提出物完成管理とは

2010-10-20 07:03:21 | 日記

学校から課された提出物の作成並びに提出管理を教室において管理遂行する試みが前に進んでいます。

 


保護者面談の場で、実に多くの方が


「何度言っても提出物を出さないんです。たまには出しているのかもしれませんが、それも中身がどこまで完成しているのか、或いは、ちゃんと期日を守ってその期間内に出しているのかも正直なところ、親にはよく分からないんです」

といった悩みを口にされていました。

 

そこで、本来はそういうことまではやらないのですが、試みに、その部分の全てを塾でお引き受けしてみようというのが、そもそもの発端でした。

 

詳しいことは別として、細かいトレースを行って、一人ひとりの生徒の提出物の完璧な完了を目指す細かな管理は、本来の学習指導とは趣旨が異なりますが、これはこれで生徒が学習塾にかよう目的である「成績アップ」のために役立つことの一つですので、その限りにおいては、十分に価値のあることではあると今では考えています。

 




 

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論文作成講座講師の意見

2010-10-19 22:55:31 | 日記

高校3年生の論文作成講座を担当している講師から報告がありました。

 

「小学生の頃から本を読む習慣がないと、後になってどれだけ苦労するかと言うことを日々実感しています。

本を読まないから、そこに何が書かれているのかを読み取る力が決定的に欠けています。

ですから、筆者の言いたいこと、実際に述べていることとまったく違う解釈をしてしまうとこと珍しくありません。

これでは、文章を読んで、その後で時分の考えを展開することなど叶うわけがありません。

そういう現実を踏まえた上で、論文作成の授業をしていますので、なかなか初めに思い描いたスピードで先に進むことが出来ません。

 

起承転結の押さえ方は勿論、段落の打ち方、果ては句読点の打ち方までが指導の対象になることさえあります。

接続語の用い方も、時には順接と逆説の意味と違いから教えなければならないこともあります。

そういう苦労を経ていくと、それでも次第に文章の読み方や作り方、論文としての体裁の調え方が分かってきて、これなら得点に結びつけられるなあと思えるようになってきます。

そういうときには、他の科目の指導の時と同じように、とても充実した気分になることが出来ます。

 

でも、それでも敢えて言えば、小学生、それも低学年からもっと沢山本を読み、そして読書感想文なども沢山書く練習をしてくれていればなあと思いますね。そうすれば、誰よりも生徒自身がもっと楽に論文作成をモノにすることが出来ると思います」

 

 



まったくその通りだな、と思った次第です。



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初めから悟るべきは

2010-10-19 16:20:14 | 日記

勉強するということを、あたかも楽しいこと、楽なことであるべきだと考えているような、そんな前提であるかのように感じさせてくれる発言をする子供或いは保護者の方がいます。

 

そういうベースでものを考え、口に出して言うことからは、勉強することに対する苦痛や悩み、不満などのニュアンスしか聞かれません。


「楽しいはすなのに」 「楽であるべき筈なのに」実はそうではなかった。


少し考えれば、これが如何に的外れなことであるかは誰にでもすぐに分かることではないかと思います。

 

勉強するということを楽しいと思う子は、もともと数の上で多い筈は無いのだし、そういう風の思えるようになるには、ある程度の時間と、そこで培う経験が必要です。

 

それがない時点やレベルでは、そもそも勉強するという行為自体が苦しさを伴うものであるのは自明の理であって、それを理解できていれば、ことさらそのことを口に出して言うなどの無駄なことはしなくなるものです。

 

そう、勉強なんて、初めのうちは、そしてある段階までは、誰だって苦しくて辛くて不満を感じるものなのですよ。

初めからそういうものだという理解の下でこれを行うものなのです。



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形から入るということ

2010-10-18 17:35:04 | 日記

昔のことで恐縮ですが、私が中学生だった頃、松波先生という、いかにも芸術家肌の美術の先生が、最初の授業のときにこう言いました。

 

「これからは小学生のときのように、絵を描くときに適当な道具を使ってはいけません。しっかりとした、目的と用途にあった筆、絵の具、道具入れなどを揃えるように。形がすべてというわけではありませんが、そこから入るべきことは必ずあって、美術の勉強というものは、まさにそういうことが大切なのです」

 

 

私は、そしてACSでは、生徒の皆さんに同じことを言っています。

 

黒鉛筆、赤鉛筆、マーカー、消しゴム、定規、下敷き、コンパス、ノートなどの学習に必要な道具はしっかりとしたものを用意してこれを使うようにしてください。

 

ノートを開いたら、最初は英語で、裏から開いたら数学だった、などということのないように、科目ごとにノートは用意してくるように。

 

先の丸まった鉛筆で細かい文字は書けません。いつもしっかりと先を削ったものを用意すること。

間違っても「先生、筆記用具を家に忘れました」などと言って借りに来ることなどないように。

 

 

 

 

細かいことですが、勉強、あるいはあがく週に臨むに際しては、こうしたことからまず始めないと、その進行に支障をきたしますし、そうなれば効果にも悪影響をもたらします。

 

ただ「勉強しろ」というだけでなく、こうした細かい注意や指示が必要というのは、情けない気がしないではないですが、これはこれで是非ご家庭でも気を付けて頂きたい事ではあります。





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リベンジ

2010-10-18 13:17:38 | 日記

リベンジ。

 

復讐すること。報復。仇討ち。また、競技で、一度敗れたことのある相手を打ち負かすこと。借りを返すこと。

 


人間が人間に対してこの「リベンジ」という言葉を用い、或いは行動するのは、ケースによっては問題があるかもしれませんが、学習或いは勉強、もしくはテストや成績といったものにたいしては、これを行う生徒がリベンジの精神を持ち、これを発揮することは大切なことだと思います。




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塾で行う「提出物管理」とは

2010-10-17 12:28:46 | 日記

毎週土曜夜は、中3生を対象とした社会・理科の3時間講座が行われます。

 


そこでは、授業以外に「学校の提出物管理」行われます。


今何の科目で何の提出物課題が出されているかを各自が書き出すのですが、あらかじめ作成されたペーパーに進行状況に沿った現在の状況を書き加えていくという形ですので、既に提出したものは消され、新しく出されたものが加わっていくということになります。


また、実際には、更に細かな工夫がなされています。

 

随分子供じみたやり方だなあと感じないでもありませんが、塾で行う保護者面談などで再三注意を喚起している学校の提出物なのに、それでもなかなかこれを完全に出来ない(やろうとしない)生徒を強制的にこれに取り組ませるための苦肉の策です。


 

でも、回を重ねるごとに、確実に彼らの中でこれに取り組む必要性が高まってきていることも事実で、こういう地道な、一見子供じみた作業も、これを着実にやることが如何に大切かということを改めて実感しています。






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生活リズムと勉強の関係

2010-10-16 19:11:07 | 日記

もう何度もここで書いてきましたが、「勉強する」などというのは、生活全体の中でどうこれを位置づけるか、或いはこれを組み入れるかというレベルから考えなければ、なかなかその成果を挙げることは出来ません。

 

人によっては、生活の中に占める勉強の時間的量が少ない場合もありますよね。

それはそれで、その少ない時間の中身を如何に濃くしていくかという点で知恵を働かせていかなくてはなりません。

 

反対に、時間の量だけは存分に確保できるという生活リズムの人もいるでしょう。

 

これらの差が、まさに「生活リズム」或いは「生活サイクル」というものです。

 

勉強するというのは、これらのサイクルやリズムの中に如何にして効率的・合理的にこれを組み込めるかで結果に大きく影響してきます。

 

勉強だけをピックアップしてみても、なかなかうまく行かない理由がここにあります。




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子供への向き合い方

2010-10-16 11:40:48 | 日記

「三つ子の魂百まで」と言いますが、学習塾に通う子供やその親たちに接するにつれ、際限なくこの言葉の重み・真実が増していくような気がします。
 
幼いときにしっかりとした基礎教育がなされている(と思しき)家庭の子供は、小学校から中学に至る過程での、いわゆる反抗期の通貨もきわめて健康的なものであるのに対し、ここでそれがなされないまま大きくなってしまった子の場合は、見ていて悲惨を感じることさえあります。
 
その中でも最も大変だなあと感じるのは、子供が親に対して何かを要求し、親がこれに応えないか、応えてもそれが不満なときに、子供が「だったらもう勉強なんかやめてやる」などとうそぶく姿です。
 
個人的には、私だったら子供がそんな台詞をはいた瞬間に張り倒してやるところですが、幸いにして我が家では、子供が幼いときに節度を保ちつつ厳しい躾(の真似事)をしていたせいか、そういう場面にはなりませんでした。
 
で、子供が偉そうに親に向かってそういう台詞をはいて粋がった時、しかも、そこに何がしかの取引要因(欲しいものを要求するなど)が絡んだときは、親としては激昂せず、あわてず騒がす、しかし、親としての威厳を保ちながら、毅然とした対応をしなければなりません。
 
そこでうまく処理できれば、その後の展開に大きく好作用しますし、時期的に多少遅くはなりましたが、これが本来の基礎的教育であることは事実です。
 
「要求を入れられなければ何々をしてやらない」
 
そういう物言いをして、一回でもこれが許されてしまえば、確実に間違った考え方が子供の中に根付いてしまい、その後の人生が悲惨なものになることはほぼ確実でしょう。
 
親がそれを望むなら話は別ですが。



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個別指導の意味

2010-10-15 12:33:47 | 日記

生徒によっては、指導の方法について、他で上手くいったからといって、それがそのまま通用しないケースもあります。



例えば、次のテストで好結果を出すための施策について、大多数が「きめ細かい学習プランを基にしたケア」で行かれても、別のある生徒には、「放置」が好ましいこともあります。

 


先日、そういう生徒に出会いました。


といっても、彼はもう長く通ってくれていますので、「出会った」のは、「たまにはこうして放置状態的扱いが効果的である彼」という、いわば季節限定的な一面ですが、それでも、機会ごとに、ある程度はこうした臨機応変の対応をしなければならないくらい、昔の生徒に比べて今の生徒は、よく言えば繊細、悪い表現では「わがまま」ということなのかもしれません。


 

個別指導スタイルの学習塾というのは、単に集団式の一斉授業の塾との形式的な対比でこれを呼称するのではありません。


 

可能な限り、極力細かい個別の対応を通じて生徒の仲の可能性を引き出して学習に向かわせ、そしてその効果を最大化することの全てを表すものです。

 




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立ち木に名を彫る

2010-10-14 02:08:30 | 日記
昨日に続いて、今日もポエムを。


君の名を彫るがよい
やがて大きくなる木の幹に
立ち木の方が大理石より得だ
そこに彫り付けた名も成長する


今、少しでも辛さを感じながら勉強している全ての生徒の皆さんに
心底、心から贈ります。





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意志と自制

2010-10-13 16:49:45 | 日記

「気分は大抵悪いもので、あらゆる幸福は意志と自制とで出来ている」

という言葉があります。

ある詩人の言葉です。

 

個人的には、私はこの言葉を常に地で行っています(笑)。

黙っていると、常に気持ちは悪い方向へと向いていってしまいがちです。根拠もなしにそうなっていくのは何故なのかと思っていた時に、ふと呼んだ本の中にあった言葉で「ああ、そうか。これは万人がそうなのだ」と思って少し安心したのを覚えています。

受験生はじめ、日々勉強にいそしんでいる生徒の皆さんも、これはきっと同じなのではないかと思います。

 これを「意志と自制とで克服していく」わけです。

 

 

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やり直すなら

2010-10-12 17:04:03 | 日記

きわめて個人的な経験ですが、私が子供(学生)だった頃の勉強法は、かなり大雑把であって、そこにはあまり計画性はなく、ほとんど感性に従ってやる勉強しかなかったという思い出があります。

それはそれで常に一定以上の成績を保っていられたのは、まさにたまたまであって、いわば素質に頼った勉強でしたので、ドラスティックに学年で一番というような、そんな成績は取ってはいませんでした(取ろうと思って取れるものではないでしょうし、とろうと思ってもいなかったのですが)。

そして、そういう私とは対照的に、常に一定の時間、それもかなりの量の時間を勉強に充ててこれを怠りなく毎日進めるということを実践していた友人がいて、彼の方はもともとの素質の上にそういう努力が加わっていたわけですから、そんな彼と私との間の成績の差はいつも一定の間隔があって、結局最後までこれが埋まることはありませんでした。

先日、知人との会話の中で「もしもやり直せたら、いつの時代に戻って、何をどうやり直したいか」という話になりました。

 私は、ためらうことなく、学生時代に戻り、そして彼のような生活態度で学生の本分を全うしたいと心底思いました。 彼は今、某大手銀行の役員としてバリバリ活躍しています。

 

 

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自己満足の愚

2010-10-11 17:11:09 | 日記

限界を設けてあきらめる口実にする愚について書きました。

これとは反対に、「勝手に満足して、それ以後の努力を放棄する愚」もあります。 生徒の中には、(特に高校生くらいの自我が相当に芽生えた年齢に)、これが見受けられる気がします。

講師は生徒と最前線で向き合っていますし、その様子やテスト結果などのデータから、総合的のその生徒の何が良く、何が足りないかについて、ほぼ正確な見方が出来ます。

 それに対して、こういう自己満足の度合いの強過ぎる子は、勝手に自己満足のラインを低いレベルに引いて、それ以後の努力を払おうとしないか、払ってもかつてのような真剣さがないので、必然的にそれからの成果は低いものになるか、ひどければまったく望めないということにもなります。

これが受験生であったら、その結果は悲惨なものになるわけで、こうした自己満足は時として致命的になります。

そして、一度はこうした「自己満足の愚」或いはそのリスクに気付き、体勢を立て直すことの出来る生徒は結果的に「雨降って地固まる」であるのに対し、例えば受験での失敗に至るまでそれに気付かない、気付けない子は、これはもう哀れとしかいいようがありませんよね。

もちろん、私たちはいつも全力でこれを排除してはいるのですが。

 

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限界というモノについて

2010-10-11 14:43:20 | 日記

モノには限界があります。


それが限界であるのか、それを限界と感じるのかの違いは有りますが、確かに人が何かの瞬間をもってこれを限界と感じる時やモノは有るようです。

 

何かをするとき、或いはしようとする時、大抵の人、いや、全ての人はそういう局面に向き合います。


勉強でも勿論同じです。

 

程度の違いはあっても、誰もが同じであるのなら、結果が違ってくるのは、その時どういう対応をするかという、いわば当面或いは事後の行動によるものに違いありません。

 


言葉を換えれば、限界を限界として簡単に受け入れてしまうのか、いやいやそうではなく、これはこれとして改めて戦闘体勢を取り直すのかという姿勢の問題であって、前者が身についてしまった人は、勉強だけではなく、およそ生きていくうえで負け戦の道を自ら選んで歩んでいるのと同じだと私は思います。



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勉強の仕方あれこれ

2010-10-10 18:07:16 | 日記

「勉強の仕方が分からない」という人に限って教科書すらマトモに読み込んでいない、ということを以前ここで書きました。

 

あれから数ヶ月、いまだにそういう人の行動傾向は変わっていないように私には見受けられます。


塾で行う面談では、今はもう中学生相手に、まるで幼い子供を相手にするかのような細かい勉強の仕方をコーチすることが少なくありません。そう、今や「手ほどき」といってもよいようなコーチングです。

 

そこでは、科目をどう分けて、或いは優先順位をつけて勉強するか、演習と暗記をどう分けるか、どれくらいの量をこなせばよいか、反復の仕方はどうか、保護者の関与の仕方をどうするか、子供部屋でやらせるのがよい、それとも親の目の届くところでやらせるのが良いか、などなど、数え上げたらそれこそきりがありません。

 


初めのうちは、こうしたコーチングに接して「え~、そこまでやるの~」と言っていますが、なんだかんだいいながらも、これらの一部でも受け入れてこれを生活の中に導入して暫く続けていくことで、次第に学習理解が高まっていくことを実感するに連れ、その効果を認めざるを得なくなります。

 


そうなるまでは人によって時間的な差がありますが、それでも暫く我慢して続ければ大抵はその域に達せます。




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