学一年の孫娘と古希の私との夢のコラボが実現した。孫娘は中学でソフトテニス部に入ったが、コロナ禍で練習もほとんど出来ない。
 そこで、土曜日に私が地元で楽しんでいる、ソフトテニスクラブの練習日に孫娘を誘ってみた。意外にも「行ってみようかな」と応えた。思春期で祖母と一緒のテニスは嫌がると思ったのだが。

 六〇歳代の仲間たちと、フォア、バックの一本打ちからボレー、スマッシュ、サーブ、レシーブのメニューに見よう見まねで何とかついてくる。練習試合になると「お孫さんとペアで組んだら? 孫と組むなんて夢のコラボだね」と仲間たちが勧める。
 孫娘はまだサーブの練習を始めたばかりで試合形式も初めてのこと。ルールもしっかり分からないがとりあえずスタート。一五〇センチの私が後衛で走り回り、一六五センチの孫娘は前衛で立つ。たまたまボールに反応してポイントをとると笑顔でハイタッチ。

 ママさんになってから始めたソフトテニスも三〇年。この頃は体力が衰えていつ辞めようかと考えていた。だが、孫娘と一緒に楽しめる時が来るとは思ってもみなかった。続けていて良かった。「何時でも遊びに来てね」、仲間たちの言葉に感謝だ。

 

(文科系の所属同人誌、月例冊子3月号に掲載。)

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 随筆 クラシックギター「大聖堂 第三楽章」  文科系

2021年03月08日 14時31分56秒 | 文芸作品

 また標記のことを書く気になった。僕の停年後に始まって18年目になる教室通いクラシックギターの随想をここに書いて、この「大聖堂」はもう何回目になるだろうか。ソルのエチュード・セゴビア編集20曲集の第17番と並んで執着し続けてきた僕の腕には余る難曲。何回もレッスンに上げてきた曲だから、ここで何回も随想してきたことになる。好きで毎月弾いてきてほぼ暗譜している暗譜群曲が20数曲ある僕なのだが、この2曲が、同じバリオスの「郷愁のショーロ」やバッハの998プレリュード、タレガの数曲などと並んで特に好きなのだ。ただ、この大聖堂はもう二曲「魔笛の変奏曲」、トレモロの「アルハンブラ」とともに、上記の他の曲とは違って発表会では弾くことができない曲のままであり続けてきた。いつまでたっても、どれだけ弾き込んできても、僕の手に余りすぎたままなのである。特にこの第三楽章が僕には難物なのだ。それも、過去今まで3回はレッスン曲に挙げてきたのに、物になりそうだとも感じられなかったのである。長いレッスン期間では、この第三楽章だけで四か月という時もあったというのに。

 さて、この第三楽章が難しいというのは、どういうことなのだろうかと、いつも考えてみる。スラーがあちこちに入った速いアルペジオやスケールの中から、旋律やアクセントを浮かび上がらせる曲の作り自身が難しい。そのアクセントをまた、右手で最も弱い薬指で弾くことが多いのだし。加えてこんなこともある。ギターという楽器が速い曲を苦手とするのは、ピアノと違って左手で音程を作らなければならないからだが、こういう左指のスピードが、60過ぎの停年後手習いの身には特に難物になる。
 これにまた、最初にこの曲を覚えた時に身につけてしまった悪癖、拙い右指使いが輪を掛けていて、これを直すのにこれまでも、そして今でもなお、四苦八苦しているのである。時には、右手全体が躍っていると先生に指摘されることもある。この癖がまた、出たり出なかったりで、その原因も最近になってやっと分かって来たかというところ。

 早朝の大聖堂の清澄に、一人出掛けて浸りきっているような第一楽章。やがて、おごそかなミサが始まって、その次第に乗っ取って進んでいくような第2楽章。第3楽章は打って変わって、散開した人々が行き交う市場の風景なのでもあろうか。ここの鳴らすところをちゃんと鳴らしつつリズムに乗って軽快に弾けていったら、どんなに気持ち良かろうにといつも思うのだが到底そうはいかず、正規の速さ近くで弾くならば雑音混じりでゴツゴツ、かつ、つかえつかえが直らない。それでも、前回三回目のレッスン上げでスピードを落とせば何とか聴けるかというところまできたから、今また、もっとやれそうな気になっているのである。まー、こんな速さをどこも痛めずに弾き続けていられる僕は幸せな80歳とは言えるのかも知れないが。

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僕の「人生と死生観」  文科系

2021年02月01日 14時09分44秒 | 文芸作品

 僕は、「あの世」、つまり死後の僕が存在しこれが行くべき世界があるとは考えていない。僕の肉体とともに僕の心も死滅し、死後の魂は存在しないと考えるからだ。ちなみに、肉体を離れてその心が存在すれば、この世以外の心の来し方、行く末が存在することになり、それがこの世ならぬ神(の世界)なのだとなる理屈だろう。と語ると、昔からすかさずこんな反論が返ってくるもの。
「ということは、牛飲馬食だけで、罪や愛は存在しないと?」
 これに対してはこう答えることにしてある。「飲食は大事だが、例えば、罪や愛はもちろん、真善美なども存在する」と。これを言い換えればこういうことか。人生に予め決まった目的などはないが、これまで生きてきた人々は皆それぞれ何かを求めてきて、そういう人々の生活、歴史の中には、真善美、あるいは偽悪醜と言えるようなものは存在してきたと。その上で自分自身は、前者寄りに生きたいと考えてきた。

 この真善美に関わって、話は変わるが、三つの学問(対象)がある。例えば日本の旧帝大学制などではこれを自然、社会、人文と分けて、三種の科学の名を冠してきた。自然科学は自然とその応用の学問、社会科学は経済、政治など人間社会の学問、人文科学は哲学、歴史学、文学など人間文化を研究対象とする学問というように。そして、善や美は、直接扱う学問がそれぞれ倫理学、美学であるにしても、医師の倫理とか社会的正義つまり公正とか、全ての学問に不可分なものと言えるだろう。

 さて、以上を理論的前提とした僕の死生観だが、上のように生と死を観ているから現生をこう生きてきたし、今後もそうしていく積もりだ。

 活動年齢を延ばし、できるだけ長くしなやかな身体でありたいという目的を含めて生涯スポーツを意識したのは48歳の頃だった。これは今、「八十路ランナーの手記」や100キロサイクリングという形で続いている。この二つの関係は、こういうものだ。若い頃からサイクリングをしていたから、59歳にして容易にランナーになれたと。ちなみに、(長距離)サイクリングは最高の有酸素運動スポーツである。

 楽器をやろうとも若い頃から準備していたのだが、これが2003年からのクラシックギター教室通いになっている。そして定年を意識した55歳頃、文章を仕入れようと考えてある同人誌に加わり、小説、随筆などを学び始めた。これも現在継続しているわけだが、この同人誌執筆活動が2006年以来のこのブログ参加にも役に立つことになっていく。ちなみに、同人誌やブログでは、僕なりにこの日本社会に関わっているつもりだ。また、このグローバル時代には日本だけ観ていても良い政治にはならないと考えてきて、特にアメリカの国連無視悪政を批判してきた。ここ20年の日本政治は、アメリカの経済的・軍事的暴力政策への追随が酷すぎると考えている。

 なお、ギターやスポーツに込めた僕の思い(人生目的と言っても良いような思い)などは、ここまで各一回ここに書いてきたとおりである。

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随筆 僕の「人生と芸術」  文科系

2021年01月29日 09時42分14秒 | 文芸作品

 大金持ちが有り余った金をその余生などにおいて芸術に費やし続けてきたという話は多い。「○○美術館」と個人の名前を冠したものがいかに多いかとか、名古屋の「宗次ホール」のように弦楽器の世界的名器を山のように揃えて若手有望芸術家に貸与してきたとか。昔に遡れば、信長、秀吉らがある茶道具と城一つとを取り替えたとかの話もある。音楽の歴史をもっと古くまで遡れば、音楽が宗教の世界のものだったとか、仏教の「音声菩薩(おんじょうぼさつ)」とかにも辿っていける。これらは、大金持ちが人生の喜びをそういう芸術、美に発見し、求めてきたということだろう。僕はこのことを、ある宗教に財産をつぎ込むのとちょっと似ていると、いつも推論してきた。つまり、自分の人生を何に懸けうるかという、死生観の話にもなっていくのだと。

 さて、彼ら大金持ちの芸術はもちろん、鑑賞者のそれだろう。が、その芸術を行う者の楽しみはどうなのか。鑑賞者よりもはるかに楽しいのではないかと思われるが、などと歴史を見つめてみた。「素晴らしい旋律が夢のように湧き出てきた」と語られるシューベルトは、栄養失調に近い状態のうちに30歳ちょっとで亡くなっている。まるで、そういう多くの作曲と親しい人との演奏に開け暮らして、命を縮めたというようにも見える。生前一枚の絵も売れなかったといわれるゴッホは、まさに炎のように色彩豊かな絵をほとばしりだした。自殺したのだから人生が楽しかったかどうかは分からないが、絵画に懸けたその情熱が凄まじいものだったことだけは、誰もが認めるものだろう。
 
 とこんなことを考えて僕は、晩年の生きがいの一つに音楽、楽器演奏を選んだ。小中学校に7年ほどバイオリンを習っていたから迷ったのだが、独学で拙く弾いていたクラシックギターの方を改めて50歳代から復活させ、停年後に先生についた。それからもう18年目に入り、近年は年とともに下手になっていくように思われるが、それでも毎年の発表会には出続けている。
 ちなみに、ギターは「楽器の王様」とも言われるピアノと兄弟のような和音楽器であって、単音楽器よりも楽しみが深いのである。単音楽器の和音がアルペジオ奏法(フルートで奏でる変奏曲、例えば「アルルの女」を思い出していただきたい。ギター教則本の初めにあるアルペジオ練習だけでも、とても楽しいのだが)しかできないのに対して、ギターの重和音一つをボローンと弾いて、聞くだけでも楽しめるのだ。和音一つで、澄んで晴れやかな、あるいは重厚で悲しげな・・・とか。自分であれこれと出してみた音を自分で聞くというのが、また格別に楽しいのだろう。

 これからどんな拙い演奏になっても、弾き続けていきたい。和音一つでも、あるいはアルペジオ一弾きでも楽しめるのだから、下手になったなどと言ってやめるようなのは音楽に対して失礼な変な自尊心というものだ。下手になっても音楽は音楽。「技術を聴く」ものではないと考えてきた。

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随筆紹介 「うっかりもの」  文科系

2021年01月27日 20時15分34秒 | 文芸作品

 随筆紹介 「うっかりもの」  K・Kさんの作品です                                                              

 始終ドジをしているのだから、今さらのことではないが、スマホをスーパーのトイレに忘れてしまった。ポケットに入れていたので、落とすと困ると荷台に置いたまま忘れたのだ。店で買い物をしていて気がついて戻ったがもう無かった。
 五年前に引っ越ししてからは家に固定電話はつけてない。これでは誰とも連絡が取れない。それに「スマホを落としただけなのに」の映画を思い出す。他人に悪用され、事件に巻き込まれていく話だ。冷や汗がどっと出る。
 もしかして良い人に拾われて届けられているかもしれない。と祈りながらサービスセンターへ急ぐ。有った!黒いカバーのスマホが見えた。有り難い。「何色ですか?何処でなくしましたか?携帯番号は?」細かく聞かれ、身分証明のコピーを撮られてやっと返してもらった。懲り懲りだ。大事に握りしめる。
 それなのに、少しして今度はポイントカードをセルフレジの上に忘れた。チャージ金額は千円しか残っていないので損害は少ないが、うっかりミスに呆れる。店に連絡したら届けられていた。当日のレシート番号を聞かれ戻ってきた。続けてのうっかりミスにへこむ。私のボケ始めだと困るのだが。

 忘れ物といえば思い出す知人がいる。彼は何回も忘れ物や鞄を取られているが動じないようだ。コンビニの駐車場でエンジンをかけたまま店に入り、五分位で鞄を盗まれた。この時は財布を抜かれて鞄は他のコンビニで見つかった。ある時は、飲んでスマホを何処かに忘れた。GPSで探したが場所は分からなかった。諦めて新しいのを買った頃出てきた。
「なくしても戻ってくるから。命まで取られた訳じゃない」彼の口癖。別に慌てた様子はない。小心者の私には理解できない。面倒くさがりなのか、鈍感なのか、寛容のためか分からない。場合によって鈍感は寛容という美徳になったりするので、可否をいうわけにはいかない。出張の鞄を家に忘れ、取り止めになったことも。それでもめげない。謝れば済むという。人当たりがやわらかいから収まるらしい。

 彼とは年代も違うし身を置いた世界も違う。人の感性というものは千差万別だ。どっちが正しいかどうかの問題ではない、人それぞれ。小さいことにこだわるとストレスが多い。身体によくないと思うが、いい加減さが上手くいかない。彼の生き方の方が楽なのかもしれない。

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随筆紹介 「老いらくの恋文」  文科系

2021年01月26日 19時35分23秒 | 文芸作品

 随筆紹介 「老いらくの恋文」  H・Sさんの作品です

 郷里に暮らす八十三歳の友人瑞穂と電話で会話する回数が増えてきた。
「私の世代って実家で居場所がなかった。二十五歳を過ぎた女が親の元に居ると、男兄弟の結婚に邪魔。早く出て行け。そんな時代だったわよ。私なんか銀行勤めで給料結構良かったから、弟の学費も出してやったのに、その弟から、姉ちゃんがいると僕にお嫁さんが来ないから、いい人見つけて早く出ていってよと、すげない扱いを受けたのよ。それに銀行の女の子は結婚したら辞める決まりだった。三十歳近くになると売れ残りだと言われ居揚所がないような雰囲気だったもの。だから私は」と、六十何年前の日々を振り返りながらながながと、瑞穂のお喋りが続く。
「うん、うん」と、相槌を打ちながら、電話の向こうの瑞穂の言い分に同調しながら聞く。「早く家を出るようにせかされ、容姿も普通、とりえのない私は、銀行の先輩で仕事を教えてくれた次郎さんだけが「瑞穂のこと好きだよ」と、言ってくれたから、これ幸いと、次郎さん優しい人だし、次男だから姑さんと暮らさなくてもいいから、まあこの人でいいかー、と結婚を決めた。だから私の結婚は、まあいいか結婚なの」と、瑞穂は茶化した言い方をする。

 瑞穂の幼い時から近況まで知っている私は、笑いをこらえながら元気な声を聴いている。瑞穂も元気、八十七歳になる次郎さんも野菜、花作りをやり元気な様子だ。

「私ねえ、細書で、古の貴公子たちの短歌を書き写しているの。それがいま一番の楽しみなの。ふ、ふ、ふ、」とご機嫌の瑞穂。
「それ、どういうこと?詳しく話してよ」と、受け止めかね催促した私。
「教科書で習った有名人、大伴旅人、家持、山上憶良とか、に心が動くの。私の一番好きな貴公子は大伴旅人さんよ。都で活躍出来ず、地方に派遣された今で言う県知事さんのような立場で、ちょっと不遇な人達。その人たちのため息のような歌が好きなの。彼らのやるせない思いとか生業とか、何を考え生きていたのだろう。今よりずっと厳しい自然と戦っていたのだろうと想像すると、貴公子たちが愛おしくて仕方ないのよ。だから、彼らを励ましてやりたくて、自己流のかな文字で手紙も書いてるの。家持さんの任地だった特産品の越前和紙を和綴じ冊子にして使ってね」
「それって恋だよ。明らかに天平の貴公子に熱い恋をしてるよ、瑞穂は」と、返す私。
「こんな気持ち初めてだよ。次郎さんに感じたこと無いもの・・・そうー。これって、明らかに恋だよ」と瑞穂は自分の心の動きを認め驚いたようだがなんだか嬉しい様子だ。
 瑞穂の部屋には、どこにも出す予定のない達筆の恋文冊子が積みあがっていく様だ。お互い自分の部屋を持っている二人だ。何をやっていても相手が干渉することはない。

 瑞穂にとって次郎さんは、安定した生活の提供者。その地盤の上で共同生活は成り立っている。そこで瑞穂が、古の貴公子に恋文を書くのを楽しむのは瑞穂の自由だ。恋文は瑞穂の『心の飛行機だー』。群を抜く達筆がもたらす楽しみ方だ。この様な特技のある人は羨ましいと私は思う。

 次郎さんからの年賀状を受け取った。「老いは生涯の友 しなやかに、けなげに生きる二人です」。と、添え書きがあった。短い文面の中には、自分を語ることは得意ではないが、優しく温かい次郎さんの瑞穂への思いが込められていた。

 次郎さんの操縦する「心の飛行機」の指定席は、いつも瑞穂のために用意されている。そういうことだ。一方、瑞穂の操縦する「心の飛行機」の指定席には、大伴旅人さまがどっかり居座っている。こういうことはよくあることだー。瑞穂はト、ホ、ホなことをやっているわけではない。

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随筆  友の「音楽」  文科系

2020年12月23日 12時43分44秒 | 文芸作品

  そのギター曲を弾き終わってすぐに顔を上げ、彼の様子を見る。目の前の車椅子から、コルセットをきつく締めて斜め前に曲がった身体で、いつもと同じように僕の目に向かって「良かったよ」と無言で語りかけてくる音のない小さな拍手を贈ってくれている。なんとかかんとか形だけはやっとという前回の演奏よりももっと長い拍手と感じたのは、僕の気のせいではないだろう。ここまで一か月以上かかって暗譜や、この曲の難しい和音装飾などもあれこれと考えて何とかひとまず完成と、そんな彼の前での二回目の演奏だった。

「この曲を弾いてくれないかな。挑戦したけど、物にならなかった奴で、僕の葬式に弾いてくれると嬉しい・・・」。
 本気なのか冗談なのか、六十年も前に入った大学同級生一番の親友からこんな注文がでたのは、一か月以上前のこと。家も近くて以来ずっと行き来が続いてきた彼はパーキンソン病を患い、この二年程で急激に悪化した。なんでも、運動神経がやられ、歩行も困難になり、骨密度が通常の四割を大きく割って椎間板などあちこちの圧迫骨折から車椅子と、そんな段階に達している。ついこの前までは、訪れた時には、悪化防止のための運動・スクワットなどを普通に手助けしていたのに、あっという間に要介護五度の重病人なのである。ただし、意識、頭脳は明晰で、明らかに僕の訪問を楽しみにしている。こちらも大学同級生であるお連れ合いさんも僕を歓迎してくれる。そんなある日、僕がギター教室の帰りに思いつきギターを弾いた折、彼自身がギター曲集を持ち出してきて注文したのだった。結構難しいと感じた曲名に覚えもないこの楽譜だったが、すぐに思い出したことがあった。
「これって、あんたが大学時代にもちょこちょこ弾いてたやつだよな?」
「鏡の中のアンナ」。付き合い始めたころ彼の家で、彼が持っていたクラシック・ギターをいつも一緒につま弾いていたそのおぼろげな記憶が蘇ってきた。〈あれ以来ずっと、どうしても弾いてみたい曲で、これまで何度も挑戦してきたけど・・・、独学のギターでは、確かに難しそうだ・・・〉。同じように僕にも、あの曲、この曲・・・、音楽が持っているそんな力は、いろんな場の自分自身にあれこれ活用してきたから、よく分かった。そう、尾瀬を唄った「夏の思い出」のように、昔を思い出しているようなちょっと愁いを帯びた曲で、美しい和音装飾がその懐かしいような情感を倍増させている。

 さて、二回目の演奏のこの時、思いついてアンコールをやった。ギターの高い単音だけで十分すぎる程に聴けるある名曲を。弾き終わって前と同じような拍手を贈りながら彼が訊ねる。「いーねー。何と言う曲なの?」。彼も当然これを知っていると思い込んでいた僕は、面食らいつつ答えたもの。「シューベルトのアベマリアという曲だけど・・・」。
「ところで、最近の句作はどんなのがある?」と、今度は僕がご披露を注文。彼は今でも十五人程の句会を主宰していて、コロナ渦中で会は開けないのだが、ネット句会という形で開会を続けているのだ。十一月は「新蕎麦メール句会」とあって、彼の提出作はこれ。
 新蕎麦や野武士のごとき指が打つ

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随筆 アソビ心  文科系

2020年12月13日 09時39分10秒 | 文芸作品

 昔書いた随筆です。4年生になった孫が三歳になる直前のころの、色んな一人遊びの様子。ご笑覧下さい。

 

 アソビ心
 
 ここに何度か紹介してきた孫のはーちゃん、この九月で三歳になる。今回は、いろんな言葉を拾ってみた。この観察の焦点は、彼女のあそび心ということになろうか。ただし一言。この年齢の言葉に大人流の一般的解釈はだめ。それでは第一、面白くも何ともない。

我が家へ駆け込みつつの第一声は、決まって「遊ぼーよっ!」。パソコン席から僕が離れそうもないのを確認すると、すぐに踵を返して「ばーばっ、遊ぼーよ!」。「チックン」というのは注射のことだし、アーンで口を開けさせ棒状のもので喉を調べたり、検温までするのは、お医者さんごっこ。チックンは念入りに時間をかけ、「痛いーっ?」と必ず聞いてくる。しかも、顔をしかめてみせるほどに、その目がにやりと歪んでいる。
 二つのソファを向かい合わせるのは、このくそ暑い中の彼女には大作業。がそれもなんのその、なんせ出来上がるのはプールである。近くの大人の尻を押した後から、自分も入ってくるのだから、そのプールの熱いこと。遊びに燃えた体で、バシャーンとか、バシャ、バシャとかやって、近ごろ口癖の「面白い、面白い!」を連発。プールにはいろんなものを持ち込んでいるが、こんなこともあった。「あっ、亀さんがウンコしました!」と自分で叫んでおいて、大変大変というわけで、トイレに連れて行く。それを目で追うと、一生懸命紙で拭いている。
 僕がパソコン席から離れない先日、こんなことも起こった。新聞紙を細めに長く丸めて「はい、ビールですよ!」。見れば自分も小さ目のを持っていて「乾杯しょ!」と申し込んで来た。僕の好物で僕を遊びに釣り出そうと企んだとしたら、相当な知能犯だが。乾杯してから「後で遊んであげる」と応えると、「楽しみーっ!」といいつつ離れて行った。

 アソビ心の先にいたずら心があるのも、既に人並と言えよう。家へ飛び込んできたとたんに何を思ったか、「じいじ、大好きーっ」と身体ごと脚にしがみついてきた。悪い気はしない。ところが、その三十分ぐらい後に、関連して起こったのがこれ。向かい合った時に僕の目を見てこう告げる。「好きって言って」。僕は、当然そう言った。と、こんな答えが返ってきた。「あんまり、好き(じゃ)ないの」。「好きって言って」とは、「好きかと質問してくれ」という意味だったのである。「好きって言って」の注文当初から何かおかしげな「にやり」表情だったのを、いぶかりながらのやりとりだった。
 僕のお茶専用のお盆を遊び場の方に持って行ったから、貸してと申し出に行った。何度か頼んでも返してくれないどころか、自分の身体の後に「隠している」。と突然、その体勢のままで、こんな返事が返ってきた。「まっ、いいか!」。僕は初め、返してくれる言葉と思い、ちょっと待った。が、その気配はなく、お盆は体の後に隠したままで、顔には例のにやりが浮き出ている。突然僕は気づいた。僕にこう語っていたのである。「(お前が)『まっ、いいか』と言え」と。つまり、諦めろと意地悪しているのである。

 最後に、あそびとは正反対の大変なリアル語を一つご紹介しよう。机の上の彼女の大好物・さきイカ燻製に僕の手が出たその瞬間「みんなで、みんなで!」との叫び声。叫ぶ間もあらばこそ、小さな手が体ごと既にモノを覆っている。お気に入りで対立が生じやすい保育園の連絡帳にこんな記述があったのを、僕はすぐに思い出した。
「彼女が『みんなでみんなで』と叫ぶ時には、既にちゃっかりと物を握っております」。』

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小説 俺のスポーツ賛歌(3)   文科系 

2020年11月04日 06時25分14秒 | 文芸作品
 
 定年近くのこんな俺を、同居生活という近くで見続けてきた母が度々口に出していた言葉がある。
『若い頃順調に一直線で来た男性は老後に苦労する。何らか意味がある寄り道をした人の方が豊かな老後になる。人生プラスマイナスゼロにできてるということなんだろうねー』
これは、老後が即余生になってしまった父や、当時既にそうなりそうだった弟を見ていて、母なりに出した人生訓なのだ。ちなみに、先にも見た同窓会誌「桜陰」寄稿にもこんな一節がある。
『同居している次男夫婦も共働きですので、昼間は相変わらずの一人暮らしですが、二人が帰宅し、共にする夕食は楽しく、孤独を忘れることの出来るひとときです』。俺が五〇歳の頃から俺らは同居を始めて、その二年後に父が亡くなったその後の家庭風景を母なりに描写したものである。なお、この夕食時間は俺にとっても忘れられないものになっている。食卓に、母と連れ合いと二人それぞれの二品ずつほどが並んで、華やかな、楽しい食卓だった。なお、四人の兄弟姉妹の中で、両親が最も望まない青春時代を送った俺が晩年の両親と同居したというのは、皮肉というよりはむしろ当然の結果と今の俺は捉えている。博士号を持った外科医である兄は同じ名古屋市の同じ区内に住んで、八十歳を超えた今もなおパート勤務医として働いているが、父母共に兄夫婦とはいろいろあってむしろ疎遠といって良かったからだ。「一直線」の青春を過ごした息子やその配偶者とは、その親もなかなか親しく付き合えるものではないらしい。まして、全国区の大学を出た妹、弟は、それぞれ東京練馬区と横浜高台の自邸に住みついて、名古屋には帰ってこない。全国有数の大学卒業という優秀な子を持つということは、そんな覚悟も要るということである。なお、妹は母と同じ大学の大学院を出ている。


 五九歳の時に職場がスポーツジムの法人会員になったのを機会に、ランニングを始めた。その時に分かったことなのだが、入門して間もなくなんの苦もなく走れるようになって行ったのは、それまでのスポーツ好き、自転車人生があったからだった。自分の最高心拍数の七割程度で走りつづけると最も効率よく心肺機能を伸ばすことができるというランニング上達理論があると後で知ったのだが、素人が継続できる高速サイクリング心拍数がちょうどその辺りに来るものなのだ。つまり、俺はそれまでの自転車人生によってランニングに最適な心肺機能訓練を続けてきたわけだ。走り始めて一年ちょうどほど、六十歳で出た十キロレースで四九分台という記録を持っている。そして今七十七になる俺は、週に三回ほど各十キロ近いランニングをしている。その話が出たり、ダブルの礼服を着る機会があったりする度に連れ合いがよく口に出す言葉がこれだ。
「全部、自転車のおかげだよね」。
 この礼服は、三十一歳の時、弟の結婚式のために生地選びまでして仕立て上げたカシミア・ドスキンとやらの特上物である。なんせ、俺の人生初にして唯一の仮縫い付きフル・オーダー・メイド。これがどうやら一生着られるというのは、使い込んだ身の回り品に愛着を感じる質としてはこの上ない幸せである。よほど生地が良かったらしく、何回もクリーニングに出しているのに、未だに新品と変わらないとは、着るたびに感じる二重の幸せだ。弟の結婚式から父母の葬式までを見続け、「自分の大人時代を今日までほぼ共に歩んできた礼服」。それも今できる品質なんだろうかとか、今作ったらいくらするんだろうとか思わせるような五十年物なのである。こんな幸せさえもたらしてくれる一六九センチ・五八キロ、体脂肪率十二%内外の「生涯一体形」も、「生涯スポーツ」、特に有酸素運動と相携えあって歩んで来られたということである。もちろん俺は、若い頃に医者に教えてもらったポリフェノールのことも忘れてはいない。酸素を多く取り入れ過ぎてきたその手当をしていないスポーツマンは早死にするとは、医者なら皆が語ること。それは酸素とともに空気から取り入れてしまう活性酸素が細胞を最も激しく老化させる有害物質だからである。これを中和してくれるのが、ポリフェノール。かくして俺の食生活は、晩酌が赤ワイン、野菜は馬みたいに食ってきたし、最も多くする間食は、チョコレートに煎茶だ。つまり、こういう食生活習慣がいつの間にか楽しいものになっているというわけである。

 ランニングとサイクリングの楽しさは、俺の場合兄弟みたいなもの。その日のフォーム、リズム、気候諸条件などが身体各部の体力にぴったり合っているらしい時には、各部最小限の力によって気持ちよくどこまでも進んで行けるという感じの兄弟。そして、そんな時には身体各部自身が協調しあえていることを喜び合っているとでもいうような。
 自転車が五九歳にしてランを生み、退職後はランが自転車を支えて、まだまだ長く続いていきそうな七十七歳の俺の活動年齢。パソコンにぶっ通し五時間座っていても腰背痛にも縁がないし、目も大丈夫と、これらすべて有酸素運動能力のおかげ。「パソコン五時間」というのは、現役時代から仕入れて今も続いている同人誌の編集活動に必須の、現に日夜重宝している能力である。文章創作というこの頭脳労働にまた、有酸素運動が威力を発揮している。走った日の後二日ほどは、老人になって特に感じる朝の脳の冴えと同じものを感じ、走らない日が三日も続くとたちまちどんよりとしてくるのである。人間の身体で酸素を最も多く消費するのが頭脳であるという知識を思い出せば、誰にでも分かる理屈だろう。ちなみに、人間個体が窒息死する時、この死が最も早く起こるのも脳細胞であるらしい。

 週に複数回以上走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズ・ハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。
 こういう大切な快感は、何と名付けようか。イチローやナカタヒデなどこのセンスが特別に鋭い人の話をする必要がある時、このセンスを何と呼んで話し始めたらいいのだろう。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは日本では希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚。それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。自分の視覚や聴覚の芸術ならぬ、自分の身体感覚が感じ導く自作自演プラス鑑賞付きの、誰にでも出来る身体芸術である。
 勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめるというそのことの結果と見るべきではないだろうか。そういう理念を現に噛みしめているつもりの者からすれば、すっかり体型がくずれてしまった体協の役員の方などを見るのは悲しい。勝ち負けには通じられていたかも知れないが、「身体のセンス」の楽しみはどこか遠い昔に置き忘れてこられたように見えるから。その姿で「生涯スポーツ」を説かれたとしても何の説得力もなく、「言行不一致」を免れることはできない。

 さて、こんな俺のロードレーサーが、先日初めての体験をした。直線距離三〇〇メートルとすぐ近くに住んで、今は週三日も我が家に泊まっていく仲良しの女の孫・ハーちゃん八歳と、初めて十五キロほどのサイクル・ツーリングに出かけた。その日に乗り換えたばかりの大きめの自転車やそのサドル調整がよほど彼女の身体に合っていたかして、走ること走ること! 「軽い! 速い、速い!」の歓声に俺の速度メーターを見ると二十四キロとか。セーブの大声を掛け通しの半日になった。
「じいちゃんはゆっくり漕いでるのに、なんでそんなに速いの?」
「それはね、(かくかくしかじか)」という説明も本当に分かったかどうか。そして、こんな返事が返ってきたのが、俺にとってどれだけ幸せなことだったか。
「私もいつか、そういう自転車買ってもらう!」
 そんなことから二回目には、片道二十キロほどの「芋掘り行」サイクリングをやることになった。農業をやっている俺の友人のご厚意で宿泊までお世話になる企画だった。
 人間の子どもの力って凄い。初めての長距離ツーリングなのに、行きも帰りも俺の速度メーターはおおむね二〇~一五キロ、二時間ほどで乗り切った。名古屋市を、北部から南へ縦断して隣の豊明市までというコースだから歩道を走ったのだし、信号は多いし、海に近い天白川の橋の真ん中から水鳥や魚を探すなどの長い休憩時間も二回ほどとったのだけれど。帰りなどはその上、途中にある大高緑地公園遊園地を二時間以上も飛び回ったうえで、さらに一〇キロ近くを文句も言わずに走り通した。けろっとして本人曰く、「私は身体が強いからね!」。初めは半径三キロ以内はこれまでにすべて征服したと豪語できる公園遊びから始まって、自転車から、正しい走り方までも俺が教えて来たこの小学二年生は、五〇メートルを九秒切って走り、二重跳び三十回とかの縄跳びも大好きなのである。俺のスポーツ好きが乗り移ったようなこの子と、まだまだ一緒に遊べる体力を持ち続けていたい。そして今は、やがて青春を迎えるだろうこの子との一日百キロサイクリング、これが俺の夢だ。俺の経験からいって、今のように週二~三日、一回十キロ近いランニングが出来ているならば、一日百キロのサイクリングは容易だと目論んでいる。ちなみに、そういう高齢者は、サイクリングが盛んな英仏などにはうじゃうじゃいる。そして、彼女がその年齢までサイクリングを熱烈な趣味と出来るか否かは、俺が我が父母の教育力をどれだけ換骨奪胎して受け継ぎ得たかに掛かっていると考えている。
 ハーちゃんは二〇一〇年九月生まれ、今はもういない父母はともに一九一〇年九月生まれ、きっかり百歳の歳の差だ。
 
(終わりです)
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小説 俺のスポーツ賛歌(2) 文科系  

2020年11月03日 03時26分14秒 | 文芸作品
 
 
 兄弟でただ一人一浪の後、文学部に入った大学でも、一年の夏にはバレーボールクラブのレギュラーになった。浪人時代も母校のマラソン大会に出て全学二位になったほどに基礎体力を維持した上で、大学の入学式前から春休み中のクラブ合宿に飛び入り参加をして入学式も欠席という意気込みで始めたクラブなのである。そのレギュラー初陣がまた忘れられないもの。夏休みに静岡大学で行われた中部地方国立大学大会で優勝したのだった。その年、愛知の大学バレーボール・リーグ一部中位に属していた結構強いチームだった。県大会常連のような学業成績優秀校のエースなどが集まるこの大学のレギュラー獲得は当時の俺にとって大きな誇りにもなったし、同時に家からの『自立』のさらに大きな一歩を踏み出すものになった。俺の高校クラブが地区大会一回戦勝ち抜けもできない弱さだったから、この誇りはことさらに大きかった。
 ところが、このクラブを一年の秋には辞めてしまった。当時の俺の意識としては、二つの原因で辞めた。一つは、哲学科の大学院へ行きたくなったこと。今ひとつは、体育会系の人間には、友達にしたい人がいないと見抜いた積もりになっていたことである。当時の俺はどう言うか、人生を求めていた。自分の家に規定された貝殻が小さいとしか感じられないようになった宿借りが、次の大きな殻を求めて歩き始めるように。そして、その大きな要求に、スポーツやスポーツ仲間が助けになるとは思えなかったのである。当時の奇妙な表現だけれど、感情や行動におけるほどにスポーツを大切なものとは、頭の中では捉えていなかったということだ。すごく好きだったし、行動上の熱中度も周囲の他の誰にも負けていないという自信さえ発散していたはずだが、当時の意識ではそれを俺にとって数少ない「面白いこと」の一つと捉えていたに過ぎなかった。

 哲学科の大学院に入ったころ、二人の主任教授のうちの一人がその時の授業テーマの説明としてこんなスポーツ論を語ってくれたことがあった。
「西欧と日本とでは、スポーツについての考え方は全く違います。ロダンの『考える人』。あの筋骨隆々たる姿は、なにも立派な軍人が、あるいは陸上十種競技の名選手が、たまたま何かを考えているという姿ではないのです。そもそも人間が何かを深く感じ、考えるということそのものが、あーいうたくましい筋骨を一点に集中してこそ成されていくという、ルネサンス以来の西欧流『考える人』の理想型というものなんです。対するに日本では、深く感じ、考える人ってどんな人でしょう。芥川龍之介みたいな人を連想する諸君も多いのではないでしょうか。貧弱な身体だからこそ文を良くするというような人。このように、日本では文武は分けられていて、文が武よりも上と、そんな感じ方がずっと多く存在し続けてきました。この頃こそ文武両道とよく語られるようですが」
 なるほどと思った以上に、一種ショックを受けた。この小柄ながら均整が取れた老哲学科主任教授が、大学時代にやり投げの全日本クラス名選手だったとも聞いていたことも重なっていた。
〈文武両道は本来なら比例するという相関関係にあるということだろう。それを言行一致して追求してきた人々がいる。それが西欧知識人の一般教養にもなっている。こういう本気の背後には、こんなスポーツ哲学もあるのだ!〉
自分のスポーツ大好きに大きな意味が一つ、初めて生まれてきた瞬間だった。だが、実際にこの哲学の意味、価値を身体で現し、感じられていくのは、まだまだ後の話になっていく。

 さて、俺が大学院に入ったとき弟は高校三年生で、その三年間はこんな生活を見せてくれた。授業が終わるとすぐに帰宅、勉強。夕食を食べてまた勉強。ただし、週に三つほど必ず観るテレビ番組を決めていて、その一つは「歌謡番組 夢で会いましょう」。しばしの青春時間というわけだが、これら三つでさえ夕食前後の一時間以内。こうして、彼の一日平均勉強時間は七時間に及び、しかもこれが三年間続いたとあって、これらすべてには何というかとにかく驚かされてばかりだった。これは後にはさらにはっきりと分かるようになったのだが、国語ができなくて、家庭教師についていた。英数の家庭教師ならともかく、国語のそれって珍しいということから、何か鮮かに覚えている。俺に言わせれば、この国語不得意は当たり前だ。小学校から大学までこれだけ人付き合いがなければ、文学や古典の字面、文章はともかくその中身が分かるわけがない。それでいて数学実力テストは父の助けもあって愛知県最難関高校でトップなのだから、まー非常に偏った人間なのである。ちなみに、この弟を当時の母が他の二兄一妹にはやったことがないほどせっせと献身的に押し上げていた。この時の母は、これまで努めていた名古屋市立高校教師の職を定年まで五年以上を残して辞めてしまい、専業主婦になった。それは、弟を東大に入れるために世話を徹底しようという望みから決めたことだ。母が遺した旧女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)愛知県同窓会誌「桜陰」への寄稿にこんな一節がある。
『昭和四〇年三月、○○高校退職。高校三年になって大学進学を前にした末っ子に一年間はすべてをかけてみようと、今まで出来なかった教育ママに徹しました』
 母のこの決心を弟がどう捉えたかは俺には全く記憶がないから、まーそんなに異例、異常なことのようには受け止めなかったということだろう。
 こうして弟は、東京大学理科一類に悠々と入って行った。国語の点数不足などは、彼の数学の高得点でいくらでも補いが付いたということだ。


 さて、中学在学中から普通の移動はほとんど自転車に頼っていた俺だが、バレーボールを止めた後はスポーツ・サイクリングがにわかにクローズアップされていく。
 初めて自転車に乗ったのは小学校中学年のころ。子供用などはない頃だから、大人の自転車に「三角乗り」だ。自転車の前三角に右足を突っ込んで右ペダルに乗せ、両ペダルと両ハンドル握りの四点接触だけで漕いでいく乗り方である。こんな乗り方ながら、初めて走りだせた時のあの気持! 〈速い!〉はもちろんだが、〈自由!〉という感じに近かったのではないか。脚を必死に動かしているわけでもないのに、風がピューピュー耳を切っていく! サドルに座って届かない足を回す乗り方を間もなく覚えてからは、かって味わったことがないスピードでどんどん走り続けることが出来る! 
 以降先ず、中高の通学が自転車。家から五キロほど離れた中高一貫校だったからだ。やはり五キロほど離れた大学に入学しても自転車通学から、間もなく始まった今の連れ合いとのほぼ毎日のデイトもいつも自転車を引っ張ったり、相乗りしたり。
 共働き生活が始まって、上の息子が小学生になったころから子どもとのサイクリングが始まった。下の娘が中学年になったころには、暗い内からスタートした正月元旦家族サイクリングも五年ほどは続いたし、近所の子ら十人ほどを引き連れて天白川を遡ったことも何度かあった。当時の我が家のすぐ近くを流れていた子どもらお馴染みの川だったからだが、俺が許可を出した時に文字通り我先にと身体を揺らせながらどんどん追い越していった、あの光景! 子ども等のそんな自転車姿がまた、俺にはたまらない。
 この頃を含む四十代は、片道九キロの自転車通勤があった。これをロードレーサーで全速力したのだから、五十になっても体力は今の日本では普通の二十代だ。自転車を正しく全速力させれば、体幹も腕っ節も強くなるのである。生涯最長の一日サイクリング距離を弾き出したのも、五〇ちょっと前のこのころ。先ず知多半島先っぽまで。そこから伊良湖岬先端までのフェリーをつかった三河湾一周の最後には豊橋から名古屋まで国道一号線の車道を走ってきた苦労も加えて、メーターが弾きだした実走行距離は百七十キロになっていた。

 五十六歳の時に作ってもらった現在の愛車は、今や二十年経ったビンテージ物だ。愛知県内は矢作川の東向こうの山岳地帯を除いてほぼどこへも踏破して故障もないという、軽くてしなやかな品である。前三角のフレーム・チューブなどは非常に薄くて軽くしてあるのに、トリプル・バテッドと言ってその両端と真ん中だけは厚めにして普通以上の強度に仕上げてある。いくぶん紫がかった青一色に注文した車体。赤っぽい茶色のハンドル・バー・テープは最近新調した英国ブルックス社製。部品は普通のサイクリストなら知らぬ人はいないシマノのデュラエース・フルセットである。
 
 
(最終回に続く)
 
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