九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆紹介 家族内孤独

2021年10月27日 14時00分03秒 | 文芸作品

 随筆  家族内孤独   S・Yさんの作品です

 今朝も隣家の洗濯物がまだ干されていない。そんなこといちいち気に掛けなくてもと思いながらもつい見てしまう。
 隣家の嫁である月子さんは朝が早い。私が起き出す六時半ごろには彼女は大人数の家族の洗濯物を、二階のベランダや庭先いっぱいに干し終わっている。
 それらがないということは、今朝も孫さんの世話で居ないのかな?
 このところ頻繁に次男の家へ手伝いに行く月子さん。昼近くに帰宅後、急いで洗濯物を干している姿をよく見かける。なぜ彼女の夫は家事を手伝わないのか。月子さんは遊びに行っているわけじゃないのにと、よそ事ながら腹立たしい。
 数年前、彼女の夫の父親と障害のあった弟は亡くなったが、それまでは三十代の引ぎ寵もり息子三人と舅姑らを含めて大人八人の世話を一手に一人でこなしていた。
 しばらくして息子の一人、次男が結婚をしたようで孫が二人いるという。孫は四歳の女児と、二歳半の男の子で、この子は生まれながらに心臓に欠陥がある難病だとか。先日も四回目の手術をしたそうである。コロナ禍のいま、付き添いは子どもの母親のみで、交代もできない。月子さんは次男の孫娘の世話に通う日々が続く。
 三ヵ月ほど前、夏の暑い日だった。郵便受けに近々工事をするという建築屋のビラが入っていた。よく見るとなんと隣家ではないか。工事期間は二ヵ月とある。古い家屋だから耐震補強の工事でもするのか。それにしても一言も挨拶はない。隣近所に騒音や工事業者の車が出入りして迷惑をかけることはお構いなしである。こんなことは以前にも何度もあった。隣家の倉庫の解体工事でわが家の壁が壊されたことがあった。このときわが家は新築したばかり。さすがに文句を言ったが、解体業者が謝っただけで、その場に居合わせた隣家の人は皆素知らぬ顔であった。
 今回も月子さんは夫から何も聞かされず、家の何をやるのか知らないと言う。隣家は表通りからは塀に囲まれていて、ベランダや広い庭などはわが家からしか見えない。軒下から錆びて傾ぎ朽ちたトタン屋根、そこから伸びて庭に長く垂れ下がった雨どいが見るからに危なっかしい。月子さんも困っていた。私はやっと直すのかと少し安堵した。

 ところが工事は玄関の屋根瓦の一部と家の外壁塗装のみで耐震補強も無かった。驚いたことに雨どいや傾いたトタン屋根は今だにそのままだ。外部のみ綺麗にしたのだった。                                           「物干し場に屋根をつけてやればいいのに。出かけたとき雨を気にしなくていいから月子さん助かるのになあ」                                                                                                                                                             私の夫が言った。彼もよそ事ながら気になるようだ。

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「都心の庭」は、自然のオアシス? 文科系  

2021年10月15日 22時09分12秒 | 文芸作品

 五〇歳直前に都心に近い父母の家に入ったが、現役時代は家の庭など見向きもしなかった。僕が二十歳を過ぎた頃父母が初めて我が家を構えたその母と連れ合いとに任せっぱなしで、僕の出番は、いつの間にかあっという間に大きくなった自然生えの木を切るとか、多い花木の枝払いなどたまにある力仕事だけ。ちなみに、父は若い頃から庭に手を出したことなど皆無だった。そんな僕が、定年退職以降二〇年、この三〇坪ほどの庭の仕事を次第に増やしてきて、今では連れ合いと対等に、手だけではなく口まで出すようになった。この年月が、「都心の庭」のあれこれを楽しみ、味わい、識るという思いもしなかった贅沢をもたらしてくれた。

 我が家のまず春先に咲くのが、白木蓮、木瓜、梅、ユキヤナギで、やがてツツジに卯の花、アヤメなどを経て、ムクゲの夏から、秋は金木犀、秋明菊。果樹、野菜の収穫もあって、梅酒はできるし、金柑、柚、葡萄に、毎年の雑煮に入る餅菜を摘み残しておくと育ち上がっては菜の花になり、やがて菜種の実が付く頃には、毎年のようにつがいのカワラヒワが枝を揺らして啄みに来る。

 ところで、庭を通してこの家の周辺一帯を眺める機会がどんどん増えていき、やがてこんな事に気づいた。名古屋市のど真ん中、中区との東境に近いこの一帯には近辺のどこにも庭らしいものなどなくなっているのである。持ち主の二代目、三代目になると、売って引っ越した跡などに、どんどん住宅が立つ。百坪以上の土地には庭は無い集合住宅。それ以下には、三階建ての建売住宅がギリギリ4~5軒も。時節柄、分割相続とその税などにも替わっていくのだろうが、親の家を残している所など、どんどんなくなっていく。東西に走る飯田街道、この辺りで南北に抜けている旧「塩の道」など、古くから栄えた庶民の街がごっそりと変わっていく。それぞれの近いご先祖にこれが見えるならさぞ寂しい気持になることだろう。が、時節柄先代よりもはるかに貧しくなったはずの二代目、三代目にとっては、金に換えたい財産なのだ。東西の道路を挟んだ我が家の斜め北東向かい十メートルほどの土地が、先年坪百万で売られたというのだから、お金に換えることによってなんらか人生を進め、救われた子孫も随分多いにちがいない。
 我が家でもちょっと前に連れ合いがこんな事を言い出して、一悶着が続いた。築六〇年になるこの家を壊して、百坪ちょっとの敷地一杯に自宅兼集合住宅を建てようと。激論の末にこれは退けたが、「古い物には価値がない」というような現代生活消費文化を僕は嫌いなのだ。ましてやこの家は、無一文で出発した父母が先ず土地を買い、共働きで金を貯めて、伊勢湾台風の直後に父の好みでいろいろ注文した超頑丈な鉄筋コンクリート造。それだけの使用価値を遣い尽くしてやるのが、父母や地球への道義というもの。「この土地に僕らの家が建つんだ」、小学生から大学二年まで、他人に貸した畑時代のここを何度見に来たことだったか。古い、衣食住などを大事にしないって、結局自分をも大事にしないということではないのか。
 
 連れ合いとのこの激論以来、この庭を僕はもっともっと見直し始めた。カワラヒワだけではなく、こんな鳥が来る。ヒヨドリ、ドバト、メジロ、ムクドリはもちろん、喧しいシジュウカラ。臆病なツグミ、人懐っこいジョウビタキ、どこから来るのか姿は見せぬ鶯の声まで。そして短い盛夏にきっかりと合わせて、クマゼミの大合唱である。付近には古い庭がないのだから、僕の庭で生まれたものばかり。先日も白イチジクを植えるために土を掘ったら大きな幼虫がのこのこと現れて、早速、近くの土に戻してやった。と、こんな事はもう度々だから、我が家の庭の蝉口密度は凄まじいのだろう。多分、過去の夏に潰した古い家の蝉の子孫で溢れかえっているのではないか。

 さて、もうすぐ11月。我が家はこれから半年近く、2本の梅の老木どっさりの梅から作った梅酒が飲める期間に入っていく。亡くなった母もこれを作っていたが、わが連れ合いは最近ネットで研究し直して、一段とこの腕を上げている。今年は新たにブランデーに浸けた梅酒もスタートさせているから、若い頃からブランディー(とウイスキー)好きの僕は、今からもう涎を出しつつ、待ち構えている。

 

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随筆紹介 「学友」  文科系

2021年10月01日 00時26分01秒 | 文芸作品

  学 友    H.Sさんの作品です    
     
「七月六日の食事会断ろうか?」と、体調の悪い私を気遣って夫和夫が聞いた。
「断らないで、私行くよ」と、答えた。七月六日は、タウリンというニックネームで呼ばれている夫の学友とその妻夕見子さんに会う予定になっている。この人たちとは長い年月にわたる付き合いだ。
〈あの時あっておけばよかった〉ということになりかねない。だからお誘いがあるときは多少のことがあっても会っておけば、後で悔やむことはない。コロナ禍でいつ緊急事態になるかもしれないと、私は考えたからだ。
 タウリンと和夫は大学で出会ってから約七十年の付き合いだ。おたがい歳を重ねた。八十七歳だ。学友は老友になったともいえる。
 鈴鹿からくる二人との待ち合わせはいつも近鉄名古屋駅正面の乗降口だ。夫が今池のうなぎ屋を予約したのでそこへの案内となる。
 約束の日がやってきた。待ち合わせ時間に遅れないようバスに乗った。バスが発車する。車外の景色が動き出す。コロナで県が出した条例を守り巣ごもり状態だった私だ。バスに乗るそれだけの行為で、こんなに気持ちが好くなるのか。人とは、目にすること、耳にすることを楽しむ生き物のようだと、知らされた。
 店に到着した。広い個室に案内された。四人では広すぎるテーブルだった。店の配慮だろう。席に着く。三月のタウリンの写真展で会ってから四ヵ月ぶりのことだ。何とか元気で会えたことを喜び合う。それがすむとお互いの身体の不調の話になる。タウリンは猫を抱き上げようとして尻もちをつき腰椎を圧迫骨折。現在は痛みに耐えながら、毎日自分で皮下注射でカルシュウムを注入。骨量を増やすことに挑戦している。でも、歩けなかった人が歩けるようになっているのだからこの注射は効果があるようだ。
 和夫の方は、一月の終わりにあおむけにこけて後頭部を強打。一瞬にして身体能力が急激に落ちた。ふらふらするので何かにつかまらないと歩けない。一つの個体が三つにダブって見える。だからお箸で何かをつかむことができない。字が書けない。新聞は、見出しのみ読めるだけ。幻覚が出て見えないものが見える。こんな状態だったので介護保険を使う手続きを収ろうと主治医と相談。知り合いのケアマネジャーに連絡をつけた。和夫の今の状況を知らせ「何かにつかまらなくても歩ける。トイレに行ける。風呂に一人で入れる。しっかりご飯が食べられる。これが出来るようになりたい。これが夫、和夫の希望です」と、伝えた。これができないと本人が落ち込み、幸せな気持ちにならないでしょうと、私の日ごろからの心情をも、ケアマネジャーに伝えた。
「主治医の先生に会ってきます」と、ケアマネジャーが手続きを進めた。和夫は、要支援二度の判定を受け、デイケアセンターで支援メニューの運動とマッサージを受けている。五月から始めた。二か月が経過した。最近転ぶ回数は少なくなり、杖の助けをかり外出もできるようになっている。
「タウリンは、ここまで歩いて来られたのだから、今日のこの状態を維持するため、介護保険の手続きをして支援を受けたほうがいいよ」と、私は夕見子さんに勧めた。

 大学で出会った八入の学友は一人、また一人と旅立ち、いまはタウリンと和夫の二人だけとなった。二人は、医療の助けを借りて何とか生きている。この現状維持がいつまでできるのだろう・・・?
〈小さな旅を楽しんだ日々の思い出を語りながら、食事をする〉、たったそれだけのことだが、去年は次に会う計画を話し合い、約束を交わし、食事会を解散したが、今日はどちらからもその話は出なかった。先の見通しが立たないと思えるようになってきたからだろう。会えば心が和む。会えたうれしさで気持ちの明るい日々を手にしている。永年にわたり、和夫の学友夫妻が和夫と私に心を寄せてくれたことは、何物にも代えがたい素敵な時間の共有だった。

 治まることのないコロナ禍、体温よりも上昇する気温、降りやまぬ雨等、体を危険にさらすことばかりだ。あちこちの不具合を抱えながら日々をやり過ごしているタウリン夫妻と私たち。お互いが何とか無事に生き延びられることを祈願する日々が続いている。

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随筆 「最強の野菜スープ」  文科系 

2021年08月24日 10時58分07秒 | 文芸作品

「この子は野菜を馬のように食べますから、よろしくお願いします」。結婚式前に母が今の連れ合いに改まったように姿勢を正してお願いしていたこの言葉をいまだに覚えているのはなぜなのか・・・。このごろはこれを思い出すことさらに多く、八十路過ぎた感傷も絡んでかしみじみ感じられるのが〈母のこの言葉、何と有り難いものだったことか!〉。八十過ぎてもランナーを続けられ、活動年齢が延びているその原動力がスポーツ好きと並んで間違いなくここにあるようだ。最近このことを何倍も感じ、識り直した。

「野菜スープを昨晩作ってみました。簡単で味付けもコンソメだけで十分ですね。普段は毎日朝食時にファンケルの冷凍青汁を解凍して飲んでいますが、沢山の種類の野菜の栄養を摂るにはこの野菜スープは絶好ですね。両親も美味しいと言って喜んで食べていました。両親へ出すメニューが一つ増えたので助かります。また作り置きしておけば色々アレンジできますね。ありがとうございます。感謝です。」
 嬉しいコメントが返ってきた。僕のある日のブログ記事「最強の野菜スープ」に付けられたものである。三年越しのブログ友。神奈川に住み、十歳程年下の僕と同じランナー、Gさんの日記ブログには、九十歳を超えたご両親の介護日誌も入っている。即、応答した。
「Gさん、この優しい味はいわゆるダシなどの旨味の一種で、日本人も特に好きなもの。フランス料理の野菜と肉で作るミネストローネと同類の味なのも、なんか面白い。ご両親の『喜んで食べていました』も嬉しかった。大根やカボチャは甘さが出るし、トマトは酸味が加わる。タマネギやセロリはその独特の味を加えるし、ね。『作り置きして、アレンジ』の良いのがあったら教えてください」

「最強の野菜スープ」、これはこの六月に手に取ったある本の題名。著者、熊本大学名誉教授・前田浩は抗がん剤でノーベル賞級と世界に知られた権威であって、この本はスポーツマンにとっては格別に大事な大事な活性酸素対策の書である。「はじめに」に書かれているこの書の要点を示すスローガン風の文章と、野菜スープの作り方とを紹介してみよう。
「抗がん剤の研究者だからこそ、がん予防にも力を入れたい」
「野菜スープは猛毒の活性酸素を消去する物質の宝庫」
「野菜に含まれる各種の抗酸化物質が連携して害を防ぐ」
「野菜スープはがん予防に確実につながる」
 こういうスープの作り方だが、前田先生が常備している野菜は、キャベツ、タマネギ、ニンジン、かぼちゃで、これに各季節の緑黄色野菜を適宜加える。例えばそれら五百gほどをざく切り、一口大切りなどにして、重さの三倍(千五百ml)ほどの水を加えて火にかける。沸騰する直前に弱火にして、三十分煮込んで出来上がり。なお、ニンジン、大根などは皮をむかず、セロリやキャベツ、ブロッコリーなどの外側の色濃い葉なども、特に抗酸化物質が多い部分だから、よく洗って全部使う。調味料は入れなくても、好きなものを入れても良いが、僕は固形のコンソメスープの素を水五百mlに一つほど入れ、塩適宜をその日その人の好みに合わせて加える。特にこの液体スープ自身が生野菜の何十倍などという各種抗酸化物質の宝庫なのだそうだ。

 ここで、これらの背景理論を紹介してみよう。人間は運動するが、その時大気から取り入れる酸素とともに活性酸素を吸収してしまう。この活性酸素が人生最凶の細胞老化物質であって、これを中和しないと体中の細胞老化が進み、癌もできる。こういう活性酸素を中和してくれる抗酸化物質こそ、緑黄色野菜などが育むファイトケミカル。これでもって細胞老化、癌も防げるという理屈なのだ。ポリフェノールやカロテノイドを代表とするこれは、普通に野菜を食べるだけなら野菜の固い細胞壁、細胞膜に包まれたまま多くが便として放出されるが、煮込んで細胞膜が破れるとスープに溶け込んでくるのだ。だからこのスープが、細胞老化対策の宝物になるのだ、と。血管細胞の老化を防げば、免疫系強化などにも、いわゆる血色とか若い皮膚とか美容にもなるのだし、老人斑を薄くしたり、白内障や抗癌延命にも効いたという数々の実験結果も書かれていた。スポーツマンは特に、多量の空気と同時に取り込む活性酸素を中和させねばならないということだ。
 
 切り餅二つをチーンしてどんぶりのこれに入れれば立派な食事になる。生ソーセージや生協の豪牛「ヒレ肉の切れ端」をフライパンで焦げ目が付くまで炒めて入れると、香ばしくて美味い酒の肴だ。わがお連れ合いも「これを飲むようになって、よく寝られるようになった」と言いつつ、作り置いたのをどんどん活用してくれるから、上記分量が一日でなくなっていく。スポーツ習慣も加わって、「活動年齢百歳まで」になるかも知れない。

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随筆 ある交流  文科系 

2021年08月11日 07時46分12秒 | 文芸作品
 
 夜の病室にもの音は希だが、川音が間断なく聞こえてくる。二県にまたがる大川が窓の向こうにあるのだ。そして、僕の右手はベッドに横たわった母の右手を握っているのだけれど、そこでは母の指がとんとんと動いている。
 死に近き母に添い寝のしんしんと遠田のかわず天に聞こゆる
 誰の作だったか、高校の授業で覚えたこの歌を、このごろよく思い出す。

 左脳内出血が招いた三途の川から戻ってきて、五年近い。「感覚性全失語症」の他はなんとか自立できたと皆で喜んだのも、今振り返ると束の間のこと。一年ちょっと前、思いもしなかった後遺症、喉の神経障害から食物が摂れず、人工栄養に切り替えるしかなくなった。食べさせようとして何度も嚥下性肺炎を起こした末のことである。人工栄養になってからも、唾液が入り込んで肺炎を招くことも度々で、すでに「寝た切り」が四か月。お得意の「晴れ晴れとした微笑」も、ほとんど見られなくなった。九十二歳、もう起き上がるのは難しそうだ。言葉も文字もなくなったので記憶力はひどいが、いわゆる痴呆ではない。痴呆でないのは訪問する僕らには幸いだが、本人にはどうなのだろうか。
 一日置き以上でせっせと通って、ベッドサイドに座り、このごろはいつも右手を握り続ける。これは、東京から来る妹の仕草を取り入れたものだが、「頑張って欲しいよ」というボディランゲージのつもりだ。本を読んでいる今現在、母の指の応答は、こんな意味だろう。「いつもありがとね。今日ももうちょっと居てね」。柔らかい顔をしている。

 僕は中編に近い小説九つを年一つずつ同人誌に書いてきた。うち四つは母が主人公だ。発病前から、母を、老いというものを、見つめ、描いてきた。寝室もベッドの上も、時には四肢さえもさらけ出して。普通ならマナー違反と言われようが、親が子に教える最後のことを受け取ってきたつもりだ。そして、僕がこう描くのは母の本望であると信じてきた。現に脳内出血までの母は、僕らの同人誌の最も熱心な読者でもあったし。僕の作品だけでなく、同人全ての作品を舐めるように読んでいた。日常の会話の端々に同人の名前などがふっと出て来たりしたから、気付いたことだ。

 看護婦さんが入ってきて、こんなことを告げる。
「不思議なんですが、手や指だけをいつも動かしておられるんですよ。ベッドの柵を右手で握っておられる時もなんです。右側に麻痺がある方でしょう?」
 僕や妹の指の感触でも思い出し、温めているのかも知れない。〈母にもまだできることがあった。僕らが通い続ける限り、生きようとしてくれるのだろうか〉
 こんな時いつも、発病前の母がNHKなどによく投書していた俳句二作などをよく思い出したものだ。
 思い出の 子連れ教師や 秋深し
 子等は皆 我が命なり 冬ぬくし
 

 (同人誌に2003年1月初出)
 
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掌編小説  兄 弟   文科系

2021年08月10日 16時44分47秒 | 文芸作品


 照明を最小限にしたそのレストランは急上昇中の名古屋駅前地域でも指折りの店と分かった。テーブル一つずつが回りから隔てられた作りで、〈近辺の重役室から抜け出した財界人辺りが商売の探りを入れる会食などに格好の場所だな〉、それとなく見回していた。駅前ツインビルの一角に、六歳違いでまだ現役の弟が久し振りに二人で飲むために予約を入れた店なのである。東京から月一の本社重役会に彼が来名した秋の夕暮れのことだ。
 水を運んできたウェイターに彼が語りかける声が響いた。「このビルの社長さんは、僕の同僚だった友達でしてねー」。〈「せいぜいサービスしなよ」と告げる必要もあるまいに、スノッブ過ぎて嫌味な奴だな〉。こんなふうに、彼と会うと俺の神経が逆なでされることが多いのである。でも、その日の彼において最高のスノッブは次の言葉に尽きる。俺の過去について思わずというか何というか、こんなことを漏らしたのだった。
「兄さん、なんで哲学科なんかに行ったの?」
 そう尋ねた彼の表情が何か皮肉っぽくって、鼻で笑っているように感じたのは、気のせいなんかではない。そう感じたから黙っていたらこんな質問まで続くのである。「兄さんは元々グルメだし、良い酒も好きだし、生き方が矛盾してないか?」。まともにこれに応えたらケンカになると感じたので、こう答えた。「お前には分からんさ。世のため人のためという人間が、グルメじゃいけないということもないだろうし」

 さて、その帰りに弟の言葉を反芻していた。年収二千万を越えたとかが十年も前の話、東海地方有数の会社の重役に理工系から上り詰めている彼から見ると、俺の人生に意味はないのかも知れぬ。「人生、こういう生き方しかないのだよ」と決めつける押しつけがましさはさらに強まっているようだし。高校の文化祭などは全部欠席し家で勉強していて、俺の目が点にさせられた覚えがあったなー。そこでふっと、こんなことも連想した。「オバマのは、税を納めぬ貧乏人のための政治。私は納税者のための政治を行う」、前回の米大統領選挙での共和党候補者ロムニーの演説の一部だ。つまり、金のない人々を主権者とさえ見ないに近い発想なのである。弟はこれと同じ人生観を持って、こう語っていたのかも知れない。「兄さんは別の道にも行けたのに、何でそんな馬鹿な選択をしたのか?!」と。そこには「今は後悔してるんだろ?」というニュアンスさえ含まれていただろう。
 秋の夜道を辿りながらほどなく俺は、自分の三十歳ごろの或る体験を振り返っていた。大学院の一年から非常勤講師をしていた高校で、「劣等生」に対する眼差しが大転換したときのことだ。二十代はほぼ無意識なのだが、こんな風に考えていたようだ。こんな初歩的ことも理解できないって、どうしようもない奴らがこんなにも多いもんか! 彼らがどういう人生を送ってもそれは自業自得。本人たちにその気がないんじゃ仕方ない。この考えがその頃、コペルニクス的転回を遂げたのである。〈彼らとて好きでこうあるわけではないし、現にみんな一生懸命生きてるじゃないか〉。同時に、家族とは既に違っていると思った俺の人生観も、一種我が家の周到な教育方針の結果満載であると遅ればせながら改めて気づいたのである。勿論、その良い面も含めて。そして、弟よりもむしろ俺の方が、我が両親の良い面を受け継いでいるのだろうとも、少し後になって分かった。両親ともが、片田舎の貧乏子沢山の家から当時の日本最高学府に上り詰めた人だったから。つまり、明治政府が築き上げた立身出世主義人材登用制度を大正デモクラシーの時代に最大限に活用できた庶民なのだ。能力のある貧乏な生徒をよく面倒みていた姿も覚えている。

 この時またふっと、弟のこんな言葉も甦ってきた。
「私の仕事は初め新幹線の進歩、やがてはリニア新幹線を日本に生み出すという夢に関わってきたんだよね!」
 この誇り高い言葉はまー、あの皮肉っぽい笑みからすれば俺に対してはこんな意味なのだろう。「だけど、兄さんの仕事人生は、一体何が残ったの?」。確かに、最初の仕事を二十数年で辞めたのだから、そう言われるのも無理はない。それも、貧乏な民間福祉団体で休日も夜も暇なく働いた末の、精神疲労性の二度の病のためだったのだし。そこでさらに気づいたこと、この病、お前も罹ったんじゃないか? それも若い頃の入院も含めて、一度ならず今も……、お互い頑張っちゃう家系だもんなー。

 いろんな言葉や思い出を辿りつつここまで来て、俺の思考はさらに深く進んでいく。弟は何でこんな挑戦的な言葉を敢えて俺に投げたのだ? 今も病気が出かけて終わりが近づいている自分の仕事人生と、何よりもこれが終わったその先とを自分に納得させる道を懸命に探している真っ最中だからじゃないか。この推察は、妥当なものと思われた。すると、ある場面がふっと浮かんだ。
〈小学校低学年からアイツは電車が好きだった。我が家に近い母さんの職場の用務員さんの部屋で母さんを待って、一緒に帰る途中にある中央線の踏み切り。あそこでよく電車を見ていたと、母さんが言ってたよなー〉

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随筆 俺の自転車 二   文科系

2021年08月09日 10時24分26秒 | 文芸作品
 
 自転車という乗り物が、あるいはサイクルツーリングというスポーツが、人の体力や体形を作ったり、維持したりするのにどれだけ優れた乗り物であるか。七七歳のいま過去を振り返って、つくづくとそう思う。その理屈を述べると、こういうことになろうか。

・人の活動年齢の長短は、その心肺機能、つまり有酸素運動能力によって最も大きく左右され、この能力は下半身の運動、強さによって強化、維持されていく。「脚は突き出た心臓だ」とよく言われるのは、そういう意味である。
・心肺機能は、その七割ほどの強度の運動を長時間持続することによって鍛えられるものだが、自分なりの高速で自転車を転がし続ける時が、ちょうどその心拍数に当たる。さらに、この程度の速度なら、自転車はランニングよりもずっと長時間継続することができる。
・こうした有酸素運動能力が高い人はその細胞全般が若いものだが、必須条件が一つ、活性酸素対策が必要になる。有酸素運動によって空気から同時に大量に吸収してしまう活性酸素が、最悪の人間細胞老化物質なのだ。ポリフェノールが身体に良いというのは、これが活性酸素を中和してくれるからである。「アスリートは特に、活性酸素対策をしないと早死にする」と医者がよく語るのは、そういう意味である。緑黄色野菜やチョコレートなどを摂ると良い。

「日常生活において、三十分以内の距離なら自転車で!」
 こんな習慣があれば、いろんな知識を得つつよく考えられているということがないジム通いや下手な化粧品遣いよりも遙かに良い身体、皮膚が出来るものだ。ちなみに、有酸素運動が苦手なアスリートは、どれだけ身体を鍛えていても早晩デブになるだけである。プロテインなども飲みつつ筋肉をいくら付けても、その上に覆い被さって来る脂肪を取る力がないからである。それは、同じジムのウエートトレーニングだけをやってきた人々を長年見続けて来て、分かったこと。やっと10回までは出来る強度の強いウエートトレーニングを身体各部に適宜施しつつ、かつまた一時間程度は走ることができる人が、最も若くて良い身体や皮膚を持っているものだ。これらすべて、人の身体作りは科学に基づくべきものということだろう。
 顔の皮膚の若々しい張りでさえ、どんな化粧品なども問題外の力で筋肉と血流の強さが保ってくれるということを、どれだけの人が知っているのだろう。顔などの皺が増えてくる、その皮膚が白っぽくなるなどもみな、筋肉、血流の衰えによるものである。

 因みに僕は身長169センチ、体重58キロ、体脂肪率13%内外と、ほぼ「生涯一体型」であり、礼服も30歳に作った「生涯一着」で済んで来た。その最も大きい原因を77歳の今色々考えてみて、若い頃身につけた運動習慣と、中でも特に自転車の習慣に、思い当たるのである。高校、大学の通学も自転車だったし、今の連れ合いとのデイトも自転車同伴で相乗りしたり、40代の10年ほどは片道9キロの通勤を自転車でやっていた。この40代の通勤が特に大きかったと振り返ることができる。また、今思えば、58歳でランニング入門をできて今もランナーでいられるのも、自転車のおかげと考えてきた。
 多少息づかいが荒い程度で、出来るだけ30分以上は乗るというのが、効果が高いやり方である。
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随筆 『 安渓「観音王」 』 文科系

2021年08月09日 10時04分49秒 | 文芸作品

 退職後も現役時代の延長のようにボランティアとして中国に通い続けているある友人から、中国茶を貰った。金属の小箱に「観音王」と書いてあるから、いわゆる鉄観音だろうという以外には何の知識も湧かないものだ。それが、もの凄く美味い。日本茶はもちろん、紅茶も中国茶もいろいろと試してきた僕として、即、礼状メール。
『今、連れ合いとお土産の鉄観音の方を飲んだばかりだ。中国流の「青茶」、半発酵茶として超有名なのだが、プーアルやジャスミンはおおいに飲んできたのに、鉄観音を自分で煎れたのは、実は初めて。ふたりで「美味いねー!」と言い続けている。僕の感じでは、青っぽい高貴な味は最高級煎茶と同じもの。それに、独特の発酵の若やいだ香りというのかが混じって、もう最高。加えて、さっきから既に同じ茶葉で五煎はやったんだが、あの大きな茶葉からはその味がほとんど無くならない。質問がある。中国のどの街の、どういう所で買ったの? それとも、有名百貨店などには大体売っている品物なのかな?』
 対する友人の返事が、こう。
『中国茶の件、こちらこそ礼を言いたいくらい。というのはこれまで多くの友人に高級なお茶をプレゼントしたが、殆どの人はその価値を分かってくれなかった。こんなに喜んでもらったのは初めてでとても嬉しい』
 あの茶自身への質問に友人が答えていないところを見ると、彼もあれの氏素性を知らないのだ。そこでまた、こんなメール。
『中国茶のことだけど、煎れ方までを説明できると貴方の友人にも良いのだが。(中略)あれはこんな感じかな。「茶葉はあの一袋が日本式高級煎茶湯飲みで二人分程度、九十度ぐらいにして、二分待つ」。中国では多分、熱湯を注ぐのだろうけどね。これで、一揃目は香りをかぐ程度のものになって、二揃目(これも心持ち湯冷ましする。三揃目でも僕は冷ますね)から俄然味が出て美味くなり、何回も煎れられる。お茶が上手くなるコツは、お湯を入れて待つ間に、ちょこちょこっと味見をしてみること。すると、「いま出す」「もうちょっと待つ」など、その茶の一番良い味が分かってくるのね。(中略)今後新しいお茶があったら「これどう出すの」と僕に聞けば、研究したげるよ。それから友だちにあげればどう?僕が得しちゃうけど、試供品程度でヨイからね』
 こんな返事が返ってきた。
『おはよう。心にグッとくるメールをありがとう。味オンチの私にはこの鉄観音の良さが余り分かっていないようで恥ずかしい。でもこれだけ味が分かり喜んで頂ける人に飲んでもらうのは、このお茶にとっても幸せなことかもしれないね』
 そこで僕は思い付いて、友人に頼るのではなく自分でこの茶の正体を調べてみた。
 中国は福建省の安渓県鉄観音、中国最高の代表的な鉄観音である。缶を改めて読んでみたら米粒のような字でちゃんとそう書いてあった。さらに、ウィキペディアで、こんな事も分かってきたのだった。
【「安渓鉄観音──南岩鉄観音とも呼ばれる最も代表的な鉄観音である。福建省の安渓県を中心とした地域で生産されている。そのうちでも最上級銘柄として扱われるものに「正ソウ観音王」(ソウは木偏に叢)がある】
 このお茶がまさにこの「正欉観音王」かどうかはさておき、僕も自分でこれを買おうと思って調べてみた。またびっくりなのである。この種のものを日本輸入店から買うとまず、百グラムが三千円~三千五百円とある。本当に驚いた。僕がつきあっている掛川の日本茶直売センターの最高級煎茶でも二千五百円。これはずば抜けて高くって一度しか買った事がない。僕の普段のは、玉露以外なら奮発しても千円なのだ。
 さてさて、ここまで訊ねたらもう現物探しというわけで、デパートへと繰り出した。結果を先に言うと惨憺たるものだった。先ず三越に行って二店二種あったうちで、期待薄を承知で一品購入。松坂屋はそれより高価なのを試飲させてくれたけど、一口飲んでサヨウナラ。仕方がないので足を伸ばして、高島屋。ここは三種あって、先のネット・カタログよりも高い「王級 鉄観音」というのを三十グラムだけ買ってきた。すぐに二つを飲んでみたが、前者は問題外、後者も今一歩。鉄観音には清香と濃香の二種があるらしいが、僕が好きなのはどうも焙煎の薄い清香の方らしい。そして、これがべらぼうに高いらしい。頂いたものは、本物の「正欉観音王」かも知れないなんぞと、そんな気もしてきたものだ。
 さて、以上の一部始終を友人にメールでお知らせした。そして、こんな言葉で締めくくった。
『僕は、自分の舌に自信を持つことができて、それが嬉しい。二千年を遙かに超える茶の伝統がある中国の歴代生産者たちを訪ねていったような気もするしね。その最高傑作のことを、あれこれいろいろと、尋ねてきたような』

 

(2011年3月、同人誌に初出)

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随筆 今時の共働き仲間たち   文科系

2021年08月08日 17時39分26秒 | 文芸作品
 
 僕の正面二〇メートルほどにある大型滑り台には、四人ほどの子ども。赤青黄色など何本もの滑り台が付いている二つの塔を吊り橋で繋いだ大きな遊具その上をあちこち行き交っているのだが、速い子、所によりおそるおそるに近い子と様々であるのに思わず目を細めたりしていた。一人の男性が、その場面のあちこちをカメラで撮ってまわっているのが見える。その向こう二十メートルほどに、今まさに高速で回っている黄色くて丸いジャングルジム。大人の男性二人を上の方に乗せて、子どもたちだけでジムの同一円周上を汗水垂らして走り回っている真っ最中である。
 四~五歳ほどが主体と思われる子どもが十人近くと、父親四人。その内の一人はベンチに座って、赤ん坊にお茶を飲ませている。街中のちょっとした公園、五月のある日曜日昼のこの光景を僕は今、全体が見渡せるベンチから眺めている。さっきから何度も微笑みが浮かび、心が温かくなっていた。僕の孫娘、ハーちゃんの保育園同級生とそのお父さんたちなのである。先程までハーちゃんの家でこの全員でハーちゃんパパが作った焼きそばの昼食を平らげ、好きなお父さんたちは缶ビールを一本ずつほど干しあって、ここに遊びに来てからでもほぼ二時間近くになる。お母さんたちはといえば、今日はイタリアンランチの昼食会で、あるトラットーリアに出かけている。今頃はきっと、お喋りも大詰めでさぞ盛り上がっていることだろう。お父さんの何人かと僕が子守を引き受けたから成立した企画であって、こと更にイクメンなどと連呼される今の日本だが、こんな光景は昔からあるところにはあったと僕はよく知っている。ある種の保育園では年中行事になっているとでも言えるように。

 ここにやってきてからでも二時間は経って十五時に近くなった頃、公園の一角がにわかに賑やかになった。大型のワゴン車二台が到着して、車から続々と出て来た十人を越える若いママたち。それぞれおしゃれした姿は最近の流行なのか黒を基調とした中でも、人によって色とりどりで眩しく、またまた微笑ましく眺めることになった。子どもたちが一斉にそこに駆け付けていく。大急ぎの子、ゆっくりの子と、様々であるのに、又目が細くなっていた。

 さて、僕はここまでで家に帰ったのだが、その後も娘の家で有志によるパーティーが続いていたようだ。今度は父母合同だったのだろう。家に帰ってかなり経ってから、こんな電話があったから分かったことだ。電話に出たらいきなり「ハッピーバースデー・トゥー・ユウ」の混声合唱が聞こえる。暫くして娘の声で「まだみんなでやってるよ! おめでとう!」。僕はすっかり忘れていたのだが、この日は僕の七十四歳の誕生日だった。
 
 
(2015年5月、同人誌に初出)
 
 今日現在書いた注  文中「トラットーリア」と書いたが、これは家庭料理店というイタリア語。フランスのビストロに当たる言葉だ。ところが、このお店は確か当時でも立派なレストランで、ミシュランの一つ星が付いている。文中の保育園のクラスに長女を預けている父母が経営し、お父さんがシェフをやっているお店なのである。そういう条件があったから生まれた企画だったとも言える。その店は、ビッチーノと言い、千種区の名古屋市都市高速春岡入り口のすぐ南にある。今ではもうなかなか予約が取れないので有名なお店になっている。 
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随筆  戦争信仰   文科系

2021年07月15日 20時40分39秒 | 文芸作品
 
 あるブログの共同運営を大学時代からの友人に頼まれて十五年やってきたが、そこでいろんなネット右翼諸氏とやりあってきた。ブログ名称に「憲法九条」が入っているゆえなのだろうが、こういう方々の訪問が絶えなかったからだ。たとえば、
『平和を願い、母国を愛する一未成年から反論させていただきたい。…………以上、反論があれば随時丁重にお返しさせていただく故、フェアに品のある議論を望む』
 これは「平成の侍」と名乗られたお方が僕の文章に寄せてきた長文コメントの冒頭と末尾だが、たった一回僕が出した回答に対して、もうお返事が何もなかった。僕の文章内容が彼が考えたこともないようなものだったから再回答のしようがなかったのであろうが、はてこれは「フェアに品のある議論」であったのかどうか、難しいところだ。

 こんなふうに知識も思考力も様々な方々を相手にしたこの十五年、実に多領域の勉強をさせられたし、いろいろ考えさせられつつ今日まで来た。慰安婦問題は明治維新以降百年の日朝関係史学習にまで拡がっていったし、南京虐殺や「連合国史観」は「アジア・太平洋戦争史」の復習に繋がった。こちらが学んでいくごとに「これだけ稚拙な知識しかない相手が、どうしてこれだけ自信ありげに頑張れるのだろうか」と気付き始めた。その度に訝り、考え込んで来たのがこのこと。これだけ確信ありげに語るのは、世界も狭いからというだけではなく、自分を納得させ、確信させる信念を何か持っているからだろうが、それって何なんだろうかと。これらすべてにおいて、同じ人間という生き物に、どうしてこれだけ見解の相違が生じるのだろうかと、そんな哲学的問題意識をも温めつつ、相手の言い分を観察してきた。
 そこで最近になってようやく気付いたのが、これだ。

 さて、戦争違法化が、二十世紀になって世界史上初めてその国際組織と法が生まれたりして着手されたが、地上から戦争はなくせるのだろうか。この問題で極めて簡単な正しい理屈が一つある。戦争はずっとなくならないと語る人は「その方向」で動いていると言えるのだし、なくせると思う人はそういう方向に「参加していく」のである。つまり、戦争が未来になくなるか否かという問題とは、民主主義時代の世界にとっては何か宿命的に決まっているようなものではなく、今及び将来の世界の人間たちがこれをどうしようと考え、振る舞うだろうかという実践的な問題なのである。世界の政治課題というものは、人間が決めるものだと言い換えても良いだろう。ところが、人間が決めるものだというこの真理を意識せずして否定する以下のような「理論」に最も多く出会えたのだと理解してから、僕の頭はすっきりした。

 社会ダーウィニズムという今は誤りだとされた社会理論がある。その現代版亜流の世界観が存在するようだ。「動物は争うもの、人間もその国家も同じだろう。そうやって、生物は己自身を進化させてきたのであるから」。この理論で言えば夫婦ゲンカも国同士の戦争も同じ(本質の)ものになる。そして、夫婦ゲンカは永遠になくならないから、戦争もそうだろうと、大威張りで確信できるわけだ。
『動物の争いは永遠になくならないのだから、人間も永遠に争うものである』
『人間は争うものだから、国家の戦争も無くならない』
 これが、ネット右翼諸氏の世界と政治を観る無意識の出発点なのである。最近、そう気付いた。対案はこれしかない。「二十世紀には人類史上初めて戦争違法化に向けた国際法、国際組織も生まれたではないか」、「国王などだけの意思で戦争を起こせた過去に対して、20世紀以降は為政者が国民を説得しなければ戦争はできない」、「身分や人種差別があった過去に対して民主主義が広まった今は、戦争は相手をも殺すという意味も含めて、嫌われるようになった」などなどの歴史的事実と、戦争はなくせるという世界観とを広めていくこと。その実を例え少しずつでも、粘り強く作り広げていくこと。

 以上ありふれて見えるようなことを書いたが、正面からは案外批判されてこなかった誤った戦争に関わる信念が巷に溢れていると言いたい。この日本には特に広く。集団主義ムラ社会の中で激しい競争を演じてきた団塊世代以降では、自然に持つ世界観なのかも知れない。
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掌編小説 夕風が通るカウンターで  文科系

2021年07月10日 12時12分43秒 | 文芸作品

 木目が透けて見える、薄灰色・半楕円形の大きなカウンターが気に入ってなのだろうか、この頃思い出したように入る店だった。シートにへたばり込んだとき、五月の夕暮れの風に迎えられたように感じた。
〈南北の窓を吹き抜けてる、高台の風らしい。それにしても『風』に思い入れなんて、柄にもない。これも疲れすぎの症状なのだろう、横浜単身赴任も一年過ぎたし・・・〉後半は、半分つぶやいてもみながら、出されたおしぼりで顔をぐるぐる拭き回す。
「壜生ビールっ!」と告げて右の方に目をやったそのとき、〈ウンッ?!〉何か心が騒いだようだ。曲がったテーブル沿い三つばかりのシートを隔てたその先のカップルが、彼の注意をひいたのだ。首を数度コキッコキッとゆっくり回しながら、二人をうかがってみる。
〈女は二十代半ば、黒のちょっとスケスケっ! いい女じゃん。男は四十代中頃、俺よりちょっと若いか。おしゃれしてるけど、この女には似合わんな〉
 二人の会話は音楽会か何かのことで、それもかなり突っ込んだ話のようだ。女が、隙間ないという感じで男に張り付き、その肩やら背中やらに手を持って行く仕草も、えらく男の目に障った。
〈ちっくしょう、良いところ行く前なんかなあ。そういや俺は、三週間も家に帰れてないよ〉
「義理で抱いたことはない」と言い切れる、名古屋の妻の姿態がちらついてくる始末だった。急に手が伸び、薬を飲むような顔でコップを飲み干した。すると、自分ながらわけが分からなかったが、四つ先のシートのその男に身体を傾けて、話しかけていた。
「羨ましいことで・・・」
 二人が顔を見合わせたあと、男の方がこちらに微笑みを返しただけで、何も言わない。
「単身赴任の身には目に毒ですよ。今からもっともっと良い所へ行かれるんでしょ?」 

 とこんなやり取りが男二人の間でちょっと続いた時、女が携帯を取りだして何か番号を入れ、男の脇をつついてそれを差し出す。ちらっと画面を見た男が頷いて、通話を始めた。
「もしもし、母さん? いまテツコと飲んでる。横浜出張はこれがあるから良いんだよね・・・ピアノも学校でも家でもかなり情熱的にやってるみたいだよ・・・」
〈えっ、親子? それに、女は、音大生。か? 娘とオヤジで飲みに来るかぁ?〉
 この語尾を、もう一度つぶやくように繰り返していた。
 びっくりしたという以上に、どういうものか、自分の一部が否定されたような、ある苦さを感じていた。
〈娘が、オヤジと飲みに来るかぁ?〉もう一度繰り返していた。そして、自然なように父に手を触れていたさっきのイメージが浮かび、ふりかえって、あからさまに娘を見つめた。娘は、父の電話に合わせて微笑んだり、軽くうなづきかけたりしている。それを見つつ彼の頭に一瞬閃いたのは、こんなことだった。
「日頃とっても良い父さんしてるんだろうな。こういう人の仕事ぶりって、一体どういうもんなんだろう?」
 この父娘のイメージを軽く払うように、彼は、また苦い顔で一気にコップを飲み干した。

 

(1999年1月、同人誌に初出)

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随筆 孫はなぜ面白くて、可愛いか  文科系

2021年06月21日 04時11分36秒 | 文芸作品
「じい、今日は満月なんだねー、いつも言うけど本当に兎がいるみたい……」。
 小学三年生になったばかりの孫のはーちゃんがしばらく夜空を仰いでいたが、すぐにまた「馬跳び」を続けていく。綺麗に整備された生活道路の車道と歩道とを分け隔てる鉄の棒杭をぽんぽんと跳んで行く遊びで、俺はこの光景が大好き。確か、四歳ごろから続けてきたものだが、初めはちょっと跳んで片脚だけをくぐらせるような下手だった……。我が家から五百メートルばかり離れた彼女の家まで送っていく道の途中なのだ。それが今では、学童保育に迎えに行って、我が家でピアノ練習、夕飯、宿題の音読に風呂も済ませて、俺は一杯機嫌で送っていく日々なのである。こんなことを振り返りながら。

 学童保育でやってくる宿題や、音読は好きだからよいのだが、ピアノ練習は大変だった。これがまた娘も俺も、勉強以上というか、ここで勉強の態度もというか、とにかく物事に取り組む態度を身につけさせようとしているから、闘争になってしまう。憎しみさえ絡んでくるようなピアノ闘争だ。はーちゃんは娘に似て気が強く、『嫌なものは嫌』が激し過ぎる子だしなー。ピアノの先生の部屋でさえ、そう叫んであそこのグランドピアノの下に何回潜り込んでしまったことか。そんなふうに器用でも勤勉でもない子が、馬跳びや徒競走となるとまー凄い執念。
と、最後を跳び終わった彼女が、ふっと、
「じいが死んだら、この馬跳びやお月様のこと、きっと良く思い出すだろうね」
 俺が死んだらというこの言葉は最近何回目かだが、この場面ではちょっと驚いた。死というのは俺が折に触れて彼女に口にして来た言葉だから?またこの意味がどれだけ分かっているのか? などなどとまた考え込んでいた時、「孫は、何故これほど面白く、好きなのか」という積年の問題の答えがとうとう見つかったような気がした。
『相思相愛になりやすい』
 一方は大人の力や知恵を日々示し、見せる。他方は、それに合わせてどんどん変化して行く姿を見せてくれる。それが孫と爺であってみれば、それまでの人生が詰まってはいるが寂しい晩年の目で、その人生を注ぎ込んで行く相手を見ているのである。これは人間関係に良くある相思相愛の良循環そのものだろう。これに対して、あのピアノには明らかに悪循環がある。憎しみにさえ発展していきかねない悪循環。という所で、ふっと気づいたのが、その証明のような一例。最近小学四年生だったかの女の子をDVの末に殺してしまった父親はどうも典型的な教育パパだったようだ。教育パパが転じて憎しみの権化になる。そう、俺らの良循環とピアノの悪循環は、あの父と子の悪循環と兄弟なのかも知れない。だから、思春期の子どもに起こって来るものと昔から言われてきた激しい家離れ、家への憎しみも、この兄弟の一方・悪循環の結果でもあるのだろう。「可愛さ余って憎さ百倍」、俺にもあった激しい家離れ、家への憎しみの時代を思い起こしたものだ。

 さて、以降の俺は、激しいピアノ闘争の後などに度々こう付け加えることになった。
「いつも言ってきたように僕ははーちゃんが大好き。だからこそ、貴女にとって大事なこととママたちと話し合って来たことをさぼると、特に強烈に、怒るんだからね」
 でも、このやり方が思春期まで成功するとは到底思えない。ゲームとか動画、録画とか、成長期にやり過ぎてはいけないものが今の世には溢れ過ぎている。今の子育てに、我々年寄りは何て不向きなんだろうとも、度々悩んできたところだ。

さて、こう言い続けてきたせいか、あるいは彼女がそういう年になったということなのか、暫くしてこんなことが起こった。自分からピアノに向かうようになったし、その時間も長くなった。そして、先日のピアノ・レッスンに久しぶりに俺が頼まれて連れて行ったのだが、初めてという光景を見ることになった。先生のいつにない静かだが厳しく、長い小言を我慢して聞いているのである。ピアノの下に潜っていかないか、トイレに逃げ出さないかと俺はハラハラしていたのだが、結局頑張り通した。そして、終わった後、帰りの車で静かに泣き出した。そう、これがちょっと大人に近づいた涙。これからはこれを一杯流して、素敵な大人、人間になってゆけ……。などと思いながら黙ってその横顔を見ていたら、俺も涙ぐんでいた。
 
 
(所属同人誌に2019年春、初出作品)
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随筆 死に因んで  文科系

2021年06月20日 04時51分23秒 | 文芸作品

 心臓カテーテル手術をやった。麻酔薬が入った点滴でうつらうつらし始めてちょっとたったころ、執刀医先生の初めての声。
「これからが本番です。眠っていただきます」。
 ところがなかなか眠りに入れない。眠ったと思ったら、間もなく目を覚ます。痛い。するとまた、意識が薄らいでいくのだが、また覚醒。そんなことが三度ほど繰り返されたので、「痛いです」と声をかけた。執刀医の先生、かなり驚いたように何か声を出していた。
 さてそんなときずっと、いやに冴えている頭脳である思いにふけっていた。大事故の可能性もある手術と、意識していたからでもあろう。手術自身はちっとも怖くはなかったのだけれど、こんなことを考えていた。
「このまま死んでいっても良いな。死は、夢を見ない永遠の眠り、か」
 知らぬ間に生まれていたある心境、大げさに言えば僕の人生の一つの結実かも知れないなと、噛みしめていた。

 小学校の中頃友人を亡くして、考え込んでいた。「彼には永遠に会えない。どこにいるのだ」。ひるがえって「僕もそうなる」。それ以来自分が死ぬということを強く意識した。間もなくこれが「永遠の無」という感じに僕の中で育っていって、何とも得体が知れぬ恐怖が始まった。この感じが寝床で蘇って、何度がばっと跳ね起きたことか。そんな時はいつも、冷や汗がびっしょり。そしてこの「症状」が、思春期あたりから以降、僕の人生を方向付けていった。「人生はただ一度。あとは無」、これが生き方の羅針盤になった。大学の専攻選びから、貧乏な福祉団体に就職したことも、かなり前からしっかり準備した老後の設計まで含めて、この羅針盤で生きる方向を決めてきたと思う。四人兄弟妹の中で、僕だけが違った進路を取ったから、「両親との諍い」が、僕の青春そのものにもなっていった。世事・俗事、習慣、虚飾が嫌いで、何かそんな寄り道をしなかったというのも同じこと。自分に意味が感じられることと、自分が揺さぶられることだけに手を出して来たような。こうした傾向を、二十歳の春から五十年付き合ってきた連れ合いはよく知っており、「修業している」といつも評してきたものだ。

 ハムレットの名高い名台詞「生きるか、死ぬか。それが問題だ」でも、その後半をよく覚えている。「死が眠りであって俺のこの苦しみがなくなるとしたらこんな良い終わり方はないと言えるが、この苦しみがその眠りに夢で現れるとしたら、それも地獄だし?」というような内容だったかと思う。この伝で言えば、今の僕のこの「症状」ははてさて、いつとはなしにこんなふうに落ちついてきた。
「夢もない永遠の眠り。それに入ってしまえば、恐いも何もありゃしない」
 どうして変わってきたのだろうと、このごろよく考える。ハムレットとは全く逆で、人生を楽しめているからだろう。特に老後を、設計した想定を遙かに超えるほどに楽しめてきたのが、意外に大きいようだ。ギター、ランニング、同人誌活動、そしてブログ。これらそれぞれの客観的な出来はともかく、全部相当なエネルギーを費やすことができて、それぞれそれなりに楽しめてきた。中でも、ギター演奏、「音楽」はちょっと別格だ。自身で音楽することには、いや多分自分の美に属するものを探り、創っていく領域には、どういうか何か魔力がある、と。その魔力ぶりは僕の場合、こんな風だ。
 この二月から、ほぼある一曲だけにもう十ヶ月も取り組んでいる。南米のギター弾き兼ギター作曲家バリオスという人の「大聖堂」。楽譜六ページの曲なのだが、この曲だけを日に一~二時間練習して先生の所に十ヶ月通ってきたことになる。長い一人習いの後の六十二の手習い七年で上級者向け難曲なのだから、通常ならとっくに「今の腕ではまーここまで。上がり」なのだ。習って二ヶ月で暗譜もし終わっていたことだし。が、僕の希望で続けてきた。希望するだけでは、こんなエネルギーが出るわけがない。やればやるほど楽しみが増えてくるから、僕が続けたかったのである。「この曲はもっと気持ちよく弾ける、その為には」。ギターの構えから、長年の悪癖までを、この半年ほどでいくつ苦労して修正してきたことか。こんな熱中ぶりは、自分でも訝しいほどである。
 ギターを習い始めて、これと同類の事をもういくつも体験してきたように思う。

「何かに熱中したい」、「人が死ぬまで熱中できるものって、どんなもの?」若いころの最大の望みだった。これが、気心の知れた友だちたちとの挨拶言葉のようにもなっていたものだ。今、そんな風に生きられているのではないか。日々そう感じ直している。

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八十路ランナーの手記(358) 〝ランニング賛歌〟  文科系

2021年06月19日 07時51分19秒 | 文芸作品

 これは、2015年春に所属同人誌の月例冊子に掲載したもの。以来6年たっていますが、年を取る程にランニングの意味がもっともっと分かって来たものです。

【 ランニング賛歌 

 五十九歳からランニングを始めた僕は、五月が来ると七四歳になる。ランが老後にこれだけの恵みを与えてくれるとは、想像もつかぬことだった。
 膝が痛い? 新聞広告に満載される、コンドロイチンにグルコサミン? 若い頃椎間板ヘルニアで手術をしたこの身体なのに、その腰ばかりか膝にも、何のサプリメントも要らない。そもそも肩や首など、こったことがない。だから、パソコンに向かい続けていて、ふと気がつくと四~五時間なんてことはざらである。痩せるための健康器具? 体質もあるだろうが、僕が二十代に作った式服を着られるのは、スポーツ好きと今のランニングのおかげと確く信じている。身長一六九センチ体重五七キロで、二八インチのジーパンをはいている。ずらずらとこう書くとこの時代には特に自慢にしかとられないのは承知だが、まー一生懸命やってきたランニングの絶大な効果を伝えたいのだと、ご理解願いたい。
 医者たちからはこんな話も聴いている。「時速七キロ以上で歩ける人は長生きする」。当然、そうだろう。血管も含めた循環器系統が健全ならば、成人病も逃げ出すというもの。歯医者さんでこんなかけ声が行き交っているが、同じ理屈関連とも教えられた。「八〇歳まで自分の歯が二〇本ある人は、長生きする」。「健全な循環器系は細菌に対して免疫力があるということ。虫歯菌にも歯槽膿漏などにも強いのです」と教えられた。

 さて、こう考える僕だったから、六九歳新春に起こった慢性心房細動には、対する心臓カテーテル手術・ランニング禁止では、僕の人生が終わったと感じた。手術以前も、つまり慢性心房細動になる直前までは、不整脈を抱えてずーっと走り続けていたのである。それが手術の後には、無期限でもう止めなさいと医者に宣告されたのである。そんな未練からなのだが、七一歳の夏に医者に隠れて走り出し、「大丈夫」という実績をほんの少しずつ作っていった。秋には、主治医からの公認も取り付け、ジムに通い出す。以降故障や事故や試行錯誤等々も重なったけれど、今は心房細動前六六歳ごろの走力に戻っている。この一月七日、一時間の走行距離が念願の一〇キロに達した。僕にとっては六〇歳台半ばの走力に回復して、数々のメリットを改めて体感しているのである。最も嬉しかったのはこんなことだ。
 階段の上り下りが楽しいのである。地下鉄などの長い階段を一段飛ばしで登り切っては、脚の軽さを味わっている。一時無理がたたってアキレス腱痛に長く悩まされたが、試行錯誤を重ねつつこれを克服し終えた時に、新たに生まれた脚の軽さ、弾み! スキップが大好きだった子ども時代を思い出していた。

 昔の自分の小説で思いついて書いた僕なりのランニング賛歌を最後に加えて、結びとしたい。自分ながら好きな文章なのである。 
『ボスについて走り続けるのは犬科動物の本能的快感らしいが、二本脚で走り続けるという行為は哺乳類では人間だけの、その本能に根ざしたものではないか。この二本脚の奇形動物の中でも、世界の隅々にまで渡り、棲息して、生存のサバイバルを果たして来られたのは、特に二本脚好きの種、部族であったろう。そんな原始の先祖たちに、我々現代人はどれだけ背き果ててきたことか?! 神は己に似せて人を作ったと言う。だとしたら神こそ走る「人」なのだ』 】
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掌編小説  日本精神エレジー  文科系

2021年04月27日 09時49分05秒 | 文芸作品

この小説は何度目かの掲載ですが、また載せます。

 
「貴方、またー? 伊都国から邪馬台国への道筋だとか、倭の五王だとか・・・」
 連れ合いのこんな苦情も聞き流して、定年退職後五年ほどの彼、大和朝廷の淵源調べに余念がない。目下の大変な趣味なのだ。梅の花びらが風に流れてくる、広縁の日だまりの中で、いっぱいに資料を広げている真っ最中。
「そんな暇があったら、買い物ぐらいしてきてよ。外食ばっかりするくせにそんなことばっかりやってて」
「まぁそう言うな。俺やお前のルーツ探しなんだよ。農耕民族らしくもうちょっとおっとり構えて、和を持って尊しとなすというようにお願いしたいもんだな」

 この男性の趣味、一寸前まではもう少し下った時代が対象だった。源氏系統の家系図調べに血道を上げていたのだ。初老期に入った男などがよくやるいわゆる先祖調べというやつである。そんな頃のある時には、夫婦でこんな会話が交わされていたものだった。
男「 源氏は質実剛健でいい。平氏はどうもなよなよしていて、いかん」
対してつれあいさん、「質実剛健って、粗野とも言えるでしょう。なよなよしてるって、私たちと違って繊細で上品ということかも知れない。一郎のが貴方よりはるかに清潔だから、貴方も清潔にしてないと、孫に嫌われるわよ」
 こんな夫に業を煮やした奥さん、ある日、下調べを首尾良く終えて、一計を案じた。
「一郎の奥さんの家系を教えてもらったんだけど、どうも平氏らしいわよ」
男「いやいやDNAは男で伝わるから、全く問題はない。『世界にも得難い天皇制』は男で繋がっとるんだ。何にも知らん奴だな」
妻「どうせ先祖のあっちこっちで、源氏も平氏もごちゃごちゃになったに決まってるわよ。孫たちには男性の一郎のが大事だってことにも、昔みたいにはならないしさ」
 こんな日、一応の反論を男は試みてはみたものの、彼の『研究』がいつしか大和朝廷関連へと移って行ったという出来事があったのだった。

 広縁に桜の花びらが流れてくるころのある日曜日、この夫婦の会話はこんな風に変わった。
「馬鹿ねー、南方系でも、北方系でも、どうせ先祖は同じだわよ」
「お前こそ、馬鹿言え。ポリネシアとモンゴルは全く違うぞ。小錦と朝青龍のようなもんだ。小錦のがおっとりしとるかな。朝青龍はやっぱり騎馬民族だな。ちょっと猛々しい所がある。やっぱり、伝統と習慣というやつなんだな」
「おっとりしたモンゴルさんも、ポリネシアさんで猛々しい方もいらっしゃるでしょう。猛々しいとか、おっとりしたとかが何を指すのかも難しいし、きちんと定義してもそれと違う面も一緒に持ってるという人もいっぱいいるわよ。二重人格なんてのもあるしさ」
 ところでこの日は仲裁者がいた。長男の一郎である。読んでいた新聞を脇にずらして、おだやかに口を挟む。
一郎「母さんが正しいと思うな。そもそもなんで、南方、北方と分けた時点から始めるの」
男「自分にどんな『伝統や習慣』が植え付けられているかはやっぱり大事だろう。自分探しというやつだ」
一郎「世界の現世人類すべての先祖は、同じアフリカの一人の女性だという学説が有力みたいだよ。ミトコンドリアDNAの分析なんだけど、仮にイブという名前をつけておくと、このイブさんは二十万年から十二万年ほど前にサハラ以南の東アフリカで生まれた人らしい。まーアダムのお相手イヴとかイザナギの奥さんイザナミみたいなもんかな。自分探しやるなら、そこぐらいから初めて欲しいな」
男「えーっつ、たった一人の女? そのイブ・・、さんって、一体どんな人だったのかね?」
一郎「二本脚で歩いて、手を使ってみんなで一緒に働いてて、そこから言語を持つことができて、ちょっと心のようなものがあったと、まぁそんなところかな」
男、「心のようなもんってどんなもんよ?」
一郎「昔のことをちょっと思い出して、ぼんやりとかも知れないけどそれを振り返ることができて、それを将来に生かすのね。ネアンデルタール人とは別種だけど、生きていた時代が重なっているネアンデルタール人のように、仲間が死んだら悲しくって、葬式もやったかも知れない。家族愛もあっただろうね。右手が子どもほどに萎縮したままで四十歳まで生きたネアンデルタール人の化石もイラクから出たからね。こういう人が当時の平均年齢より長く生きられた。家族愛があったという証拠になるんだってさ」
妻「源氏だとか平氏だとか、農耕民族対狩猟民族だとか、南方系と北方系だとか、男はホントに自分の敵を探し出してきてはケンカするのが好きなんだから。イブさんが泣くわよホントに!」
男「そんな話は女が世間を知らんから言うことだ。『一歩家を出れば、男には七人の敵』、この厳しい国際情勢じゃ、誰が味方で誰が敵かをきちんと見極めんと、孫たちが生き残ってはいけんのだ。そもそも俺はなー、遺言を残すつもりで勉強しとるのに、女が横からごちゃごちゃ言うな。親心も分からん奴だ!」

 それから一ヶ月ほどたったある日曜日、一郎がふらりと訪ねてきた。いそいそと出された茶などを三人で啜りながら、意を決した感じで話を切り出す。二人っきりの兄妹のもう一方の話を始めた。
「ハナコに頼まれたんだけどさー、付き合ってる男性がいてさー、結婚したいんだって。大学時代の同級生なんだけど、ブラジルからの留学生だった人。どう思う?」
男「ブ、ブラジルっ!! 二世か三世かっ!?!」
一郎「いや、日系じゃないみたい」
男「そ、そんなのっつ、まったくだめだ、許せるはずがない!」
一郎「やっぱりねー。ハナコは諦めないと言ってたよ。絶縁ってことになるのかな」
妻「そんなこと言わずに、一度会ってみましょうよ。あちらの人にもいい人も多いにちがいないし」
男「アメリカから独立しとるとも言えんようなあんな国民、負け犬根性に決まっとる。留学生ならアメリカかぶれかも知れん。美意識も倫理観もこっちと合うわけがないっ!!」
妻「あっちは黒人とかインディオ系とかメスティーソとかいろいろいらっしゃるでしょう?どういう方?」
一郎「全くポルトガル系みたいだよ。すると父さんの嫌いな、白人、狩猟民族ということだし。やっぱり、まぁ難しいのかなぁ」
妻「私は本人さえ良い人なら、気にしないようにできると思うけど」
一郎「難しいもんだねぇ。二本脚で歩く人類は皆兄弟とは行かんもんかな。日本精神なんて、二本脚精神に宗旨替えすればいいんだよ。言いたくはないけど、天皇大好きもどうかと思ってたんだ」
男「馬鹿もんっ!!日本に生まれた恩恵だけ受けといて、勝手なことを言うな。天皇制否定もおかしい。神道への冒涜にもなるはずだ。マホメットを冒涜したデンマークの新聞は悪いに決まっとる!」
一郎「ドイツのウェルト紙だったかな『西洋では風刺が許されていて、冒涜する権利もある』と言った新聞。これは犯罪とはいえない道徳の問題と言ってるということね。ましてや税金使った一つの制度としての天皇制を否定するのは、誰にでも言えなきゃおかしいよ。国権の主権者が政治思想を表明するという自由の問題ね」
妻「私はその方にお会いしたいわ。今日の所はハナコにそう言っといて。会いもしないなんて、やっぱりイブさんが泣くわよねぇ」 
男「お前がそいつに会うことも、全く許さん! 全くどいつもこいつも、世界を知らんわ、親心が分からんわ、世の中一体どうなっとるんだ!!」
と、男は一升瓶を持ち出してコップになみなみと注ぐと、ぐいっと一杯一気に飲み干すのだった。


(当ブログ06年4月7日に初出。そのちょっと前に所属同人誌に載せたもの)
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