たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『モネ連作の情景』上野の森美術館-ラ・マンヌポルト

2024年07月08日 15時24分42秒 | 美術館めぐり

『モネ連作の情景』上野の森美術館-ヴェンティミーリアの眺め

「連作-移りゆく光のドラマを描く

 50代に入り円熟期を迎えたモネは、しだいにただ一瞬の「印象」を切り取るだけでなく、その「印象」が変化するさまをもとたえ、絵画として表現したい、と考えるようになる。そこから彼は、同じモティーフを、しかも視点を変えずに描いて何枚もの絵画を完成させるという独自の方法、つまり「連作」を編み出した。描かれるモティーフ、そしてそれをとらえる視点は同じでも、早朝から夕方へ、春から冬へと、時間帯と季節に応じて、その光景の「印象」は刻々と変化する。そのとき、田園地帯の積み藁のようななにげない風景でさえも、光のドラマの舞台となる。巨匠の眼と筆は、このドラマを克明にとらえて放さない。」

 

(『西洋絵画の巨匠モネ』より)

 

クロード・モネ

《エトルタのラ・マンヌポルト》

1886年、エトルタ

メトロポリタン美術館、ニューヨーク

(画像は『モネ連作の情景』公式ツィッターより)

クロード・モネ

《ラ・マンヌポルト(エトルタ)》

1883年、エトルタ

メトロポリタン美術館、ニューヨーク

(画像は『モネ連作の情景』公式ツィッターより)


『KAGAYA/星空の世界 天空の贈り物』より-夜明けのリフレクション他

2024年07月08日 00時00分00秒 | 美術館めぐり

『KAGAYA/星空の世界 天空の贈り物』より-宙(そら)を翔ける

「妖精の住処

 アイスランド

 2023年10月10日01時48分撮影」

「銀河のともし灯

 東京都、三宅島

 2019年6月27日00時12分撮影」

「天の川の渚

 京都府

 2022年11月19日00時00分撮影」

「夜明けのリフレクション

 オーストラリア、タスマニア島

 2024年1月13日16時56分撮影」


『モネ連作の情景』上野の森美術館-ヴェンティミーリアの眺め

2024年07月04日 00時09分30秒 | 美術館めぐり

『モネ連作の情景』上野の森美術館-睡蓮の池

 

クロード・モネ

《ヴェンティミーリアの眺め》

1884年、ボルディゲラ

グラスゴー・ライフ・ミュージアム(グラスゴー市議会委託)

 

(画像は『モネ連作の情景』公式ツィッターより)


2009年ルーヴル美術館展より‐モッラ遊びをする人々

2024年06月28日 16時14分17秒 | 美術館めぐり

カーレル・デュジャルダン

(1626-1678)

《モッラ遊びをする人々》

1660-1670年

油彩、カンヴァス

73 × 75 ㎝

 

(公式カタログより)

「カーレル・デュジャルダンによる本作品の主題はたいへん珍しいものである。これは「モルラ」、イタリアでは「モッラ」と呼ばれる遊びを表わしているように思われる。ふたりが興じているこの遊びは、その起源を古代にまで遡ることができ、ふたりのプレイヤーそれぞれが1本かあるいは複数の指を伸ばして手を上げると同時に、お互いの指の数の合計を大声で告げるものである。偶然性よりも駆け引きが問題となる遊びである。この作品では、鑑賞者の方を振り返り自分の目を指し示す兵士が相手の作り話に対する抗議を暗示していることから、大声で叫んだゲームの結果が口論を引き起こしたようだ。かつて「兵士の物語」という、モッラ遊びに関するすべてのことが排除されたタイトルが付けられたことからもわかるように、この作品の主題はとても奇妙であると同時に議論を呼んだ。

 ヘラクレス(画面前景左)と、ウェヌスとアモル(石棺の下)を表しているであろう、古代のレリーフの存在は、主要画面と関連付けて解釈されるべきだろうか? 危険なのは、逸話性に陥り、この作品本来の質を正当に評価しないことである。古代の痕跡が至る所に存在しているローマのような都市において、17世紀の同時代人たちにはありふれた光景であろう。永遠の都で、盆を持っているこの女性は取るに足らないものであろうか?斑岩の石棺(古代ローマでは皇帝の石とされていた)は、一時期パンテオンにあったものかもしれず、もちろん帝国の衰退と時の経過に思いを馳せるきっかけにもなるが、同様に「黄金の世紀」における古代の遺産についての新たな問題を提起するであろう。

 そんなふうに、カーレル・デュジャルダンのこの作品はバンボッチアンティ(イタリアで活動したオランダの画家仲間で、特に、風俗場面を描いた)の逸話的な枠組みに縛り着けるよりもむしろ、過ぎ去った古代と新しい時代の邂逅の場面という観点に立って見た方がより価値がある。過去は圧倒的で脅迫的なものだろうか?石棺は、「死を想え」という警句から遠ざかり、過ぎ去ったローマの偉大さに基づくルネサンスの大いなる伝統に含まれている。この絵の中で、まずもって古代ローマの記念碑の美しさが問題になっていると思わない者などいるだろうか?」


『KAGAYA/星空の世界 天空の贈り物』より-宙(そら)を翔ける

2024年06月28日 01時09分49秒 | 美術館めぐり

「宙(そら)を翔ける

 沖縄県、沖縄本島

 2018年1月18日06時11分38秒

 ロケット打ち上げに伴う発光雲が、まるで

 宇宙へ飛び立つ不死鳥のように見えました。」

 


2009年ルーヴル美術館展より‐バテシバ

2024年06月15日 20時22分49秒 | 美術館めぐり

ウィレム・ドロスト

(1630頃‐1680以降)

《バテシバ》

1654年

油彩、カンヴァス

101 × 86 cm

署名、年記あり

(公式カタログより)

「17世紀オランダで描かれた裸婦像の中で最も美しいもののひとつであり、ウィレム・ドロストの傑作でもある本作品はレンブラントに多くを負っている。ドロストの師匠であるレンブラントは、本作品と同じ1654年に《バテシバ》(ルーヴル美術館蔵)を制作している。このふたつの作品はともに同様の内省的な雰囲気と、聖書物語の主要な登場人物であるヒッタイト人ウリヤの妻で、ダヴィデ王との不貞を余儀なくされる(『サムエル記下』)美女パテシバに焦点を絞っている。

 真っ暗と言ってもいい闇の中から姿を現わし、再び自分の元へ来ることを命じるダヴィデからの手紙の結果を熟慮する若い女性は鑑賞者の方を見つめているようだ。実際、ドロストのこの作品はその複雑さで有名である。レンブラントが同主題に与えた深い人間味を彼女がもっていないにしても、彼女の姿は明らかにその影響下にある。今日もなお、この作品は際立つ官能性の表現と見られるが、疑問を孕んだ作品でもある。実際、細部では明らかに解釈者の理解を超えている。つまり、若い女性のイヤリングはドロストによって、垂直ではなく斜めに垂れて描かれている。腕の悪さか?それとも遠近法の間違いか?・・・このことはレンブラントと弟子たちの大きな研究テーマを思い出すならば、意味が掴める。その研究とはカンヴァス上に「動き」を再現しようというものである。パテシバのイヤリングの処置は明らかに彼女が振り返っている最中であることを示唆している。

 彼女は、その視線が示すように、おそらく向かって左から右に頭をひねっている。思うに、ドロストは鑑賞者をじっと見つめるパテシバを我々に示そうとしたのではない。当時の構想は、この聖書の登場人物の誘惑者としての特徴について展開させることだったようである。彼は我々に芝居の劇作法の原則に従って彼女を示そうとしたのである。その原則とは、つまり、観衆と役者を隔てる「第4の壁」を破ることにより、両者の意図的な相互作用こそなものの、観衆の視線のもとで演技を行うことである。

 この仮説はこの作品をルネサンス期ヴェネツィアの高級娼婦と結びつけることを拒絶させ、このイメージが内に秘めた重要性、つまり、同心円状というこの構図の基本的な側面を浮かび上がらせる。まさにそれによって、この作品は普遍的な重要性をもっている。その上、ドロストは女性の手の中に手紙を描くことで、彼の同時代人が聖書主題に近付きやすいようにした。現代の考古学的な視点からすれば、パテシバは楔(くさび)形文字が書かれた、土でできた板を持っていなければならず、「紙の手紙」は異様に見える(これは古代エルサレムの情景なのである)。しかし、17世紀の画家にとって、このモティーフは古代についての信用できる資料の欠如を自身の想像力によって一時的に解消する必要があったということをわかりやすく説明している。」


2009年ルーヴル美術館展より-ナイル川にモーセを遺棄するヨケベト

2024年05月18日 00時31分21秒 | 美術館めぐり

ピエール・パテル(父)

(1630頃?-1676)

《ナイル川にモーセを遺棄するヨケベト》

1660年

油彩、カンヴァス

90 × 83 ㎝

署名、年記あり

(公式カタログより)

「聖書の記述に従い、この絵画はレヴィの娘ヨケベトが息子モーセをナイル川に捨てるところが描かれている。イスラエルの民の蜂起を恐れたファラオは、男子が生まれた場合、これをすべて殺すべしと命じた。この命令を逃れるため、モーセは遺棄されたのである。奇跡のように、ファラオの娘がモーセを助けた。彼は成長し、エジプトで奴隷となっていたユダヤの人々の指導者となって蜂起した。

 本作品では、この主題が古代の廃墟のある風景の中に描かれている。主要場面のすぐ後ろにはナイル川の擬人像が描かれており、この物語であることが確認できる。パテルはこの作品と他のもうひとつの作品、すなわち、ルーヴル美術館に所蔵される《エジプト人を砂漠に埋葬するモーセ》とをアンヌ・ドートリッシュの居室のために描いた。この2点の扉上部装飾は「モーセの物語」を主題とするロマネッリの7点連作を補うものであった。なぜこの主題が選択されたのかについての詳細はわからないが、皇太后がこの部屋を祈祷する場として使い、瞑想するのに相応しい主題を選んだと考えることは可能であろう。17世紀において、モーセの物語はしばしば政治論においては国家元首あるいは統治者の勇気と決断を示すものと考えられていた。

 構図の個々の要素を丁寧に表現していることは、古典主義的風景表現に秀でていたパテルの卓越した技術と絵画技法とを示している。眼を喜ばせ、精神を高揚させるこうした風景画は、「古代世界の夢幻的再構成」の試みのひとつであった。」

 

 

 

 

(犬養道子『聖書の天地』-三成る者・在る者-人間と神とのちがい-55~67頁より)

「ヨゼフは、いかに悪を克服し、悪を善に変じさせるかの最初のメッセージのたずさえ手でもある。

 異国エジプトのすべての人にとってのなくてならぬ指導者となり、己が兄弟たちのみならずエジプト人からも深く愛されたヨゼフの時代が、だんだんに遠ざかり、やがて彼のことを記憶する人のほとんどいなくなったころ、エジプトの施政者は、真砂のごとく増えてしまった「ヨゼフの民」を憂うるようになった。自国内の異民族と自国民との人口率がとんとんになるとき、施政者がそれを好ましくないと見るのは、いずこでもいつでも、当然のことであるから。この大問題を古代は古代らしく処理した。つまり、勅令によって、ヨゼフの子孫の民全部をエジプト王国の奴隷とし、たまたま、国策であった数々の地方都市建設の労役不労役人と定める一方、「こんど生まれ出るヘブライの男児は生かさぬ」ことをきめたのである。

 奴隷は鎖につながれる。売買可能の「物質」として、鎖で結びあわされた民-12人兄弟それぞれを祖とする12の部に分かれつつもひとつにまとまるようになっていた民は、熱と砂の国で、あえぎつつ時に斃れつつこき使われることとなった。つくってもつくっても、建てるべき都市はあとからあとからあてがわれた。労役に追いたてる鞭もたっぷりあてがわれた。太陽は来る日も来る日も燃えさかり輝きわたるが、民の心には一条の光もなく、くらやみのどん底に落ちて行った。

 エジプト側の、ヨゼフの民に対してとった政策は、根拠乏しい恐怖心からだけではなかった。第19王朝、名高いラムセス二世の世(前1301-1234)、エジプトの中東における地位は、それほど確固たるものではなくなり、ヒッタイトと呼ばれる。アッシリア国の公記録にも記される、強力な小アジアの部族が、中東の覇権をにぎろうとして、ひしひしとエジプトに迫っていたからである。

 エジプトのおそれたのは、このヒッタイトと、自国内におびただしく増加して強力となった異分子「ヘブライの子ら」とが密通・呼応・協力しあうことだったのである(出エジプト記1ノ8-10)。

 あのヨゼフ以来住みつくのを許されていた結構な土地からナイル河の大三角州に連れ出され、民は、当時の常としてただちに対外敵守備に通じることとされていた国内装備・建設事業の労役を一手に引受けさせられたことになる。ビトムの町別名「倉庫の町」や、華麗で強固なラムセスの町をつくったのは彼らヘブライの子らであった。エジプト側にしてみれば、食糧(これはかなりふんだんだった。ナイルデルタは穀物豊かであった上に、鳥類や羊の肉はどこにでもあったから)さえあてがえば、あとは無料でこき使える大量の男女労働者(成年に達した者だけで20万近い人数であったと推定される)を確保出来た上に、対ヒッタイト軍備も固めることが出来たのだから、一石二鳥三鳥、こんどは民の数を憂えるどころか、永劫に彼らを鎖につないでわが手もとにおいておきたかった。つまり、民に課された奴隷の枷(かせ)と軛(くびき)は、容易なことでは取り去られ得ない、強固執拗なものとなって行ったのである。

 民の多くの者が、代々口づてに伝えられて知っていた、しかし安逸にまぎれて忘れ去っていた。あの、はるかなる祖アブラハム・イザアク・ヤコブの神の約束と希望を、しんの底からの無言の叫びを以て思い出したのはこのときであった。

 そしてまた、ヘブライの男児は生かしてはならぬ」の勅令(この勅令には、今現在は出来るだけヘブライのおとなどもを使い、将来はヘブライの女児をエジプト人がめとることによって、時をかけつつ、民をなしくずしにしてゆく意図が入っている)を、母と姉ミリアムとの愛と機転によってまたその愛と機転の心情を汲んだ心やさしいエジプト王女の情によって(出エジプト2ノ1-9)まぬがれ、いみじくもひき出す者(モーゼ)と名づけられていたひとりの青年が、奴隷の枷から民を自由に向ってひき出すべく、神に呼ばれたのもこの時であった。

-アブラハムの場合といい、このモーゼの場合と言い、神に「呼ばれる」とはどう言うことなのか。新約に入ってのちは、われわれの今日までの、「神のみむね」の啓示と形容されることになるその「呼びかけ」は、神がかり風にどこからか湧き起って来るものではない。人間が主幹に酔って恍惚のうちにつくり出す幻想でもない。それは、まず、呼びかけを受ける人間の、天性や才能や意志や理性や置かれた状態や時代の環境の中にすでに「在る」のである。モーゼの場合について言えば、最初の呼びかけは、虐殺から救われて生きのびた彼が己の出生(ヘブライの出生)を知り、時代のおもむくところを見つめ、己が民の奴隷労働の状態をつぶさに見に行き、そのあまりのひどさに衝撃を受け、おのれただひとり、この過酷な奴隷状態をまぬかれて生きて来たのは、ひとえに民を救い出す目的のためであったと判断したとそのときに与えられた。

 そもそも、虐殺の運命からそのモーゼを、「神のみむねにしたがって」救ったときの、彼の母と姉ミリアムの行動はどうだったか。それは人間理性の総動員と、タイミングを見てとる回転の速さと、果敢な実行力によって、はじめて達成されたのである。

 神のみむねや呼びかけは、「世の出来ごとの成るにまかせて、何でも易々と受け身で受けとれ」では決してない。かえって、無個性無気力の、成るにまかせるあきらめの消極的人間は、みむねや呼びかけを認識し得ないものなのだ。もしも、成るにまかせるのがみむねなら、モーゼの母や姉は、技身の剣を片手に一軒一軒、男の赤子をさがして歩くエジプト兵に、泣きながら「みむねのままに」赤子モーゼを渡したにちがいない。」

 


2009年ルーヴル美術館展より-「4人の福音書記者」

2024年05月09日 19時00分59秒 | 美術館めぐり

ヤーコブ・ヨルダーンス

(1593-16789

《4人の福音書記者》

1625-1630年頃

油彩、カンヴァス

134 × 118 cm

 

(公式カタログより)

「ヨルダーンスによる本作品が表わしているのが福音書記者たちなのか、著述家なのか、あるいは教会神父なのか、それとも教会博士の中のキリストなのかという疑問は、最初の説、すなわち福音書記者で決着をつけてよいだろう。これは聖書の方へ身を傾けているマルコ、ルカ、マタイ、ヨハネ(彼は白い服を纏っている)であろう。この作品は、画家が自身の画業の最初期に描いたものであり(この作品を描いた時、彼は30歳前後であった)、一般にフランドル絵画と、そしてヨルダーンスの個性とも結び付けられる力強く、すばらしい出来栄えの作品の特徴を有している。彼らの顔立ちあるいは手を特徴付けているのは、時代を超えた表現へ達するまでの、妥協を許さないある種の自然主義である。ヨルダーンスは彼らの見られる角度や、人物のポーズや個性を変えながら、表情が同じになることを避ける手法を探求した。

 《4人の福音書記者》は、とりわけその主題によって我々の関心を引く。主役の者たちは、神聖な書物の方へ身を屈めているが、神の英知の前での人間の弱々しさを示す美しい動きからは、我々には彼らが書物を参照しているのか、あるいはそれを編纂しているのかわからない。ヨルダーンスが福音書記者たちに与えたこの種の感情は、衣服あるいは聖書のそれ以上には多くの解釈を引き起こさなかった。ありそうもないトーガをまとった福音書記者たちが紙に書かれた文章を解読している‐歴史的には、そのような二つ折りの本は、エルサレムでキリストが亡くなった直後には、ほとんど存在し得なかった。他の多くの偉大な芸術家と同様に、ヨルダーンスはほぼ想像もつかない古代に身体と姿を与える困難さに直面した(それほど17世紀にはその主題についての事実の要素が欠けている)。‐ヨルダーンスは自身で考え出す以外の選択肢をもっていなかったのである。」

 


2009年ルーヴル美術館展より-「”名声”に冠を授けられるマルスとウェヌス」

2024年04月24日 23時47分51秒 | 美術館めぐり

シャルル・ル・ブラン

(1619-1690)

《「名声」に冠を授けられるマルスとウェヌス》

1650-1660年頃

油彩・板

158 × 174 ㎝

 

(公式カタログより)

「雲の中を舞い、あるいは、ユピテルの鷲に乗るアモルに囲まれたマルスとウェヌスと、彼らに月桂冠を被せる「名声」を描いたこの作品は、17世紀半ばのフランスの都にあった特定の館の天井装飾であったろうと思われる。どの館に由来するのか詳細は不明であるが、下から見上げられた遠近法的構成は、これが天井装飾であることを示唆している。そこにはトロンブ=ルイユ的効果も見られる。ヴォール=ヴィコント(パリ近郊にある財務長官フーケの居城で、天井装飾はル・ブランの手になる)の天井装飾を想起させないこともない。

 このような装飾的絵画は多くの問題を提起するが、とりわけ、その絵画を構想するための芸術的想像力に関する問題が指摘される。ここにある表現は、すでに出来上がっていたた造形語彙(ごい)の問題であり、単に、その機会に合わせて動員されたものなのか、あるいは、画家は新たにこの表現を生み出したのであろうか。戦の神マルスの雷を起こす道具や武器をいじったりするアモルたちのはしゃぎ回る表現には軽い皮肉が感じられるが、このような快活さはル・ブランのみが達成できるものかもしれない。とりわけ、この《「名声」に冠を授けられるマルスとウェヌス》は、17世紀ヨーロッパにおいて古代文化に与えられていた位置について考えさせるものである。異教の神々を想起させるこのような表現は、社会的エリートの気晴らしにすぎなかったのだろうか。

 実際のところ、「黄金の世紀」の文化のすべてには古代の神話物語が深く根付いている(その中でも、雅な挿絵を必要とする点で、マルスとウェヌスの愛は特権的な地位を占めていた)。画家たちは古代の生活に関する知識の欠如を補う必要があり、神話主題の絵画は彼らに想像する材料を与えた。そのことについてはル・ブラン(彼はルイ14世治下の国王付きの公的画家に任じられた)の例に倣って推察することができるように、古代への想像力はいつも、洗練されているとしても慣習的な言語の誘惑に屈することが多かった。古代が夢幻性を帯び、あるいは、劇的性格を纏うために、決まりきった表現から逃れることは稀であった。」


『モネ連作の情景』上野の森美術館-睡蓮の池

2024年04月11日 12時53分41秒 | 美術館めぐり

『モネ連作の情景』上野の森美術館-睡蓮

クロード・モネ

《睡蓮の池》

1918年頃、ジヴェルニー

ハッソ・プラットナー・コレクション