毎日文庫のこの本は、学術会議会員推薦名簿で任命が削られた日本近代史学者・加藤陽子が書いたもの。その本の開戦、および 天皇の戦争責任に関わる部分を抜粋して、書評に変えたい。
先ず、よく言われる「英米との国力の違いは知っていたろうに、どうしてあんな戦争に無謀にも突入したのか?」
『1941年夏、当時の南部仏印(フランス領インドシナ南部)に進駐した日本軍の行動に対し、石油の対日全面禁輸で米国が応じたことはよく知られた史実だった。この時、日本側の目の前にあった選択肢は二つ。①避戦に努めるが、2,3年後に石油の備蓄は確実に尽きる石油の備蓄は確実に尽きる、②開戦すれば極めて高い確率で日本は負けるが、極めて低い確率ではあるがドイツの英国本土上陸作戦が成功し、米国が日本との講和に応ずる可能性はある。当時の日本は、この②の方の選択肢に賭けた。起こる可能性が非常に低いとわかっていても、人は損失がゼロになる選択肢の方を選ぶ』(p335)
この記述内容にちなんで、この本の全く別の所に、こんな解説になる物が記されていた。牧野邦昭著「経済学者達の日米開戦」の紹介として。
『1941年10月末から11月初めの大本営政府連絡会議において、物的国力判断がなされたのはご存じだろう。都合のよい数値を並べた企画院や軍部の主張が勝ち、開戦が決定された。この経緯を知る者は、石油1対777といった日米の格差を会議の席上で開陳し、数値を用いて無謀な開戦を阻止しようとした機関などなかったのか、と誰しも思うだろう。』
と、こう書いた上で、陸軍省戦争経済研究班(秋丸機関)の報告内容をこのように紹介していく。
『だが、と著者は言う。報告書の結論、英米経済力の弱点を船舶輸送力と見、大西洋上のドイツによる船舶撃沈量を月50万トン維持できれば、枢軸国にも勝機はあるとの結論などは、当時の一般雑誌にも普通に掲載されていた常識的な議論に過ぎない、と断ずる。・・・・日本側は正確な情報を掴んでいた。そのうえで行動経済学の知見は次のように教えると著者は言う。現状維持の選択肢と、開戦の選択肢が並ぶ時、国際環境の変化などによるわずかばかりの可能性がある場合、人はリスク愛好的な方を選ぶという。開戦を選ぶのだ。』(P316)
さて、この開戦決断について、天皇の関わりはどうなっていたか。その関連の記述を見てみよう。いわゆる御前会議においては天皇は発言しないと書いた上でこんな記述が続いている。
『一方、統帥用兵の意思決定の場である大本営会議の様子は異なっていた。陸海軍の将官と天皇が臨席する大本営会議では、天皇からの発言を歓迎する旨、軍部側が要請した事実が、(昭和天皇)実録の1937年11月27日の条で明らかにされている。政府の前では沈黙し、軍部の前では発言を許された、対照的な天皇像が鮮やかに浮かんでくる。』(P290)
このことの結果なのだろうか、日米交渉が開戦ギリギリの時点において、陸海軍トップ二人の「交渉継続か開戦準備かいずれを優先しますか」との質問に対して「開戦準備優先」という方向を最終的に命じたのも天皇であった。この場面については、このブログでずっと昔から書いてきたところである。例えば2010年11月22日エントリーがその一例だ。
ちなみに、投稿日が分かっているエントリーはこう出す。ブログ右欄外の今月分カレンダーの下に年月スクロール欄があり、そこの「2010年11月」をクリックする。すると、直上の今月カレンダーがその年月の物に変わるから、そのカレンダーの「22日」をクリックする。すると、エントリー本欄がその22日分だけに替わるから、お求めの物をお読み願える。